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私は歴史好きでして、特に好きな時代があるわけではありませんで、『歴史の謎』が大好きなんです。
『歴史』と言えば、今を生きる我々の日々の暮らしだって、数年後数十年後数百年後には歴史になっているわけで、歴史というのは決して、過去という異空間の出来事ではなくて、『過去の人々の日々の暮らし』なのです。
そういう、『過去の人々の日々の暮らし』という視点で、様々な歴史を読み返してみると、別の視点が見えてくるから歴史は面白い。
たとえば、縄文時代は、世界の5大文明に入れるべき文明だと思います。
古代日本に、建築物とか史実=文字が残っていないので、低く見られがちですが、建物は木造ならばまず残らないですし、また史実がなくても、それは古代日本に文字がなかったという証拠ではないのです。古代人が、石に刻んでいなかった可能性だってあるからです。
これはまた後日記載しますが、むしろ、古代日本に文字があったとしたほうが、その後の漢字の導入などで、つじつまの合うことの方が多いのです。
少なくとも文字は、石に書かなければ、長期間の記録は絶対に残りません。これは現代でも同じです。
ですから皆様、大事な記録は、ぜひ石に刻んでください。
紙は100年で朽ち果てます。
フロッピーなんて、数年で記録の複製ができなくなりました。
レコード盤も、再生機がなくなれば、音を聞くことができなくなりました。
8mmカメラ然り、CD然り、MD然り、技術が進めば進むほど、新技術により、むしろ記録保存の期間は短くなり、過去の記録保存は難しくなるのです。
大事なことは、石に刻みましょう。「大宇宙に光あり 光は仏の命なり・・・」いつか、石に刻みましょう。
幸福の科学では、大きな施設への寄進者のお名前は、石版に刻みますが、これは、確実に、未来の歴史に残るからなのです。
弥生時代と呼ばれる期間に焦点を当てますが、実は私、この時代のことは、余り詳しくは存じません。(笑)
弥生時代って、あまり面白くないんですよね。
はっきり言って・・・・(^^;
弥生時代って縄文のように、他の地域と比べてどうかとか、ムーやアトランティスに繋がるような、ドギマギするような、ファンタスティックな彩りに欠ける時代なのですね。
弥生時代と言われますけど、東京の弥生町で縄文式土器とはタイプの違う土器が出たので、こういう名前が付けられていますが、弥生土器くらいの低い性能しか持っていない文明が、縄文時代のような、全国的な文明圏を持っていたとは思えませんし、土器の性能で言えば、縄文式の方が圧倒的に上なのですね。
弥生時代という名前は、時代の規模からすれば大きすぎて、ひょっとしたら・・・、東京弥生町限定の文明なのかも知れません。(爆笑)
縄文と弥生の違いで最大のものは、日本の弥生時代は、米作が始まった時代であるということですね。
縄文の謎解きのキーワードは【栗】でした。
栗文明であり、脅威の海洋文明であり、絶対的な平和な文明が、縄文文明です。【栗】と【海】と【平和】が縄文のキーワードだと言えます。
最近幸福の科学では、天照大神の系列の神様のお一人、オオヒルメノムチの霊言が収録され、古代文明としての日本の姿が明かされ、話題になっていますが、これなども今後どんどんと、考古学的観点から明らかにされていくと思います。
現代日本人に、その事実を受け入れるだけの器があるかは存じませんけど。
とまれ、一方、弥生時代の謎を解く鍵は、ズバリ【米】にあると私は思います。
弥生的な価値観は、人々が米作を受け入れ、全国に広がったことだと思います。
この【米】と、その【米をつくる技術】が、いかに日本に取り入れられ、そして、いかに全国に広まったかを検証することが、この時代の面白さなのかも知れませんね。
弥生時代は、約3000年前位から日本に現れます。
ばく説では、ムー文明の継承文明であった縄文時代は、文明の寿命と日本列島の寒冷化によって、とても静かな終の時を迎えたと思います。
つまり縄文文明は、文明自体が老衰化したということです。
元気いっぱいの文明が、新たな文明に以降したならば、新たな価値観とのぶつかりも当然激しくなりますよね。
それは必然的に戦いを呼ぶことになり、民族の記憶にかなり強烈に残って、それが神話となっているはずです。
どこの国の神話も、そのように読み取ると、全てつじつまが合います。
しかし、日本の神話には、縄文→弥生を表しているような、くっきりとした神話が存在いたしません。
古事記や、日本書紀にも、それを匂わせるような記実は・・・、う~ん、直接的には、どうも見当たりませんねぇ。
ということは恐らく、文明の限界を悟った縄文日本人は、弥生的価値観=米作を、割とすんなり、受け入れたのではないでしょうか?
縄文的な生活では、さすがに食べていけなくなり、新たなテクノロジーである、米作文化を受け入れることによって、その後の日本は、静かに形成されていったのだと推測されます。
そして、この米作の国内への広がりこそが、日本神道の日本国内への伝播力そして、影響力につながったのではないでしょうか?
