A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

未読日記245 「日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか」

2009-04-01 15:38:06 | 書物
タイトル:日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか
著者:竹内整一
装幀者:間村俊一
発行:筑摩書房/ちくま新書764
発行日:2009年1月10日
内容:
この言葉の持つ力!
「源氏物語」から阿久悠まで。”別れの言葉”に託したわたしたち日本人の切ない想いが、ここに結晶する。

「さようなら」というのは、「さらば」あるいは「しからば」という言葉で、もともとは、「そうであるならば」という、接続詞でした。……その別れ方が、世界では一般的でないとすれば、それは日本人の、人生や世界のどのようなとらえ方、また他者のどのようなとらえ方に基づいているのだろうか。

一般に世界の別れ言葉は、「神の身許によくあれかし」(Good-bye)か、「また会いましょう」(See you again)か、「お元気で」(Farewell)のどれかである。なぜ、日本人は「さようなら」と言って別れるのだろうか。語源である接続詞「さらば(そうであるならば)」にまで遡り、また「そうならなければならないならば」という解釈もあわせて検証しながら、別れ言葉「さようなら」にこめてきた日本人の別れの精神史を探求する。

購入日:2009年3月15日
購入店:BOOK-OFF 吉祥寺駅南口店
購入理由:
その日の毎日新聞朝刊の書評欄で紹介されており、興味を持った。そういえば「さようなら」ってなんだろう。かくある私もまた先日、祖母と「さようなら」をし、仕事においても「さようなら」をした。春は出会いと別れの季節だ。いちいち「さようなら」をするのに、薀蓄を述べる必要もないのだがなんとなく気になると知ってみたくなるもので、何気なく入った古本屋であっさり見つけ購入する。しかし、購入後に図書館で済ませればよかったかな、と思ったりもする。

先日31日で3年間努めた仕事を「さようなら」した。
濃密で過酷な3年間だった。
今は振り返るには余熱があるすぎるが、少しずつ冷静に時間を判断できるだろう。
ここに名前を記すことはできないが、出会えたひとりひとりに感謝したい。
 自分でも予想外だったのだが、仕事で京都から帰ってきた時、「さようなら」に感傷的になっている自分がいた。そんなバカなと思った。だが、このブルーにこんがらがった感情は余りに久しぶりだが、まぎれもなく初めて感じる「さようなら」の気持ちだった。幾人よりメールで届いた感謝の言葉は、等身大の言葉で綴られて、私の心の襞に触れた。その「言葉」の力に勇気付けられ、あらためて私は言葉で「さようなら」と言う。

3月31日付夕刊の毎日新聞に本書の筆者である竹内整一氏に取材をした特集「さようなら考」という記事が掲載されていた。その中で、最近気になっている親鸞の言葉をたまたま紹介していた。あまりに鮮烈な言葉に深く胸打たれたので引用したい。

 <花びらは散る 花は散らない>

花びらが散ることが別れだとしても、花そのものは散らない。
季節はまためぐり、また花を咲かす。
日本語の「さようなら」は、もともと「さらば」「しからば」という言葉で、「そうであるならば」という接続詞だったという。
「そうであるならば」の先については触れない接続詞としての別れ言葉に未来への連続が感じられてくる。
そう、「さようなら」は断絶ではない。未来へと「接続」する言葉だったのだ。





未読日記244 「待つ」ということ

2009-04-01 15:33:01 | 書物
タイトル:「待つ」ということ
著者:鷲田清一
カバー写真:植田正治「シリーズ<砂丘モード>より」1988年
カバーデザイン:片岡忠彦
発行:株式会社角川学芸出版/角川選書396
発行日:2006年12月20日第4刷(初版発行2006年8月30日)
内容:
現代は、待たなくてよい社会、待つことができない社会になった。私たちは、意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性をなくしはじめた。偶然を待つ、自分を超えたものにつきしたがう、未来というものの訪れを待ち受けるなど、「待つ」という行為や感覚からの認識を、臨床哲学の視点から考察する。
(本書カバー裏解説より)

購入日:2009年3月15日
購入店:誠実買入・古本センター(吉祥寺)
購入理由:
ずっと欲しくて探していたが、たまたま時間があいて入った古本屋で見つけ購入。
「待つ」という行為や感覚を鷲田清一の精緻で繊細な文体でどのように論じられるのか興味深い。鷲田氏の本は高校生のときに読んで以来、折に触れて読んできたが今回も着眼点がすばらしい。「待つ」にはネガティヴで消極的なイメージがついてまわるが、この「言葉」をめぐって、どのような思考を展開するのか私は読むのを楽しみに「待って」いる。


