オセンタルカの太陽帝国

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ショスタコーヴィチ作曲 ヴァイオリンソナタ ト長調。

2008年04月22日 22時35分03秒 | わたしの好きな曲


2週間ぐらい前に、「私にもリアル画が描けるか!?」と思って描き始めた絵です。ショス蛸の有名な写真を元に少し変えて「鼻くそホジホジ」で描こうかと思ったんですが、その後の私は絵を描くことをパッタリとやめてしまいました。輪郭とか表情とか意外と気に入ってるので、また描き続ける気になるといいなあ。ショス蛸の記事はこれからたくさん書くと思うので、きっとこの絵も必要に応じて手を加えていきたいと思います。たぶん。※注;ショス蛸は年を取ってからももっと若く鋭く恐い顔立ち。今後の修正ポイント。

自他共に認めるクラキチな私ですが、あることをきっかけに音楽に対する思考をやめてしまいました。でもそろそろその段階から脱却したいので、リハビリを再開したいと思います、音楽こそわが人生なんですよ。「再開する時はショス蛸に対する愛を述べる文章で」と決めてました。面白い文章を書く気はありません。なにしろ、毎日片道40分の時間をかけて通勤してるんです。その間、音楽聴くくらいしかすることが無いんです。その時間を何も考えずにいるのはもったいなくって。

ドミトリィ・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチ。
「敬愛している」と言いながらタコ呼ばわりする私に、嫌悪を抱く方もおられるかもしれませんね。

クラキチは他をなかなか認めぬ物です。何しろ「他の人はほとんど聴かぬ」長くて重厚な音楽をわざわざひっぱり出してほくそえんでいる人たちですもの。「人と同じ価値観」は絶対に持ちたくない。「クラシック好きは全員変人」という言葉は多分当たっていると思います。皆が選民意識を持っていると思う。近寄ってはいけません。逆に、同じクラオタ同志でも、意見が分かり合えることは滅多に無いのです。「自分に見えないところに同好の士が大勢いる」ことは感覚的な知っています。商売として演奏会が成り立つぐらいには。でもクラオタが一番鼻で笑うのは、本屋で売ってる「CD名盤ガイド」、CD屋で売ってる「名曲詰め合わせ」、NHKの「名曲アルバム」のたぐい。

数年前、他に代え難い美しい文章を書く女性のサイト運営者の方がいました。金沢の方で、古都を愛し、音楽と占いについての長文と自作小説を地道に書き綴っておられた。小説は「幽霊」「死」を扱ったものが多く、明晰なストーリーは無いものの、やや耽美に、幼少時の記憶や不思議な因縁に絡めたお話を語っておられた。そのわりに「耽美」と言われることは嫌ってました。BBSを日記代わりに使っていて、あのやり方は私もマネしたものです。流れ行く自分の文章達をただ見送るだけという行為に抱く哀惜。時折、女史の文章を誉める方が現れても、その半分は排斥されました。ほめるというのも難しい物で、嬉しくないほめられかたというのがあるんですね。恐くておもしろい掲示板でした。私は見てるだけでしたけど。
音楽については女史はショスタコーヴィチとマーラーとバッハとヘレヴェッヘを讃えておられて、マーラーはともかくバッハとヘレには「(T_T)」な私には… とても勉強になりました。とにかく、しっとりとした情感とそれに派生する感覚的な思考の繁茂を重視していて、好きでした。
金沢から松江、そして青森へと移動していかれて、2年半前にネット上から姿を消されてしまいました。あのときは泣いた。

その女史が、ショスタコーヴィチに終始「愛するミーチャ」、「ねぇドミトリィ」、「タコ様」などと呼びかけていたのです。だから私にとってもショスタコーヴィチは「鮹様」。

女史はタコ様の容姿を「とても色っぽい」「なまめかしい」と言い、最初の頃はそれに対して「エッ!?」と思っていたのですが、女史の文章を長年読み続けているうちに、その違和感は無くなりました。うん、確かに長く見惚れたくなりますわい。

 
  
  
  
 
 

  

女史が誉めていたのはショス蛸の若い頃の顔立ちに対してだったと思いますが、私がむしろ見惚れるのはタコ様の表情の変遷なんです。どうしてこんな表情の少年が、こうやって厳しい決意の表れている素晴らしい顔に成長できるのだろう! スターリンと並べて置いても全然見劣りがしないですもんね。むしろスターリン様が脳天気ヅラに見える。美しい。女史のサイトにはもっともっと良い表情の写真がたくさん並べてあったのですが、今ではそれは失われてしまいました。

