ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市阿東の生雲中は山代街道の宿場町 

2020年04月28日 | 山口県山口市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものものである。(承認番号 令元情複第546号)
         生雲市(いくもいち)は中央を南流する生雲川沿いに細長く盆地状に開け、東西を県道11
        号線(萩篠生線)が走る。
         萩城下から紙の産地であった山代を結ぶ街道が、生雲市を東西に通っていた。
(歩行約
        4㎞)

        
        
         JR新山口駅(8:52)から特急「おき」を利用してJR三谷駅で下車(9:34)し、駅前を左
        折して山口線に沿うと徒歩6分で三谷駅バス停がある。防長バス萩行き(10:10)7分、生雲
        バス停で下車する予定であったが、コロナ緊急事態宣言を受けて車利用とする。

        
         生雲市はJR三谷駅から約5.2㎞の距離にあり、県道筋にある警察署の交番手前から
        旧道へ入る。


               
         1849(嘉永2)年の橋供養碑が傍に残されている。

        
         阿武川の支流である生雲川の先に町並みがある。
 
        
        
         山代街道には8つの市(宿場)があり、その一つが生雲市であった。

        
         若味噌川が交わる所に八千代屋旅館、時計店、自転車店などがあったという。

        
        常盤橋が上市と下市の境。

        
         大谷家跡は常盤橋手前を右折し、県道310号線を100mほど北へ向かう。

        
         代々大庄屋を勤めた大谷家は本陣として使われ、明治~大正期までは小学校として使わ
        れたが、現在はわずか石垣が残るだけである。9代忠兵衛と10代久七は尊王の志が高く、
        1863(文久3)年長州に亡命した中山忠光と、七卿の一人沢宣嘉をかくまう。幕末の志士
        久坂玄瑞の母・富子は忠兵衛の妹であったので度々同家を訪れている。石州口の情報収集
        に訪れた大村益次郎やなどが集う家でもあった。

        
         大谷家墓所へは相栄町集会所から案内に従い、右手の坂道を上がる。

        
         生雲市の町並み。

        
         大谷家が萩に移るまでの墓所である。中央に久坂玄瑞の伯父にあたる大谷忠兵衛(戒名:
        楽山亭仙齢壽昌居士)、郷友隊を編成した大谷久七らが眠る。

        
         常盤橋から生雲八幡宮までが生雲市の中心として栄える。萩の乱(前原一誠の乱)では反
        乱軍が駐屯したため戦禍で大半が焼失する。

        
         市戎と思われる祠と村上酒場。

        
        
         医者宅であったようだが、山口に転居されて空き家だとのこと。

        
         大庄屋だった大谷家の建物とされる中市屋商店(寺山家)さん。棟札を拝見すると「天保
        12(1841)辛丑 2月13日 叶本宅 大谷種蔵代」とあり。

        
         煙出しのある家だが、構えから何か製造をされていたのであろう。

        
         通りの右側には手前から菓子店、理髪店、時計店があったとされるが、すでに廃業され
        ている。

        
         鳥居手前の右手には出勘場があり、生雲村時代には村役場が置かれた。

        
         鳥居の右手手前から生雲郵便局、文房具店、呉服店が並んでいた。

        
         参道入口に鳥居と常夜燈、参道には桜並木が続くが、鳥居の左手には脇本陣(目代所)の
        三戸家があったとされる。

        
         生雲八幡宮の社伝によれば、南北朝期の1349(貞和5)年宇佐八幡宮より勧請し、古宮
        の地に祀ったが、1695(元禄8年)現在地に遷座したという。1864(元治元)年8月七卿
        落ちの一人である澤宣嘉(さわ のぶよし)は、大庄屋大谷家に滞在中に生雲八幡宮へ詣で、尊
        王攘夷の願文を祝詞形式にして奉納する。

        
         神社前からは上新町通り。

        
         山代街道は元野村雑貨店先を右折して路地に入る。

        
         溜池奥に明尊寺の屋根。

        
         明尊寺(真宗)は蔵目喜村にあったが鉱山の閉鎖等で人口が減少し、慶応年中(1865-1868)
        に当地へ移転してきた。(住職談) 

        
         大谷忠兵衛の隠居地「楽山亭」があった地で、久坂玄瑞は14歳で母、15歳で父と兄
        を亡くし、よく伯父を訪ねて憩いの場とした。こうした縁故もあって、のちに公卿中山忠
        光や沢宣嘉などが隠棲地とした。

        
         1866(慶応2)年2月幕府軍と石州口での戦いに備えて、主力の南園隊は大谷家別邸を
        本陣とした。ここには演習場、兵舎、弾薬庫などが置かれたが、大谷家は武器調達などの
        資金も提供したとされる。

