オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

てっぺんのイヌ。

2014年01月13日 22時41分14秒 | 今週の気になる人


あいも変わらずわたくしは天狗様に夢中です。
6年前にも同じ事言ってましたよね。
6年にも渡って同じ事を求めて本を読み続けられる対象があるのは幸せなことだ。

いずれ、何十年後かにどこかで調べた成果を発表したい。
が、いろいろ調べたことを纏める場として、

 ★日本の大天狗(google版)
 ★天狗の地図Ⅱ(bing版)
 ★遠州地方の天狗(bing版)
 ★遠州地方の天狗(google版)

あたりを想定してたんです。
最初利用していたのはmsnによるbing版で、初めその便利さに目を見張ったものでしたが、アップグレードされるたびに何故か徐々に不便に、見た目も悪くなっていき、あるとき「こりゃダメだ」と思ってgoogleに移った。google版はさすがgoogle様で、bing版と違う操作部分があるにせよそれなりに便利だったのですが、これもメジャー/マイナーチェンジが頻繁で、つい先だっておこなわれた「新しいgoogleマップ」へのアップグレードで、不覚にも使い方が全く分からなくなってしまいました。なんだこりゃ。一生懸命やった書き込みが全部無効化されちゃったじゃん。「以前のマップ版」に戻る手段も不明です。困った困った。
いまのgoogle版は本当に噴飯物で(以前出来たことができなくなったということは、こんなに人をいらだたせるものか)、ただ今は試行錯誤の構築期なのかもしれない。今の状態ならばあんなに不便なbing版の方がまだマシなほどで、再移行も考えなくてはなりません。ただgoogleはまた変わってくださる可能性も大きいので、注視が必要なのです。文字数が無制限で大きな写真を使えれば良いのに。
私は「一度作ったら10年後にもそのまま使えるデータ」が欲しいだけなんだよ~~。そもそも私のような使い方が推奨されていないのか。




・・・と嘆きながら、鞍馬山に再び行ってきました。
鞍馬天狗は日本の天狗群の中の代表格。実はわたくし、3年ぐらい前に一度鞍馬山に行ったことがあります。愛読していた『日本怪奇幻想紀行』(同朋社・2000年)という本に「鞍馬山は日本一の天狗密度」という記述があって、「天狗密度ってなんやねん」と思ってかなりワクワクして行ったのですが、山内にはほとんど天狗の説明や遺構など見当たらず、とてもがっかりした記憶がある。ところが家に帰ってきていろいろ調べてみますと、全然違うじゃないですか。「これはまた行かねば」という思いを強くしていたのでした。

前回行ったときは、まず高雄山の神護寺に登って文覚上人の墓まで歩き、そのあと愛宕山にも登って、それから鞍馬山に行ったので坂道つづきでもう疲れ果ててしまっていて、それ以上歩きまわる気力も無かったので、体力を温存する為にケーブルカーで上まで行って、そこから奥の院の「魔王殿」までがんばって(約800m)歩いたのでした。ところがその行程中にはほとんど天狗成分が無く、意外に感じたのでした。天狗の山じゃなかったのかよ。例えば可睡斎や道了尊のように天狗の像が建ってたりはしない。御真殿があったりもしない。天狗的に出来たことといえば僧正ヶ谷の高い杉の木の間で無理矢理天狗の気配を呼吸するぐらいのことでしたかな。山内には天狗の由来を書いた看板などもほとんど無く、唯一あったのは「謡曲『鞍馬天狗』の案内板」ぐらい。こりゃあ天狗探求にはなかなか上級者向けの山だ、と閉口するしかなかったのでした。
最深部にある「奥の院・魔王殿」というのが鞍馬で一番のパワースポットとされています。ちまたではここにいる大魔王が日本全国の大天狗の総帥だとされており、そこを目指して歩いていく人が多いのですが、到着してみると、そこには天狗を捜して歩いている呑気な私のような人間が場違いであると感じるほど、熱心で真剣な参拝者が多いのにのけぞった。皆さんここにいるのが天狗だから魔王殿まではるばる見に来ていたのではなく、魔王が魔王だから真摯にお参りに来ている人ばかりだった。来る前は大魔王を神体としてるなんてふざけた寺だと思っていたのに、そんな戯れ言を許すような空気は現地には無かった。
とはいえ、行ってみて明らかになった問題点というのもいくつかあります。

