僕はゴールをもたないし、執着もしない。
こうでなきゃいけないというかたちを
自分ではいっさいもたない。
ただ、スッとして、
そのアクシデントを許容するということの美学が好きです。
自由であるということは、細胞しか鍛えていないということです。
何をするためにその筋肉を鍛えるかじゃなくて、
単に「鍛えている」ということです。
そうすれば、どんなゴールにでも行ける。
どのゴールだなどと決めたくない。
僕はこういうデザイナーであるなんてことは絶対決めない。
偏って肥大した筋肉がきらいです。
(深澤直人『デザインの輪郭』TOTO出版、2005年、p.282-283)
自分が本来引用したかったのは上から5行目までなのだが、あえて全文を引用させて頂いた。深澤氏はテキストを読むと矛盾したことを言っていると思うのだが、そこは才能あるデザイナーだから何を言っても許される。
とはいえ、私も執着やゴールをもたないようにしている。だが、考えようによっては、すべてに執着を感じ、すべてをゴールだと考えることにする。矛盾している。だが、こうでなきゃいけない自分なんてないのだから、それでいいのである。そう、自分の中に起こる感情の「アクシデント」も許容したい。
許容、受容、受動、感応の美学。
などと書くと、どこからかお叱りの声が聞こえそうである・・。
こうでなきゃいけないというかたちを
自分ではいっさいもたない。
ただ、スッとして、
そのアクシデントを許容するということの美学が好きです。
自由であるということは、細胞しか鍛えていないということです。
何をするためにその筋肉を鍛えるかじゃなくて、
単に「鍛えている」ということです。
そうすれば、どんなゴールにでも行ける。
どのゴールだなどと決めたくない。
僕はこういうデザイナーであるなんてことは絶対決めない。
偏って肥大した筋肉がきらいです。
(深澤直人『デザインの輪郭』TOTO出版、2005年、p.282-283)
自分が本来引用したかったのは上から5行目までなのだが、あえて全文を引用させて頂いた。深澤氏はテキストを読むと矛盾したことを言っていると思うのだが、そこは才能あるデザイナーだから何を言っても許される。
とはいえ、私も執着やゴールをもたないようにしている。だが、考えようによっては、すべてに執着を感じ、すべてをゴールだと考えることにする。矛盾している。だが、こうでなきゃいけない自分なんてないのだから、それでいいのである。そう、自分の中に起こる感情の「アクシデント」も許容したい。
許容、受容、受動、感応の美学。
などと書くと、どこからかお叱りの声が聞こえそうである・・。