        
         生雲バス停(12:47)から三谷駅入口(12:55-13:05)で湯田温泉行きバスに乗車して戻る予
        定であったが、路線バスの旅を楽しむことなく新山口駅に戻る。


山口市阿東の嘉年は標高400mに位置する山村集落 

2020年04月28日 | 山口県山口市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         嘉年(かね)は阿武川流域に位置し、四方を山々に囲まれた盆地の中に集落が点在する。地
        名の由来は、阿武川の源を意味する河根(かね)にちなむという。(歩行約2.4㎞)

        
         JR徳佐駅から阿東生活バス徳佐嘉年線があるが、JRやバスの便数などから車でない
        と訪れることができない地域である。(バス停の先に広い駐車地あり)

        
         国道315号線と県道13号線(萩津和野線)が交じる付近が嘉年の中心地である。

        
         国道と県道が交わう所に、2006(平成18)年廃校となった嘉年小学校がある。

        
         地域の親睦を深め明るい地域をめざすというコンセプトのもと、「案山子祭り」が行な
        われていたようだが、交通安全を願う六地蔵ならぬ六案山子が製作されている。

        
         阿東地域交流センター嘉年分館にある案内板だが、土地勘がないためか位置が特定でき
        なかった。

        
         市場上と長迫の境付近から旧道に入る。

        
         長迫生活バス停傍には農協農機事業センターがある。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、嘉年上村と嘉年下村が合併して嘉年村となり、
        昭和の大合併で旧阿東町になるまで村役場は長迫に設置された。旧役場跡には正面に石柱、
        その前には石段があったとされる。

        
         当時の蔵が残されている。

        
         旧道沿いに小さな集落。

        
         空家の傍に稲荷神社の鳥居。

        
         集落はわずか400mの距離内にある。

        
         聳える十種ヶ峰(とくさがみね)が集落のシンボルでもある。

        
         嘉年小学校は、1874(明治7)年吉部野に創立されたが、その後、大迫なめぎわに移転
        し、吉部野および神田に分校を設ける。1924(大正13)年現在地に移転するが廃校とな
        り、校舎は体育館前の運動場側にあったようだが姿を消していた。

        
         萩城下から石州津和野に至る石州街道(白坂道筋)が通っていた。嘉年中心部から旧街道
        を津和野方向へ400mぐらいの左手に市原家住宅がある。

        
        
         代々庄屋を務め、江戸末期の幕長戦争では清末藩主や萩藩の重役が当家を本陣として、
        国境巡見、津和野藩との交渉などにあたる。こぢんまりした門は地方の庄屋門の形を残し、
        門の脇に湯屋と長屋が併設されている。

        
         嘉年小学校神田分校があった神田(こうだ)集落。

        
         1876(明治9)年嘉年小学校が大迫に新築移転すると、吉部野と上郷に支校が設けられ
        る。のちに上郷支校は土居から神田へ移るが、1960(昭和35)年に廃校となる。この付
        近に分校があったとされるが場所を特定することができなかった。

        
         堂免集落は嘉年中心部から約3.6㎞も離れているが、生活バスで極楽寺前まで乗車可能で
        である。

        
         極楽寺(臨済宗)の寺伝によると、もとは五穀寺で室町期の1465(寛正6)年に創建され、
        12の末寺があったという。のちに極楽寺に改めたとされる。

        
        
         寺境内は美しさが保たれている。

        
        
         ウスギモクセイはキンモクセイの変種とされる。インド、中国、日本の九州(南部)自生
        が知られるが、多くは古く中国から持ち込まれたものといわれる。花は黄白色で10月頃
        に開花する。(1016年10月撮影)
         また、山門入口には大きなシダレザクラもあり、四季折々に参拝者を楽しませてくれる。


山口市阿東の徳佐は石州街道の宿場町 

2020年04月28日 | 山口県山口市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         徳佐は阿武川の上流域で三方を山に囲まれた内陸山間地帯に位置する。地名の由来は、
        十種の神宝を埋めたとされる山(十種ヶ峰)の正面にある麓の里であることから徳佐という。
        (歩行約4.3㎞)

        
         JR新山口駅(9:13)から山口線を利用してJR徳佐駅下車としていたが、コロナ感染予
        防のため公共交通機関の利用を残念して車での対応とする。JR徳佐駅前のJA駐車場(許
        可要)を利用させていただく。
         徳佐駅は、1918(大正7)年三谷駅からの延伸した際、終着駅として開業する。駅舎は
        開業当時のものかどうかはわからないが、大正から昭和の時代に建てられた木造駅舎が現
        存する。島式1面2線のホームを持ち特急停車駅でもある。

