オセンタルカの太陽帝国

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丑の刻参りの呪詛に恐怖す。

2014年01月18日 14時06分43秒 | 今週の気になる人

鞍馬寺の紋はどう見ても「天狗のうちわ」なのですが、お寺の説明によると「菊の花を正面からではなく横から見たものをデザインした」と伝えられているそうです。え?
また天狗様も、鞍馬山にいるものは「姿を見せない山の精霊」「マイナスをプラスに転化させる力を持つもの」だそうです。へー。


1月11日に行った京都旅行の記録、その2。
3年前に来たときは鞍馬のすぐ近くにある貴船神社も素通りしてしまってまして、丑年生まれの私は丑の刻参りにもとても興味を持ってたので残念な思いを日々強くしていたのでした。今度こそは貴船にも行ってみよう。
わたくしの生まれ育った遠江国旧浜北市は、これ以上の田舎町もないってくらいのどうしようもない田舎町ですが、むかしは町の中央にそれなりの繁華街があってその町を「貴布禰(きぶね)」と呼んでおりました。その町も再開発によって跡形も無くなっていますが、現在の遠州鉄道「浜北駅」も昔の呼称は「貴布禰駅」だったんですよ。小学生になったとき歴史に興味に持ったばかりのわたくしはいろいろな地名由来を調べ始め、「貴布禰」は水神信仰の地名だと知った。私の家は天龍川の河原にありましたから、「諏訪信仰」「龍神信仰」とは別に天龍川の祟りのみなもとに「貴船信仰」というものもあることに感嘆を持った。水神にもいろいろ種類があるのだと。
その貴船信仰のおおもとは京都にある鞍馬の山なのです。



鞍馬山の門前から坂を下り、貴船口からまた坂へ入る。うを、鞍馬本町と貴船はすぐそこだと思っていたのに、貴船口から貴船の門前まではかなりの距離がある。歩いている人もけっこういます。遠くて寂しい道なのに。駐車場を捜すんですがほとんど無い、おまけにところどころ見かける看板には「駐車場代1000円」と書いてある。高いよ。(鞍馬の駐車場代は500円だった)
貴船の門前にも駐車場があったのですが、やはり1000円でおまけに何かの工事中で駐車不可。
やたらと道が狭いし「この先駐車場があるのか? 無かったとしてもUターンできるのか?」と思ったところに料理屋さんがあり、そこで客引きをしている上品な人がいて(あとで調べたら女将さんだった)、「もしおなかが空いていたらここで湯豆腐を食べて、車はいくらでも停めててもいいからゆっくりお参りしてらっしゃいよ」「ひとりでも全然いいですよ」と言われて、「うん、そういえば小腹が空いてるな」と思ってランチの料金を尋ねたら、3500円。湯豆腐が3500円! でも考えてみたら「京都で湯豆腐」ってなかなかおもしろそうじゃないですか。3500円って高くないなと思い直し(なんでだ)「ごちそうになります」と言って駐車場に停めてもらいました。
お店は「貴船茶屋」というお店です。本来は川床料理のお店(=夏のみ)だそうです。



お店の中はかなりレトロな造りの座敷。ええじゃないか。



すでに席がしつらえてあって(1人だったのに!)、火を付けられる。





おおおお、本当に湯豆腐だけで3500円なのか!?
さすが京都、やるなっ、と思っていたらかっこいい料理人の男が京野菜の天麩羅と炊き合わせを持ってきてくださいました。なぁんだ(と、がっかりしてしまう自分がいたりして)





炊き合わせなんですが、「どうせ京風の味付けなんだろー?」と、濃い味好きな東蝦夷な私が挑戦的な気持ちになってしまうのは仕方の無いところでございます。が、蔭に隠れてタラコを炊いたのもあったりして、とても芸が細かい。やっぱりおっさんは京都の力に感服です。例えば天麩羅にも一番奥に何かの真丈のもちもちした何かがいたりもして。



肝心の豆腐です。
天麩羅を食べているうちにぐつぐつ煮立ってきますので、食べる。おお、普通の豆腐だ。
私は常から豆腐が大好きなのですが、その実、良い豆腐を食べ分ける舌など持ち合わせていなかったのでした。
とはいえ3500円の豆腐ですから、きっと凄い豆腐を使っていない訳が無い、と思いながら楽しく食べました。
豆腐ダレが濃い・・・ これは京風じゃないのね(大歓迎だ)



