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ぶら~と散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

防府市台道の市・下津令‥台道市から大楽源太郎の西山塾跡

2025年01月25日 | 山口県防府市

                                   
                  この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複写加工したものである。
         台道は大海湾に注ぐ河内川・横曽根川流域に位置する。切畑の千切峠を頂点に東西を山
        麓に挟まれた扇状の平地である。市・下津令はその西にあって、台道市は名のとおり旧山
        陽道沿いに集落が形成され、下津令は大海山地の東に位置する。(歩行約9.1㎞) 


           
         JR大道駅は、1900(明治33)年12月山陽鉄道の開通と同時に開業されたが、当時
        は大道村であったことから駅名となる。
         2004(平成16)年に高等学校・中等学校が移転してきたため、橋上駅舎となり南口が
        開設される。

           
         往時、市東にあったとされる恵比須社が、この付近に移転したとされるが、この社なの
        確証を得ることができず。

         
          
         繁枝(しげし)神社の社伝によると、飛鳥期の684(天武天皇13)年に台道地区の鎮守とし
        て下津令に創建される。室町期の応永年間(1394-1428)に台道村を二分し、旧山陽道の北
        側には小俣八幡宮が奉斎されることになる。鎌倉期の1191(建久2)年現在地に遷座し、
        後に6つの神社が合祀される。

        
         繁枝神社の右手に大楽源太郎記念碑があるが、碑文だけは死後まもなくできていたそう
        だが、当時は国賊であったことから建碑は差し控えられた。1889(明治22)年の憲法発
        令による大赦令で復権し、翌々年に記念碑が建立される。
         勝海舟は「大楽は善さそうな男だったよ。あまり会ったことはなかったが、話せる奴ら
        しかった。長州では珍しい男さ」と‥。真相はともあれ、寺内正毅など多くの人材を次の
        時代に送り出したことは確かである。 

        
         1874(明治7)年台道小学と台道南小学が開校するが、1877(明治10)年に統合され
        て繁枝小学校となる。その後、市東地区へ移転し、校名も変更されて繁枝小学校は役目を
        終える。

        
         193(昭和6)年建立の地蔵尊は、幼児が伝染病で亡くなった供養のためとされる。(右
        の道に入ると分校跡) 

         
         統合記念碑と記念樹碑があるが、1948(昭和23)年4月に県立山口農業高校大道分校
        (農業科・家庭科)がこの地に開校する。農村の中堅人物を養成し、多くの人材を世に送り
        出したが、社会情勢によって学校の運営は至難を極める。先に家庭科が廃止され、196
        7(昭和42)年3月本校(旧小郡町)へ統合された。(裏面の説明より)

        
         種田山頭火は、1906(明治39)年父の竹治郎と大道村の山野酒造場を買い取り酒造業
        を始めるが、暖冬で酒が腐敗したことが原因で破産に追い込まれる。 1916(大正5)年妻
        子とともに熊本に移り住んだのは、山頭火34歳の時であった。大楽源太郎同様に追われ
        るように台道の地を離れていったもう一人の人物でもある。この樽と釜は、大林酒造場(種
        田酒造の後継)から譲り受け展示されている。(旧大道郵便局跡地?)
              山頭火句「酒樽洗ふ夕明り 鵙(もず)けたたまし」
                              (大正3年(1914)「層雲12月号」)

        
         道筋に目立つ煙突があったので立ち寄ると、近所の方が現在は使用されていないが、焼
        物用の煙突であると教えていただく。

        
         1940(昭和15)年この地へ大道村役場が新築移転(それまでは市の中ほど)する。昭和
        の大合併で防府市となり出張所が置かれ、現在に引き継がれている。

        
         山口道は旦地区から柴山峠を越え、さらに切畑の千切峠を越えて山口に至る道であった。
        大内時代に開けたものと思われるが、大海・旦方面から海産物・石炭・肥料などを小鯖・
        仁保・山口などに送って、その帰りに薪や炭を運ぶ大切な道であった。(碑は旧山陽道と交
        わる地点)

        
         小祠と御旅所のような台座。

        
         旧山陽道は佐野峠から岩淵を過ごすと台道市である。天下御物送り場に宿馬10疋を備
        えた半宿であった。

        
         諧光寺(真宗)の寺伝によると、足利義政に近臣だった内田正房は、応仁年間(1467-146
        8)に国家の大乱に及ぶことを深く憂慮し、当国に下って農業をしながら隠遁の身になる。
        その子は比叡山で天台宗の僧となるが、のち浄土真宗に帰依する。
         父に従って台道に来て教義を広め、室町期の1501(文亀元)年内山に道場を建てて立正
        寺とする。大内輝弘の乱で寺は放火され、のち街道筋に再建して現寺号に改める。江戸期
        には諸大名通行の際の休泊所になったという。

        
        
         数軒ほど厨子2階の建物がある。この付近の左手に大道村役場があったとされるが、現
        在は個人宅となり痕跡等は見られない。(その先に法華宗の妙顕寺)

        
         左手にある上田新太郎の碑には、「心広く、おだやかで親切、よくその務に励み、庄屋
        であること14年、戸長であること6年、村民は喜び心服した。1877(明治10)年11
        月に逝去、村民はこの上もなく慕い、碑を建てて人徳を顕彰する」とある。

