幸福の科学高知 なかまのぶろぐ

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卑弥呼の邪馬台国と、ミステリアスな古代日本のロマン。

2018-11-27 00:27:56 | 古代文明

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本日も、幸福の科学高知なかまのぶろぐにお越しいただき、本当にありがとうございます。

さて、時折お届けしている古代日本の話題、とてもご好評をいただいております。

私は別に国粋主義的な人間ではないのですが、先入観を抜きにした、仏教的視点、そう、原因結果のみの視点でみたときに、「古代の日本ってすごいな。」と率直におもってしまいます。

古代朝鮮からは、縄文土器や古墳が発見されます。

これは古代日本と朝鮮とに、深い交流があった証です。

 

特に古墳は、死生観の共有の証であり、古代日本の歴史書と言われる古事記や日本書紀を読み解くに当たっては、こういう、当時の社会情勢を無視した、古代人=原始人というレッテルははずすべきだと思います。

それは、真に真実を探求する姿勢ではないです。
ヤマトの国の前文明である縄文日本は、高度な海洋国家です。
かなり広範囲の朝鮮半島と交流し、文化圏や居留地があったはずです。

また、縄文文明には武具の発展した形跡が全くなく、完全な平和の文明です。

その後の中国の国家成立を受け、それに伴って発展した武具を手にした朝鮮半島国家群に押される形で、朝鮮半島南部の任那(みなま)まで撤退したのが、九州ヤマトの国の脱縄文のきっかけかも知れません。

弥生初期の遺跡、九州の吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は、物々しい櫓(やくら)があり、警戒色の強い遺跡です。

このような明らかな軍事的緊張を表現した遺跡は、現在のところ九州でのみ発見されます。
これは、九州の人々は高い軍事的緊張を感じていたが、他の地域はそれほどでもなかったという証拠とも言えます。

それらの点を考慮しての、この時代の動きに着目して参ります。

さて、この九州を表舞台で、国際的にはとても目立つ形で行われた卑弥呼外交。

その裏で、初代天皇と言われている、「カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)の東征」と言われる、近畿地方への遷都が、卑弥呼とは対照的に、ひっそりと採り行われたのではないでしょうか?

私の説では、米と酒外交で、縄文系の東国の日ノ本の国々への段取りは、もう全て済んでおります。
ですから東征という軍事的行動を現す表記が、むしろ物々しすぎるのであって、実際は交渉だったと推測します。

恐らく、米と酒という新たなエネルギー源と、産業テクノロジーを引っさげたヤマト国の人々は、五穀豊穣の神、子孫繁栄の神として、縄文系の九州以東の日ノ本の民たちに、篤い信任(信仰)を得ていたはずです。
ヤマト国の長の遷都に、協力しない方がむしろ理に適いません。

陸路を通ったのか、海路を通ったのかは、はっきりとは私にはわかりません。
しかし恐らく、大部分は海路ではないかと思います。

この頃の古墳遺跡が、日本各地で見つかります。

しかし近畿以外は、なぜだか各地に点在して存在しています。
ですから、陸路からキチキチと弥生化していたのではなく、海路で移動し、拠点拠点を弥生化していたのではないでしょうか?



九州ヤマトの国との、言わば連立共存関係を結ぶことで、他の地域は米の生産が可能となり、豊かさを手にできたと考えれば、恐らくその後の天皇へとつながるであろう日本神道の神々が、五穀豊穣の神としてあがめられたのもつじつまが合います。
つまり「日本各地に、今の天皇家の先祖の方々が米を普及し、同時に勢力を拡大させた。」ということが、その後の、天皇を中心とした国つくり伝説として、日本神道の神事や、日本の神々の伝説として、後の世に語られていったのではないでしょうか?

そしてこれだと、「九州に正規軍を残しての東征」という、平和裏の遷都と勢力の東国への拡大、そしてその後の、近畿での大和朝廷発足という、歴史のウルトラCが可能なのです。
私には、それ以外の方法は無理だと思いますね。

平和裏の東征というモデルは、その後の日本の歴史にも登場いたします。
明治維新のヒーロー、西郷隆盛の実例です。

西郷隆盛は、京都での鳥羽伏見の戦いの後、江戸無血開城に至るまで一戦も交えてはいません。
道中は、東海道も中山道も、徳川方の大名の領地ばかりです。
普通なら、戦を繰り返し、敵をなぎ倒し続けて、本拠地江戸に向かうのが常です。

なぜ新政府軍と幕府軍には戦がなかったか。
西郷が江戸に向かう前に、段取りは全て済んでいたからです。

西郷が主に戦ったのは、江戸城無血開城後の徳川勢力の残党との戦いです。
この時には、敵をなぎ倒し続けて、西郷ら新政府軍は北進しました。

幕末と同じことが、実際の神武東征でも行われたのではないでしょうか?
大和朝廷の戦いの史実やそれらを記した伝説は、日本武尊伝説など、近畿で大和朝廷ができて以降のものしか存在しないからです。

まとめると、国際的、対外的には、卑弥呼の邪馬台国(ヤマトの国の中国読み)が引き受ける。

そして、いざ朝鮮諸国との戦になれば、九州の”卑弥呼の邪馬台国”が、防人として立ち向かう。

当時の国際的には九州の、卑弥呼の邪馬台国がどうしても目立つので、その裏でひっそりと行われている、近畿への政治拠点移しは、国の外からは見えないのです。

つまり、外交上の窓口と囮(おとり)としての役割も、卑弥呼の邪馬台国が兼ねる訳です。
そして、新しい日ノ本(ひのもと)の、国づくりや国家形成は、大陸の影響を受けにくい近畿のヤマト(後の大和朝廷)が、静かにじっくりと行う。

