この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複写したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
台道は大海湾に注ぐ河内川・横曽根川流域に位置する。東西の山麓に挟まれた扇状の低
地であり、往古は奥深くまで海であった。土砂の堆積と海辺の砂土が吹き寄せて繁枝砂丘
が形成され、土砂の堆積によってできた大海湾の干潟は、順次干拓されて今の姿となった。
1889(明治22)年町村制施行により、切畑村と台道村が合併して大道村となったが、
1955(昭和30)年に防府市に編入されて大字台道と切畑になる。(歩行約6.3㎞)
JR大道駅は、1900(明治33)年12月山陽鉄道の開通と同時に開業されたが、当時
は大道村であったことから駅名となる。2004(平成16)年駅南側に高等学校が移転して
きたため、現在の橋上駅舎となる。
大道駅前は新しい建物が主流を占める。
繁枝(しげし)神社の社伝によると、飛鳥期の685(白雉36)年台道地区の鎮守として下津
令に創建された。室町期の応永年間(1394-1428)に台道村を二分し、旧山陽道の北側は小俣
八幡宮が奉斎されることになる。鎌倉期の1191(建久2)年下津令より現在地に遷座し、
後に6つの神社を合祀する。
繁枝神社の右手に大楽源太郎記念碑があるが、碑文だけは死後まもなくできていたそう
だが、当時は国賊であったことから建碑は差し控えられた。
1889(明治22)年の憲法発令による大赦令で復権し、翌々年に記念碑が建立される。
篆額は山田顕義、澄川拙三撰文、入江石泉書である。
勝海舟「大楽は善さそうな男だったよ。あまり会ったことはなかったが、話せる奴らし
かった。長州では珍しい男さ」と‥。
真相はともあれ、大楽源太郎が寺内正毅など多くの人材を次の時代に送り出したことは
確かである。
1874(明治7)年台道小学と台道南小学が開校するが、1877(明治10)年に統合され
て繁枝小学校となる。その後、現在地(市東)へ移転し、校名も変更されて繁枝小学校は役
目を終える。
JR大道駅から旧山陽道への道。
大事にされているお地蔵さん。
1906(明治39)年種田山頭火(正一)は、父・竹治郎と大道村の山野酒造場を買い取り
酒造業を始めるが、暖冬で酒が腐敗したことが原因で破産に追い込まれる。1916(大正
5)年妻子とともに熊本に移り住んだのは、山頭火34歳の時であった。大楽源太郎同様に
大道の地を追われるように離れていったもう一人の人物である。
この樽と釜は、大林酒造場(種田酒造の後継)から譲り受けて展示されている。(神社と山
陽道との中間あたりの道筋)
山頭火句 「酒樽洗ふ夕明り 鵙(もず)けたたまし」
(大正3年(1914)「層雲12月号」)
旧山陽道と交わる位置に「山口道」の道標がある。大道より山口への道として重視され
ていた。
旧山陽道は国道2号線を越えて大道に入り、山口道と交差すると大道市である。
右手に小さな祠と御旅所の台座。
左手に浄土真宗の諧光寺。
大道市は天下荷物送り場に宿馬10疋を備えた半宿で、家数は80軒位だったという。
上り坂のためか左右に紆曲している。
上田家は県内屈指の旧家で、家は解体されて近代的な家屋になっている。道沿いに井戸
が残されているが、江戸期には酒造業を営み代々庄屋を務め、農地解放以前は県内有数の
大地主であった。
この家屋の表札には上田敏雄(1900-1982)とあるが、五男一女の四男としてこの地に生ま
れ、詩人として活躍する。国家主義が台頭し始めると、1934(昭和9)年に「自由詩は何
処へ行く」を発表して詩壇から去る。
現在の芝浦工大で英語を教えていたが、東京空襲が激しくなり郷里の山口に妻子ととも
に疎開し定住する。その後、現山口大学、山口高専で子弟の教育に携わりながら、194
8(昭和23)年に長い沈黙を破り詩壇に復帰する。
上田少蔵(堂山・1758-1838)は文人に理解が深く多くの文人達が寄宿し、太田南畝、頼山
陽、村田清風などが訪れている。
1832(天保3)年上田家により建立された厳島六社大明神があり、この先で市尻となる。
その先で国道2号線と合流する。
引き返して中田商店前を右折して上り熊集落を目指す。
中山家の山手側に西山書屋があるが、私有地のため了解を要する。
大楽源太郎はこの地で家塾(西山書屋)を開き、子弟を教えていたので四境戦争には参加
しなかったが、多くの子弟が参加する。塾は、1869(明治2)年までの3年間と短い期間
であったが、従学人数は百数十人であったといわれている。
大村益次郎暗殺事件、山口諸隊脱退騒動に大楽の門下生がいたことから嫌疑の目が向け
られる。(ここに茶室があった)
1870(明治3)年3月5日に諸隊会議所から召喚がある。門人1人と小鯖筋に入るが、
危険の切迫を覚った大楽は、小鯖八幡宮前の店屋「杉屋」で一休憩した際に、大便を催し
たと両刀を門人に預けて家の裏から逃げる。山の中を逃げ隠れしながら、夜を利用して密
かに村へ立ち帰り下津令に潜んだとされる。
上り熊集落から山陽本線峠第2踏切と河内川を過ごせば下津令集落。
この地が繁枝神社の旧跡である。隣には下津令のお地蔵様は三界萬霊と刻字され、17
40(元文5)年に建立される。
「日ざかりのお地蔵さまの顔がにこにこ」 山頭火
昭和8年(1933)7月11日の其中日記に椹野川に沿うて散歩した。月見草の花ざかりで
ある途上で数句拾うたあるが、その数句の中にこの句がある。日ざしを浴び、雨に打たれ、
風を受ける地蔵尊はたくさんの人の目にとまる。そのやわらかな微笑からは今日を生きる
元気をもらえる。山頭火も散歩中にお地蔵さまと対面したのであろう。
大楽源太郎は台道村に立ち戻ると門弟であった下津令の弘中宅や山県宅に隠れた。妙蓮
寺にもしばらく潜んでいたとされるが、20日間ほど下津令のあちこちに隠れていた。
(妙連寺の山門)
捜査の手が厳しくなってきたので父の知友を頼って、旦の海岸から脱出し姫島に渡る。
弟の山県源吾と門人2名の同行者と共に九州各地を転々としたが、1871(明治4)年3
月16日、久留米において暗殺される。(享年38歳)
柴山の麓には大楽源太郎の墓入口を示す道標が立てられている。
ひっそりと3基の墓が並ぶ。中央は父の山県信七郎の墓で、後年に五郎右衛門と改称し
て私塾を開いていたが、1873(明治6)年1月に71歳で逝去し、墓は門人たちが建立。
奥には大楽家の墓がある。
手前に「大楽奧年夫婦の墓」とあるのは、妻の死後(1879.3.12)に建てられたもの。大
楽の名は弘毅または奥年ともいい源太郎は字である。
直線道に高川学園が見えると、線路に沿えばJR大道駅南口。