TOUCHING WORD 090

2009-04-01 15:27:43 | ことば
人間のあいだの区別で、必要な唯一の区別は、その人がよりよき者になろうとしているかどうかということです。
(『簡素な生活』シャルル・ヴァグネル 大塚幸男訳、講談社学術文庫2001.5、p.211)

よりよき者になりたい。ただ光りを灯す電灯の方が、わたしよりずっとよりよき物だろう。

未読日記243 「柳家小さん 壱」

2009-04-01 15:12:10 | 書物
タイトル:隔週刊 落語 昭和の名人 決定版3 五代目柳家小さん 壱
編集人:宮本晃
監修:保田武宏
寄席文字:橘左近
CDマスタリング:草柳俊一
アート・ディレクション:渡辺行雄
デザイン:片岡良子
編集:小坂眞吾(小学館)、内田清子
制作企画:速見健司
資材:高橋浩子
制作:田中敏隆、南幸代
宣伝:長谷川一、山田卓司
販売:豊栖雅文、竹中敏雄
広告:林祐一
発行:小学館
発行日:2009年2月17日
内容:
噺家初の人間国宝 五代目柳家小さん[やなぎや・こさん1915-2002] 壱

CD(71分)
時そば…九ツか四ツか、それが問題
ちりとてちん…珍味に悶絶 初CD化音源
宿屋の仇討…口は災いのもと 初CD化音源

マガジン
○心邪なる者、噺家になるべからず 小さんの素顔
○CD鑑賞ガイド 蕎麦の音に聞き惚れる
落語をもっと面白くする連載3本立て
 田中優子○時刻の数え方
 五街道雲助○蕎麦を喰う
 山本進○落語の履歴書

購入日:2009年3月12日
購入店:あおい書店 六本木店
購入理由:
毎度ばかばかしいお笑いをおひとつ…。最近では孫の柳家花録も人気だが、小さん落語で聞き比べも面白いかもしれない。五代目柳家小さんは「小さん」と書いて「こさん」と読むかわいらしい、人間国宝とは思えない低姿勢な名前を持ちながら、意外と声に貫禄があって迫力がある噺を聴かせてくれる。今号で残念なのは、「時そば」も「ちりとてちん」も食事ネタなので、その「味」の表現を顔や身体で笑わせているのに、CDだからわからないのが残念。ここはDVDを探して見てみたい。
にしても蕎麦を食べる「音」は絶品だ。音だけなのに「想像」できてしまうことに、技の凄みを感じる。あたりまえに聞こえるが、これはあたりまえのようでいて半端な技ではない。鳥肌ものである。

「そば」でふと思い出す。祖母の告別式が終わった日のことだ。夕飯を家で作って食べるほど気力がなかった我が家族は、駒沢通り沿いにある蕎麦屋へ夕食を食べに行ったのだった。夕暮れから急に冷え込んできた寒さに、蕎麦の温かさが、一文字違いで「祖母」の暖かさを思い出させ、しきりと故人の思い出話をしたものだった。あの週、本冊子を買おうと思っていたが、すっかり忘れていて、食べ終わって外に出てから、そうだ「時そば」だった…と思い出した。ちなみに、あたりまえだが会計は普通に払った。


未読日記242 「STILL / MOTION」

2009-04-01 15:01:51 | 書物
タイトル:STILL / MOTION 液晶絵画
編集:三重県立美術館国立国際美術館東京都写真美術館朝日新聞社
翻訳:クリストファー・スティヴンズ
デザイン:豊永政史
印刷:野崎印刷紙業株式会社
発行:朝日新聞社
発行日:2008年2月14日
金額:2000円
内容:
三重県立美術館(2008.2.14―4.13)、国立国際美術館(2008.4.29-6.15)、東京都写真美術館(2008.8.23-10.13)で開催された<液晶絵画 Still / Motion>展の展覧会図録。

ごあいさつ
謝辞
「Still / Motion」建畠暫(国立国際美術館館長)
凡例
ビル・ヴィオラ
イヴ・サスマン
サム・テイラー=ウッド
ジュリアン・オピー
ドミニク・レイマン
ミロスワフ・バウカ
楊福東(ヤン・フードン)
チウ・アンション
森村泰昌
やなぎみわ
鷹野隆大
小島千雪
千住博
ブライアン・イーノ

主要参考文献
「映像と時間―ミロスワフ・バウカとドミニク・レイマンの映像表現を中心に」加須屋明子(国立国際美術館主任研究員)
「時よ止まれ、お前は美しいのか?―絵と映像のA感覚」石崎勝基(三重県立美術館学芸員)
「映像と写真」藤村里美(東京都写真美術館学芸員)
「映像表現史―映像と絵画の<あいだ>」稲垣貴士(国立国際美術館客員研究員)
出品リスト
(本書目次より)

