オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

役ノ行者の呼び声。

2014年01月26日 15時20分02秒 | 今週の気になる人

この写真は細江町中川の刑部城にいる役ノ小角。
なぜか足下におキツネさまが。(前鬼と後鬼でしょう)



1/12に行った琵琶湖旅行の記録の続き、その4。

最後は「松ヶ崎普門坊(まつがさきふもんぼう)」です。

知切光歳・著『圖聚天狗列伝』(1977)より。
「近江八幡市から一里半ばかり北の、湖水に突き出した南端の長命寺は、延暦寺西塔の別院といわれる古刹である。背後の長命寺には、「富士権現の母神の墓」と伝えられる大岩石があることで知られている。孝霊帝朝の富士山突起と琵琶湖陥没の伝承から、琵琶湖を生んだ母神という付会らしい。この長命寺の住僧が天狗に化ったという見聞を、国学者の伴蒿蹊が『閑田耕筆』(享和元年刊)に書いている」
(要約)元禄の頃、長命寺の普門坊という名前の僧が、百日荒行して天狗に変じた。しばらくのち隣りの牧村にある彼の実家(郷士)に「今後は来られぬ」という声が響いた。長命寺の裏山に祠が造られ、年に一回のこの社の祭りは牧村の実家が行い、以後100年続いている。
「百余年の間、毎年例祭を絶やさなかったとは、普門坊の霊威と練行のことがその地方の住民に相当強く印象づけられ、畏敬されていたからであろう。ただこの種の天狗化生譚はほかにも幾つもある。普門坊はたまたま蒿蹊のような優れた学者の筆に載り、そのうえ松ヶ崎普門坊という狗名まで残されていたのが幸いで、列伝の一狗に加えたまでである」



のんびりドライブしていたら、またも16:00頃になっておりました。
昨日の横川でもそうでしたが、こういったお寺の拝観は大概17:00までで、受付も1時間~30分前には締めきってしまうところも多いですから、焦る。
近江に詳しくないわたくしは「長命寺」という名前のお寺さんのことは知りませんでしたが、現地の観光案内板には大概場所が示されておりますのでなかなか有名なお寺のようだ。「長命寺港」という港が琵琶湖観光の拠点のひとつになっているからでもあるみたいですが。
安土城~彦根城付近の水郷の風景には心洗われるものがありましたが、足は留めず長命寺を目指します。



有名なお寺とは思えないぐねぐねした坂道を延々登っていくとお寺があり、この時間なのに駐車場にはたくさんの参拝の車が停まっておりました。
そこからなかなか味のある風情の石段が。



とってもありがた~い名前のお寺です。開創伝説は聖徳太子。
太子がここに遊びに来たとき、「500年前に武内宿禰が字を書いた柳の木がある」と聞いて、見に来たところ「寿命を長くし望みを叶えさせよ(寿命長遠諸願成就)」と彫ってあったので感心し、お寺を建て、武内宿禰の長寿にあやかって名付けたとのこと。天台宗。姨綺耶山(いきやさん)長命寺。桜餅とは関係ないそうです。
武内宿禰は孝霊天皇より5代あとの天皇の時代の人ですから、知切光歳の書いた「富士山の権現の母(この女神の名は不明)の巨岩」は宿禰が来たときには、既にここにあったことになる。
というか、我らが伊豆の国の英雄・佐々木定綱(=蛭ヶ小島の蛭子の君の一の子分)ととてもゆかりの深いお寺だそうです。へぇ。
近江佐々木氏は六角家の祖。六角家は蔵前家の源流。

やはりお寺のお名前がお名前ですから、真摯にお参りしている人が多い。
長寿などは願いたくない私は本堂を巡って見るのにも身が狭く、困ってしまいました。
重要文化財の三重塔も見所だといいます。でもただいま1年4ヶ月をかけての修復工事の真っ最中だそうで、見学用の足場が組まれ、2層目の屋根辺りを間近で見させていただけるようになっていました。さきほど竹生島でも似たような工事現場を興味深く見たばかりです。

