ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

津和野の城下町は伝統的建造物保存地区

2020年04月08日 | 島根県

          
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         津和野の街を1日で歩くには時間が足りないので、レンタサイクルを利用して伝統的建
        造物群保存地区と乙女峠コース、津和野城址と石州街道コースに分けて散策する。(伝建コ
        ース約4.5㎞)
 
        
         1922(大正11)年開業のJR津和野駅は、1977(昭和52)年現在の駅舎に建て替え
        られたが、「山陰の小京都」の表玄関にふさわしく、平屋ながら堂々とした構えである。
        (駅前にレンタサイクル)

          
         駅から益田方面に約250m進むと旧石州街道(山陰道)に合わす。

          
         鉄炮丁通りは本町・祇園通りとは対照的な通りである。

          
         「鯉のおるお米屋・吉永」という木彫りの看板があり、店奥に水路を引き込んだ大きな
        池に鯉が泳ぐ。

          
         1617(元和3)年亀井政矩(まさのり)が、この地に「祇園社」(今の弥栄神社)の御旅所と
        して、「祇園社休堂」を建てたのが始まりとされる。当時はまだ町の整備が始まったばか
        りで、町の北端を決めるため藩の庇護のもとに置かれた。(駅通り筋) 

          
         伝統的保存地区は橋北地区とされ、江戸期以前の吉見氏時代には城下町は城の西側にあ
        ったと伝えられており、東側(現在の城下町)には田畑が広がっていた区域である。江戸期
        に岡山から坂崎氏が津和野に入り、当地区の城下町として整備が行われ、坂崎氏の治政1
        6年ののち、亀井氏が鳥取県鹿野から入城して現在に続く地割整備を完成させる。
         2004(平成16)年から2年をかけて道路修景・無電柱化事業が行われた本町・祇園丁
        通り。

          
         創業200年以上の高津屋伊藤薬局は、森鴎外にとって馴染み深い店で、鴎外が日露戦
        争に出征する際、5代目当主から餞別としてもらった漢方胃腸薬「一等丸」を愛用したと
        いう。店内には薬箱や秤など鴎外が暮らした時代そのままに残されている。(明治中期頃
        に建築)

                
         伊藤薬局の裏筋にある酒蔵。

          
         「華泉」の銘柄で酒造を営む華泉酒造は、1730(享保15)年創業で、主屋は明治中期
        に建てられたとされる。

          
         1717(享保2)年創業の橋本本店は、津和野最古の造り酒屋であったが、現在は販売の
        みとされているようだ。

          
         「角海老舎」は代々醤油醸造業を営む商家であったが、築後180年以上の建物をリフ
        ォームされて、「海老舎(えびや)」として生活雑貨の店に変身している。

          
         古橋家は江戸期には広島藩士で、明治維新より当地に移り住み、1878(明治11)年か
        ら酒造りを始めたという比較的歴史の浅い酒造場である。当酒造場の代表銘柄である「初
        陣」は、当家が武家であった時代の名残を伝える。建物は大正期の建物らしく他家と比較
        して建ちが高い。

          
         古橋酒造の酒蔵。

          
         1854(安政元)年呉服商として創業された「さゝや」さん。主屋は江戸末期に建てられ
        た。

          
         明治中期に建てられた俵種苗店。

          
         椿家は屋号を「分銅屋」と称し、蝋燭や髪付油を取り扱った御用商人で、主屋は江戸末
        期の安政年間に建てられた。
         椿家隣の疑洋風建築は、1934(昭和9)年に旧布施時計店が建てたもので、現在は新聞
        社の支店として活用されている。

          
         この先に津和野城下の旧武家町と旧商人町の境で惣門があったとされる。津和野城下は
        1853(嘉永6)年の大火によって大半が焼失し、町家は大火後に建てられた。

          
         戝間家は江戸期には御用商人として活躍し、明治中期以降は酒の小売販売を営む。18
        
99(明治32)年に建てられた商家住宅が当時を伝える。

          
         建坪120坪(396.7㎡)を超えるという大規模な商家。

          
         旧河田家具店の建物は明治後期(30年代)に建て替えられたもので、殿町の境界位置に
        所在し、財間家住宅と対を成している。

          
         本町通りは商人町筋で、殿町は家老屋敷が並んでいた。

         
         津和野カトリック教会は、1928(昭和3)年シェファー神父が津和野藩町年寄堀九郎兵
        衛宅跡に建設したが、1930(昭和5)年の火災で焼失する。現在の建物は1931(昭和6)
        年に再建された。