        
         上田家は県内屈指の旧家で、家は解体されて近代的な家屋になっている。道沿いに井戸
        が残されているが、江戸期には酒造業を営み代々庄屋を務め、農地解放以前は県内有数の
        大地主であったという。
         この家屋の表札には上田敏雄(1900-1982)とあるが、五男一女の四男としてこの地に生
        まれ、詩人として活躍する。国家主義が台頭し始めると、1934(昭和9)年に「自由詩は
        何処へ行く」を発表して詩壇から去る。
         現在の芝浦工大で英語を教えていたが、東京空襲が激しくなり郷里の山口に妻子ととも
        に疎開し定住する。その後、山口経済専門学校(現山口大学経済学部)で子弟の教育に携わ
        りながら、1948(昭和23)年に長い沈黙を破り詩壇に復帰する。

        
         
         堂山には厳島六社大明神が祀られているが、入口の碑には、この地方は「まむし」が多
        く山仕事や野ら仕事をするのに土地の人は苦しんだ。「まむし」の害を除くため、169
        0(元禄3)年上り熊に片山鹿社を建て、厳島大明神を勧請した。それから百余年の歳月が過
        ぎ、祠は傾き、祭りをするのも不便とし、相談して堂山に社を移したとある。(碑は183
        2年建立) 

        
         1862(文久2)年萩藩主・毛利敬親は、尊皇攘夷を実行するため藩庁を萩から山口に移
        し、守りを固めるため小郡の柳井田と防府勝坂に関門、その他に番所を設けて他国者が自
        由に山口の地へ入れないようにした。山口の地には伊勢神宮の分霊を勧請した高嶺大神宮
        があり、近隣諸国からの参拝者は困ったため、小郡に外宮、台道に内宮の遥拝所が設けら
        れた。
         1869(明治2)年に関所が廃止され、遥拝所もなくなったが、「揚輝」「永照」と刻ま
        れた灯籠が国道2号線北に残されていたが、消滅していたのでこの地へ移されたのだろう
        か。 

        
         旧山陽道は台道市尻で国道2号線に合わす。

        
         市から上り熊に向かう途中「法界」と刻まれた地蔵尊。

        
         上り熊集落に入る。 

        
         西山塾(書屋)跡がある中山家の手前に、1813(文化10)年建立の三界萬霊塔と石仏。
        塾跡は中山家の敷地内にあるので了承を得る。

        
         大楽源太郎はこの地で私塾を開き、子弟を教えていたので四境戦争には参加しなかった
        が、多くの子弟が参加する。1869(明治2)年までの3年間と短い期間であったが、従学
        人数は百数十人であったといわれている。

        
         大村益次郎暗殺事件、山口諸隊脱退騒動に大楽の門下生がいたことから嫌疑の目が向け
        られる。1870(明治3)年3月5日諸隊会議所から召喚があり、門人1人と山口へ向かう。
        危険の切迫を覚った大楽は、小鯖八幡宮前の店屋「杉屋」で一休憩した際に、大便を催し
        たと両刀を門人に預けて家の裏から逃げる。山の中を逃げ隠れしながら、夜を利用して密
        かに台道村へ立ち帰り下津令に潜んだとされる。(ここに茶室があった) 

        
         山陽本線峠第2踏切を越えると、上り熊集落の中心地に八幡宮の灯籠、左手の民家内に
        五穀を司る神、農業神とされる保食神(うけもちのかみ)が祀られている。右手の道を少し行け
        ば、1779(安永8)年建立の地蔵尊が祀られている。 

        
         河内川を過ごして下津令集落に入る。(正面の山は大海山) 

        
         右手の高台が開けているので立ち寄ると、まさに扇形の平地で、正面の山と山の間が扇
        の要(かなめ)である千切峠。

        
         繁枝神社の旧跡。

        
              「日ざかりのお地蔵さまの顔がにこにこ」 山頭火
         昭和8年(1933)7月11日の其中日記に椹野川に沿うて散歩した。月見草の花ざかりで
        ある途上で数句拾うたあるが、その数句の中にこの句がある。日ざしを浴び、雨に打たれ、
        風を受ける地蔵尊はたくさんの人の目にとまる。そのやわらかな微笑からは今日を生きる
        元気をもらえる。山頭火も散歩中にお地蔵さまと対面したのであろう。

        
         妙蓮寺(真宗)は、戦国期に城(じょう)長盛という武士が海上警固にあたっていたが、世の
        無常を感じて真宗に帰依する。1607(慶長12)年現在地に寺を建立したという。
         大楽源太郎は台道村に立ち戻ると門弟であった下津令の弘中宅や山県宅に隠れた。妙蓮
        寺にもしばらく潜んでいたとされるが、20日間ほど下津令のあちこちに隠れた。

        
         台道南で県道25号線(防府宇部線)に合わし、そのまま南下して十郎橋を右折する。非
        舗装路を進むと六地蔵が見えてくる。(歩いてきた道) 

        
         団紳二郎(1848-1875)は萩藩寄組の児玉若狭の家臣で、台道に居住して大楽源太郎の門
        下生となる。熱烈な尊皇攘夷主義者となり、戊辰戦争では東北各地を転戦する。
         1869(明治2)年大田光太郎、神代直人らと上京遊学中に、大村益次郎の士族廃刀論や
        徴兵論に憤慨して暗殺を計画する。9月4日同志13名と京都木屋町の旅宿を襲撃して大
        村に重傷を負わせる。
         その後、越前に逃亡したが捕らえられ、同年12月京都で斬首される。同地には「団御
        楯 明治22月没」と刻まれた基石がある。

        
         左手に下津令を見ながらJR大道駅に戻る。


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