Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

道南の空を飛ぶ (1) - 奥尻島 <鎮魂>

2009-09-15 | 北海道


憶えていてください
青い潮風の海辺の町で
すこやかな心とからだをもった人びとが
ていねいに生きていた一日一日を
一瞬の大地の鳴動が
破壊しつくしたあの夜の津波の恐ろしさ
連れ去られた家族たち
かなしいその光景に失意して
未来を拒んだりしないでください
あなたの一日一日を
このままでは終わらせないで下さい
はるかな海の
月夜の眠りに還っていった人びとのために

最初の人が板切れとともにこの磯に立ち
銀色の魚を釣り
野菜や穀物を育て
ひと組の男女が結ばれ
父となり母となり
ながい寒さから幼な子をまもり
働くことをいとわずに築いてきた村や町
くらしの糧をわけあってきた
海辺の家族の
その歳月を置き捨てずにいてください

生き残った人びとの
心に移り住んでいく魂たちの祈り
無数の人びとの温かな声援
憶えていてくださいあなたも

(麻生直子 『憶えてください』より)



雲上を飛ぶ (21)

2009-09-11 | その他
ブロッケン現象(Brocken spectre)によって、虹色に染まる雲。

太陽の光が背後からさしこみ、影の側にある雲粒や霧粒によって光が散乱され、見る者の影の周りに、虹の環となって現われる大気光学現象。 光輪 (グローリー, glory) ともいう。
ドイツ中部のブロッケン山でよく現れたのでこの名がついた。

かつて山上でこの現象を見た人々は、そこに仏の姿を重ね合わせたと言われている。
新田次郎著『槍ヶ岳開山』によるとあの播隆上人も、笠ヶ岳で遭遇したこの現象に阿弥陀如来を見たと記されている。

航空機から見下ろす雲には、虹の環に囲まれた搭乗機が投影される。

琉球弧の島々を飛ぶ (終) - 与那国島・東崎(あがりざき)

2009-09-10 | 沖縄


  名も知らぬ遠き島より
  流れ寄る椰子の実一つ
  故郷(ふるさと)の岸を離れて
  汝(なれ)はそも波に幾月

  旧(もと)の木は生(お)いや茂れる
  枝はなお影をやなせる
  われもまた渚を枕
  孤身(ひとりみ)の浮寝(うきね)の旅ぞ

  実をとりて胸にあつれば
  新(あらた)なり流離の憂い
  海の日の沈むを見れば
  激(たぎ)り落つ異郷の涙
  思いやる八重の汐々(しおじお)
  いずれの日にか国に帰らん

島崎藤村、明治三十一年の作といわれるが、藤村自身は実際に流れ着いた椰子の実を見たわけではない。
友人である柳田國男から愛知県の渥美半島伊良湖崎(いらござき)で拾った椰子の実のことを聞いたことから作られたといわれている。

 「・・・そこには風のやや強かった次の朝などに、椰子の実の流れ寄っていたのを、三度まで見たことがあった。ともかくも遙かな波路を越えて、まだ新しい姿でこんな浜辺まで、渡ってきていることが私には大きな驚きであった。この話を東京に帰ってきて、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である。今でも多くの若い人たちに愛唱されている椰子の実の歌というのは、多分は同じ年の作であり、あれを貰いましたよと、自分でも言われたことがある・・・・」
と柳田國男著『海上の道』(1952)に書かれている。

遠い南の島を離れた椰子の実を、日本列島まで運んだ黒潮。

日本人の祖先もまた、この椰子の実と同じように、琉球弧の島々を経て、海上の道をやってきただろうと考えたのであった。

「海上の道」は、まさに“海のロマンティック街道”として日本人の心の内に息づいている。

琉球弧の島々を飛ぶ (35) - 与那国島・祖内、ナンタ浜

2009-09-09 | 沖縄
祖納(そない)は、与那国島の中心地で、赤瓦の家並みが残る古い集落。
祖納には、3銘柄の泡盛の酒造所があり、日本で唯一アルコール度数60度の泡盛「花酒」製造が許されている(崎元酒造「与那国」、入波平酒造「舞冨名」国泉酒造「どなん」)。

花酒とは泡盛の蒸留行程で最初に出てくるアルコール度数の高い泡盛のことで、最初にでてくる酒なので「ハナサキ(最初という意味)」という名前になったといわれている。
花酒はおもに冠婚葬祭に使われる酒であり、結婚式の際には、三三九度の酒として使われ、葬儀の際には、天寿を全うした方の葬儀のみ振る舞われる酒だという。薬としての役割もあり、医療設備のない時代、発熱や傷の処置など万能薬として大切に使われていた。
この島にとって花酒は「特別」な酒で、こういった歴史的背景や儀礼的な使用の習慣が認められ、アルコール度数60度の花酒は与那国でのみ製造する事が認められた。

昔は、この酒を作るのに、若い女性に米を噛ませて、それを吐き出させ、樽の中にいれて発酵させて酒をつくったのだとか...

