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卑弥呼の邪馬台国の謎解きの、チャレンジに挑戦(笑)してみた。。。

2018-11-14 00:27:53 | 古代文明

稚児行列

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拙ブログは、高知の幸福の科学信者による布教ブログですが、多くの方に教えに触れていただくために、様々な事柄について記事をお届けしようと、日夜努力しております。

先般、日本の古代の歴史にスポットを当てて記事をお届けしたところ、大変ご好評いただきまして、編集長である私は、とてもうれしく思っております。

ただ私は、職業は看護師であり、ただの歴史の一ファンであって、専門家ではありません。
また、一般常識を余り考慮せず、「つじつまが合うか否か。」ということだけ(笑)を重視した、実況見分的な見方しか、私はいたしませんので、一応ご注意を。(笑)

そして、「ばくさ~ん、ここは違うでェ~。」というご意見などございましたら、遠慮なく、コメント等でお教え願えればと存じます。m(_)m

さて、今回の話題は、日本の古代史最大のミステリー邪馬台国(やまたいこく)についてです。
魏志倭人伝(ぎしわじんでん)出てくる、『倭(わ)』の女王とされる、卑弥呼(ひみこ)にまつわる国家ですね。

江戸時代に、福岡県の志賀半島で見つかった金印、有名な 漢倭奴国王印 (かんのわのなのこくおういん)も謎が謎を呼ぶキーワードをたくさん持っております。

”魏”から贈られたとされるのに、その前政権である”漢”の国号ですが、当時の魏王朝は、漢王朝から玉座を禅譲された形式で発足しておりますので、魏は対外的には、漢を、名乗っていたかも知れません。
劉備の蜀(しょく)も、正式国号は蜀漢(しょくかん)ですので。

倭というのは、当時の中国から見た、日本地域の俗称ではあるでしょうけれども、他民族の国名に対しては、必ず『けものへん』を使う、昔から俺様国家だった中国ですが、当時の日本に対してだけは、珍しく『にんべん』を使っていますので、これから推測するに、当時の日本(倭)は、結構文化的に高かったという証拠だと思います。

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倭という国名から推測するに、卑弥呼の時代以前から、人間の暮らす国らしい、秩序だった形態をしていたことが伺われ、日本は、一目おかれる存在だったのではないでしょうか?

しかし漢倭奴国王印から、中国人の俺様ぶりは、【奴・な】という文字に込められています。(笑)
北方の蛮族のことを、匈奴(きょうど=モンゴル人のやつら)と言ったように、倭奴と扱ったんでしょうな。

通説では奴という地域があったともされていますが、そうではないのではないか思います。
つまりこの、奴という文字は、いわゆる、蔑称ですね。

また、「国王」というのは、”中国が任命した代表者”と言う意味ですね。

皇帝とか帝(みかど)というのと、王というのでは意味が違い、古来中国では、王は属国の代表者なんですね。
つまり、このまま読み取るとしたならば、卑弥呼の邪馬台国は、当時の中国、魏の属国となったことになると思います。

さて、この邪馬台国の場所が、最大の問題です。

つまり、「邪馬台国はどこにあったのか?」です。

魏志倭人伝には、邪馬台国の場所が記載されているのですが、これが読みようによって、場所が数箇所出てくるように読めるのが、とても難儀なところですね。

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通常ですと、遺跡などからわかることは、当時の日本の文化程度の最も進んだ地域は九州地方ですから、邪馬台国九州説が、最もスンナリくるのです。
しかし、当時の魏からの贈り物であるとされるものが、実は九州のみならず、中国四国地方、そして東海~東北まで出土いたします。

いわゆる、”卑弥呼の鏡”です。
そしてその卑弥呼の鏡は、実は近畿地方から、最も大量に出土するのですね。

三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう・さんかくえんしんじゅうきょう)というのですが、これは銅鏡の形式の一種で、縁部の断面形状が三角形状となった大型神獣鏡です。