購入日:2009年3月12日
購入店:東京都写真美術館 ナディッフ×10
購入理由:
東京都写真美術館に<やなぎみわ:マイ・グランドマザーズ>展を見に行く。ミュージアムショップで、展覧会カタログを買おうと思っていたのだが、内容に迷いが出て結局<液晶絵画>展の図録を購入。
それは、ミュージアムショップに入る前にチラシ置き場で見た東京国立近代美術館で次回行なわれるヴィデオアート展<ヴィデオを待ちながら>のチラシを見つけてしまったからかもしれない。久しぶりにハードコアな現代美術展に期待を膨らませてくれたのだが、ミュージアムショップでやなぎみわ展関連書籍として置かれていた<液晶絵画>展の図録を見て、そういえばこの展覧会もヴィデオアート展だったと思いだした。ならば予習としてテキストや図版を見ておきたいと考えた。ここ数年、映像を検証する展覧会が相次いでいるが、その美術館からのひとつの回答がこの<液晶絵画>展だろう。
では、なぜこの展覧会を見ておきながら、そのとき買わなかったのか思い返してみる。それは映像展示のカタログというのは映像をDVDやCD-ROMなどでつけないということが不満だったから買わなかったと思うのだ。作品を収録できるわけないだろうという意見は重々承知だが、ダイジェストでも動画で見たい。もちろん映像インスタレーションや複数台のプロジェクションによる映像は体感することに意味があるので、映像そのものの収録は無理だろうが、そこはそれとして、やはり「映像」なのだから、動いている映像がカタログとしてもほしい。映画のパンフレットは「映画」そのものをつけてないという考えもあるし、その考え方からいけば静止画像のカタログもありだ。だが、映画はいづれDVDなどでソフト化され、見ることができる。しかし、映像作品はいつでも見ることができるわけではない。絵画や写真なら画集(ときにWebでも)で見ることができるが、映像作品はどこに行けば見られるというのか。
ちなみに、私がいままででもっともすばらしかった映像展示のカタログは2006年に名古屋市民ギャラリー矢田で行なわれた<ファン・デ・ナゴヤ美術展2006 初期ビデオアート再考>である。このカタログにはなんと出品作品であるビデオアート作品のほとんどが付属のDVDに収録されており、また研究論文、作家への詳細なインタビューも豊富ですばらしい出来だった。残念ながら展覧会を見逃した者にとっては、たいへんよいカタログだった。

TOUCHING WORD 089

2009-04-01 14:57:35 | ことば
「初々しさを忘れたらおしまいだ」と、僕は思っている。決して手放してはならないものは初々しさだと、自分にときどき念を押す。
きちんとあいさつをする。きちんと返事をする。
初めての気持ちを思い出して、ていねいに取り組む。
小さかろうと大きかろうと、目の前のことを一生懸命にやる。
新しいことに出会えば喜び、がんばりたいという気持ちを素直に表す。
そうすれば、毎日の繰り返しで埃をかぶっていた初々しさが、もう一度輝きだす。
そうすれば、しめたもの―慣れっこのはずのものがふたたび、新鮮になるはずだ。
 ごくあたりまえでささやかなことだが、これがないと本気で向き合ってくれる人など、誰もいないと信じている。
 すべての始まりは、「初々しさ」から―。

(松浦弥太郎『軽くなる生き方』サンマーク出版2008.10、P.122-123)

春である。新しい環境になる人もいるだろう。そのとき、大事なのは「初々しさ」だと思う。いつまで若くいたいんだと怒られるかもしれない。だが、年齢がいくつになろうとも、「初々しさ」があればやり続けられる。「初々しさ」がだんだんと薄れていくのが、人生かもしれないが、それは経験や知識の量ではない。いつだって何かをやり始めるとき「初々しさ」はある。


未読日記241 「凡人として生きるということ」

2009-04-01 14:52:32 | 書物
タイトル:凡人として生きるということ
著者:押井守
ブックデザイン:鈴木成一デザイン室
発行:幻冬舎/幻冬舎新書090
発行日:2008年8月10日第2刷(2008年7月30日第1刷)
内容:
世の中は95%の凡人と5%の支配層で構成されている。が、5%のために世の中はあるわけではない。平凡な人々の日々の営みが社会であり経済なのだ。しかし、その社会には支配層が流す「若さこそ価値がある」「友情は無欲なものだ」といったさまざまな〝嘘〟が〝常識〟としてまかり通っている。嘘を見抜けるかどうかで僕たちは自由な凡人にも不自由な凡人にもなる。自由で平凡な人生が最も幸福で刺激的だと知る、押井哲学の真髄。