祖納集落の前方、祖納港のある白砂が美しい浜が「ナンタ浜(波多浜)」。
与那国随一の港であったが湾口が北向きのため季節風の影響を受けて入港には困難を伴った。

「なんた浜うりてぃむちゃる盃(さかじき)や 涙(みなだ)あわむらし飲みぬならぬ」

民謡「ドゥナン・スンカニ」(「スンカニ」とは恋と別離の情をうたいこんだ歌)

琉球王朝時代、税を取りにくる役人をこの浜で迎え入れた島の娘たちの秘話が伝えられている。


琉球弧の島々を飛ぶ (34) - 与那国島・ティンダバナ

2009-09-07 | 沖縄
与那国島の北東にある祖納集落に、隆起珊瑚岩塊の“ティンダバナ(天蛇鼻)”がある。
高さ70mの自然展望台で、ここは与那国の歴史、伝説の源である。

伝説によると、16世紀に巨漢の女酋長である「サンアイ・イソバ」が住んでいて、その弟たちを島の各地に配置し、良い政治を行い国を治めていたと言われている。 またこの展望台からは、祖納の集落とナンタ浜を眺望することができる。

イソバは太った怪力無双の大女で、15世紀末から16世紀頭に活躍した島の統治者だ。祖納からみえる高台ティンダバナの上、サンアイの大木(ガジュマル)のある村に住み、島人から尊敬を集め「サンアイイソバ」,「イソバアブ」(アブ=女性の尊称)と呼ばれていた。

4人の兄弟を村に配し、新村建設、牧場開拓、新田開墾、宮古との貿易などを仕切った。イソバは朝夕拝所に祈願し、一種の司祭者的存在で、島を統治して祭政両面 を主宰した。飼い牛を連れ、島をまわり、自ら鍬をもち開墾に汗した。島の暮らしはとても豊かだったという。

ある日、八重山征伐帰りの琉球王国の軍(宮古勢)が奇襲して、ふもとの村を焼き討ちされた。高台から炎をみたイソバは刀を握り、麓に駆け降りて戦の先頭に立ち敵を夢中で切り倒した。大将の一人を宙に吊し上げ敵を追い詰め、遂に撃退したという。

しかし琉球王国の与那国制圧は年々進み、琉球の島津侵入後ついに人頭税が課され、人減らしのクブラ割りやトゥング田など与那国は苦難の歴史を刻むことになる。


『街道をゆく- 沖縄・先島への道』の中で、司馬遼太郎氏は、サンアイ・イソバを「収奪者としての首長で はなく、東アジアの古代の村落の指導者にしばしば存在したように、巫女であった」「彼女の名が後世まで残っ たのは、上陸してきた琉球王府の軍隊に対し、島人を指揮し、これを撃退したからである」と書いている。



琉球弧の島々を飛ぶ (33) - 与那国島

2009-09-06 | 沖縄
日本最西端。台湾まで111㎞。
年に数回は台湾の島影が見えるという国境の島、与那国島は、古くから“渡難(ドゥナン)”と呼ばれていた。
切り立った断崖に囲まれた島の周囲の海は荒れやすく、かつての渡海は大変な困難を伴ったという。
一方この絶海の孤島の周囲には、フィリピン沖で誕生した豊かな黒潮が流れ、様々な大型回遊魚が集まる。

与那国島の久部良を舞台に、一人の漁師を追った記録映画『老人と海』(1990年)が製作された。
小さなサバニを操り、カジキマグロと格闘しながら釣り上げる老人の姿がドキュメンタリーで描かれている(主人公の糸数繁さんは映画完成後、サバニでカジキ漁中に亡くなった)。

1986年、島の南側にある新川鼻(あらかわばな)岬の沖合100mほどの海底で1986年、巨大な一枚岩が発見された。「一枚岩」は周囲数百メートルに及ぶ巨大なもので、人工的に切り出したような跡や、階段状の壁、柱が立っていたと思わせる穴など、人が加工しなければできないかのように思われる形状を備えていたため、遺跡ではないかと報道された。
そして、この海底地形を巡っては、グスクと呼ばれる城塞だという説、神殿、水中の墓、石切り場だったという説から、与那国島の海底遺跡こそムー大陸の一部だったという説まで、実に様々な説が唱えられるようになったのである。


琉球弧の島々を飛ぶ (32) - 黒島・宮里海岸

2009-09-05 | 沖縄
“牛の島”として有名な黒島は、のんびりと時間が流れるハート形の島。
人口約220人に対して、牛の数は3000頭を越える。

島最大の行事である「豊年祭」は、島の西海岸に位置する、宮里海岸で行われる。

すべての穀物が収穫を済ませた旧暦の六月、今年の豊作を海の彼方「ニライカナイ」の神に感謝するとともに、来年世(やいねーゆー)すなわち翌年の豊穣を祈願するため、島を挙げて行われる。
ハーリー「爬竜船競漕」は、祭りのメインイベントであり、他の地域にはない独特のもの。