それから、ジャコご飯と香の物と果物で終了。満足しました。
そしてあとあとに図らずもここで豆腐を食べたことを感謝することになりました。とても程良い満ち足りた腹持ちがとても長時間持続した。最近の私はとても粗食になっているので、いきなり脂っぽいものを食べたら大変なことになっていたかもしれない。寺社巡りをするにあたってこのささやかで精進的な膨満感はなかなかありがたい。

「なんで京都で湯豆腐?」と思うんですが、調べてもなかなか分かりません。
精進料理の中心と考えられたから京都とのつながりを感じられますが、別にお寺は京都だけにしか無いわけではないし・・・。ここのサイトを見ると「室町時代には豆腐といえば奈良」だったそうです。現在は、京で湯豆腐といえば「南禅寺界隈」となっているそうですが(なんでだろう)京都全体で湯豆腐が料理屋メニューとなっています。なんでだろう? 「祇園豆腐」というものもありますが、京都には豆腐メーカーが多いのかしら? 
「豆腐を誰が発明したか?」(伝説では淮南王劉安だそうです。何か逸話があるのか?)とか「日本に製法を持ち帰ったのは誰か?」とか(伝説では弘法大師。・・・高野豆腐が先なのか?)なんて考えたことも無かったのですが、またいずれ金持ちになったら、京都に他の豆腐を食べに訪れたいですね。




それから貴船神社(きねじんじゃ)に参拝。
18代反正天皇の時代に玉依姫命(神武天皇の母)が大阪港から「黄色い船」に乗ってここにやってきたから「黄船」→「貴船」。という説明が貴船神社のサイトに書いてあったんですが、その玉依姫命は別に当社の祭神では無いそうです。神武天皇の母ってそんな長寿伝説がありましたっけ? ウィキペディアを見ると「玉依姫」の項にはややこしいことが書いてありまして、玉依姫は何人もいたそうですから、「タケノツヌミ神の娘」の玉依姫がそれっぽいかも知れない。建角身にしても11代垂仁天皇の頃の人で、この頃の天皇はみんなとんでもない長寿ですから建角身の娘だったとしても玉依姫も人並み外れた長生きだったということになりますが、貴船神社は賀茂別雷神社の摂社だったそうで、賀茂別雷命の母は伝説では建角身の娘の方の玉依姫だとされているから。とにかく記紀では反正天皇は5年しか在位していなかったことになっていて、そこにピンポイントに玉依姫の創建伝説があるところが面白い。反正天皇は身長が9尺2寸半もあったそうです。



貴船神社は「絵馬の発祥の地」だそうで江間好きな私は「何か書いてみても良いな」とチラと思ったのですが、「今は別に願いたいことも無いし」と思い直し(←えっ!?)、でもここが実質わたしの今年の初詣だったため、おみくじだけ引いておくことにしました。(さっき行ったばかりの鞍馬寺の鞍馬弘教という教義はヘンテコ教義だと思うため、ノーカウントとする)
この神社の「水みくじ」は有名でしたね。
本殿の目の前にある水場に紙を浮かべると文字が浮かび出てくるというのですが、テレビで見て想像していたより占う水場は小さかった。



でーーいっ、小吉!  (凶でなかっただけ良しとしよう)

 ・「商売」・・・利益は思わしくない (ショック!)
 ・「旅行」・・・行っても心配だらけ
 ・「恋愛」・・・他人の妨害がある。末永く我慢すればそのうちにね。 (誰だっ)
 ・「病気」・・・重くなるが治るよ。
 ・「無くしたもの」・・・出てこない。
 ・「転居」・・・急ぐな。

