私は、南佐渡の前浜海岸沿いの県道を両津に向けて走行し、柿野浦の集落を過ぎた後豊岡集落に入り、集落の両津寄りのはずれのあたりの右手に、戦没者の碑と共に「孝子渡辺市太郎」の碑が建っているのを見つけた。この碑は、明治時代、親孝行な市太郎の事を小学生に知ってもらうために、彼らの寄付金で建立したのだそうだ。
明治30年8月7日、未曾有の大洪水が佐渡を襲った。この時、渡辺市太郎の母親は増水した川の濁流に呑まれて流されそうになった。しかし老母はかろうじて川岸にある杉の木の大木の根元にしがみつく事ができたので、大声で助けを求めた。この声を聞いた市太郎は、母親を助けるために荷縄を持ち、荒れ狂う川の中へと飛び込んだ。市太郎は濁流に逆らいながら川面に浮かんでは消え、必死に泳いで母の元へ行こうとした。その市太郎の努力を天は見放さなかった。母親は運良く向こう岸に這い上がる事ができ命だけは助かった。しかし市太郎は濁流に流されてしまい、翌日の捜索では、かろうじて母親を背負わんとして持っていた荷縄が発見されたものの、彼の遺体はついぞ発見される事はなかった。市太郎は佐渡の歴史に名を刻むような大人物ではなく市井の平凡な人民である。しかし身を挺して母親を救助しようとしたその勇猛な孝行ぶりは長く佐渡の人々の心の中に刻み込まれた。孝子市太郎の墓、小学生の子を持つ親御さんならば、一度は子供さんをこの墓へ連れて行き、その孝行ぶりを子に話してあげてはいかがだろう。