  (1).鞍馬山は何をもって天狗の山なのか。
  (2).鞍馬の天狗(護法魔王尊・鞍馬の大僧正・鬼一法眼)の正体は何か

これは、最初歩いただけでは分からなかったことでした。
今回は、それを再び感じてみる旅であったのでした。

朝の4時に浜松を出発し、延々と国道一号線を走り続けて11時に鞍馬山に到着しました。
いつも豊田付近から伊勢湾岸道を通っていってしまうので、「今回は真面目に一号線を走ろう」と思ったら、思いっきり時間がかかった。
実は旅に行くときは地図を見る習慣のないわたくし(旅に行かないときに良く地図を見るから)は、誤って「一号線は関ヶ原を通って米原に出る」と思い込んでいたのですが(それは東名高速道路だ)、実際はただ名古屋の町中を通って伊勢湾岸道と同じ四日市に繋がっていました。ただ遠回りしただけでした。
でも京都に入ってから適当に道を走っていたら、一発で鞍馬の山に到着したよ。ふふふ、私は方向感覚には自信があるのだ。一度行った所ですしね。(※鞍馬の山はすごく分かりづらい山の奥にあります)

まず第一に、前回の旅の失敗点。
鞍馬の山は山内ではなく、「鞍馬駅」が一番の天狗スポットだったのですよ。
私は常に車で移動するから、駅なんて完全に盲点であった。こんな山の奥に鉄道が走っていることからして田舎者の私にとっては不思議なことだったのですが、山門から歩いて3分の所に叡山電鉄の鞍馬駅がありました。



おお、あれはよく見る鞍馬の天狗面!
こんなところにあったのか。



駅舎の隣には天狗(が脇に描かれている)顔出しが。



こんな案内板も。これは山中にあった方が良い気が。



駅舎に入ると、中に「~最後の浮世絵師が描く源平の世界~『月岡芳年と義経』展」というものが展示されていました。素晴らしい。
月岡芳年は幕末から明治中頃にかけて活躍した人です。武将の場面絵が多く、中に天狗も共に描かれているものも数多くあって、目の離せない人です。最近、なんかこの手の浮世絵本が頻繁に出されてますよね。わたしも妖怪・怪談絵を中心に何冊か買いました。が、月岡芳年は作品の数が膨大すぎてわたくしもいまだ全体像がつかみきれておりません。
鞍馬駅のこれは「義経展」ですから、一ノ谷の戦いや屋島の戦いなどの場面がメインなのですが、中に天狗の描かれた物も2点だけありました。



「武勇雪月花」のシリーズより、「五條乃月」。
芳年の初期(第Ⅱ期)にあたる慶応3年の作品だそうです。五條の橋の上での弁慶と牛若丸の対決を描いた物。義経物語の中でも最も絵になりやすい盛り上がりの部分ですが、天狗伝説の世界ではこのとき橋の上から鞍馬の大僧正が見下ろしていて、配下の八天狗が牛若丸を見えないように助け、いつもの三倍も高く牛若は舞い上がり、天狗の力で弁慶は打ち負かされた。ということになっています。
武勇雪月花という連作は「雪」「月」「花」をテーマに3つの作品から成り、「雪」をテーマにした「吉野の雪」は義経の忠臣・佐藤忠信と横川覚範の対決を描いたもの。「花」がテーマの「生田の森 ゑびらの梅」は生田の森の戦いで、鎧(箙)に梅の花を差して優雅に(?)戦った梶原源太景季を描いた物。つまり「五条乃月」では「月」の象徴が天狗だった、ということになりますね。ん?
この絵はとても有名なので、何度も見たことがある気になっていましたが、家に帰って手持ちの本を確認してみたら、一枚も載っていませんでした。あれ?(芳年は作品数が多すぎるんですよ)

