飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

災害ボランティア7「共に生きる」

2012年04月29日 05時41分33秒 | 東日本大震災
手元に一冊の小冊子がある。
あしなが育英会が編集した「東日本大震災遺児作文集 お父さんの顔」という題名のものである。

その冒頭の文である。

私は、津波のあと、しばらくして、遺体安置所にいきました。
そこには、お父さんと、そのほか三人がいました。
そこには、お母さんが先にいって、
お父さんの顔を、泣きながらみていました。
私は、お父さんの顔を見たら、
血だらけで、泣きました。

小学5年生の女の子の文である。
これが、東日本大震災の現実なのである。
その現実から、被災された方々は立ち直ろうとしている。
心が締め付けられるように苦しい。

震災直後の、映像を見ると、自分が見た風景とは全く違った状況がそこにはあった。
1年後の南三陸の海を見ると、何事もなかったように穏やかで、きらきらとまばゆいばかりに輝いていた。
しかし、振りかえるとそこには海とは対照的なすべてを奪っていった津波の惨状があった。
400名近い人々がいまだに行方不明である。

自分にできることは些細で、わずかである。
それでも何かできないかと毎日考えている。
必ず、また、ボランティアにいこうと考える。

昨日のニュースで、語り部ツアーという、津波の現実を知ってもらう活動を始めたという。
たとえ物見遊山でもいいから、まず、現実を見てもらいとおっしゃっていた。
動機は、どうであれ、現実を知ったあとは、人間として大切な何かが心に残る。
それは、確かである。

自分は、離れた地にあっても、心は東北の人々と共にあろうと思う。
帰宅する新幹線の車窓から見える街の明かりを見ながら心に誓った。

saitani

災害ボランティア6「1枚の絵」

2012年04月21日 14時57分36秒 | 教育論
今回のボランティアの宿泊場所となったのは南三陸町ホテル観洋だった。
このフロントロビーに1枚の絵が飾られている。
そのを改めて振り返って見る人もほとんどいなかった。

しかし、この絵にはこのホテル観洋の女将さんの強い思いがこもっている。
震災翌日一睡もしないで迎えた3月12日の朝、前日が嘘のように静まりかえった太平洋の向こうから、何事もなかったようにいつもどおりに朝日が昇ってくるのが見えた。
そのとき、思ったそうだ。

その朝日は残酷なまでに美しかった。
この朝日を忘れないために、その光景を残そう。
私たちは、この出来事を絶対に風化させてはならないし、語り継ぐ使命がある。

そう考えたという。
このホテル観洋は震災後、避難所として解放され、600名以上の避難者を受け入れた。
ホテルの前に広がる、切ないまでに美しく、光り輝いていた。
地震当日、津波が来る前の引き波では、沖合にある島まで歩いて行けるほどだったという。

震災後、ホテルが復旧し、営業を再開した頃には、露天風呂の近くにある木々には、瓦礫や漂流物の破片がひっかかっているという光景だったという。

とにかく、一度現地を見てほしいですね。
特に政治家の方は、現地を見て、この復興政策の遅れがどれだけ地元に痛手を与えているか感じて頂きたい。

いっそあのときにどうにかなっていたほうがよかったかもしれない、というお年寄りもいるくらいです。
そんな社会であっていいはずがありません。

女将の言葉である。

震災で失ったものはあまりに大きいですが、取り戻したもの、新たに得たものもあるという。
津波は全てを奪っていったけれど、海は以前よりも富んでいるという話をうかがった。
牡蠣の成長が以前に比べて早いのだという。

美しいと三陸の海と震災翌日の朝日を描いた絵は、きっと生涯忘れることはないと思う。

saitani


災害ボランティア5「行為の意味」

2012年04月15日 06時07分47秒 | 教育論

今回のボランティアに参加した方々は、年齢も動機も様々である。
60歳以上の方もいらっしゃれば、学生の方もいる。
自費で参加している方もいれば、会社や組合から補助を受けて参加している方もいる。

どの方も口にしていたのは、
「このような短期間の、なんの技術や力のない自分が参加してなんの意味があるのだろうか」
ということだった。
平成23年3月11日の東日本大震災以来、誰もが「自分にできることを何かしたい」と思った。
そして、多くのボランティアが災害発生して間もない頃から全国から集まった。
そして、小さな善意を積み重ねて、復興を助けてきた。

しかし、それとは逆に、「何かしなければ」という思いや気持ちはあっても、行動に移せなかった方も多かった。
自分もその一人だった。

人の役に立ちたい、何かお手伝いをしたいと考えるのは、人との素直な気持ちだと思う。
人は、何かを得ることによって、生活が成り立っている。
しかし、生活と人生とは違う。
得ることによって人生は豊かにはならない。
むしろその逆である。

人に何かをしたり、与えたりすることによって、人生は豊かになり、幸せな毎日が送れる。
ボランティアの動機も、「人の役に立ちたい」「これまでにお世話になった恩返しをしたい」などいろんなことがある。
自分も、もちろん同じ気持ちだ。
ただ、もう一つ、大きな意味で言えば、日本人だからという漠然とした思いもあるのは確かだ。

