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スサノオ追放伝説と、出雲の国譲り伝説は、ヤマト・出雲の軍事同盟か⁉

2018-11-10 23:25:12 | 古代文明

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本日もご訪問、本当にありがとうございます。 

拙ブログでは、ちょっと変わった視点から、日本の古代、今の日本の原型ができた大和朝廷発足の謎を探ることがあります。

幸福の科学も大川隆法総裁が、超がつく人類の歴史、そして古代の歴史を霊的な視点から解き明かしておりますが、私も地理、そして考古学ヲタク的な視点から見ておりますが、神話の探求からも見てみたいと思います。

私が、勝手に唱えている(笑)神武東征伝説は、当時急速に軍事力を増強させていた朝鮮半島国家群に備えて、天皇を安全な場所=奈良盆地に移動させるための遷都と位置づけております。 

その根幹は、「神武東征の大部分は交渉であり、その交渉のアイテムとして、米や酒の技術が全国に伝播し、交渉成立のお祝いが祭りだった。」というものです。 

こう見ると、日本神道の儀式の大部分が説明がつくのですね。

私はこの期間における、九州ヤマト国と、他の国々との関わりが、その後の、日本神道の儀式や文化に、相当の影響を与えているのではないか?と考えています。

今回の記事の内容は、右翼系の方や、国粋主義的思想をお持ちの方から見れば、「不敬罪だ!!」と、非難されるものかも知れません。(笑)

卑しくも、拍手というものは、場の穢れを祓い云々也と、お怒りになるやも知れません。

しかし、宗教というのは、それが拡がる過程における、さまざまな事柄が、行事や宗教アイテムに、取り入れられているものなのですね。

たとえば、キリスト教におけるクリスマスツリーは、その代表的な例です。
イエス様が人生をお過ごしになったユダヤの地には、モミの木なんかありませんね。
ユダヤは砂漠地方ですから、モミの木のような針葉樹はありませんし、当然雪もかぶっておりません。
これはドイツの、”冬至の祭り”の風習を、キリスト教が取り入れたのです。

イエス様の誕生日が、12月25日というのも、か・・・な・・・り・・・怪しいです。
恐らく、冬至=イエス様ご生誕日と、キリスト教伝道者が、勝手に決めちゃったんじゃないでしょうかね。(笑)

仏教でも、旅の行者が持つ、ジャラジャラと音の出る”杖”が、宗教アイテムです。

これなどは、古代インドでの、”蛇除け・猛獣除け”ですね。
お釈迦様も、インド中を行脚なさっていますので、移動に関する道具がジャラジャラ杖なのです。

お線香なども虫除けでしょうし、精舎でたくさんの人が、一堂に集まるとさすがに臭いです。(笑)

それで香を焚く工夫が、お釈迦様当時からなされていたはずです。

ですから、日本神道も同様に、儀式や儀礼建築物などは、教えの内容やそれが持つ芸術性だけでなく、その伝道や、普及過程での背景などにも、かなり影響されているはずなのです。

私はこの期間における、九州ヤマト国と、他の国々との関わりが、その後の、日本神道の儀式や文化に、相当の影響を与えているのではないか?と考えています。

さて、日本神道と言えば、宗教建築物は神社です。
神社は大抵、森の中にありますね。
いわゆる、”鎮守の森”ですね。 

森の中に宗教施設を作るのは、世界では日本の神社だけなのではないでしょうか?

普通ですと、宗教施設は、もっと人が集まりやすい場所や、目立つ場所に作るはずです。

さて、縄文時代の集落は、主食である ”栗” の林に囲まれていました。

縄文後期が発祥と思われる日本神道ですので、その宗教施設である神社が、木々の蔽い茂る中に作られたのは、こういった歴史的背景があると思われます。

また、九州ヤマトの国の使者と、縄文系代表とが、秘密の交渉をするには、木々の蔽い茂る森林は、もってこいの条件だからです。

神社といえば、祠(ほこら)があって、大きな鈴を鳴らして、拍手(かしわで)を打ちますね。

例えば柏手(かしわで)は、一種の「合言葉」的な要素や、もしくは、「会議の開始の合図」というものではなかったでしょうか?

その様子は、このようなものと思うのです。

ヤマトの国の使者(もしくは天皇)は、まず”森”の中に祠(ほこら)を建てます。
そこが打ち合わせの場所となります。これが神社の原型ではないでしょうか?