その拡大図です。



分かりづらいんですが、僧正坊の右側にいるふたりのうち、赤い服の男が愛宕山栄術太郎(太郎坊)、その右の白い衣の男が比良山次郎坊です。どちらも顔立ちがおもしろいでしょ?
さらに面白いのがこちらです。



西塔武蔵坊辯慶の薙刀にぶらさがっているのが飯縄の三郎。その右側にいる鳥頭のやつが白峯相模坊。おわかりになりますでしょうか。飯縄三郎は仰向けになっているのでちょっと顔が分かりづらいのですが、顔が普通の人顔に見えるんですよ。すごいでしょ?
って何がおかしいのかわかんないって? 実は、「飯縄系天狗」っていうのは天狗群の中で一党を為していまして、この系統はみんな「顔がカラス」というのは常識なんです。(・・・なんですったら!)。飯縄系天狗には秋葉山三尺坊とか小笠山三尽坊とか小田原道了尊とか高尾の天狗とかがいます。月岡芳年がそれを知らないのはおかしい。
これに対して、白峯相模坊の方は(この人は金色の大鳶になった崇徳帝の眷属ですから)鳥顔なのは妥当だ。



さらにもうちょっと見てみましょう。この書き方だと、どっちが前鬼でどっちが彦山豊前坊か悩みますが、前鬼は前世が鬼なんだから顔が鳥なのはおかしい。きっと鳥顔が豊前坊で人顔が前鬼坊だ。大山伯耆坊も顔が隠れててわかりづらいのですが、鳥顔。この人は相模の大山から相模坊が飛び去っていなくなったあとに伯耆からやってきて大山に住みついた人ですから、別に相模坊と同じ顔だとしてもおかしくない。
とすると、この絵でおかしいのは飯縄三郎だけなのだ!!! 三郎が鳥の顔でないのはどう見てもおかしい!!!

・・・いえ待ってください。実はこの絵はおかしくないのです。
実はね。
芳年の師の歌川国芳にも、同種の絵があります。
この時代はこういう絵が一種の流行でしたから、みんなが似たような絵を描きまくっていた。



歌川国芳・画『平家の驕奢悪逆を憎み、鞍馬山の僧正坊を始め諸山の八天狗、御曹子牛若丸の影身に添ひ源家再興を企るに、随従の英雄を伏さしむる図』(弘化5年←芳年の絵の19年前に描かれた絵)
ちょっとわかりづらいのでまた拡大しますね。



おわかりになりますでしょうか?
偉大なる先生の国芳の描く絵では飯縄三郎が鳥顔なのは良いとして(正しいから)、こっちの方は愛宕山栄術太郎の方も鳥顔にされてしまっている。
このふたつの絵の対照表を作ってみますね。

            国芳    芳年

  愛宕山太郎坊   鳥     人
  比良山次郎坊   人     人
  飯縄山三郎坊   鳥     人
  大峯前鬼坊    鳥?    人
  彦山豊前坊    人     鳥
  白峯相模坊    人     鳥
  大山伯耆坊    鳥     鳥
  富士山太郎坊  (いない) (いない)

こう並べてみると、芳年はわざと師の国芳と逆の組み合わせにしているように思えます。比良山次郎坊は両方で人顔になってますが、両方とも必要以上におもしろい顔。何者だ次郎坊。その次郎坊を両方人顔にしてしまったので、伯耆坊もどちらでも鳥顔にされたのかしらね。
それでも芳年には躊躇があったので、三郎と伯耆坊の顔がわかりづらいように意図的に隠したりのけぞらせたりしたのでしょうか。





鞍馬駅舎にあったもうひとつの芳年の天狗図がこちら。こちらは晩年(明治18年)の「芳年漫画」から、「舎那王於鞍馬山學武術之圖」。
僧正坊の鼻がながーい。実は師の国芳にも同テーマの絵が4枚ありましてね。・・・・・・長くなるからもうやめよう。