名前は音読みで、中国製っポイですけど、これは近年学者がつけたものでしょうね。
当時日本は、”大和言葉”オンリーでしょうから、このような名前では呼んでいなかったでしょう。
ただ、様式は完全な大陸ものです。

この俗称”卑弥呼の鏡”と、その後この地に大和朝廷樹立されたことが、邪馬台国近畿説の有力な根拠になっています。



卑弥呼の出自は、正確にはわかっていないのですが、”魏志倭人伝の時期”と、その後の、”大和朝廷の原型が近畿にできている時期”とでは、実はそれほど、期間が開いていません。

せいぜい100年位しか、期間がないのです。
古代の時間軸から言えば、これはほぼ同時期と言えますね。
ですから、邪馬台国近畿説にも、説得力は十分にあるのです。

以上のこと、そしてこれまで綴ってきた記事を踏まえて、私なりの邪馬台国の見解を述べさせていただくとするならば、ずばり、
『邪馬台国は2つ存在した』ということになります。

そして、もう一つ付け加えるとするならば、「卑弥呼の邪馬台国は、囮(おとり)であった」ということも、言えるのではないかと思います。

おぉぉぉぉ、またまたミステリアスなことを言ってしまいました。(笑)
このように古代日本は、謎が謎を呼ぶ、大変面白い時代なのです。

素人歴史家ばくの、「卑弥呼の邪馬台国は囮(おとり)である。」は、皆様どうお思いですか?あはは、ミステリアスな響きがありますでしょう?(笑)そんな突拍子もないことを、平気で言えるところが、幸福の科学の自由なところなんですね。(爆笑)

卑弥呼の魏国への外交の謎は、実にいろいろありまして、その代表が、「動機がわからない」ということなのですね。

つまり、当時の卑弥呼の国(邪馬台国)にとって、魏に接することのメリットが、ほとんど見つけられないのです。

つまり、わざわざ使者を使わせて、卑弥呼の邪馬台国は、遠い魏まで行くのは、そりゃ莫大な費用でしょうし、遠い航海は、危険極まりない行動です。そして、そうした努力をして、属国にまでなってまで、”魏”という大陸の大国の後ろ盾が必要という根拠は、どこにも見あたらないのです。

よく言われるのは、「邪馬台国周辺国との軍事的対立を、魏の後ろ盾を得ることで解決しようとした。」ですけれども、これは果たして現実的な判断でしょうか?
現実的に考えれば、ヤマトの国の国内で騒動があって、それを魏の援軍が来て解決はできないです。

なぜならば、魏は遠いですので、魏の使者や軍隊が来るのに時間がかかりすぎて、問題解決には間に合わないです。

また、魏が当時の超大国であることを、邪馬台国周囲の人たちが知らなければ、そもそも効果はありません。

もし知っていたら、遠すぎる国であることも知っているので、こちらも効果はありません。

つまり、卑弥呼外交は、当時の邪馬台国周辺国には、全く効果がないわけです。

日本国内に内戦があったとして、インドに援軍を求めても、効果がありませんよね。

しかし、これには前提条件があります。それは、「日本国内に限定すれば」という条件です。

でも、卑弥呼を研究している方たちには、恐らく当時の周辺諸国事情というものが見えていないか、もしくは、外交の鉄則を知らないと思われます。

研究者というものは、どうしても視野が狭くなりがちです。
専門的な研究者は、どうしても膨大な専門的な研究資料を読まなければなりません。
人間が使える時間は、皆一日24時間ですから、専門領域だけに時間を奪われていたら、他のことがわかりません。