日本神道の神事で重要なアイテムは、【米と酒】ですよね。
お正月にはオトソ、結婚式には三三九度と、神事に酒が出てくる日本神道は、とてもとても不思議な宗教です。
ということは、日本神道は、縄文時代発祥の宗教ではないということですね。
縄文起源の宗教ならば、栗とか、黒曜石などが、宗教アイテムになっているのではないでしょうかね。(笑)
実は、この【米と酒】による、新たな日本の国創り期間こそ、弥生時代なのではないかと、私は考えております。
その、米と酒による国創りの中に、古代日本士最大の謎 【邪馬台国の秘密】を、解く鍵もあると思います。
ああ、そういう風に考えれば、結構面白い時代ですね。(笑)
弥生日本は、ミステリーの宝庫です。(爆笑)
私この時代、好きになるかも。(^^)
私は、謎を解くのが大好きですから。(笑)
この小さなブログから、日本の神話が塗り替えられる・・・かも知れません。(笑)
その新たな神話が、日本という国が古来より、平和と繁栄を愛していた国であることの証明となり、日本人の真髄とは何かを、発信する機会となりますことを、心より祈念いたします。
本日は、2月3日(土)開催される大川隆法幸福の科学グループ総裁の宮崎講演会のお知らせに続き、経典『日本の繁栄は、絶対に揺るがない』(幸福の科学出版)の一節をご紹介いたします。
目からうろこの、「真説・日本人の宗教観」です。
(ばく)
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大川隆法講演会サイト(https://ryuho-okawa.org/sp/mission/lecture/20180203)
☆大川隆法総裁先生 第1回講演会☆
「情熱の高め方」
日時:2月3日(土)13時~
会場:宮崎県都城市総合文化ホール(本会場)および、全国支部・精舎にて衛星中継
高知支部精舎〒781-8105 高知県高知市高須東町2-11
TEL:088-882-7775
高知西部支部精舎〒781-1202 高知県高岡郡越知町2519-7
TEL:0889-26-1077
高知朝倉支部〒780-8062 高知県高知市朝倉乙988-11
TEL:088-850-7774
高知四万十支部〒787-0012 高知県四万十市右山五月町2-22
TEL: 0880-34-7737
「オオヒルメノムチの霊言」―天照大神のルーツとその教え―【CM動画】
https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=118
日本神道では、昔から神と富とがかなり融合しています。「御利益がなければ神ではない。祈願をすれば、商売は繁盛し、健康で、家族が仲良くできて、とても幸福になる。これでこそ神である」と考えます。
この思想が日本に深く根を下ろしているために、戦国時代以降、キリスト教が日本に入ってきても、なかなか広がりません。イエスについて、「その“西洋の神様”は、捕まって十字架にかかり、殺されたというのか。それでは、御利益がない。神なら戦で勝たなくてはいけない」と考えます。(中略)
キリスト教には、ある種の悲劇性のようなものが流れていることは事実です。どちらかというと、「人間は、もともと罪人なのだから、罪を贖うためだと思って、病気や試練に耐えよ」というような教えのほうが多く、そのような考え方で、わりと落ち着くのです。(中略)
日本の神はというと、やはり、「もっと“ハッピー”でなくてはいけない」と考えます。江戸時代の後半以降に起きてきた宗教を見ると、天理教や黒住教などにしても、「陽気に明るく生きていこう」という、「陽気ぐらし」系の思想が強いのです。(中略)
日本神道の中心指導霊は、こういう考えに近いのです。
これは日本の“古代の思想”なのですが、意外にも、現代のアメリカは、これと同じような一種の光明思想を持っていて、「発展することは、よいことだ」という考えを、ここ百年以上、持ち続けているように思います。
日本の宗教はレベルが低いかと思いきや、案外そうでもないのです。
「日本神道は“中身”がない」という説もあるのですが、前述したように、日本人には、イエスの受難物語を聞いて、「これを神とするには足りない」と判断するような宗教的知性があることはあります。「自分も救えない人が、どうして人を救えるのだ」と考えるような智慧があるのです。
その意味では、なかなか隅に置けません。中身がないように見えて、意外に中身があります。日本神道は、宗教として二千年以上の歴史を持っているだけのことはあって、したたかなのです。(中略)
日本人は数多くの宗教を経験してきました。いろいろな宗派が並び立ち、長い間、宗教同士が競争してきました。
日本人は、旧い宗教をたくさん見てきたため、とても目が肥えていて、新しい宗教が出てきても、そう簡単には信じません。「騙されないぞ」と思い、すぐには信じないで、じっと見ています。
「無神論です」「無宗教です」などと言っていても、ある意味では、宗教に関して、“玄人(くろうと)好みの趣味”を持っているので、そう簡単には乗ってきません。「偽物には食いつかないぞ」と考えるだけの伝統があるのです。(中略)
日本は、外国の宗教にとって、伝道がとても難しい国なので、「日本人は信仰心のない国民だ」と言われたりするのですが、実は、宗教が多すぎ、目が肥えすぎているため、そう簡単には信じられないのです。
それが真相です。(中略)
日本人は、宗教に関して、「料理の味にうるさい人たち」のようなところがあると思うのです。
『日本の繁栄は、絶対に揺るがない』(幸福の科学出版)P142~149