ショスタコーヴィチの音楽には、これらの写真の表情からもうかがえる一見内向的な外見からは意外にも思える程の激しく情熱的な迸りが見られます。その構成はとてつもなく明晰で強打的で、壮麗で華麗で哲学的で衒学的。政治的な配慮と音楽史的な立場の構築にも巧みな人です。しかしながら静音で長大に語る楽章の部分も彼の真骨頂であり、そこに彼が単なる前衛的現代音楽家でなく、芯の部分でねっとりとした人間らしい情感を多大に孕んだ、「人間的な触れ合いを半分拒み、残りの半分でそれを熱烈に欲している人」であることを表現しています。それらは、すべてこれらの写真に見られる通り。この「必ず顔に添えられている手」も必ず何かの意味があるんですよ。心理的な、もしくはシンボル的な。
私が愛した女史は、そうしたショス蛸の性格を、浮かれ騒いで狂騒する悪魔のお祭り騒ぎな部分と、金沢の夜の都市街の桜並木に吹き抜けるしっとりとした雨の空気のような感じに表現しました。どちらも過ぎ去った過去に対する哀惜。非人間的な喧噪とその集積に現れる人間らしさらしきもの。“狂騒”は若い頃と違って年を取ると“見せかけ”になるのです。…ああ、人間って馬鹿馬鹿しいけど愛らしい。

…と、ここまで書き進めて私もさすがにアホらしくなってきました。私が女史について述べたこともショス蛸について述べたことも、おおむねにおいて上の文章で合っていますが 、根本的なところで全然違っています。ショスタコーヴィチの音楽を少しでも聴かれたことのあるかたなら判っているだろうと思いますが。女史も私たちの素晴らしいドミトリィも、到底そんな生易しい物ではありません。

ドミトリィ・ショスタコーヴィチを一言でいえば、「二面性」です。
音楽の一番分かりやすい部分こそが複雑な作曲事情を抱えている一方で、一番難解に聞こえてくる部分が、一番工夫されていて、わかりやすい。
ショス蛸はまぐれなき神童だったのですが、スターリン君臨するソヴィエト共産主義に押し潰されその才能をねじ曲げられ、何度も生命の危険に合い、でも同時期数多くの芸術家がスターリンの餌食になって消えていったのに、彼だけは粛々と生き続けることが出来ました。しかしショス蛸の偉大な所は、偉大なる大スターリン様に迎合してひれ伏してスターリン様を讃える曲ばかり作ったように見えながら、実は頭の後ろにあるもうひとつの顔からペロッと舌を出して社会をあざ笑っている様子を、馬鹿なわれわれ庶民にもわかりやすく表しているところにあります。普通の人がそれをやったらただ「あざとい」だけなのですが、ショス蛸の場合はそれが偉大な芸術の精華として結実している所が素晴らしい。

この作品は友人である偉大なヴァイオリニスト、ダヴィッド・オイストラフの60歳の誕生日のために書かれた作品です。しかしながらお祝い的な雰囲気は一切無く、両端楽章の不安めいた美しい叙情、中間楽章の鉄と鋼のような強烈な叩き付けが印象的で、決して決して「友人の還暦の誕生日」とは思えないところが楽しいのです。が、それが決して天の邪鬼的な意地悪によってなされたものではなく、それはオイストラフとリヒテルによる初演時の素晴らしいレコードを聴けば、作曲者と演奏者の一体感は興味深く窺い取ることができます。考えてみれば、還暦の誕生日ってそんなに楽しい物ではないですね。本人はまだまだ働けるし、自分と周囲の要請から更に働き続けなければならないし、しかし一方で周辺からは年寄り扱いされる。

わたくしは熱狂的なこの中間楽章が大好きで、「いかにもショスタコーヴィチらしい強さと推進力に満ち溢れた素晴らしい音楽だなあ」と思っていたのですが、私はそれをショス蛸の中期の物だと思い込んでいたら、本当は後期(1965年)の作品だったんですね。第10番や弦楽四重奏曲第8番、ヴァイオリン協奏曲第1番と同じ位置づけでいました。いまではその「力強い」「諧謔的な」スケルツォ楽章よりも、両端の不安で沈黙に満ち長くて鬱で謎に満ちているから悲しくなる、でもとても美しい両端楽章の方を好んで聞くようになっています。この曲を深夜の我が部屋で聞き耽っているとき、しきりと思い出すのは金沢の女史がさまざまとと言っていたことなのでした。結局、大事なのは蛸サマの表情なんですよね。