その点私は、ズブの素人(爆笑)ですので、その分、歴史や考古学以外の領域で、自由に遊ぶことができるんですね。

当然、卑弥呼研究家と、専門知識ではかないませんが、しかし、他の分野のことはわかるのです。

つまり、その点を絡めての自由な推測ができるのですね。
しかも、固定観念にとらわれずに、それを行うことができるのです。

だって、素人ですから。(爆笑)
情報化社会においては、専門的な研究者の方より、自由な愛好家の方が、知識量では上かも知れないです。

たとえば、専門的な研究者が、外交の鉄則という政治学や、海流の流れをご存知ではないかも知れません。また、「卑弥呼の時代など、原始人の時代だから、高度な外交判断などするはずがない。」という、古代人=原始人という思い込み=進化論的歴史観にとらわれていたら、この卑弥呼外交の効果は見えて来ません。

さて外交の鉄則とは、遠交近攻(えんこうきんこう)です。
つまり、「たとえ近くの国とは争ったとしても、遠くの国とは仲良くする。」ということですね。

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普通はこの逆を、発想し勝ちなんですね。
自虐史観を演出している方々も、つい発想しがちなこの、鉄則とは逆の外交の大切さ(笑)を演出しているように、私には思えますね。

「遠くの国とは距離が離れているから、仲良くする必要ないじゃん。」
「でも、近くの国は、ケンカしたら、何かとメンドイよね。」

という感覚です。
この気持ちは、まぁわからないでもありません。
近くの国と、仲良くできるに越したことはありません。
しかし外交の鉄則は、この逆なのです。

現実、自国に攻め入ってくるのは、大部分は近くの国ですよね。
はっきり言えば、普通は隣の国です。

ですから外交は、この ”近くの国(隣の国)の動きを封じることが重要” なのです。
よく考えれば、本当に隣の国と仲が良いのなら、別の国である必要はないわけです。
そもそも何らかの理由で、一緒の国になることが出来ないから、別の国なわけですから。 (笑)

ですから隣の国とは、色々と懸念事項があるものです。

歴史的にもいろいろあるものですし、大抵は隣の国どうしは、大概どこに行っても仲が悪いものなのです。
これはある意味で、もう仕方のないことです。
世界中、どこに行ってもそうですし、いつの時代もそうですからね。(笑)

実は、隣の国と仲良くするためにこそ、遠交近攻外交が必要なのです。
つまり、隣の国のすぐ後ろにある国と仲良くしておけば、隣の国が、自国に攻め入ろうとした時に怯む訳ですね。

「挟み撃ちにされるかも知れない。」

こう、思わせることが、外交では重要なのです。

これは鉄則ですので、今も昔も変わりませんので、今なら、中国の軍事的な動きを封じたかったら、インドやロシアやウクライナが、日本にとって重要な相手国となります。

卑弥呼の”魏”への外交は、まさしくこの、朝鮮半島国家群を対象とした、遠交近攻外交の効果を狙ったものだと思います。
つまり、朝鮮半島諸国の、日本に対する軍事行動をさせないために、魏に使者を送り、国王の称号をもらったと思われます。

「巫女の舞」の画像検索結果

漢の倭の奴の国王の金印を、発行したのが”魏”だとすれば、それは、魏国が存続する限り有効のはずです。
朝鮮半島諸国からすれば、魏はすぐ隣の超大国ですので、ウカツには、卑弥呼の邪馬台国に手出しは出来ませんね。

卑弥呼の邪馬台国に攻め入ったら、大国魏が、後ろから攻め入る大義名分を与えてしまうからです。
当時朝鮮半島南部にあった、任那(みなま)日本府も安泰です。
また任那が安泰なら、日本列島は安泰です。

この朝鮮半島における国防の観点の重要度は、古代も現代も変わりありません。

そして重要なことがもう一つあります。
それは魏や、当時の朝鮮半島諸国は、九州にいる卑弥呼こそ、倭=邪馬台国の女王であると思ったはずなのです。

普通に魏志倭人伝を読む限り、大陸からの使者は九州に立ち寄ります。
そこには、ヤマトの国の軍の本体があり、それなりの国らしきたたずまいがあります。
使者の目には、邪馬台国=九州がインプットされるはずです。
そして何より古来より、ヤマトの国は九州にありましたので、そう思われて当然です。