            
             教会は木造平屋建ての鉄板葺で、シンプルな図柄のステンドグラス
            を有する短塔式のゴジック様式である。

          
         殿町通りの水路は、明治期に新しく造られ、昭和になって鯉が放たれ、花しょうぶが植
        えられた。

          
         津和野のイメージにもなっている鯉は、民俗学者・宮本常一氏の提案によって、193
        4(昭和9)年に放流されたのが今日の姿の始まりとされる。

          
         津和野町役場の表門は、家老・大岡家の表門が明治の初めに取り外されて保存されてい
        たものが、1975(昭和50)年代に今の場所に戻された。

          
         1919(大正8)年鹿足郡役所として建てられたが、郡役所制度の廃止後、警察署として
        使用された。1955(昭和30)年の町村合併で町役場となり、現在も現役の役場庁舎とし
        て使用されている。

          
         1786(天明6)年に8代藩主亀井矩賢が、堀内(現津和野小学校裏付近)に藩校「養老館」 
        を創設した。1853(嘉永6)年の大火で創設当時の建物は焼失する。

          

         1855(安政2)年現在地に移転して再建されるが、1872(明治5)年に廃校となる。
        現在は武術教場(槍と剣術)の建物と敷地が当時のまま残されている。

          
         多胡家は亀井家11代にわたって家老職を務め、藩財政に大きく貢献した家柄である。
        間口4m、高さ26mの武家屋敷門で、両脇に物見と番所が設けられている。

          
         弥栄神社の鷺舞は、室町期に大内氏が山口の八坂神社を分祀した際に鷺舞も伝承し、1
        542(天文11)年津和野城主吉見正頼が大内義興の息女を迎え入れたとき、津和野の弥栄
        神社に伝えられたといわれている。

          
         津和野大橋から高岡通りを駅方向へ戻る。

          
         右手に和崎医院を見て、次の四差路を左折して直進する。(久保踏切)

          
          
         永明寺の塔頭(たっちゅう)永大院の裏山に津和野藩主亀井家の墓所がある。(塔頭とは本寺
        の境内にある小寺)

          
         築地塀に囲まれた藩主亀井家歴代の墓所。
 

          
         永明寺(ようめいじ)は、室町期の1420(応永27)年吉見頼弘が開き、吉見、坂崎、亀井
        氏といった歴代城主の菩提寺となる。山門をくぐると右手に鐘楼、中門、17
29(享保1
          4)
年再建の本堂がある。

          
         本堂は屋根葺き替え工事中であった。

          
         森鴎外は11歳で上京し、故郷の土を踏むことがなかったが、死の間際に「余は石見人
        
森林太郎と死せんと欲す」の言葉を残す。

          
         坂崎出羽守直盛は宇喜多忠家の長男として生まれ、宇喜多秀家、徳川家康に仕える。関
        ヶ原の戦い後に津和野藩主となり坂崎姓を名乗る。
         大坂夏の陣で家康の孫・千姫を救出したことから千姫事件に発展し、経緯については諸
        説あるようだが、1616(元和2)年9月に自害(殺害説もある)し、大名の坂崎家は断絶す
        る。
         墓は改易された横手城主・小野寺義道が、庇護を受けていた恩義から建てたとか、町方
        大年寄の堀平吉郎が建てたと諸説あるようだ。墓碑は「坂井出羽守」となっている。

          
         2009(平成21)年当時の本堂。

          
         書院の間。

          
         谷文晁に師事して南画を学んだ津和野藩家老・多胡逸斎(1802-1857)は、多くを江戸の藩
        邸に在勤した。隠居後は津和野で画事に専念する。

          
         書院前の池泉庭園は、ほぼ円形の中心に中島(亀島)があり、架け橋により亀の甲に乗る
        ことはできる。作庭時期は不明とのこと。

          
         千人塚までは舗装路であるが上り一辺倒の道。

          
          