        
         JAと郵便局の間の道を徳佐上方向へ向かう。

        
         この地域のシンボルである十種ヶ峰(とくさがみね)の麓では、田植えの準備が始まってい
        る。


        
         左手に山口高校徳佐分校を過ごすと、石州街道合流点付近には製材所、家具製造などの
        工場があったようだが姿をとどめない。


        
         国道9号線と石州街道が交差する地点より徳佐中心部へ引き返す。

        
         右手に狐塚古墳が案内されている。

        
         狐塚古墳は洪積段丘に立地する横穴式の石室をもつ小型の前方後円墳で、古墳時代の後
        期(6世紀頃)に造られたと云われている。残念ながら入口に鍵がかけられており、中を拝
        見することができない。

        
         全長約35mの古墳前方部は狭くて低く、後円部の高さは約4~5m、石室の全長約8
        mで、玄室の長さ約3.6m、幅1.7m、高さ約2mの前方後円墳である。
         前方後円墳を造ることができるのは、畿内の王権と関連があり、この地に強大な豪族が
        いたことがわかるとのこと。(説明板より)

        
         県農業試験場寒冷地分場跡地は、阿東ふるさと交流農園や交流促進センターとして活用
        されている。

        
         上市地区の街道筋。

        
         徳佐八幡宮の参道は石州街道に接し、入口には1934(昭和9)年名勝徳佐桜として、国
        の指定(史跡名勝天然記念物保護法)を受けた旨の石碑が残されている。

        
         駅通りに合わすと、右前方の山口銀行徳佐支店は華浦銀行の支店であったが、1944
        (昭和19)年に合併消滅する。

        
         駅通りの先が中市で街道筋の中心地であった。

        
         門構えのある商家は澄川釣具店。

        
         石州瓦の家が並ぶ。

        
         真光寺(しんこうじ・真宗)の屋根も石州瓦一色。

        
         金子家は江戸中期頃に目代(もくだい)を務めたとされ、目代当時には屋敷前の松に馬を繋
        いだと伝える。

        
         1889(明治22)年の町村制施行により、徳佐上村、徳佐中村、徳佐下村が合併して徳
        佐村となり、この付近に村役場が置かれたようだ。

        
         椿家は江戸時代に代々大庄屋を務めた家で、徳佐村に3軒あった本陣(脇本陣含む)の内
        のひとつ。現在は本陣門だけが遺る。

        
         風土注進案によると、下市と中市付近に脇本陣・椿又左衛門宅があったとされる。

        
         脇本陣前には本陣椿家の一族で新屋と呼ばれた目代椿家があったとされる。天明年間(1
        781-1789)以降目代を務めた。(元村上履物店付近)

        
         1929(昭和4)年築の大草医院は石州街道筋に面して建ち、道路から石段を3段上がっ
        た所に敷地を構えている。当時の医院は警察署・刑務所などとともに敷地を道路面よりも
        高く構えたという。

        
         大草一真医師が長崎医専を卒業後、東大伝染病研究所などの勤務を経て、1929(昭和
        4)年に帰村し、医業を継ぐに際して建築したものである。洋風建築を思い立ったのも長崎
        にいたことが係わるらしい。

        
         大草医院先の街道。

        
         名の如く石州街道は石州瓦がよく似合う。(T家)

        
         市川を渡ると石州街道は、左手の民家前で右折して阿武川に至る。(橋の先左手に平野
        屋旅館があった)

        
         踏切を越えた左手付近に脇本陣の河野家があったとされるが、痕跡は残されていない。

        
         四差路に戻って南下すると、石州瓦の中にトタン屋根が光る。

        
         街道から国道9号線を横断する。

        
         徳佐保育園前に長い塀。

        
         370mの参道両側に植えられたシダレサクラとヒガンザクラ。1825(文政8)年氏子
        有志によって植栽された桜である。
         その後、老木・枯木となり、1956(昭和31)年国の指定解除となるが、現在の桜はそ
        の後に捕植・増植されたものである。

        
         平安期の1182(寿永元)年創建の徳佐八幡宮は、大内満盛が豊前国宇佐八幡宮から古宮
        山に勧請したと伝える。1680(延宝8)年現在地に遷座するが、現在の社殿は遷座時の建
        物に、1788(天明8)年に手を加えたものと推定されるとのこと。

        
         一の鳥居と二の鳥居の間は国道によって分断されている。

        
        
         JR徳佐駅までの商店街。古いアーケードのようなものが残されているが、コロナの影
        響か人通りはまったくない。

        
         国道より駅まではわずか380mの距離。