で、敷地内を巡って天狗様の祠を捜します。
興味深いのが、本堂の近くにこれまた立派な(すこし小さい)「護法権現社」というのがありまして、「これが天狗様か?」と思ったら、護法権現というのは武内宿禰のことだそう。その建物は江戸後期のものだそうで、そのまた隣りにある立派な「三仏堂」と見事な調和を見せている。これは神仏分離の騒ぎのとき大変だったろうなぁ、と思いました。で、その「護法権現社」というのを覗き込みますと、背後に見事な巨石を背負ってまして、これが武内宿禰の神体だとみなされているようだ。



これがその武内宿禰の神体(を横から見たもの)ですが「修多羅(すたら)岩」と呼ぶのだそうです。
「すたら」?
「仏教用語である」と下に解説板がありますが、そんな用語があるのか。と思って検索してみると、確かに「修多羅」は仏教用語でありますが、その意味は見事に解説サイトによってばらばら。同一の語句とは思えないほどです。少なくともここに書いてあるような説明は、他では見いだせない。そもそも「しゅたら」と読むのがメイン潮流で、これを「すたら」と読むのは北九州市にある地名ぐらい。何者だ、スタラ?(「しゅうだら」と読むお寺もあるそうです)
そういえば、このお寺の山名も「姨綺耶(いきや)山」という意味不明の名前。
「なにかナゾのあるお寺なのか!?」とワクワクしてきました。

知切師が言った「富士権現の御母堂の岩」というのこれか、もしかして富士権現と武内宿禰の伝説の融合がここにある!?と思って周囲を見回すと、本堂の背後に相当する位置にアレ。



あれが「六所権現影向石」ですね。(少し離れた場所から撮ったので、ボけちゃった)
なんでこれが「六所権現」なのかわからないですけど、寺伝によればあれが「武内宿禰が長寿を願った」だそうです。(柳の木じゃなかったっけ)

そしてこちら。



太郎坊大権現の鳥居!
なんで太郎坊?(普門坊とは別者か?)
そしてお分かりになりますか? 鳥居の上には無数の小石が並べられております。



鳥居の先をずんずん進みますと、ありました、天狗の社。



何かゆがんでる?的な建物ですが、これは本社ではなく拝殿で、背後にある2つの巨石の間に、登って行く石段がある。



琵琶湖の普門坊はまさかの巨石祭祀場でした。
要は、磐座信仰の場所であり、お寺なんですね。近江という国は。
この石(のどちらか)が「富士権現の母」なのでしょうか?



左側の石。
あきらかに、さっき見た「修多羅石」とか「六所権現影向石」よりこっちの方が存在感あります。
お寺よりもこっちの方が本体なんじゃ?

慌てて検索してみますと、
「寺の縁起によれば、後奈良天皇の時代に長命寺にいた普門坊なる超人的力をもった僧が、寺を守護するため大天狗に変じたものという」
「その後、京都の愛宕山に移り住んだ太郎坊天狗が故郷の山を懐かしく思い、近くにあった大岩を投げ飛ばすと長命寺の境内に突き刺さったという。その大岩は飛来石として信仰の対象になった」

え、後奈良天皇?(戦国時代初期) ・・・知切光歳と寺の縁起は書いてることが違う。(よくあることだが)
大体、ここの天狗が愛宕山に行ったなんて話も初耳だよ。
・・・いや待て、誰も愛宕山太郎坊と松ヶ崎普門坊が同一人物だなんて言ってない。
近江に遊びに来た「太郎坊」と、ここ出身の「普門坊」は別人なんじゃ。
愛宕山の太郎坊が奈良時代ぐらいの人だったと仮定すれば、武内宿禰や聖徳太子がこの両岩を見ていないことは説明付く。
「普門坊」という人も、戦国時代と江戸時代に2人いたんじゃ・・・
とはいえ謎は深くなります。



また出たよ「魔王」。
(でも普門坊と太郎坊は別人みたいですね)
この拝殿のある場所は寺内で一番景色が良く、琵琶湖の美しい景色を近江八幡城方面に向かって一望できます。