鞍馬駅の前には土産物屋が数件ありまして、そこにも天狗エキスがいっぱい。おもしろーい。
教訓。
鞍馬に来たら鞍馬駅に行け!
一番天狗の密度があるのは駅前だ。

それからお寺に向かいます。
山門の前に「雍州路」というお店が建っているのですが、このお店は「鞍馬駅前のお店」ではなくて「鞍馬寺の山内のお店」というたたずまい。前回来たとき、そのお店の前の看板に描かれたイラストが数少ない天狗成分だった。
それが、3年前と看板が変わっていました。(正月バージョン)



ていうか、検索してみるとこの看板の絵は頻繁に描き換えられているようです。ええね。
ぼたん鍋5500円か~。猪鍋のフルコースってなんだろう。



山門をくぐって愛山費(200円)を払うとすぐにケーブルカー乗り場があります。このケーブルカー、片道100円と破格に安いのでつい乗りたくなってしまう誘惑に駆られますが、今回は頑張って九十九折りの道を歩いてみることにする。ただ、このケーブルカー乗り場の建物(普明殿)は内部がすこし異様なため、念のため見ていくことにする。ケーブルカーの待合所の隣は毘沙門天の礼拝所になっていて一部的に暗いです。

その建物の2階は鞍馬山の自然の紹介コーナーになっているのですが、その一画に天狗コーナーがありました。前回来たときは気付かんかった。





とても真面目だ。ええね。



カルカロドン・メガロ天狗の爪!! でけえ。きっとこれが僧正坊の両手の爪ですね。

そこから歩いて登ります。今日はまだ元気です。



由岐神社の門をくぐり抜けると雪景色。南国・遠江の人間は雪を見ると無闇に嬉しくなってしまいます。そうかー、雪があるから由岐神社かー(違う)



そこから遮那王が暮らしていた「東光坊」の脇を通って九十九折りを歩くんですが、そんなに疲れることもなくお寺に到着。なぁんだ、清少納言に瞞された。こんなのへっちゃらだ。



さて、ここからが真の目的です。
鞍馬山の中に、全部で4つの「護法魔王尊」の像があるというのです。前回はすべて見逃してしまった。
鞍馬山は「鞍馬弘教」という独特の教義を持っているのですが、訪れてみると熱心に礼拝している人が多く、私みたいな不信心者がぷらぷらと面白半分に歩き回っているのは悪い気がしてしまって、前回はそそくさと「奥の院」へ向かってしまったのです。今回の旅は護法魔王尊の像を見ることが本題だ。

4つある魔王尊像のうち、ひとつはお寺の秘仏とされる御本尊(鞍馬山の本尊は毘沙門天なのですが、教義では毘沙門天と千手観音と大魔王が三位一体の同一人物とされているので、本堂にはこのつがそれぞれ本尊として立てられている)は秘仏なので見ることが出来ないのですが、その前に「お前立ち」という代わりの像が立てられているそうです。これが魔王尊像の2つ目。これを拝むことが出来ないかと本堂に入ってじっと暗闇を見つめたのですが、本堂の中はとても暗く、目の悪い私には見ることができませんでした。ちぇっ。きっと心得の良い者にしか見ることのできないものなのでしょう。堂内は禁撮影。

3つめの魔王尊像は、本堂の隣りにある「光明王堂」に安置されているといいます。



実は今回わざわざこの時期に来たのは、鞍馬寺では1月1日~15日まで「しめのうち詣で」というのをやっていると聞いたからで、なんとなくこの期間なら魔王尊像を拝めるのではないかと思ったからです。来て見たら、光明王堂の扉は閉まっていた。ぐわーー。
ネットで見るとここの扉が開いていることもあるようなのですが、いつだったら良いのでしょうか・・・
今回も任務に失敗してしまった・・・
(※秘仏の魔王尊の写真は本等にいっぱい載っています)
魔王は「常に16歳の少年の姿に見える」という設定です。
(↓)16歳。



4つ目の魔王尊像は、来た途中の「鬼一法眼社」の傍らにあるといいます。
鬼一法眼堂、、、 って来る途中あったっけ。
入口でもらったパンフの地図はいまいち分かりづらく、鬼一法眼社の位置がはっきりしません。注意深く道を下ります。
ありました。遮那王のいた「東光坊跡」のすぐ近くだった。



お堂の隣りに池があり、上から水が注がれている。この水の流れのことを「魔王之瀧」と呼ぶそうです。池の傍らには「魔王之碑」もある。



その瀧の部分をよく見てみますと、いました!



