この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
1889(明治22)年の町村制施行により、高瀬、夏切、垰、米光、馬神の各村をもって
佐波郡和田村が発足する。村名は、元来この地域の中心附近の小字名であるが、古くから
知られていたので新しい村の名にしたという。現在は周南市垰(たお)である。
和田(垰)は、島地川およびその支流串川流域に位置し、地内を地下(じげ)道として、米光
から島地川沿いの和田、中村、小津(高瀬)を通り、熊坂峠を経て旧鹿野町巣山に至る道が
あった。(歩行距離約2km)
米光バス停からバス便がないため、和田までの1.2㎞の道は歩く他ない。和田橋で旧道
に入る。
和田農協前バス停から旧道を下る。
農協裏手に松田家長屋門がある。同家は藩政時代に支配階級の末端としての面と被支配
者階級の代表者という面を持つ垰村の庄屋であった。長屋門は藩政時代とされるが、建造
された年代は不詳とのこと。6畳2間には中間部屋として下男下女を住まわせたという。
商店もあったようだがすべて廃業されている。
元広島東洋カープの投手だった津田恒美生家を案内する看板が設置してある。1960
(昭和35)年8月生まれで、同地区の小・中学校を卒業し、南陽工高~協和発酵を経て広島
カープに入団する。
しかし、病に冒され32年の短い人生を閉じ、今はこの地に静かに眠る。
通りには石州瓦の家並みが続く。
現在の周南市和田支所付近に村役場が置かれ、1955(昭和30)年都濃郡南陽町に編入
れるまで村の中心であった。
1947(昭和22)年に開校した和田中学校は、2021(令和3)年3月末をもって64年
の歴史に幕を閉じ、富田中学校へ統合された。
津田恒美はわずか10年のプロ野球人生であったが、旧中学校跡に顕彰碑が建立されて
いる。
碑には当時監督だった山本浩二氏が、彼に「直球人生」という言葉を贈っている。(20
12年野球殿堂入り)
旧中学校とグランドなどを共有していた和田小学校。声掛けすると「和田には何にもな
いよ。ゆめタウンもないので寂しいけど、パパもママもここが好きだから僕も大好きだよ」
と言ってグラウンドに駆け出す。
小学校を過ごすと人家は少なくなる。右手の建物に「和田丸太」の看板あり。1978
(昭和53)年当時新南陽市の本田市長が「和田丸太」と命名し、木材製品として高い評価を
得ていた。
左に島地川ダム、右に和田丸太の山林、下にホタルがデザインされた新南陽市時代の環
境保全型マンホール蓋。
高瀬郵便局は、1880(明治13)年高瀬村に開設されて、和田と串村の集配業務を行っ
ていたが、行政区域の変更で串地区の集配業務を島地局が行うようになった。
その後、当地に移転して和田郵便局とすべきところだったが、大島郡に和田郵便局があ
るので高瀬にしたという。
日露戦役従軍碑とあるが小文字は判読できない。
島地川が寄り添うようになると三作(みつくり)バス停が見えてくる。
バス乗車まで少し時間があったので三作神楽伝承館まで往復する。
国指定重要無形文化財の「三作(みつくり)神楽」は、和田三作地区(林・原赤・中村)に古
くから伝承され、7年目毎の式年祭で地元河内社へ奉納されてきた。言い伝えによると、
大宝年間(701-704)に五穀が実らず、疫病が流行したため五穀豊穣と疫病退散を祈願した
ところ、翌年から作物は実り疫病も絶えたため、そのお礼として神楽を奉納するようにな
ったという。
JR徳山駅行きの防長バスに乗車する。