卑弥呼が魏に使者を送り、記録を取らせ、国王の称号を得たことは、国際的対外的に、卑弥呼こそ倭=邪馬台国の王であり、その場所は九州にあると、周辺諸国での認知は確定し、決定的になったはずです。

実はこの、対外的な九州邪馬台国の認知こそ、卑弥呼外交の真の目的なのではないのか?
この仮説から、卑弥呼の邪馬台国囮(おとり)説を、私は思いつきました。

なぜかというと、そうであるならば、その後の出来事が、全てつじつまがあうからなんです。 (笑)

あらら、最後まで行き着いていませんね。謎が謎を呼ぶ、歴史のミステリー、また書いてみたいと思います。

では本日は、経典『黄金の法』(幸福の科学出版)より、大川隆法幸福の科学グループ総裁が、日本神話の成り立ちについて語った一節をご紹介いたします。

       (ばく)

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幸福実現党・大川隆法総裁「日本の進む道」抜粋②【国家社会主義への警鐘】

 

 

【2014年 幸福実現党CM】もし消費税が10%に増税されたら?逆に5%に減税したら?

 

 

黄金の法 https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=154

日本列島の歴史自体はけっこう古く、現在の形がほぼできあがったのは、今からおよそ三万年ぐらい前のことでした。

日本の文化程度が急速に高まってきたのは、約一万五千年ほど前に、ムー大陸が沈下し、ムーの住民のなかの約数百人が、海路、現在の九州地方に上陸したとき以来です。日本の先住民族の人たちから見ると、近代的な科学の原理に通じていたムーの人々は、まさしく神の降臨に近かったと言えます。そして、この頃の伝承が、後の日本の神話の土台となったのです。

さて、現在に至る日本文化の最初の土台をつくったのは、今からほぼ二千八百年ほど前に地上に降りた高級霊たちでした。紀元前八三○年頃、まず、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)が、現在の九州は高千穂峰に出生。八次元最上段階の如来が、日本の国づくりのために肉体を持ったのです。これは、釈迦出誕の二百年前、孔子生誕の三百年前、ソクラテス降下の三百数十年前のことでした。

天御中主命を天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)ともいい、宇宙神とか、根本神というように考える人も多いようです。

しかし、人類の実際の歴史が、歴史学の射程距離をはるかに超える四億年もの歩みであることを考えると、約三千年もの昔に生まれた方だからといって、宇宙神や根本神だというわけではありません。天御中主命は、やはり人格神、すなわち、高級霊であって、日本の基礎づくりに励んだ方なのです。この日本古代の「神」という言葉は、「上」に等しく、傑出したカリスマ性のある人物に対してよく使われました。

天御中主命は、現在の宮崎県を中心とした南九州に、一大勢力圏を築いた政治家であり、しかも、宗教家でもありました。もちろん、彼以前にも、国王的な方たちはおりましたし、それは、連綿と続いてはいたのですが、神の言葉を伝える者が国を治めるという姿勢をはっきりと打ち出したのは、天御中主命からなのです

その意味において、天御中主命は、日本の宗教的中心であり政治的にも中心であることが多かった天皇の草分け的存在だったと言えるでしょう。(中略)

御中主がつくった南九州政府は、高千穂国(たかちほのくに)と呼ばれました。ここの第二代の国王に選ばれたのが、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)です。(中略)

そして、次に出て来た三代目の国王が、神産巣日神(かむむすひのかみ)です。(中略)ここに挙げた三人とも、八次元如来界の方であり、日本神道の格を高めた方です。(中略)

天照大神は、日本神道系では、最高神、あるいは、主宰神のように言われております。というのは、天照大神は、女性でありながらも、初めての女帝の地位、すなわち、高千穂国の女王となったことに起因しているのです。天御中主命から数えて五代目ぐらいの国王にあたります。
『黄金の法』(幸福の科学出版)P194~200

 

映画『黄金の法』特番③

 


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