交渉内容は、ヤマト国への協力依頼と、米の生産技術に関するものが多かったはずです。

今でも、天皇陛下は年中行事として、多くの農業、特に米に関する行事を行っていらっしゃいます。

4月上旬に種籾(たねもみ)を蒔く 【お手まき】 5月下旬に【お田植え】、そして、10月上旬に【お稲刈り】をしています。
またその秋収穫された米は、11月23日の【新嘗祭】という、収穫を感謝する祭儀で使われます。

また今でも、お祝い事の際には、赤飯(せきはん)が炊く習慣がありますよね。
めでたいから赤い色を着けるのかと、私も最近まで思っていましたが、しかしどうやら、日本の古代のお米は、赤かったらしいのです。

その後の品種改良で、お米の色は白くなりましたが、赤飯は古代、この時代の祭りなどの際に使われた、”赤いお米”にまつわるものかも知れません。

それが、日本神道における最高の司祭としての天皇という位置付けの原型につながると思います。

世界遺産・下鴨神社の鎮守の森。二千年の歴史に抱かれる邸宅。

さて、遺跡等を見る限り大和朝廷発足以前の日本で、もっとも軍事力の強い地域は、どう見ても九州です。

それは遺跡からみて、国内では圧倒的な軍事力を、九州が保持していたことは確実で、鉄器など日本唯一のスーパー軍事力を有する当時の九州であれば、兵器の出土しない縄文的牧歌的な当時の日本国内を、軍事力で平定するのは容易だったに違いありません。

しかし困ったことに、当時の朝鮮半島国家群を、日本列島に引き入れないようにするためには、九州から軍備を移動できないのです。

ですから軍隊を九州から動かさず、また、天皇が近畿に移動していることも、朝鮮半島側に悟られないように行う必要性があったはずで、九州のヤマトの国と、他の地域との交渉は、朝鮮半島側に見えないように工夫される必要があり、そのために、うっそうとした森林で、拍手(かしわで)や鈴といった、神社で行う作法を合言葉にして、秘密裏に行われていた可能性が高いと思います。

神社と言えば、必ず「鎮守の森」にありますけれども、宗教施設が周囲から見えないように立っているのは、世界の中で日本の神社くらいではないかと思うのですが、これは日本神道発祥の時点において、「秘密の交渉」をしていたのではないかと思うのです。

しかしここで、ひとつの疑問点が出てまいります。現在の島根県にある出雲大社です。 

出雲大社だけは、日本神道の特徴的儀式である拍手(かしわで)の数が、他の神社とは違っていて、通常ですと二拍手ですが、出雲だけは四拍手なのです。

 

そして10月のことを、神無月(かんなづき)と言いますが、出雲地方だけは、10月に全国の神様が出雲に集結するので、神在月(かみありつき)と言います。 

明らかに、出雲は別格で、「どういうことなのか?」と思うのですが、この日本神話の謎を、私流に解き明かしてまいるならば、出雲地方、現在の島根県の地理的な特徴から迫って見たいと思います。

出雲地方に面する海は日本海です。

実は出雲地方沖には、対馬海流という暖流が、西から東へと流れていて、当時の船ならば、朝鮮南端から最も早く付くのは、出雲地方なのですね。

北九州地方が、直線距離的には近いのですが、海流を使って移動することを考えれば、出雲の方が便利な地域なのです。

 

つまり出雲の国は、朝鮮半島国家群と、九州にあるヤマトと同等以上に、つながりが深かった可能性が高いのです。 

そして出雲だけが、四拍手。 

これらを総括して、神代の時代のヤマトと出雲の関係を探り、出雲の国譲り伝説を推測すると、ヤマトと出雲は、同盟関係だったのではないでしょうか?

以前の記事では、奈良盆地の地形的条件から、神武東征の目的は、朝鮮半島からの防御にあるということを述べましたけれども、要するに大和朝廷は、奈良盆地という、朝鮮半島からの攻撃を想定した上での、鉄壁の要塞のような場所に造られたということです。

奈良要塞都市説と言っても良いですね。

つまり、ヤマト国の使者は、朝鮮半島諸国に動きを知られては困るので、他の縄文系諸国に、かくまわれていたはずなのです。

奈良盆地という、難攻不落の要塞地形であれば、ヤマトの国の軍隊は、奈良盆地に攻め入ることは不可能です。
攻め込めば被害は甚大となるので、私ならば、さっさと諦めます。(笑)

地元での、何らかのお膳立てがなければ、征服どころか無事に進入することすらできません。
つまり、九州から奈良盆地への神武東征は、軍事侵攻ではなかったと考えます。 

盆地には、大軍は入れませんから、あったとしても、ごく小規模のものだったはずです。

matsuri_eye 

そして交渉成立が成れば、酒と米とでお祭りが始まる・・・。

だから日本人は、お祭り好きなのかもです。(笑)

また、今でも神社での行事では、身を清めるということを重視します。

体を洗い、清潔にし、口を水ですすぐ。

これらは、日本人の清潔好きから来たとも言えますが、ひょっとしたら、縄文系の代表が、ヤマトの使者との会見の時に、体を拭かされたのではないでしょうか? 

体を拭くには、衣服を脱がなければなりません。

そうすると当然、武具を身に着けているわけにはいきませんからね。 

ということで、神代の時代=弥生時代が、いつの間にか、米作が広がり、いつの間にか、都が奈良になり、いつの間にか、日本神道が普及しているのは、それらを、九州ヤマトの国、今の天皇一族に関係する人たちが、平和的交渉を機軸にして、日本の東方に押し広げたからではないでしょうか? 