で、正面にとても形の良い山が見えるんですが。
あれって、東近江市の太郎坊宮山(赤神山=阿賀神社)じゃありません?
あそこも巨石信仰の山でしたから、近くに似たような姿の石を持つこんな山があったから、こんな名前(太郎坊権現)で関連づけられたのも腑に落ちます。
でもそもそも、なんで近江に太郎坊伝説があるんでしたっけ?
そういえば3年前に太郎坊宮(ここのすぐ近く)に登ったとき、見落としていた事があったことを思い出しました。


(2010.11.6に撮った写真)

「太郎坊はこの岩山(赤神山)で修行をしながらご祭神「正哉吾勝勝速日天忍穂耳命」を守っていた天狗」、とはなんじゃらほい。
愛宕山の太郎坊の正体は、聖徳太子の師・日羅だとか弘法大師の高弟・真済だとかいくつかの説がありますが、どの由来も東近江にゆかりはありません。
また、愛宕権現と言えば普通は「火之迦具土神」(イザナミ神・イザナギ神の息子)。
「アマノオシホミミのミコト」(スサノオ神から生まれた)とは繋がりが遠いです。
もっとも「太郎坊と愛宕権現の結びつき」も「たまたま太郎坊が愛宕山に住んでいたから」ぐらいしか無いと思われるのですが、
でも、短絡的に考えて、実は愛宕山の天狗の大総帥・太郎坊と近江から愛宕山に移った太郎坊って、坊名が同じなだけの別人なんじゃないですか?
うーーん、わけがわからなくなってきた。


話を変えまして、孝霊帝期に飛んできたという「富士権現の母の岩」というのは、「太郎坊が愛宕山から飛ばした飛来石」と同一なのでしょうか。
もしかしたら「富士」と「太郎坊」つながりで、この太郎坊は「富士山太郎坊(陀羅尼坊)」という可能性もありうる(かもしれない)。

でも、この「富士権現」が「木花咲耶姫」だったとして、その母の実の名前がわからないのです。日本書紀にはニニギの尊の妻(木花咲耶姫)に関する記述はとても長く(第八まで異説を紹介していて)、なのに姫の母はでてこない。姫の父は「大山祇神」で子供の多い大神ですが、その妻の一人に「鹿屋野比売神」というのがあり(手持ちの神名事典には大山祇の妻はこの人しか名前が無い)、この「カヤヌヒメ」が富士権現の母なのでしょうか。(違うような、そうなような。木花咲耶姫の異名も「鹿葦津姫」「葦津姫」ですから、繋がりはある。鹿野=萱)。でも、記紀の「カヤヌヒメ」はもっとおっきなイメージなのです。
琵琶湖の傍らの山上の岩に、どうして曖昧な「富士権現の母」などという逸話がついたのか?

もしかして、富士権現の母というのは後世に変化したもので、寺内の巨石信仰の有り体からもともとは「富士権現の姉(磐長媛)」だったんじゃないか、とも思いました。富士山も又背比べ伝説が豊富ですし、長命寺は竹生島信仰とも縁深いようだし、さっき見た「伊吹山と浅井岳の対立」とも通づる所があったような気もしますし。そうだ、とよた時さんによると駿河の愛鷹山も富士山と背比べをしようとして、怒った足柄山に首を蹴り落とされ、海に落ちたのが伊豆大島になったんですよ。愛鷹権現は瓊瓊杵尊。夫婦喧嘩か。
まぁ、いずれも富士権現が女神だとは限らないんですけどね。富士権現は謎な神。


これが在りし日の怪力普門坊の姿かな。

そこの説明に、「天狗の飛来石と爪彫り手水鉢は本殿の傍にある」と書いてあるので、本堂まで戻って付近を捜してみたんですが見つからず(工事中だし)、諦めて退去したんですが、家に帰って調べてみたらここに書いてあった「本殿」とは太郎坊の小祠のことであった。なんとっ。「太郎坊の飛来石(おそらく富士権現の母と同一)」は、拝殿のうしろにある2つの巨石のうちの右側だそうです。なんてこったい。


