明治元年11月15日、早朝。
榎本武揚を乗せた徳川艦隊の旗艦「開陽丸」は江差、鴎(かもめ)島に迫り、対岸に向けて7発の砲弾を撃ち込んだ。そのとき、すでに住民の多くは避難し、町は無人となっていた。
端舟で上陸した幕兵は、直ちに陣屋と砲台を占拠。開陽丸は鴎島の島影に停泊し、榎本軍は無血で江差を占領した。
町内随一の旅館「能登屋」で疲れを癒していた榎本司令のもとに「開陽丸、沈む」という報告がもたらされる。飛び起きて浜に駆け寄ると、北国の厳しい高波が傾いた開陽丸を襲っているのを見て、呆然と立ちすくんだ。
その頃、松前から浜伝いに藩兵を追ってきた土方歳三の軍が、予想を超える抵抗に合い、苦戦を続けていた。土方が抵抗線を突破して江差に入ったのは翌16日のことでだった。血なまぐさい戦闘服姿のままで能登屋に駆け込んだ土方が見たものは、海に目を凝らして動かない榎本の姿であった。
この日、二人にお茶を運んだ能登屋の女中は、ただお茶を届けるだけで、話を交わしたわけでも、眼があったわけでもないのに、わけもなく体が震えて止まらなかったという。
能登屋を出た二人は、本陣とした順正寺に向かう。途中、この時は無人となっていた檜山奉行所があり、門前まで来た二人は、そこでまだ3分の1を海面に晒した開陽丸を眺めた。
よほど悔しかったのであろう。土方は目の前にあった松の幹を何度も拳で叩きながら、涙をこぼした。
後年、土方が叩いた松の幹に瘤ができ、人々はこれを「歳三のこぶし」と呼んでいる。
開陽丸はオランダで建造されて僅か1年7ヶ月の短い生涯を閉じた。
そして、開陽丸を失った榎本軍は、明治2年、函館で新政府軍に降伏し、戊辰戦争は終わりを告げる。
「葵の枯れゆく散り際に開陽丸」
榎本武揚を乗せた徳川艦隊の旗艦「開陽丸」は江差、鴎(かもめ)島に迫り、対岸に向けて7発の砲弾を撃ち込んだ。そのとき、すでに住民の多くは避難し、町は無人となっていた。
端舟で上陸した幕兵は、直ちに陣屋と砲台を占拠。開陽丸は鴎島の島影に停泊し、榎本軍は無血で江差を占領した。
町内随一の旅館「能登屋」で疲れを癒していた榎本司令のもとに「開陽丸、沈む」という報告がもたらされる。飛び起きて浜に駆け寄ると、北国の厳しい高波が傾いた開陽丸を襲っているのを見て、呆然と立ちすくんだ。
その頃、松前から浜伝いに藩兵を追ってきた土方歳三の軍が、予想を超える抵抗に合い、苦戦を続けていた。土方が抵抗線を突破して江差に入ったのは翌16日のことでだった。血なまぐさい戦闘服姿のままで能登屋に駆け込んだ土方が見たものは、海に目を凝らして動かない榎本の姿であった。
この日、二人にお茶を運んだ能登屋の女中は、ただお茶を届けるだけで、話を交わしたわけでも、眼があったわけでもないのに、わけもなく体が震えて止まらなかったという。
能登屋を出た二人は、本陣とした順正寺に向かう。途中、この時は無人となっていた檜山奉行所があり、門前まで来た二人は、そこでまだ3分の1を海面に晒した開陽丸を眺めた。
よほど悔しかったのであろう。土方は目の前にあった松の幹を何度も拳で叩きながら、涙をこぼした。
後年、土方が叩いた松の幹に瘤ができ、人々はこれを「歳三のこぶし」と呼んでいる。
開陽丸はオランダで建造されて僅か1年7ヶ月の短い生涯を閉じた。
そして、開陽丸を失った榎本軍は、明治2年、函館で新政府軍に降伏し、戊辰戦争は終わりを告げる。
「葵の枯れゆく散り際に開陽丸」