うーーーーん、、、、。ちょっと厳しい一年になりそうだ・・・

で、「この狭い境内のどこで丑の刻参りをするんだ?」「どこかに山の奥にでも入る道でもあるんかな」と思ったのですが、私はこの先に「奥の宮」というのがあることを知りませんでした。(※貴船の奥宮は本宮から約700m)。丑の刻参りをしたい人(?)はそっちに行くようです。
これも知らなかったのですが、本宮にいる神は「高龗(たかおかみ)神」で、奥の宮にいるのが「暗龗(くらおかみ)神」ですって。神社によればどっちも別の名前の同じ神だそうなのですが、天龍川にいることになっているのは「闇龗神」なんですよ。
貴船神社は、本を読めば読むほどおもしろいので、また行ってみたいです。
とにかく鞍馬が「天狗の山」なのに、そこから少しだけ行った所にある貴船が「鬼の谷」となっており、空気の匂いさえもが全然違うところが興味深い。
「丑の刻参り」の語句が初めて出てくる作品は室町時代の謡曲『鉄輪』だそうですよ。(※丑の刻参りの風習自体はもっと古くからあったとされるが)謡曲の世界も面白いですね。いろんなところで参考文献になる。本を数冊買ってありましたので、そのうち詳しく読んでみましょう。




せっかく叡山電鉄沿線にいるのだから、そこから比叡山延暦寺に行ってみることにします。
折角だからケーブルカー・ロープウェイを使って登山しても面白いな、と一瞬思ったりもしたのですが、調べてみたらなんかややこしいし、横川まで行くのだったら移動手段が結局必要だし、車で向かうことにしました。でもいづれまたケーブルカーでも登ってみたいですね。



比叡山て、こんなに大都市に挟まれた山なのに、なかなかの高さですよね。(標高848m)
秋葉山(866m)と同じくらい。
比叡山は有名な魔所です。天台宗の大道場でもあるのですが、今回の私の目的はもちろん天狗探求。
確かとても若かった頃来た事がある。デジカメもまだ持っていなかったくらいの頃で、写るんですでいっぱい暗がりの写真を撮ったんですが、それももう手元に残っていない。でもなんかとても良い思い出があります。

比叡山は、天狗伝説もまたとても豊富です。(20年前に来たときの私は知りませんでしたがね)
日本最古の「天狗の聖地」といっても良いです。
まず、『今昔物語集』(第20巻)に載っている12話の天狗説話のうち、少しでも比叡山に関わりのあるものが7話。

 1.天竺の天狗が海水の音を聞いて我が国にやってきた話
 2.震旦の天狗の智羅永寿が我が国にやってきた話
 3.天狗が仏に変身して都の中で木の上に座っていた話
    『今昔物語』ではこの仏の正体を天狗だと見破ったのは深草帝の皇子ですが、
    ほぼ同様の話を伝える『宇治拾遺物語』ではその役を叡山の僧がします。

 4.天狗を祭る僧が内裏で奇跡を起こしたが馬脚を現して追われた話
 7.美人で誇り高い染殿が天狗に惑わされ狂乱した話
    『今昔物語』ではこの話に決着はつきませんが、
    後の世に成立した『是害房絵巻』では比良山聞是坊が是害坊に言う。
    「染殿をたぶらかした鬼はその後、智証大師円珍に挑んで琵琶湖に沈められた。
     おまえもわざわざ中華の国から来たんなら死ぬつもりでがんばらんかッ」
 
 8(欠話).良源僧正、霊となり観音院に来たり、余慶僧正をこらしめた話
 11.万能池の竜王が天狗に誘拐された話

ただし今昔物語では比叡山は「天狗の山」とされているのではなく、天狗を退治する役として比叡山の僧が関わっていることが多いです。叡山の僧は天狗には滅法強い。(※それは、『今昔物語集』を編纂したのが叡山の僧だとされているから)。例外的に、巻19に「比叡山の天狗、僧を助けて恩を報いた話」というタイトルがあってどんな物語か興味が沸くのですが、残ってるのはタイトルだけで本文は失われているそうです。残念だ。良い話だったらいいのに。同様に欠話の巻20の第8話も、慈恵大師良源(角大師)の役は天狗的な役なのか、天狗を懲らしめる役なのか・・・ (天台座主第20代・余慶僧正も第2話において大唐天狗・智羅永寿を散々に蹴り嘲った人です)