さてそこから、
せっかくなので湖の幸を食したいと思い、「鮎家の郷」やら道の駅やら「琵琶湖博物館」で足を止めたのですが、17:00を過ぎると食べられるところは無し(なんでやねん)。
琵琶湖って本当にぐるっと回るだけで一日が終わってしまうんですね。
仕方がないので「草津よいとこ一度はおいで~」の草津温泉(イオンモールにあった風呂屋)でひとっぷろ浴び(日曜日なので座る場所もないほどの混雑ぶりだった)、その近くでラーメンを食べました。



ちゃんぽんとんこつらーめん豊(駒井沢店)。
こってりとんこつらーめん、760円。

長浜~彦根の辺りを走っていたとき、ちゃんぽん屋のチェーン店を頻繁に見たんですよね。滋賀ってチャンポンが何かあるんですか?(※「近江ちゃんぽん」という分野があるという)
せっかくなのでそのチェーン店に入ってみたかったのですが、草津では見つからず、このお店へ。
で、チャンポンではなく普通のラーメンを注文してしまいました。

うを、見た目が全然違うのに、天下一品ぽい。
味をあの系統のまま、どろどろを無くした感じ。(写真では十分どろどろしているように見えると思いますが)
「ドッテリしてない天下一品みたいなのを食べたい」とかいう関西地方の需要があって生まれたものかしら。
が、好みです。天下一品好きだから。



「近江チャンポン」、これもまた次回の課題です・・・
そこから、昨日泊まったネカフェに今日もお世話になろうかな、と思いきや、明日に備えて南下をすることを思いつきました。目的地は奈良にしよう!
・・・でもおかしいな、私は京都旅行に来たはずなのに・・・(だって貴船神社で西は凶、南が吉、と言われたから)。役ノ行者が私を呼んでいる気がした。


大津から瀬田川沿いに通ったことの無い道を南下。
適度に道を迷いつつ、奈良県に入ってぎゅんぎゅん走ってるとふたたび小腹が空いてきました。
(さっき食べた草津のラーメン屋は19:00頃。今は23:00頃)
食欲の出るのは良いことだ。
なので適当に見付けたラーメン屋に飛び込む。



「大阪千日前 河童ラーメン本舗(天理店)」ですって。
天狗探しに来てるのにカッパっておもしろいじゃん。

で、入口の扉に貼ってあった絵。



おお、本当にカッパをテーマにしてるんですな。
ていうか、関西の人ってすげぇな。なんだこれ。


メーカー製だからメカゴジラなのか。


ほんとかよ。
おかっぱ頭の河童もいるかもしれないですが、河童がすべからくおかっぱ頭というわけでも無いと思う。
関係無いんですが、おかっぱ頭の児は「禿」って書いて「かむろ」なんですよね。ハゲてないのになんでだろ。男児の禿(かむろ)は今では絶滅しているのに女児の禿(芸妓見習)は今でもたくさんいるという。今では児を脱すると禿は増加する。女児の禿(かむろ)と河童の頭とおかっぱ頭の女児も全然違いますよね。なんか不思議。


この人の描く絵は麺が八岐。ジョッキは蛭児様。頭の上には天むす? 真中の海栗はナニ?

こういうの嫌いじゃないんで写真を何枚も撮ったんですが(特にトイレの地区が凄かった)
薄暗かったから多くがブれていました。残念、雰囲気がとても良かったのに。

ラーメンは、入口のところに券売機がありまして、そこで選びます。
「河童ラーメン」(=ノーマルのラーメン、690円)とか「黒河童」「赤河童」「工場ラーメン」「河童めし」「河童定食」などがありましたが、無難に「チャーシュー麺(煮卵入り)990円」を注文しました。