こういう体制作りが、この卑弥呼の時代前後に、執り行われたのではないでしょうか?
つまり、卑弥呼外交は、ヤマトの東国への拠点移動を、国際的に見えなくする、政治外交パフォーマンスであり、それは同時に、ヤマトの国が新たに、近畿に拠点を移す、最後の仕上げであったと、私は考えているのです。「浦安の舞」の画像検索結果

卑弥呼登場は、今から1800年ほど前になります。
神武東征が行われたのは、日本書紀や古事記等の歴史書で言えば、今から2500年ほど前になります。
時系列的にもおかしくはありません。

むしろ、通常の歴史で言われている、卑弥呼→神武東征→近畿の大和朝廷説の方が、時系列的には無理があります。
短時間で行われていますから、当然激しい戦闘が必要です。
そのような伝説は、日本のどこにも存在いたしません。

激しい戦いがあれば、必ず伝説は生まれ英雄が生まれるからです。
この幕末や倒幕後の戦いには、ドラマが付きまといます。
現在も、大河ドラマで放映されております。

しかしたくさんの英雄が輩出した幕末でも、鳥羽伏見の戦いから江戸無血開城までの限られた期間には、伝説も英雄伝も存在しませんよね。
なぜなら、戦いそのものがなかったからです。

弥生時代の、近畿での大和朝廷成立までの静かな歴史の秘密も、「戦いそのものがなかったから」というのが、最もつじつまの合う答えだと思います。
「東征という名の交渉だった。」のだと思います。

「古代日本 神武東征」の画像検索結果

神武天皇の近畿入りの際の戦いは、最後の抵抗勢力との戦いとも見て取れます。

また邪馬台国近畿説は、当時の武具の違いを説明できません。
この当時はまだ、当時の近代的武具を持っていたのは、九州地方だけだからです。
当時の日本では、九州だけが飛びぬけた、そして唯一の軍事大国なのです。

その後の弥生的な文化の流れや、当時の武具の性能から、九州→近畿という流れがあったという方が自然です。
これだと、大和朝廷発足時に既にあった、朝廷の九州への影響力も、すんなり説明が付きます。

ともあれ東アジアでの、巨大国家の発生という歴史的脅威に対して、日本は上記の記事ような工夫で、この時期を乗り切った。
それが、日本の神話となり、これまでの日本の精神的支柱となった。

そのようなロマンを、私はこの時代に感じるのです。

本日は日本神道の主催神、天照大神の御神示『最大幸福社会の実現─天照大神の緊急神示』(幸福の科学出版)より、一部抜粋をお届けいたします。

何度読み直しても、心身が引き締まります。

       (ばく)

 

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もっと強くなりなさい。ただただ、「もっと強くならなければ駄目である」ということです。
今の日本の状態は、たとえて言えば、学校でいじめられた子が、「他の子に悪口を言われた」と言って、勉強に集中できず、すごすごと家に帰ってくるような状況に近いと思います。

もっと強くならなくてはなりません。もっと、自分自身に対して厳しく修行を積み、強い国家になっていただきたいと思います。

われわれは、断じて、侵略国家ではありません。「われわれは、むしろ、侵略的な国家に被害を受けた国家であるのだ」ということを忘れてはならないのです。
アジアの人たちを解放しようとしたことは、正しい行為です。日本が戦わなければ、アジア全部が欧米の植民地になっていたのです。
われらは、世界から植民地をなくしました。大きな犠牲を払いましたけれども、尊い仕事を成し遂げたのです。

何百万もの人の命が失われたかもしれないけれども、彼らは犬死にしたのではありません。「世界から植民地をなくす」という大きな使命を果たしたのです。

また、日本は、「日清」「日露」という大きな戦いにおいても、世界の大国としての力量を示しました。神の国としての力量を示したと思います。

今は、アメリカという国とも仲良くしておりますので、その関係は大事にしなければならないとは思いますけれども、日本の国の独自のよさというものを、しっかりと護り、打ち出していくことが大事です。

そういう、自覚の面における「強さ」が必要だと思います。
自分の国に自信を持てないような子供を育てないようにしていただきたい。自虐的な大人をつくらないようにしていただきたい。
また、そうした人間をつくることでもって生業としているマスコミ稼業の人たちに対して、深い反省を迫るものです。(中略)

先の戦争で日本は敗れましたけれども、それでもって、すべてが消し去られたわけではありません。
日本が敗れて五年後、朝鮮戦争が起き、マッカーサーは朝鮮半島を攻撃しようとしました。そのとき、彼は、日本の国がしようとしていたことの意味が、やっと分かったのです。「日本は、自国の防衛のために、さまざまな備えをしていた」ということが、やっと分かりました。

結局、日本が敗れたために、その後、米ソの長い冷戦時代と核開発競争が起き、また、中国では、共産主義革命が起きて、何千万人もの中国人民が殺されることになりました。さらに、ポル・ポト革命では、二百万人もの知識人が骸骨にされるようなことも起きました。

日本が負けていなければ、このようなことは起きなかったのです。このようなことは断じて許してはならない。「無神論・唯物論思想の国を、勝つ側にしてしまった」ということは、先の大戦の大いなる過ちであり、この過ちは歴史において正されねばなりません。
『最大幸福社会の実現─天照大神の緊急神示』(幸福の科学出版)P72~77

 

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※高知県内映画『宇宙の法・黎明編』外部会場上映予定※  

・12/1(土)本山町プラチナホール 2F研修室
  (時間)①13時 ②15時

・12/9(日)野市中央公民館 第1大研修室
  (時間)①13時 ②15時


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