怠慢主婦 ドイツで同居 

日本食を食べなくなり義両親のしもべと化し、すでに何年になるだろう。遠い目しながら今日も行き抜いてやるぞっ

義母に喧嘩を仕掛ける私

2019年02月22日 | 義母
18年ほど前に実家近所で夫(当時は婚姻関係はなかったが)に買ってもらった車輪付きかばん。

ここでもみっともないくらい古臭いデザインだけれど、愛用していた。
ついに、ファスナーの部分が壊れてしまい、ある日、気づかずに閉まっていない部分から中身が落ちてしまっていた。
20年近く使っているのだから、充分元を取っている。このまま思い切って処分しよう。
と、思っていたのに、なぜか義母にこの壊れたファスナー部分について話してしまった。

もちろん、何でも捨てない主義の義母は大反対。
「ファスナー修理は何十ユーロもかかるから無理ね」と、一度は納得していたものの、あれこれ細部を調べているうちに二つあるファスナーのスライダーの片方がまだエレメントをかみ合わせることを発見した。
「りす、こちらのスライダーを使えばいいではないですか」
お。来たぞ。
私は戦闘態勢に入った。
「うちでそうやってゆっくり作業するには差し障りありません。外で急いでいるときに、ひとつだけで大きく開け閉めするのは面倒です」
実際、これはウソではない。二つのスライダーは便利である。
開けたい部分を途中に作り、そこに長いものを刺すようにして入れて持ち歩くこともできる。一つだけだと、スライダーをかばんの下のほうまで動かさなくてはならないのは非常に面倒だ。

義母はもちろん応戦する。
「そんなことわかっていますが、でも、ちゃんと使えます」
りす「では、お義母さんが使ってくださいよ」
義母「私は必要ありません」

こうして、果てしないバトルが続くので、私は途中でトイレへ退散した。

義母に黙って捨てればいいものを、私はなぜか義母に報告することがおかしい。
私の潜在意識には義母と口論したいという欲求があるのだろうか、と考えに至ったとき苦笑した。

義父と義母はほとんど毎回昼食時に小さなバトルをする。
義母「この残り、食べなさい」
義父「後で食べるから」
義母「あとじゃあダメです」
同じ会話がほとんど毎日繰り広げられるのだぞ。頭おかしいのではないか、とも思える。

このファスナーバトルで気づいた。
これは日常の儀式のひとつなんだ。こうやって家族としての絆が深まるのではないか、と。
本気の憎しみ口論とは違う日常のちょいとした争いは、普通の会話の延長なのだろう。会話のない人間関係を続けるのは難しい。
ちょいとけんか腰の会話でも、交流することにヒトとしての成長があるのではないかと思える。

写真のかばん、椅子の上に置かれているのが気になる。
義母がそのように置いたんだ。
日本の日本人だったら、まずやらないだろう。車輪がついていて、外を散々転がしてきたものだ。
帰宅するたびに車輪を拭いたり消毒したりしない。(以前、私はそうしていたが、ここでの生活が長くなるにつれどうでもよくなった)
外を歩いた靴のような状態のかばんを日常的に座る椅子に置くなんて・・・
まだまだドイツ人と日本人の同居は難しい、とこのかばんで数秒腕を組んだ私。