席に座ると、かわいらしいおねえさんが「サービスです」と言って、これを出してくれました。おお。



「揚げニンニク(無料)」ですって。いい薫り。しかもこれ、おかわり自由なんだそうです。これ、揚げたてホクホクですのでお替わりされるたびに揚げるんでしょうか。さらにこれだけじゃなくて「生大蒜」と「キムチ」も無料。それは別に珍しくはないが、「そうだよね、カッパと言えば忍辱ですもんね」と嬉しくなりました(←キウリだろ)。
難を言えばいまわたくしお寺巡りの旅をしている最中(不許葷酒入山門)なのですが、、、 今更そんなことを言っても仕方が無いだろう。しかし酒が欲しい。





このチャーシューの器への貼り付け方は関西方式なんですね。
しかし、中央の祟り神の正体がわからん。もしかしてこの青ネギ?(よく見たら入口の扉のポスターにそうだと書いてありました)・・・納得ができないが。



味はエグ味のない京都風って感じで、これまた好みです。
近くにあったら(ニンニクを食べに)通うでしょうな、と思いました。

食べ終わってドライブを再開すると、橿原にも同系列の店舗がありました。いいな。
大和高田市で目星をつけてあったネカフェを見付け、就寝。
『夏目友人帳』の続きを読むつもりだったのに、ほとんど読むことなく、朝まで熟睡しました。ニンニクパワーのおかげか。




朝10:00頃目覚めて出立。
今日の目的は、葛城山です。

葛城山はわれらが伊豆にゆかり深い役ノ行者の出身地であり、伊豆長岡の葛城山も、そこに篭もった役ノ行者によって「故郷の山に似ている」ということで名付けられたのものですから以前からとても興味があったのですが、今日の目的はあくまで「天狗さがし」です。

役ノ行者その人も天狗っぽい人ですが(行者は山岳修行・修験道の祖であり、天狗と修験道は切れぬ仲にありますから当然のことですが)、でも意外と「役ノ行者が天狗」っていう説は無いんですよね。役ノ行者は「超人」ですが、“天狗”とはまた別の存在だとみなされている。なんでなんでしょうね。
そう考えると、伝教大師最澄はよく天狗になってるのに、弘法大師空海や聖徳太子も天狗にはなってないんですよね。何か原理があるのか。
それに対して、役ノ行者の配下である“前鬼(ぜんき)”と“後鬼(ごき)”は、天狗の世界では立派な天狗ペアです。
名前に“鬼”ってついてるのに天狗。っていうか“鬼”であると同時に“天狗”。
3年前に吉野郡下北山村に「前鬼の里」を捜しに行ったんですけど、10月の時期には里は閉ざされていて、見ることが出来なかった。
今年の夏には行けるかなぁ・・・



知切光歳『天狗考』より。
「役ノ行者は舒明帝6年(634)の出生とあるから、同9年の天狗星のときには4歳になっていたわけで、その後もしばしば起きた隕星現象もつぶさに見聞したことであろうし、はなはだ早熟で13歳の頃には既に神異を見せていたというから、僧旻の命名した天狗のことも早くから知っていたに違いない。ところが早い頃の彼の伝記が天狗のことに少しも言及していないのは、その頃の天体現象、山の怪異、市井の物の怪、精霊(すだま)、怨霊、弧怪、鬼神などについて、天狗の仕業と感じていなかったためと受け取らざるを得ない。すなわち、初期の山嶽宗教を奉じた修験の徒は、天狗のことを論外に置いたということになる。そうした現象が幾百年か続いて、平安朝の末期に忽然として天狗と山伏の強い結びつきが表面に出てくる」


役ノ行者の業績についてはそのうちちゃんと勉強しましょうね。
今の私はまだ勉強不足。
今は知るべきは、その役ノ行者の偉業の出発点になった葛城山の様子と、その後彼に使役されるようになった全国の天狗についてです。