室町時代後期~江戸時代中期にかけて成立したと思われる『天狗経』には、そのころ著名であった48人の天狗の名前が列挙されていて中世の天狗世界の把握の集大成となっています。残念ながら天狗は日陰者なので、その48人のうち半分はやがてデータの詳細が失われ、どういった背景を持つ超自然の顕現なのか今のわたしたちには分からないものになっおりますが、それでも天狗経の中の48狗を、現在でも「日本の48大天狗」と呼んでおります。
その48人のうち、比叡山に棲むとされているのは2人。

 ・比叡山法性坊(ひえいざんほっしょうぼう)・・・48大天狗の4人目
 ・横川の覺海坊(よかわのかっかいぼう)・・・48大天狗の5人目


まず、『今昔物語』の方は、比叡山が舞台になっているのは1つだけ(智羅永寿の話)だけ。
智羅永寿(ちらようじゅ)というのは中国からやってきた大天狗の名前で、後の世になって、謡曲『善界』(観世)『是界』(宝生・金春・喜多)『是我意』(金剛)とか『是害房絵巻』では「是害房」などと、「ちらよ」が「せかい/ぜがい」という名前に代わってしまうのですが、とにかく彼ははるばる日本にやってきて、別の山の日本の天狗と共に(『是害房絵巻』では愛宕の日羅坊、『善界』では愛宕の太郎坊天狗)、一緒に比叡山に降り立ちます。
その遺跡はどこなのかと探そうと思いました。
その場所は、今昔物語の描写によると、
「比叡の山の大嶽の石卒塔婆のもとに飛び登りて、震旦の天狗も此の天狗も道邊に並み居ぬ。(中略)とばかりあれば、山の上の方より、餘慶律師といふ人、腰輿に乗りて京へ下る。この人は只今たふときおぼえありて、いかで陵ぜむと思ふに、極めてうれし。やうやく卒塔婆のもと過ぐるほどに、事すらむかしかとし思ひてこの老法師の方を見れば、老法師もなし。また律師もいと平らかに弟子どもあまた引き具して下りぬ。怪しく、いかに見えぬにかあらむと思ひて、震旦の天狗を尋ぬれば、南の谷に尻を逆様にて隠れ居り。此の天狗寄りて、「何とここには隠れたまへるぞ」と問へば、答ふるやう、「この過ぎつる僧は誰ぞ」と問へば、此の天狗、「これは只今のやむごとなき験者餘慶律師といふ人なり。山の千手院より内の御修法行ひに下るるなり。(後略)」

この場所はどこか?
ヒントは「大嶽の石卒塔婆のある道ばた」、「山の上から余慶律師が」、「山の千手院より」、「余慶僧正は観音院僧正とも呼ばれた」。
これだけをメモして比叡山に行ったんですが。

・・・わかりませんでした。
だって「行けば分かるだろう」と思って行ったのですけど、「観音院」すらどこにあるのか分かんないんだもん。
「観音院」と「山の千手院」は同じものだと思うのです。でも現在の比叡山にはその建物は無い。(信長に焼かれたか?)
でも、家に帰ってから調べ直したんですけど、もしかしてこれ
くそー、もうちょっと調べておけば。

とすると、「大嶽」というのが「大比叡の山頂」だとして、「山王院の方角から都の方へ向かって下りていく山肌」で「石卒塔婆」を捜せばよかったのか。
地図で言うとこのへん?(また(雪の無い時期に)行きましょう)
(※『是害房絵巻』では余慶は「千光院ノ律師」となっているそうです。千光院なら西塔にあった建物です。(今は無い))




続きまして、「比叡山法性坊」。
これはわかりやすい。モデルになった人物として、「法性坊尊意」(第13世天台座主)という高僧がいるからです。
「法性坊尊意」と言っても知名度は無いのかもしれませんけど、それはそれは凄いお坊様。
11歳のとき高雄の山に入り、21歳で智証大師円珍から戒を受け、加持祈祷の術に秀で、元三大師・良源は弟子。
宮中で、菅原道真の祟りを調伏し、平将門の乱も調伏するなどエピソードも多い人です。
菅原道真とは親しい友人だったんですって。(21歳の年齢差があったそうですけど。菅公が年長)
謡曲の『雷電』では死んで荒ぶった道真の霊を、法性坊が鎮める。
生前からかなりの徳のある僧として高名だったそうです。
そういう人が「死後、天狗になった」ということがインパクト強いんでして。

