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わたしはうたふ、わたしをうたふ、自然をうたふ、人間をうたふ。
俳句は悲鳴ではない、むろん怒号ではない、溜息でもない、欠伸であつてはならない、むしろ深呼吸である。
詩はいきづき、しらべである、さけびであつてもうめきであつてはいけない、時として涙がでても汗がながれても。
嚙みしめて味ふ、こだはりなく遊ぶ。
ゆたかに、のびやかに、すなほに。
さびしけれどもあたたかに。
種田山頭火『山頭火 一草庵日記・随筆 (山頭火文庫)
』春陽堂、2011年、374-375頁。
俳句や詩を「深呼吸」して読むとき、私の体内にたまった怒号や溜息、欠伸で汚れた呼吸が入れ替わる気がする。ゆたかに、のびやかに、すなほに。言葉も深呼吸がいる。俳句や詩に限らず、批評や論文であれ、志はそういう文章を書きたい。
もちろん、ここでも「俳句」はほかの言葉に置き換えることができるだろう。
俳句は悲鳴ではない、むろん怒号ではない、溜息でもない、欠伸であつてはならない、むしろ深呼吸である。
詩はいきづき、しらべである、さけびであつてもうめきであつてはいけない、時として涙がでても汗がながれても。
嚙みしめて味ふ、こだはりなく遊ぶ。
ゆたかに、のびやかに、すなほに。
さびしけれどもあたたかに。
種田山頭火『山頭火 一草庵日記・随筆 (山頭火文庫)
俳句や詩を「深呼吸」して読むとき、私の体内にたまった怒号や溜息、欠伸で汚れた呼吸が入れ替わる気がする。ゆたかに、のびやかに、すなほに。言葉も深呼吸がいる。俳句や詩に限らず、批評や論文であれ、志はそういう文章を書きたい。
もちろん、ここでも「俳句」はほかの言葉に置き換えることができるだろう。
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