購入日:2009年3月10日
購入店:BOOK-OFF 自由が丘駅前店
購入理由:
以前、押井守氏の新作映画「スカイ・クララ」公開時に朝のラジオ番組に押井氏が出演したことがある。そのとき、話が予想以上に常識人というか普通の考えをもった人であったことに驚きをおぼえた。これだけ個性的な映画を作っている人が「凡人」などと言うことに矛盾も感じるが、「凡人」である私は「自由で平凡な人生」を送りたいと考えていて、ここ最近の人生迷いについつい衝動買いをしてしまう。


未読日記240 「公共哲学とは何か」

2009-04-01 14:47:57 | 書物
タイトル:公共哲学とは何か
著者:山脇直司
装幀者:間村俊一
発行:筑摩書房/ちくま新書469
発行日:2004年5月10日
内容:
現在の日本をみるにつけ、政治、経済、教育などさまざまな領域で、哲学の不在が実感されます。たしかに、現代思想と称する欧米思想の紹介は頻繁になされていますが、それらは「私的に消費」されるだけで、本書がいう意味での「公共世界の創出」とほとんど結びついていません。

人びとの間に広まるシニシズムや無力感、モラルなき政治家や経済人、やたらと軍事力を行使したがる大国―こうした大小さまざまの事態に直面して、いま「公共性」の回復が切実に希求されている。だがそれは、個人を犠牲にして国家に尽くした滅私奉公の時代に逆戻りすることなく、実現可能なものだろうか?本書は、「個人を活かしつつ公共性を開花させる道筋」を根源から問う<公共哲学>の世界に読者をいざなう試みである。近年とみに注目を集める「知の実践」への入門書決定版。

購入日:2009年3月10日
購入店:BOOK-OFF 自由が丘駅前店
購入理由:
仕事場の上司より聞いた「公共哲学」の話がおもしろく、何か本はないかと調べたところ、手ごろな新書で本書があったので古本屋めぐりをして探していたところ、ついに見つけて購入した。探せばあるものだ。
日本には「公共性」がない。そのことが、芸術、文化にも広まっている。日本の(現代)美術界などシニシズムで蔓延され、作家も批評家も観客でさえなにか絶望感や暗い未来しか描けていないように思える。美術はお手軽な「アート」という言葉に置き換えられ、町おこしや企業主体のイベントに使われるだけの手段にしかすぎないのが現在の日本だ(それが悪いとは全否定はしないが‥)。そもそも現在の日本に芸術、美術に敬意をいだく人などほとんどいないし、このままでは有形無形文化財とか天然記念物になりかねない状況だ。そのような状況のもとを辿ると、「公共性」の欠如を考えざるをえないのだ。表面的、一方的な「公共性」概念を唱え、モラルなき行動、思考が蔓延している。遠回りなのだが、芸術/美術が置かれている状況を考えるために「公共哲学」を通して何かヒントになるものはないか考えてみたい。


未読日記239 「朱儒の言葉・文芸的な、余りに文芸的な」

2009-04-01 14:44:01 | 書物
タイトル:朱儒の言葉・文芸的な、余りに文芸的な
著者:芥川竜之介
発行:岩波書店/岩波文庫 緑70-11
発行日:2003年2月14日
内容:
「打ち下ろすハンマアのリズムを聞け」―芸術の永遠に滅びざることをこう表現した芥川は、死の前の4年間アフォリズムの刀を研ぎ澄まし「朱儒の言葉」を書きついだ。一方、谷崎潤一郎との二度の論争に底深く覗いた「文芸上の極北」とは何であったか。最晩年の箴言集と評論集。(解説=平出隆)

購入日:2009年3月10日
購入店:BOOK-OFF 自由が丘駅前店
購入理由:
この本が文庫化された時、平出隆氏が解説を担当していたのを知り、購入を決意したがそれきり忘れていて、過日たまたま時間があったので入った古本屋で見つけ購入。
アフォリズム、箴言集は短い言葉が刀のように鋭く脳裏に焼きつくので、好んで読んだりするのだが、この本もまた私好みだ。いま買わなくてもよかったのだが、何か短い「言葉」がほしかった。心がざわざわして落ち着かなかったので、この本をすぐに読まなくても書棚に置いてあることで安寧を得たかった。芥川はそれほど読んでいるわけではないが、この本を読んでよかったら、他の本も読んでみたい。


TOUCHING WORD 088

2009-04-01 14:39:26 | ことば
生活とは、納得の積み重ねでできている
(松浦弥太郎『軽くなる生き方』サンマーク出版2008.10、p.93)

何かを決める時、自分が納得できるかどうかで決めたいと考えている。
嫌なことでも大変な労力を要することでも、自分が納得できればいい。
納得できないことばかりだと、ストレスがたまる。