大事なのはこの曲が、20世紀の初頭にウィーンで完成された、「十二音技法」の技法で書かれていることです。音楽を聴く耳を持っていると自負するアナタ、ぜひぜひ十二音で書かれた他の作曲家の有名な音楽を聴いてご覧なさい。まともな頭の持ち主なら、「こんなの音楽じゃない」と思うことでしょう。私は「形のないモノ」が非常に嫌いで、だからドヴュッシーとかラヴェルとかからして基本的に嫌いなのですが、20世紀中にそういう妙ちきりんなものはさんざバカにされて消え去ってしまったのかと思いきや、ウィキペディア等を見るとまだ生き残っているんだそうですね。なんということだ。

ウィキペディアの解説を抜き書きしてみますと、「重複しない12音を平等に使って並べた音列を、半音ずつ変えていって12個の基本音列を得る。次にその反行形(音程関係を上下逆にしたもの)を作り同様に12個の音列を得る。更にそれぞれを逆から読んだ逆行を作り、基本音列の逆行形から12個の音列を、そして反行形の逆行形から12個の音列を得ることで計48個の音列を作り、それを基にメロディーや伴奏を作るのが12音音楽である。一つの音楽に使われる基本となる音列は一つであり、別の音列が混ざることは原則としてない。したがって、この12音音楽は基本となる音列が、調性に代わるものであり、またテーマとなる。そして音列で作っている限り、音楽としての統一性を自然と得られる仕組みとなっている」。

つまり、作曲者が作り上げたメロディーを音楽として記録して構成を整えるのではなく、適当に並べ合わせた音符にメロディーらしきものを当てはめていくのですね。バカじゃねーのかと思う。ふざけていると思う。

が、その十二音で作られたはずのショスタコーヴィチのこのヴァイオリンソナタ。
驚くべき事に非常に美しいのです(笑)。極めて伽藍的な構築物であります。
シェーンベルクやアルバン=ベルクなんて目じゃないぜ。
思うに、「十二音技法でちゃんとした曲を書いた人」ってのはショスタコーヴィチだけなんじゃなかろうか。

・・・いろいろ言いつつも、最近シェーンベルクやブーレーズのCDはたくさん聞いているので(通勤がヒマでしてね)、またこの曲のこと共々語り直したい所存です。自分が一片たりとも理解が出来ているとも思えないですし。

とりあえずとっぺんぱらりのぷう。

(※音楽一行知識…トムとジェリーの音楽も一部が十二音技法。そういえばあの響きは)

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6 コメント

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 音楽は良いものです。 (j.k)
2008-04-22 23:28:02
 そうでした、クラヲタでしたね麁鹿火さん^^
 私は時々バッハを聴くくらいです。
 (C・ホグウッドだったかな、指揮は。『ブランデンブルク』というヤツです)
あと、ドビュッシーとか武満とか伊福部とか。
 意外に多いですよねクラヲタ。層も厚い。
 手塚治虫もマンガにしていますが、彼は大のベートーベンファンでした。(『三つ目がとおる』にも雲名警部というソックリさんが登場します。上司はナポレオンクリソツです)
 涼宮ハルヒの人気キャラである長門がレクチャーしてくれましたが、こういうので正確ですか?
http://vipvipblogblog.blog119.fc2.com/blog-entry-184.html
 ちなみに私はどちらかというとジャズヲタです。
 最近はアリプロなんかも聴いてますがw
返信する
歌っていいよね(カヲルくんとムネナガくん)。 (麁鹿火)
2008-04-23 00:11:15
クリストファー・ホグウッドは私も最も愛する一人です♪
でもドビュッシーも武満徹も嫌い。
ジャズは… 『シカゴ』の映画音楽だけ大好きです♪
食や絵画以上に音に対する嗜好は振幅が大きいので、楽しいと思うのです。人と同じのを聴いて貴重な休日を過ごしたくないですもの。

バッハは実は去年くらいまで大嫌いだったのですが、ニコニコ動画でミクミク動画を楽しむようになってから、目を見張るようになりました。私のミクミク収集館もご覧になってくださいましね。
http://www12.oekakibbs.com/bbs/handel/oekakibbs.cgi

ながもんーーーーっ、ショス蛸の名が無いじゃんかあーーーっっっ
仮に人類の遺産として宇宙に持って帰るのなら、ジョスカン・デ・プレとバッハとショス蛸の3人に限ると思うのですけど。ながもんの文章は後半が面白いです。やっぱり彼女が興味を持ってるのは破綻した現代音楽なのかな。
クラシック音楽を扱った漫画で読むべきなのは、『ルードヴィヒB』(手塚治虫)、『オルフェウスの窓』(池田理代子)、『変奏曲』(竹宮恵子)、『いつもポケットにショパン』(くらもちふさこ)、『マドモワゼル・モーツァルト』(福山庸治)、『いつも上天気』(聖千秋)だと思います。