その天狗化については、知切光歳師の『圖聚天狗列伝』が詳細です。
「将門を調伏した天慶3年2月下旬の22日、法性坊は頭をきれいに剃ってもらい、念入りに沐浴の後、かねて念願の往生の日が近づいたことを弟子たちに告げた。結縁のために柱を立てて集まる人に知らせ、24日早朝、新しい法衣に着替えた。口中と手足を浄め、自分の坊舎、東塔東谷の南光坊から中堂まで輿をひかせ、いつもの勤行に仕立て、なんらの病もなしに示寂したのであった。享年81。(あるいは75とも)。少しも屍臭がしないので、弔問の僧俗どもが奇異に思った。送葬の日、ひとつの奇瑞があった。数百羽も打ち群れて南光坊の空を飛び交い、哀しい声で鳴きたてていた山の鴉が、葬りが終わると、いずこともなく飛び去ったのである。人々は法性坊の死を悼んで鴉が鳴くのだと見たかも知れないが、現世の業を終えていよいよ天狗界の王者を迎える鴉天狗どもの御迎えの声だったのかもしれない。おそらく棺の中は死出の衣装だけを残して、遺体は遠く横川の空へ飛び去った。羅山の『神社考』にはそのときの光景を、「尊意ハ群鳥ト同ジク、横川ノ杉ニ翔リ」と叙している」
「法性坊は叡山天狗の首領とされているけれども、根が座主上がりの高僧だけに、動乱を好まず、もっぱら愛山護法の天狗、呪術に通暁し法験あらたかな天狗として、自分の立場を固守して愛宕や鞍馬の天狗の下風に就くこともなかった」



要は、法性坊の天狗遺跡の場所は、根本中堂なんですね。これは叡山の中心となる建物。とてもわかりやすい。
根本中堂はそれはそれは見事な建物でしたけど、内部は禁撮影でした。
そして思いっきり寒くって、床が冷たくて、足がしびれてきた。(宝物殿も足が凍えた)
私は非常に寒さに強い人間のつもりなんですけど、それにしても我慢できないほど。
お坊さんて尊敬するなあ、と思いました。

で、天狗経48天狗のうちの39番目、上野の国・妙義坊もその正体は法性坊尊意なんだそうです。
48人しかいない大人物のうちの2人が同一人物だなんてアリか?
その謎もそのうち解かなけりゃ。



で、比叡山東塔に来たのなら、あわせて見ておかねばならないのはこれ。
なんと根本中堂に下る坂の上の所にありました。
なんでこの場所なのか。
“大塔の宮”尊雲法親王も116・118世の天台座主になった人ですが、この人はこの場所に棲んでいたんでしょうか?

『太平記』より
「この大塔の二品親王は、時の貫主(=座主)にておわせしかども、今は行学ともに捨てはてさせたまいて、朝暮ただ武勇の嗜なみのほかは他に事なし。お好みあるゆえにやよりけん、早業は江都が軽捷にも超えたれば、七尺の屏風もまた必ずしも高しともせず。打ち物は子房(=張良)が兵法を得たまへば、一巻の秘書尽されずと云う事なし。天台座主始まって、義真和尚より以来一百余代、いまだかかる不思議の門主(=座主)はおわさず。」
すでにこの時点で天狗的(遮那王的)なのですが、
この碑の脇に置いてある看板を読むと、
「当時、根本中堂を御座所としてのちに大講堂へ入る。弟の尊澄法親王(=宗良親王)と一緒に常住した」
と書いてある。
おお、根本中堂で寝起きしていたのか。(・・・できるのか?)
寝る場所は他にあったのかな。

大講堂も大塔宮の天狗遺跡として私的に認定。





大塔宮のモニュメント?