なんだか16歳の魔王が〇〇してるような構図だなー。
しかしまた、「なんでこんなところに鬼一法眼が?」という問いには、なかなか答えられないようです。
そもそも鬼一法眼(きいちほうげん)は伝説上の人で、天狗マニアには「護法魔王尊・僧正ヶ谷僧正坊と並ぶ鞍馬の山の名前のある天狗のひとり」ともみなされているのですが、そもそもなんで彼が天狗扱いされることになったのかという事情も、なかなかややこしいです。(※2005年のNHK大河ドラマ『義経』に鬼一法眼を、怪しいこと極まりない美輪明宏が演じましたので、天狗的なイメージ形成にすごく役だったのですが)。
まず、鬼一法眼の伝説についてはここのブログさんが詳しいです。
鬼一法眼は「義経に兵法を授けた人物」として知られるので、東光坊と鬼一法眼社がこんなに近いのならば、さぞかし牛若の勉強もはかどっただろうと思われますが、伝説の中にも鬼一法眼が鞍馬山に住んでいたなどという伝えはありません。

鬼一法眼が初めて登場するのは、室町時代に成立した『義経記』です。義経記では彼は天狗などではありません。京で名の知れた陰陽師。安倍晴明の旧跡にほど近い一条堀川に住んでいました。陰陽師と天狗は相容れない存在です。
義経記では鬼一法眼は帝から下賜された十六巻の書を秘蔵しておりまして、それを天下に名高い『六韜』だと思った義経が狙います。(本物の六韜は6巻ですが、鬼一法眼は増補版を持っていたのかもしれない、違うのかも知れない。そもそもこれは六韜ではなかったのかもしれない。だって六韜は太公望が書いた本のはずなのに、義経記には「太公望がこれを読んで八尺の壁を登って天に昇った」と書いてあるから)。すでに義経は牛若でも遮那王でもなく、一度奥州平泉に行って元服して17歳になっています。
京に戻ってきた義経は、鬼一法眼に「六韜を読ませてくれ」と申し入れますが、鬼一法眼は意地悪をして断ります。困った義経は勝手に鬼一法眼の邸内に住み込んで鬼一法眼の末娘をたぶらかし、娘の手を借りてその書を持ってこさせ、半年ほどかけて全て写し取ってしまいます。そのあと鬼一法眼の邸内で義経はわざと目立つように振る舞ったので(なにやってんだ)法眼も義経の存在に気付き、怒り狂って娘婿の湛海という手練れを呼び、あいつを殺してしまえという。それを娘から聞いた義経は(義経記では六韜を写し取ったあとも一ヶ月半近く義経は鬼一法眼の邸内に隠れて住んでいたことになっている)、隠れて湛海を返り討ちし、山科へ去る。娘は悲しみのあまり死を迎え、鬼一法眼は「後悔先に立たず」と思ったということです。
「義経ひでー」と思うばかりですが、いつしかこれが「鬼一法眼は義経に兵法を教えた」という話にすりかわってしまったといいます。
室町時代初期に成立した謡曲『鞍馬天狗』(作者は世阿弥だとも言われている)では鬼一法眼は出てこず、「義経に兵法を教えたのは大僧正ヶ谷に古くから棲んでいる大天狗」となっています。
戦国時代にはどういった事情か「鬼一法眼が鞍馬寺に六韜のうちの『虎の巻』を寄贈した」ことになっており、実際に中世に勧進聖・御師・願人たちによって鞍馬寺の勧進のために毘沙門天像や「鬼一法眼兵法虎巻」を頒布して回ることもあったそうです。
このあたりが現在鞍馬の山内に「鬼一法眼社」がある理由かもしれませんね。
江戸時代にはいつのまにか「実は鬼一法眼は源義経に心を寄せていた」ということになってしまっており、享保年間成立の『鎌倉実記』などには義経の股肱の臣の名前の中に“鬼二郎幸胤”と“鬼三太清悦”の名が見える。この二人は暗黙として“吉岡鬼一法眼憲海の兄弟・息子・あるいは赤の他人”として作品ごとに異なった扱いをされています。