そういえば手塚治虫にはショパンが主人公の『虹のプレリュード』という短篇もありました。
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 自由は高く付きますよね・・・。 (j.k)
2008-04-26 23:35:02
 あぁ、正直ジャズヲタも偏屈な人が多いのですが、少し、というかかなり偏屈の方向が違いますよね(笑
 ジャズ好きはどちらかというと偏屈でも多方向または全方位に拡散しますが、クラヲタさんはあくまで一点に狭く鋭く収束していくような感があります。
 ロックからジャズ、民族音楽からジャズへと流れ着く人は多いですが、クラシックは、なんというか、孤高をキープしている人が多いようですね。
 文章を読んで思いましたが、それはそれで立派なスタイルかとも思います。
 ジャズの精神(というか音楽性そのもの)を一言で言うと「自由」ですが、方向は「真逆」ながらクラシックも一言で言うと「自由」なのでしょう。
 他人の自由と並び立つ「自由」と、まず何としても自分にまといつくあらゆる塵芥から距離を置き、矜持を保つ厳しく孤独な「自由」。
 私はクラヲタの人の「自由」にも敬意を払い、尊重したいと思います。

 まぁ・・・なんとなく理解されない人の「気分」って、理解できるような気がするんですよ。その人自身については理解できなくとも(笑
返信する
僕たちはみんな虫けらだ。でも僕は…… 僕だけは蛍だと思うんだ(幼少時のウィンストン・チャーチルの言葉)。 (麁鹿火)
2008-04-27 07:09:47
要はいわゆる厨二的なというわけでして。
ラーメンについても歴史解釈も小説も漫画も映画も社会分析も仕事に対する姿勢についても、自分と違う立場の人を見ても「そんな人もいるんだねフーーン」と面白おかしく流してしまうのが常の私ですが、音楽についてだけはどうもそうはいけません。(ちょっと精度に難があるんですけど)自分の感性が絶対です。

今回、この記事を書くに当たって、「十二音主義」と呼ばれる20世紀初頭のウィーンの音楽家たちの音楽をたくさん聴き直しました。アルノルト・シェーンベルク、アントン・ウェーベルン、アルバン・ベルクの「三大A」が巨頭とされます。私がこの人たちのCDを買ったのは大学生の頃ですが、全然興味を持てずに放置してました。聞き直して昔よりは面白く聴けたような気がしますが、「金欠の学生にこんなドブに金を捨てるような行為をさせるなや」と半分苦笑いで思わされました。全然評価は出来ないです。長門有希の十二音(セリー)についての発言は的確ですがすごく不満でもあります。もっと貶してもいいのに。(もちろん「音楽史的には」聴く価値はありますよ)。しかしながらショスタコのこの曲も十二音主義の流れの曲でして、50年も経て蛸がこんなのに興味を持ったのが面白い。むしろみんな興味を持っていたのかなあ?

また、本文中に私が「名盤ガイド本や名曲寄せ集めを軽蔑する」発言をしていますが、実はかくいう私も今の状態が「名盤だけを一通り集めた」状態なんですよ。ようやく「好きな曲だけ」を数種類聞き比べするたけに充実させはじめたのに、ある時を境に極度に窮欠してCDを買えなくなってしまいました。残念。そんなこと言っても私の手持ちCDは2千枚ぐらいは(数えたことは無いけども)あるんですけども、こんな程度ではこの界隈では子供扱いされます。

かといって、たくさん聴けばすばらしいクラオタ人間になれるのかというとそういうわけじやないんですよね。そりゃたくさん聴く方がいいに決まっていますが、ネット上にあるたくさんの「同曲異演の比較サイト」のほとんどは「便利参考サイト」以上の位置づけは無いのです。一番たくさん聴いているはずの評論家の言葉が一番小馬鹿にされるくらいですから。「かたよった物をかたよった姿勢で偏執している」ものが一番価値があります、この世界では。「自分の好みの物以外はあまり聴かない」のが正しい姿勢なのかもしれません。

世間的にはクラシック音楽は誤解されていると思います(笑)
あれは変人の為のもの。ポーズ・洒落で語る人は一目で見分けがつきます。
返信する
iTGEV Utz OcSq (LAbEwZgRGm)
2021-02-13 22:09:29
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返信する
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2021-02-18 21:48:26
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