そこから横川に向かいます。
「西塔」も行きたかったけど、さっき貴船で引いたおみくじで「西は凶」と言われてしまったし。
西塔には伝教大師の遺跡が多く、平田篤胤などは『古今妖魅考』の中で「比叡山次郎坊(=比良山次郎坊)の正体は伝教大師最澄である」と断言しているのだそうですけど、知切師は「そんなバカな」と首をかしげておられます。

横川は20年前に来たときも歩いたことがあります。
20年前も、そろそろ日が落ちるころに来て徐々に木々の間が暗くなり、とても幽玄な気持ちになりました。
今日も図らずも似たような時刻になってきてしまっており、冥くなる、だんだん冥くなる・・・
道路がかなり凍っており、一度道に撒かれた融雪剤でタイヤがツルッと滑ってしまったので急に恐くなり、ゆっくりとソロソロと運転して横川の駐車場に到着したちょうどそのとき、関係者らしい車が出て行った ・・・しまった、閉門の時間です。(16時)
でも閉門といっても係員がいなくなって横川中堂に入れなくなるだけで、普通に建物の間を歩くことはできます。
(慈覚大師作だという(伝)「日本一優しい顔の聖観音」というのを見たかったけれど)



しばらく歩いてみて気付いたんですが、わたし、ここに来た事ないや。
そうか、20年前に来たと思ったのは、横川じゃなくて実は西塔だったんだな。
適度な年月は、勝手に自分の記憶を捏造してしまうから困ってしまいます。
そうか、私は横川を歩くのは初めてでしたか。



中堂の坂を登っていたとき、顔のすぐ横で何か獣の気配がして「ヴォヴォッ」という声も聞こえました。
吃驚して「猿!?」と思ってじっと雪を見つめたんですが、何もいない。何!?
そういえば秋葉山を登っていたときも、見えない犬の気配を感じたことがあったのですよね。
何なのだろう。(今回の猿と前回の犬の気配は全然違う物でしたけど)


さてさて、「横川の覚海坊」についてです。
とても分かりやすい「比叡山法性坊」に対し、こちらの天狗はナゾに包まれています。
『圖聚天狗列伝』によりますと、「覚海」という名前で自ら望んで天狗に成ったという伝説を持つ高僧が13世紀に高野山に実在してまして、なんとなく伝統的に「高野山にいた南証坊覚海法印という人が48大天狗の横川覚海坊の正体だ」ということにされているのですが、「本当にそうか?」と知切師も頸を捻っています。
それは、高野山の高僧が死後、比叡山の天狗になるのはどう考えてもおかしいから。(そりゃおかしいですよね)
知切師によると、「天狗になった覚海は今でも高野山で姿が見られることがあるという」とのことで、(高野山ではこの覚海天狗を「大魔王」として祭っているともいいます)、またこの「南証坊覚海」とは別人で同じく高野山で天狗になったとされる「美髯公と呼ばれた覚海」という人もいた、と書いています。(知切師によると「現在高野山で目撃される覚海坊とはこの美髯公の方では無いか」とのこと。「美髯公」というあだ名を持つ日本人の方が天狗よりも珍しい気もしますけど)。どちらにせよ、高野山には覚海坊にまつわる天狗伝説はいっぱいあるのに、比叡山に伝わる覚海坊は名前のみで逸話が一切無いのです。
「覚海」と言う名前はよくあった名前だと思う。
伊豆に伝わる北條高時の母の名も「覚海円成尼」ですし。
でも、
「横川覚海坊と高野の覚海は同名別狗ではないのか」
「いずれにしても、確証が無いかぎり、横川覚海坊は南証坊覚海としておきたい」
「横川覚海坊は横川中堂の護法などではなく、逆に北の方から都を目指して嫌がらせをしようとなだれ込んでくる天狗の一団を支援している首領のひとり、と見たらどうであろうか。それなら高野山出身者が覚海坊であってもおかしくない」
うん、知切大先生がそう言うんなら、私もそうだと思います。

どちらにせよ、横川の近辺は天狗的な雰囲気が充満しております。いいところだ。



また近いうちにもっと丁寧にこの山の中を歩いてみたいです。もっと早い時間に来て、一日中歩き廻りたい。



だんだん闇くなってきてきており、「この山の中にはもう私しかいないんだな」と思って歩いていたら、奥にある四季講堂(元三大師堂)から数人が激しく読経をしている声が聞こえてきました。
おお。
元三大師(慈恵大師・良源)こそ天狗的な人だと思うんですけど、この人って天狗になった逸話って無いんでしたっけ?
(もっと変なものになってしまったから、天狗は無いのか)

