ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

津和野の城跡から旧石州街道界隈

2020年04月08日 | 島根県

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
 
         津和野は東に青野山を中心とした青野火山群と、西は中世から近世にかけての城山に挟
                まれた南北に細長い盆地で、その中心を津和野川が流れる。(城址ルート約11㎞)

           
         乙女峠より津和野大橋に戻って弥栄神社。

           
           
         弥栄神社は津和野城の鬼門を守るために祀られた古社で、境内のケヤキの大木がその歴
        史を物語っている。毎年7月に祇園祭の神事として奉納される「鷺舞」の舞台でもある。

           
         弥栄神社先の赤い鳥居が表参道入口。(道傍に駐輪)

           
         伏見稲荷大社と同様に、千本鳥居があり、遠くからでも鳥居が確認できる。約300m
        におよぶ石段を登ればご利益がありそうだ。

           
         「太皷谷」は、津和野城がある城山の一角にあり、江戸期には時刻を知らせる太鼓が鳴
        り響いた谷間であることから名付けられたとされる。

           
         神門を潜れば眼下に津和野の町並み。

           
         太鼓谷稲成神社は、1773(安永2)年7代藩主・亀井矩貞が京都の伏見稲荷を勧請し、
        津和野城の鬼門に当たる太鼓谷の峰に創建する。「稲が成る」と表記するのは珍しく大願
        成就の願いが込められているとのこと。

           
         1867(慶応3)年津和野の乙女山にあった熊野権現社を遷して相殿となる。以来、社号
        は熊野神社となるが、1927(昭和2)年に稲成神社と改称する。現在の社殿は1969(昭
          和44)
年に造営された。

           
         今年の6月頃まで城山改修工事のため登山道利用はできず、リフト(往復700円)を利
        用する以外に手立てがない。下り便の最終時間が16時20分なので要注意である。

           
         大手門(東門)への登城口。

           
         東門跡は亀井氏の代は大手門となる。

           
         三段櫓跡には二階櫓が建っていたという。

           
         腰郭と二の丸、正面の石垣が三十間台。

           
         台所跡から見た天守台と三十間台。天守台は最高所でなく、一段下がった所にある変わ
        った城である。

           
         天守台石垣下にある中心部の縄張り図。

           
         搦め手側の西櫓門跡。

           
         正面の人質櫓(跡)には三十間台からのみ出入り可能な造りであるが、元来は三十間台を
        補強するために築かれたともいわれている。

           
         三の丸(霊亀山山頂)から見る人質櫓跡と三十間台。

           
         形の整った青野山は津和野のシンボル。

           
         三の丸の南端にある南門櫓跡。

           
         天守台から見ると左手に馬を繋ぎとめておく馬立場跡と台所跡、その奥に搦め手を監視
        する海老櫓跡。

           
         坂崎氏時代に三層の天守が建てられたとされるが、1686(貞亨3)年落雷によって火災
        が発生し、天守などが焼失した後は再建されることはなかった。

           
         三十間台から見る太鼓門跡と太鼓丸。

           
         三十間台は城の最高所で、実質的な本丸に相当する郭であったようだ。

           
         津和野の城下。津和野川が蛇行し、川の北側が伝建地区で、グランドは津和野小学校。

           
         町の南側には東の山裾をJR山口線と石州街道(山陰道)、県道13号線が南北に走る。

           
         三十間台から見る人質櫓跡と三の丸。

           
         かって津和野藩邸があった所で、明治維新後に藩邸は解体され、北側に津和野高校グラ
        ンド、南側に庭園跡が残された。もとは津和野高校の正面付近にあった物見櫓は、大正期
        の道路新設により嘉楽園の敷地内に移された。

           
         藩邸を橋北(現津和野庁舎)から津和野城直下(現津和野高校グランド)に移し、明治維新
        まで江戸期を通じて藩政を担ってきた。

           
         遊歩道と幸橋が交わる所に馬場先櫓があるが、藩邸の隅櫓で馬場に接していたことから
        名付けられた。江戸末期の嘉永大火で焼失した後に再建されたものである。

           
         太鼓谷稲成神社入口まで戻って石州街道に沿う。(津和野川)

           
         津和野町郷土館の門は、津和野藩主亀井家一族の草刈家屋敷門を移設したものである。

           
         殿町の風景とツワブキ、アヤメがデザインされたマンホール。

           
         山口線を潜ると街道だった面影は失われている。

           
         石州街道(山陰道)を南下すると、JR山口線手前に津和野藩の筆頭庄屋の屋敷を改装し
        た杜塾美術館がある。

           
         中座方面に進むと道は鉤の手になっている。

           
         津和野中学校付近の街道。

           
         街道を見返る。

           
         船蔵と百石蔵と呼ばれる酒蔵が街道に面する。

           
         1791(寛政3)年創業の戝間酒場は中座地区にあり、店舗・酒蔵は江戸時代後期の建
        物とされる。斜面地に建つため棟を段違いとするなど複雑な屋根構成を見せる。

           
         戝間酒場の先が石州街道(山陰道)と参勤交代道(津和野廿日市街道)との追分である。

           
         旧津和野藩亀井家の別邸と称される屋敷は、1900(明治33)年導火線製造販売で財を
        成した津和野出身の実業家・吉田三輔が建てたものである。1874(明治7)年亀井家の本
        邸が取り壊されたため、1920(大正9)
年津和野への逗留地確保を目的に購入したもので
        ある。

           
         鷲原八幡宮は津和野城南端の山裾にあり、津和野川に挟まれた地に立地し、津和野城お
        よび城下を守る重要な地であった。南北朝期の1387(嘉慶元)年石見国地頭職・吉見頼直
        により鶴岡八幡宮から勧請され、室町期の1405(応永12)年現在地に遷座したと伝えら
        れる。

           
         流鏑馬(やぶさめ)馬場は地形的制約のためか、八幡宮の参道を直行するように配置されて
        いる。全長270mの馬場は、日本で唯一原型を留めている馬場で、毎年流鏑馬神事が行
        われる。
 

           
         現在の社殿は、室町期の1554(天文23)年陶晴賢による津和野城攻めによる焼失後、
        1568(永禄11)年に再建された。

           
         境内に南面して本殿、拝殿、楼門が一直線上に立ち並ぶ構造となっている。拝殿と楼門
        の間に方形池を設けて、その上に潔斎橋が渡してある。

           
           
         西周(にしあまね)は、1829(文政12)年津和野藩医の子に生まれ、法学・西洋哲学をオ
        ランダで学んだ哲学者で、周が4歳から25歳までの住居である。土蔵には3畳の勉強部
        屋がある。

           
           
         森鴎外は、1862(文久2)年80石取りの藩医の嫡男として生まれ、11歳で上京する
        まで住んでいた家で、
平屋建ての簡素な造りには、父の調剤室や4畳半の勉強部屋などが
        ある。軍医と作家という2つの人生を生き、1922(大正11)年に没す。享年60歳。

           
         旧宅と一体となった森鴎外記念館。

           
         津和野川左岸遊歩道からJR津和野駅に戻り、16時56分の新山口駅行きに乗車する。
        (昼間はこの列車のみ)
 


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