知切光歳『圖聚天狗列伝』より。
「葛城山の麓の腋上村に、茅原(ちばら)という所がある。そこに地祀族の賀茂ノ公(かものきみ)が代々住んでいた。役ノ行者はその賀茂ノ公氏の出身である。賀茂氏は、神武、綏靖、安寧三代の皇后を出した大和きっての名族で、上古から葛城の神を奉じて、その神託を奏し、呪術の家として知られていた。役ノ行者は、父の賀茂公大角(ふとき)に対して小角(おづぬ)というのが通り名であった。一説には額に一本の角があったので「小角(ささき)」と呼ばれたとある。『役行者本記』には「出生したとき、既に人語を口にしたので母の白専女(しろとうめ)が怖れて、この子は私の手ではとても育てることができませんと言って、野に捨てた。ところが嬰児は乳も無いのに飢えず、禽獣が従い馴れ、餓狼でさえ餌食にしようとはしなかった。自然に空から紫の雲が垂れて雨露を凌ぎ、甘露を降らせて養った」とあるから、獣の乳かなにかで養育されたのであろう。それを母が見て、また拾い帰って育てた」


そういえば私が役ノ小角について初めて知ったのは、学生時代に愛読していた山田ミネコの『ふふふの闇』と『最終戦争』のシリーズだったなぁ。懐かしい。


「彼を仏道に導いたのは、叔父の願行上人であるともいう。『小笹秘要録』には「願慶一乗坊は行者の叔父、之に従ひて出家す。生年9歳の時なり。其の後、髪を剃らずして19歳に至る」とある。深草元政の『山伏詩序』では、叔父願行が仏法の師であるとし、さらには山伏の鼻祖も願行であるとも言っている。(中略)古来、役ノ行者の業績とされている幾多の高山開発・仏閣創建の中には、願行の開いたもの、あるいは共同で開いた社寺も少なくないのではあるまいか」

「行者が葛城山に入ったのは、13歳の時とも17歳の時とも言うが、実際はもっと早くから山に親しみ、山に遊んでいたのが、17歳のころから山に籠もりきりになって、刻苦練行の三昧に入ったのではあるまいか。そして20歳を超えるころには苦修の効成り、呪術無双、山神でさえも呪縛し、使役して、薪水の労を執らせる大神通者に達していたものであろう。そして25歳の時、摂津国箕面山で籠山修行をしている。その前後に葛城山塊の山々峰々をくまなく跋渉し、河内国生駒山では山上の山魅(こだま、または山神)として恐れられた前鬼、後鬼を従え、同じ連峯の鬼取山では後に行者の二世、三世を継いだ義覚、義元の二鬼を折伏するなど、しきりに呪法による奇跡を発揮した活躍時代であろう。行者が更に勇猛心を起こして吉野大峯に登山し、付近の連山を跋渉し有縁の聖地を求めて彷徨の末、菊丈窟に籠もって数年に及ぶ刻苦修練の三昧に入ったのは、天智天皇6年(667)7月、行者34歳の夏だという」

「行者は37歳の夏に大峯を下って、それ以来諸国の霊嶽を踏破しては、いったんは大和に引き返してくる。曽野拠点は吉野、葛城のどちらかであったが、多くは葛城であったようである。その後の行者の行状から見ると、行者をはぐくみ、行者がすみからすみまで知り尽くした聖なる神の山、故郷の山である葛城山を呪法の修験道場とし、峨々たる吉野の山を修験の行場と見、那智と吉野の両端をその拠点の霊場と見たようである」




お恥ずかしい話、葛城山は葛城市にあるのだと思って目指していたのですが、実際は「御所(ごせ)市」にあるそうです。
知らんかった。
葛城市って何をもって葛城市なんでしょう?
・・・なんて、「伊豆の国市」なんていう意味不明の名前を持つ国の住人に言われたくありませんな。たはは。
なお、「葛城市」の「葛」の字は、正式には一太郎(ATOK)でも出てこない特別な漢字を使うそうです。山の葛城山も同様だそうで、「葛城」と書くのは便宜的な処置ですって。(表示できないから)。ただ、パソだけの問題かと思いきや、御所市で貰ってきた印刷物(観光協会のもの)では「表示できないカツ」の字と表示できる「葛城」のふたつが混在しています。ま、別に気にしなくても良いみたい。
伊豆では「葛城」の文字について悩んだことなど無かったですねえ。

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