この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものものである。(承認番号 令元情複第546号)
生雲市(いくもいち)は中央を南流する生雲川沿いに細長く盆地状に開け、東西を県道11
号線(萩篠生線)が走る。
萩城下から紙の産地であった山代を結ぶ街道が、生雲市を東西に通っていた。(歩行約
4㎞)
JR新山口駅(8:52)から特急「おき」を利用してJR三谷駅で下車(9:34)し、駅前を左
折して山口線に沿うと徒歩6分で三谷駅バス停がある。防長バス萩行き(10:10)7分、生雲
バス停で下車する予定であったが、コロナ緊急事態宣言を受けて車利用とする。
生雲市はJR三谷駅から約5.2㎞の距離にあり、県道筋にある警察署の交番手前から
旧道へ入る。
1849(嘉永2)年の橋供養碑が傍に残されている。
阿武川の支流である生雲川の先に町並みがある。
山代街道には8つの市(宿場)があり、その一つが生雲市であった。
若味噌川が交わる所に八千代屋旅館、時計店、自転車店などがあったという。
常盤橋が上市と下市の境。
大谷家跡は常盤橋手前を右折し、県道310号線を100mほど北へ向かう。
代々大庄屋を勤めた大谷家は本陣として使われ、明治~大正期までは小学校として使わ
れたが、現在はわずか石垣が残るだけである。9代忠兵衛と10代久七は尊王の志が高く、
1863(文久3)年長州に亡命した中山忠光と、七卿の一人沢宣嘉をかくまう。幕末の志士
久坂玄瑞の母・富子は忠兵衛の妹であったので度々同家を訪れている。石州口の情報収集
に訪れた大村益次郎やなどが集う家でもあった。
大谷家墓所へは相栄町集会所から案内に従い、右手の坂道を上がる。
生雲市の町並み。
大谷家が萩に移るまでの墓所である。中央に久坂玄瑞の伯父にあたる大谷忠兵衛(戒名:
楽山亭仙齢壽昌居士)、郷友隊を編成した大谷久七らが眠る。
常盤橋から生雲八幡宮までが生雲市の中心として栄える。萩の乱(前原一誠の乱)では反
乱軍が駐屯したため戦禍で大半が焼失する。
市戎と思われる祠と村上酒場。
医者宅であったようだが、山口に転居されて空き家だとのこと。
大庄屋だった大谷家の建物とされる中市屋商店(寺山家)さん。棟札を拝見すると「天保
12(1841)辛丑 2月13日 叶本宅 大谷種蔵代」とあり。
煙出しのある家だが、構えから何か製造をされていたのであろう。
通りの右側には手前から菓子店、理髪店、時計店があったとされるが、すでに廃業され
ている。
鳥居手前の右手には出勘場があり、生雲村時代には村役場が置かれた。
鳥居の右手手前から生雲郵便局、文房具店、呉服店が並んでいた。
参道入口に鳥居と常夜燈、参道には桜並木が続くが、鳥居の左手には脇本陣(目代所)の
三戸家があったとされる。
生雲八幡宮の社伝によれば、南北朝期の1349(貞和5)年宇佐八幡宮より勧請し、古宮
の地に祀ったが、1695(元禄8年)現在地に遷座したという。1864(元治元)年8月七卿
落ちの一人である澤宣嘉(さわ のぶよし)は、大庄屋大谷家に滞在中に生雲八幡宮へ詣で、尊
王攘夷の願文を祝詞形式にして奉納する。
神社前からは上新町通り。
山代街道は元野村雑貨店先を右折して路地に入る。
溜池奥に明尊寺の屋根。
明尊寺(真宗)は蔵目喜村にあったが鉱山の閉鎖等で人口が減少し、慶応年中(1865-1868)
に当地へ移転してきた。(住職談)
大谷忠兵衛の隠居地「楽山亭」があった地で、久坂玄瑞は14歳で母、15歳で父と兄
を亡くし、よく伯父を訪ねて憩いの場とした。こうした縁故もあって、のちに公卿中山忠
光や沢宣嘉などが隠棲地とした。
1866(慶応2)年2月幕府軍と石州口での戦いに備えて、主力の南園隊は大谷家別邸を
本陣とした。ここには演習場、兵舎、弾薬庫などが置かれたが、大谷家は武器調達などの
資金も提供したとされる。
生雲バス停(12:47)から三谷駅入口(12:55-13:05)で湯田温泉行きバスに乗車して戻る予
定であったが、路線バスの旅を楽しむことなく新山口駅に戻る。