         乙女峠殉教者の墓(千人塚)にはキリスト像とともに「為義而被害者来乃冥福」と刻まれ
        た碑が立っている。乙女峠の殉教者の遺骨を谷の諸所から集め、1892(明冶25)年にピ
        ヨリン神父が碑を建立する。

          
         十字架の道だが逆回りをしているようだ。

          
         1951(昭和26)年に「聖母マリアと36人の殉教者に捧げる」聖堂として、乙女峠マ
        リア聖堂
が建立された。

               
          聖堂のステンドグラスには当時の悲劇の様子が描かれている。

              
         1868(明治元)年長崎の浦上から153名の隠れキリスタンが、乙女峠にあった光琳寺
        に送られてきた。
         1873(明治6)年に宗教の自由が認められるまで、津和野藩は改宗を迫り36名が殉教
        した。その内の一人・安太郎が三尺牢に入れられていた時、生母マリアが出現したという
        伝説が再現されている。

          
         明治政府は神道を普及させるため、江戸時代同様に「キリシタン宗門制禁」を続ける。
        1871(明治4)年11月政府使節として欧米に赴いた岩倉使節団に対し、諸外国が浦上キ
        リシタン問題を厳しく追及する。弾圧が不平等条約改正の障害になっていると判断し、1
        873(明治6)年に禁制が廃止された。

          
         津和野川まで戻って次のコースを散策する。
   


津和野の城跡から旧石州街道界隈

2020年04月08日 | 島根県

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
 
         津和野は東に青野山を中心とした青野火山群と、西は中世から近世にかけての城山に挟
                まれた南北に細長い盆地で、その中心を津和野川が流れる。(城址ルート約11㎞)

           
         乙女峠より津和野大橋に戻って弥栄神社。

           
           
         弥栄神社は津和野城の鬼門を守るために祀られた古社で、境内のケヤキの大木がその歴
        史を物語っている。毎年7月に祇園祭の神事として奉納される「鷺舞」の舞台でもある。

           
         弥栄神社先の赤い鳥居が表参道入口。(道傍に駐輪)

           
         伏見稲荷大社と同様に、千本鳥居があり、遠くからでも鳥居が確認できる。約300m
        におよぶ石段を登ればご利益がありそうだ。

           
         「太皷谷」は、津和野城がある城山の一角にあり、江戸期には時刻を知らせる太鼓が鳴
        り響いた谷間であることから名付けられたとされる。

           
         神門を潜れば眼下に津和野の町並み。

           
         太鼓谷稲成神社は、1773(安永2)年7代藩主・亀井矩貞が京都の伏見稲荷を勧請し、
        津和野城の鬼門に当たる太鼓谷の峰に創建する。「稲が成る」と表記するのは珍しく大願
        成就の願いが込められているとのこと。

           
         1867(慶応3)年津和野の乙女山にあった熊野権現社を遷して相殿となる。以来、社号
        は熊野神社となるが、1927(昭和2)年に稲成神社と改称する。現在の社殿は1969(昭
          和44)
年に造営された。

           
         今年の6月頃まで城山改修工事のため登山道利用はできず、リフト(往復700円)を利
        用する以外に手立てがない。下り便の最終時間が16時20分なので要注意である。