その昔、各島では琉球王府の命令により、農作物の増産督励を目的とする作付け面積を競う原勝負(ぱるすーぶ)が、年中行事として行われていた。
ある年のこと、黒島では、原勝負が引き分けとなったため、広場での綱引き、はては海上での船漕ぎ競争にまで持ち込まれ、ようやく勝敗を決したといわれる。
ところが、その年はかつてない程の豊年満作となり、それ以来、黒島の人々は、世果報世(ゆがふゆー)、弥勒世(みるくゆー)は、大渡(うぶどぅー)、海渡(いんどぅー)からもたらされるものであると固く信じ、世請い(ゆーくい)神事としての豊年祭を、海上における爬竜船漕ぎを中心に行うようになったという。

午前のハーリー終了後に奉納芸能が始まり、初めに“ミルク”の神様が来訪する。
八重山の豊年祭にはミルク様が現れるものが多いが、海辺でミルク様が舞う島は他になく、白砂のビーチと紺碧の海を背景に大変絵になる。

その他様々な芸能が、神に奉納され、島は、一日祭りでにぎわう。
観光客も他の島に比べて少なく八重山で一番自然の残っている島かもしれない。
また黒島の海は八重山でもトップクラスの美しさといわれ、産卵のためにウミガメが上陸してくる。

のんびりとした牛と海亀の島…


琉球弧の島々を飛ぶ (31) - 石西礁湖・ニライカナイ

2009-09-04 | 沖縄
八重山の海は美しい。

沖縄では海の遥か彼方にニライカナイ(桃源郷)があるという。
年の初めに豊穣の神がやってきて、人々に幸をもたらし、年の終わりに還っていく。
人間の魂もニライカナイからやって来て、死してまたニライカナイにもどる。

この概念は、本土の常世国の信仰にあたり、柳田國男は、ニライカナイを日本神話の「根の国」と同一のものとしている。

抜けるような青空の下、ぼんやりと機窓を眺めていると、透明感あふれる八重山の海が、ニライカナイに誘っているような神秘的な気持ちになった。

琉球弧の島々を飛ぶ (30) - 石西礁湖

2009-09-02 | 沖縄
石西礁湖とは、石垣島と西表島の間に広がる、日本最大のサンゴ礁。
石垣島の「石」と西表島の「西」という文字を取って名づけられた。
 
沖縄の他の海域の多くのサンゴ礁が島の周りを取り囲むように発達し、その幅はせいぜい数百メートルから数キロほどなのに対し、この石西礁湖は東西約30km、南北約20kmの広大な面積を有し、その中に竹富島、小浜島、黒島、新城島が点在している。世界最大のサンゴ礁として有名なオーストラリアのグレートバリアリーフ(『大堡礁』)の小型版といった地形で、『準堡礁』と呼ばれる。

400種を超える造礁サンゴが分布し、沖縄本島等へのサンゴ幼生の供給源としても重要な役割を果たしている。
1972年に西表国立公園に指定され、1977年には“タキドングチ(竹富島周辺)”、“シモビシ(竹富島周辺)”、“キャングチ(黒島周辺)”、“マイビシ(新城島周辺)”の4地区が海中公園地区に指定されている。

石西礁湖は重要な観光資源として利用されている一方で、オニヒトデの大発生や高水温による白化現象、陸からの赤土の流出や浚渫による海水の濁りなど、さまざまな要因によって大きな危機に瀕している。


琉球弧の島々を飛ぶ (29) - 西表島・由布島

2009-09-01 | 沖縄
三線を聴きながら西表島と由布島の間を水牛車に揺られて行き交う光景は、八重山の象徴的な景色としておなじみである。
由布島は、周囲2.15km、海抜1.5mの小さな島。「ゆぶ」とは砂州を意味するという。潮が引くと西表島と由布島は陸続きとなる。

西表島は古くからマラリアの発生地として入植を拒み続けてきた。
由布島に集落が作られたのは、戦後の昭和22年(1947年)に竹富島や黒島からの入植による。
昭和23年には小学校も作られ、一時期は人口が100人にもなったという。
もともと由布島は平らで風通しが良かったので、マラリアを媒介する蚊が少なかったこともあり、対岸の西表島に水田を作り、由布島の家で寝泊りをするという生活が行われていた。しかし、昭和44年の台風(エルシー台風)で多くの死者を出し、甚大な被害を被ったことで、ほとんどの島民は西表島(美原地区)へ移住した。

しかし、この島を「ハワイのような夢の楽園にしたい」。そう願って島を開墾し続けた人物がいる。
西表正治氏(平成15年11月96歳で逝去)である。

台風の被害でみんなが島を離れるなか、周囲から変人呼ばわりされながらも、四半世紀かけて島に残り、道を整備し、椰子を植え、草花を植え、そして昭和56年には遂に「手づくりの楽園」を作りあげた。(『楽園をつくった男 沖縄・由布島に生きて』森本和子著)

由布島の現在の人口は5戸、15人。