 


そういえば今になって思い出したんですが、延暦寺の「一つ目小僧の伝説」にも私は強い興味を持っていたんでした。
探すの忘れてました。
この、一つ目小僧になったという「慈忍和尚」というのも、今昔物語において大唐天狗の智羅永寿をピシパシ苛めていた「飯室権僧正・尋禅」(第19世座主)なんですよ。
・・・小僧じゃないじゃん、小僧どころか大和尚(かしょう)じゃん。(正確には「一眼一足」と呼ぶそうですよ)
比叡山は化け物ばかりだな。

  (妖怪伝承データベースより)
  信濃国・北安曇郡の小谷では、天狗を一眼一脚の怪物、もしくは山犬という。
  松本平ではチンバともいうらしい。

(★次回への課題)(※参考サイト
比叡山にも「魔王堂」があって、天狗が祀られているそうだ。(鞍馬と同じく魔王の正体は毘沙門天だそうですけど)
ここにも慈忍和尚が関わっているそうです。



横川から琵琶湖の方に坂を下ります。
出てきた場所は堅田の町。
「そういえば3年前に堅田で天下一品を食べたな」と思って行ってみましたら、見当たらない。
「あら、なくなってしまったか」と思って車を走らせたら、別の場所にありました。



写真がブレてしまいましたが、花飾りがたくさんある。
移転したばかりなのですね。以前の店舗は屋台色を大きく出した独特な外観だったのに、残念。
でも内装と壁の効能書きは見覚えのある物でした。
(※検索したらリニューアルオープンしたのは去年の7月だそうです。なんだこの花)



味付け煮卵チャーシューメン(こってり)¥920 を注文。
高いな。(でもノーマルのこってりラーメンは¥680 なんですよ。)
前回はこのお店で「豚トロチャーシュー」を頼んでしまった記憶があるので、今回は通常タイプのチャーシューに。
こっちの方が好きなんだ。



写真じゃもうわからないぐらいにヌトヌト。これだこれだ。
以前の旅ではその後、はからずも天下一品行脚の旅になってしまったんですが、今回はこの一杯でもういいや。
(前回の旅でひどく感激した「あわせ味」(←浜松店には無い)はもう一度食べてみたい思いもしますが)


それから適当にお風呂を探し、(琵琶湖畔には温泉が豊富)、大津に戻って
4年前、三井寺に行ったときに利用したネットカフェで夜を明かしました。
なにか化け物的な作品を読みたくなって、『夏目友人帳』を読みながら寝たのですが、
なんだ、あれ、あのばあさまがどうなったか非常に気になるじゃ無いか。
ねえねえ、婆ちゃんは幸せになったの? どうなの?
・・・明日もつづきを読もう、、、

(つづく)
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1 コメント

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お恥ずかしい。 (麁鹿火)
2014-02-13 01:57:58
いま読み返したら、わたくし「建角身神」と「野見宿禰」を混同しておりました。建角身(八咫烏)は神武天皇の時代の人で、野見宿禰が垂仁天皇の頃の人です。どちらも安彦良和の『古事記』という大作シリーズの主人公で、単純な勘違いです。
この日記を書くにあたって漫画を読み返しました。お恥ずかしい・・・

でもよく考えるとこの漫画は、葛城の神地の領有権の推移、言い換えると賀茂役公=役ノ行者(…天智・天武朝の葛城の領主)と古来からの葛城の地神=一言主(…賀茂建角身神の物語上の弟。史実(笑)では綏靖天皇の正妻の父)の関係を分かりやすく説明してくださっている作品であったのね。建角身と役ノ行者はどっちも名字(?)が「賀茂」だからややこしいんですよ。
※三輪山出身の出雲人・野見宿禰は相撲に勝利して當麻(たぎま=現葛城市)の蹴速を倒し、葛城郷を領することになる。200年後の役ノ行者の采地の中心は當麻です。だから役ノ行者は野見宿禰の子孫で、だから同じ「賀茂」という名を戴きながら彼と一言主は対立する立場だったのでしょう。
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