その集大成ともいえるのが享保年間成立の義太夫節浄瑠璃『鬼一法眼三略巻』というとてつもなく長い作品で、そこでは「鬼一法眼はもともと源氏の与党であったが、平家全盛の時代になって心ならずも平家から糧を受ける身となってしまった。清盛公から「兵法書をよこせ」と度々催促を受けて心を病み、夜な夜な鞍馬山に出かけることになった。そこで不憫な少年・牛若丸に出合い、僧正坊の扮装をして少年に兵法を伝授することにする。義経に稽古を与えた鞍馬天狗の正体はなんと鬼一法眼だったのである」というふうになりました。この題材の扱いの分析についてはこの記事がとても勉強になります。 で、この作品が現在の天狗世界で鬼一法眼が天狗扱いされる根拠となっております。
で、その『虎の巻』についても、義経記ではその説明は「爰に代々の帝の御宝、天下に秘蔵されたる十六巻の書あり。異朝にもわが朝にも伝えし人、一人としておろそかなる事なし。異朝には、太公望これを読みて八尺の壁にのぼり、天にあがる徳を得たり。張良は一巻の書と名付け、これを読みて三尺の竹に乗りて虚空を駆ける。樊ロ會はこれを伝えて甲冑をよろい弓箭を取って敵に向って怒れば頭の兜の鉢を通す。本朝の武士には坂上田村麻呂これを読み伝えて悪事の高丸を取り、藤原利仁これを読みて赤頭の四郎将軍を取る。それより後は絶えて久しかりけるを、下野国の住人・相馬小次郎将門これを読み伝えて、わが身の勢達者なるによって朝敵となる。されども天命を背く者のややもすれば世を保つ者少なし、(略)、それより後はまた絶えて久しく読む人もなし、ただいたづらに代々の帝の宝蔵に籠め置かりたりけるを、そのころ一条堀川に陰陽師法師に鬼一法眼とて文武二道の達者あり、天下のご祈祷師でありけるが、これを賜りて秘蔵してぞ持ちたりける」となっているのが、いつしかこれが「唐の国から吉備真備が伝え、大江氏に贈られたもの(←時代が合わない)を大江匡房が八幡太郎に与え源氏の重宝とした。いつしかそれを鬼一法眼が手に入れてしまい、義経はただそれを鬼謀を使って取り戻しただけ」という風に変化した。
義経記では明らかに『六韜』単体なのにこれもまた『六韜三略』とセットで語られるようになり、題名からして『鬼一法眼三略巻』も『三略』が主役っぽいのに実際は「虎の巻」(←六韜の一部)を巡って争っているという。
「義経は書写した六韜のうち、“虎の巻”以外は焼き捨てた」という説話もあるのですが、その出典はなんなのでしょうか。それから現在出回っている「鞍馬の虎の巻」もなかなかヘンなものらしいですよね。見てみたい。
義経が入手のためこんなに苦労した『六韜』も、現代の私たちは容易に読むことが出来るのですから涙が出ることです。うーーん、私もなんか上から目線で語ってしまってる。義経記の中で義経がそんな私を激しく非難する文があります。

「鞍馬山の魔王尊と僧正坊は同一人物なのか? あるいは別人なのか?」という説明は、また数年後に鞍馬山を訪れたときに、稿を改めて致すことにしますね。
もう一つのナゾは「狩野古法眼元信の描いたという天狗絵の実際」ですよ。これもまたいずれ。(正月は宝物殿は閉鎖されておりました)

今回の収穫は、「鬼一法眼社にあった魔王尊像を見た」ということにしておきます。
それにしても、ここ(東の谷)から少年牛若が奥の院にある僧正ヶ谷に夜な夜な通うのはなかなか大変なことですね。一度本堂を通らなければ西の谷には行けない。


<東光坊跡 義経公供養塔>(昭和15年建立)
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