           
         大手門(東門)への登城口。

           
         東門跡は亀井氏の代は大手門となる。

           
         三段櫓跡には二階櫓が建っていたという。

           
         腰郭と二の丸、正面の石垣が三十間台。

           
         台所跡から見た天守台と三十間台。天守台は最高所でなく、一段下がった所にある変わ
        った城である。

           
         天守台石垣下にある中心部の縄張り図。

           
         搦め手側の西櫓門跡。

           
         正面の人質櫓(跡)には三十間台からのみ出入り可能な造りであるが、元来は三十間台を
        補強するために築かれたともいわれている。

           
         三の丸(霊亀山山頂)から見る人質櫓跡と三十間台。

           
         形の整った青野山は津和野のシンボル。

           
         三の丸の南端にある南門櫓跡。

           
         天守台から見ると左手に馬を繋ぎとめておく馬立場跡と台所跡、その奥に搦め手を監視
        する海老櫓跡。

           
         坂崎氏時代に三層の天守が建てられたとされるが、1686(貞亨3)年落雷によって火災
        が発生し、天守などが焼失した後は再建されることはなかった。

           
         三十間台から見る太鼓門跡と太鼓丸。

           
         三十間台は城の最高所で、実質的な本丸に相当する郭であったようだ。

           
         津和野の城下。津和野川が蛇行し、川の北側が伝建地区で、グランドは津和野小学校。

           
         町の南側には東の山裾をJR山口線と石州街道(山陰道)、県道13号線が南北に走る。

           
         三十間台から見る人質櫓跡と三の丸。

           
         かって津和野藩邸があった所で、明治維新後に藩邸は解体され、北側に津和野高校グラ
        ンド、南側に庭園跡が残された。もとは津和野高校の正面付近にあった物見櫓は、大正期
        の道路新設により嘉楽園の敷地内に移された。

           
         藩邸を橋北(現津和野庁舎)から津和野城直下(現津和野高校グランド)に移し、明治維新
        まで江戸期を通じて藩政を担ってきた。

           
         遊歩道と幸橋が交わる所に馬場先櫓があるが、藩邸の隅櫓で馬場に接していたことから
        名付けられた。江戸末期の嘉永大火で焼失した後に再建されたものである。

           
         太鼓谷稲成神社入口まで戻って石州街道に沿う。(津和野川)

           
         津和野町郷土館の門は、津和野藩主亀井家一族の草刈家屋敷門を移設したものである。

           
         殿町の風景とツワブキ、アヤメがデザインされたマンホール。

           
         山口線を潜ると街道だった面影は失われている。

           
         石州街道(山陰道)を南下すると、JR山口線手前に津和野藩の筆頭庄屋の屋敷を改装し
        た杜塾美術館がある。

           
         中座方面に進むと道は鉤の手になっている。

           
         津和野中学校付近の街道。

           
         街道を見返る。

           
         船蔵と百石蔵と呼ばれる酒蔵が街道に面する。

           
         1791(寛政3)年創業の戝間酒場は中座地区にあり、店舗・酒蔵は江戸時代後期の建
        物とされる。斜面地に建つため棟を段違いとするなど複雑な屋根構成を見せる。

           
         戝間酒場の先が石州街道(山陰道)と参勤交代道(津和野廿日市街道)との追分である。

           
         旧津和野藩亀井家の別邸と称される屋敷は、1900(明治33)年導火線製造販売で財を
        成した津和野出身の実業家・吉田三輔が建てたものである。1874(明治7)年亀井家の本
        邸が取り壊されたため、1920(大正9)
年津和野への逗留地確保を目的に購入したもので
        ある。

           
         鷲原八幡宮は津和野城南端の山裾にあり、津和野川に挟まれた地に立地し、津和野城お
        よび城下を守る重要な地であった。南北朝期の1387(嘉慶元)年石見国地頭職・吉見頼直
        により鶴岡八幡宮から勧請され、室町期の1405(応永12)年現在地に遷座したと伝えら
        れる。

           
         流鏑馬(やぶさめ)馬場は地形的制約のためか、八幡宮の参道を直行するように配置されて
        いる。全長270mの馬場は、日本で唯一原型を留めている馬場で、毎年流鏑馬神事が行
        われる。
 

           
         現在の社殿は、室町期の1554(天文23)年陶晴賢による津和野城攻めによる焼失後、
        1568(永禄11)年に再建された。

           
         境内に南面して本殿、拝殿、楼門が一直線上に立ち並ぶ構造となっている。拝殿と楼門
        の間に方形池を設けて、その上に潔斎橋が渡してある。

           
           
         西周(にしあまね)は、1829(文政12)年津和野藩医の子に生まれ、法学・西洋哲学をオ
        ランダで学んだ哲学者で、周が4歳から25歳までの住居である。土蔵には3畳の勉強部
        屋がある。

           
           
         森鴎外は、1862(文久2)年80石取りの藩医の嫡男として生まれ、11歳で上京する
        まで住んでいた家で、
平屋建ての簡素な造りには、父の調剤室や4畳半の勉強部屋などが
        ある。軍医と作家という2つの人生を生き、1922(大正11)年に没す。享年60歳。

           
         旧宅と一体となった森鴎外記念館。

           
         津和野川左岸遊歩道からJR津和野駅に戻り、16時56分の新山口駅行きに乗車する。
        (昼間はこの列車のみ)