こう見ることで、解ける謎があります。 

出雲の大国主命(オオクニヌシノミコト)の、有名な国譲り伝説と、日本古代最大のミステりーと言われる、卑弥呼の邪馬台国です。

つまり、出雲が四拍手、また他のヤマトを宗主国とする、ヤマトの傘下に入る地域が二拍手なのは、交渉を別にすることが目的だったのではないでしょうか? 

なぜなら、傘下に入る地域に、同盟の内容を知られては困るからです。

それは今であれば、傘下に入る企業が、提携関係を模索している企業との交渉に同席できないのと同じです。 

また出雲の国が、朝鮮と親密であれば、近畿への遷都をしていたヤマトの動きを、出雲の国側に知られても困るはずなのですね。

ですから、出雲と他の地域とでは、接点がないようにしないといけないはずなので、「出雲だけが四拍手」なのではないでしょうか?

  

そして最終的に、出雲は今の日本列島の支配権をヤマトに譲ります。

しかし重要なのは、出雲地方の支配権は譲らなかったことです。

「出雲は、我々が支配する。」

この言葉は、一見、意味不明言語です。「出雲」というのが、今の島根県北部地域の名称とは限らない可能性があります。

この場合の「出雲」の言葉がもたらすのはどういう意味でしょうか?

それは、今の島根県地方に加え、朝鮮半島にあった交易権のことも、含んでのことではないでしょうか?

つまり、「日本列島は、あんたらヤマトが支配すれば良い。」「しかし代わりに、朝鮮半島との交易権は、出雲の国が独占させてもらうよ。」

これが、出雲の国譲り伝説の本質ではなかったかと思うのです。

なぜならば、天照大神の弟の荒神スサノオノミコトは、高天原から人間界に追放されますが、その後、出雲に赴くのですね。

スサノオノミコトは、出雲の根源神でもあるんです。

当時の感覚や言い方で、人間界とは朝鮮半島であり、任那(みまな)など今の朝鮮半島南端と、現在の島根県周辺を合わせたものが、広義の「出雲」と言われていたのではないでしょうか?

そして高天原とは、日本列島諸国のことだったとすれば、出雲の国譲り伝説の意味が、つじつまがあってくると思います。 

つまり、朝鮮に日本の支配権があったことは、縄文遺跡やその後の任那日本府などから明らかですが、任那を実質的に支配し、交易の権益を持っていたのは、出雲の国なのではないかということです。 

そして、ヤマトが日本列島を統治権を持ち、出雲が大陸との交易圏を持つことは、両者にとって、最もWinWinな交渉でもあるのです。

日本の支配権以外の、武装化した朝鮮半島国家群から見れば、九州の強国ヤマトと、朝鮮半島に権益を持つ出雲とが同盟を結べば、そうやすやすと侵攻できませんし、ヤマトと出雲は、お互いの取り分を確認できますから。

出雲大社は、伝説の高層建築の神社を、海に向かって建っていたというのも、最近の考古学的な発見ですが、これはつまり、朝鮮半島国家群の、海からの進出を見張るためと考えれば、つじつまが合うのです。

まとめると、ヤマトと出雲の同盟こそ、出雲の国譲り伝説の本質であり、スサノオの追放先は、当時の朝鮮半島ということになると思うのです。

本日は、幸福の科学の時間論であり、神の歴史書でもある経典『黄金の法』(幸福の科学出版)より、一部抜粋をお届けいたします。

       (ばく) 

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天照大神は、日本神道系では、最高神、あるいは、主宰神のように言われております。というのは、天照大神は、女性でありながらも、初めての女帝の地位、すなわち、高千穂国の女王となったことに起因しているのです。天御中主命から数えて五代目ぐらいの国王にあたります。

天照大神が初めて女王となったのは、高天原、すなわち、八次元如来界から天御中主命の神示が下ったからです。「我が国を、美しく、麗しき国となすために、女性に統治させるときがきた。伊邪那岐命という高徳の人がおられるから捜し出せ。その娘が、我が国を取り仕切る方である」と命令されました。

このように、神代の時代は、天上界からの神示を受けて、次期政権担当者が選ばれたのです。しかも、国王の地位も終身制ではなく、その人の心に邪心や欲心が出てきた場合には、天上界から神示が下って交代させられました。

祭政一致とよく言いますが、当時は、霊能者の数も多く、また、人々から大変な尊敬を受けていたのです。普通は、最高の霊能者が統治者となり、神示を仰ぎつつ、国政を取り仕切っておりました。

高級霊からの神示は的確で、だれひとりとして異論をはさめず、そのため、政治に秩序があったと言えます。

その時代にくらべると、現代の政治家たちは、知名度によって選出され、数のカで支配しており、やはり無秩序の感を免れえません。

真理に対して盲目の人々、権勢欲のみに目がくらんでいる人々による衆愚政治の観があります。一日も早く、徳治政治への切り換えが、また、人徳ある人の出現による政治の向上が望まれます。
『黄金の法』(幸福の科学出版)P199~201


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