こんな小さな行為は、単なる偽善ではないのか。
自己満足に過ぎないのではないか。
そんな思いも交錯する。

しかし、災害ボランティアセンターの方がバスが見えなくなるまで頭を下げて見送っている姿。
活動終わったあと、全員が出てきて、手を振って見送ってくれたこと。
そして、何より短期間ではあったが、ボランティアが終わったあとの、自分自身が得たこと、感じたことを振り返ってみると、偽善や自己満足では得られない、貴重な思いが心に残った。

与えることは、与えられることだと実感する。

ある本の言葉を思い出す。

「あの(阪神・淡路大震災)とき、
 家を放りだされて、避難生活をした人間にとっては、
 偽善かどうかはどうでもいいの。
 『助けてくれた』という事実だけが大切なの。」
    予備校講師 荻野文子

saitani

災害ボランティア4「今日という日を」

2012年04月07日 15時05分04秒 | 授業論
午後からの作業は、県営住宅の瓦礫の撤去作業だった。
バスで、5分ほどの場所へ移動した。
バスを停めた場所は、老人ホームの駐車場だった。
ここも津波の被害を受け、建物は残っているものの、屋内はひどいままだった。
ここにも祭壇があり、思わず手を合わせる。

天気は、回復し、やや風はあるものの晴天となった。
バスを停めた老人ホームよりもさらに高台には志津川高校がある。
万が一、作業中に地震が来たら、その高校のグランドまで逃げるように指示があった。

震災当日、志津川高校の野球部がちょうどグランドで練習中だったそうだ。
そして、津波が迫ってくるのをしると走って坂道を下り、老人ホームの人たちを背負って避難させたという話も伺った。

県営住宅は鉄筋立ての3階だった。
この建物も、全部津波をかぶり、犠牲者も出たと言う。
建物内部の瓦礫は、他のボランティアによって屋外に出されていた。
その建物のまわりにある瓦礫を分別して片づける作業である。

前日に降った雪が、晴天のために解け、足下はぬかるんで、重いものを運ぶのに苦労する。
ひとつひとつ手作業で処理していく。
目にするもには、すべて震災の直前まで、ここで暮らしていた人たちが使用されていたもの。
教科書やノート、学習プリント。
洋服やバッグ、毛布、ベッド。
炊飯器や調味料など。
そのひとつひとつに思いであり、生活が合ったのである。

ここで暮らしていた人たちに、思いをはせると悲しさがこみ上げてくる。

あまりに多くの瓦礫のため、今日中には無理だと思っていたが、ボランティアの意識の高さとチームワークによりみるみると片づけられていった。
誰一人、愚痴を言わず黙々と働いている。
誰かが思いものを持とうとすると、さっと近くにいた人が手を貸す。
そんな互いの気配りがあって、作業はスムーズに進む。

ボランティアの中には若い大学生も多くいたが、率先してソファーや冷蔵庫といった重いものを運んでいた。

昨日までふつうにありふれた生活があった。
そして、それは明日も続くと思った。
いや永遠に続くとされ思われた。

それが、3月11日の東日本大震災の日から、全てを奪われた。
我々は、今日という日を本当に大切に生きているだろうか。
自分に問いかけながら作業を終えた。

◎さ い ご だ と わ か っ て い た ら「tomorrow never comes」
 (ノーマ・コーネット・マレック「10歳の男児を溺死で喪ったアメリカの母親」)

 あなたが眠りにつくのを見るのが
 最後だとわかっていたら
 わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
 神様にその魂を守ってくださるように 
 祈っただろう

 あなたがドアを出て行くのを見るのが 
 最後だとわかっていたら
 わたしは あなたを抱きしめて
 キスをして
 そしてまたもう一度呼び寄せて
 抱きしめただろう

 あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
 最後だとわかっていたら
 わたしは その一部始終をビデオにとって
 毎日繰り返し見ただろう

 あなたは言わなくても
 わかってくれていたかもしれないけれど
 最後だとわかっていたら
 一言だけでもいい…「あなたを愛している」と
 わたしは 伝えただろう
 たしかにいつも明日はやってくる
 でももしそれがわたしの勘違いで
 今日で全てが終わるのだとしたら
 わたしは 今日
 どんなにあなたを愛しているか 伝えたい

 そして わたしたちは 忘れないようにしたい
 若い人にも 年老いた人にも
 明日は誰にも約束されていないのだということを
 愛する人を抱きしめられるのは
 今日が最後になるかもしれないことを

 明日が来るのを待っているなら
 今日でもいいはず
 もし明日が来ないとしたら
 あなたは今日を後悔するだろうから

 微笑みや 抱擁や キスをするための
 ほんのちょっとの時間を
 どうして惜しんだのかと
 忙しさを理由に
 その人の最後の願いとなってしまったことを
 どうして してあげられなかったのかと

 だから 今日
 あなたの大切な人たちを
 しっかりと抱きしめよう
 そして その人を愛していること
 いつでも
 いつまでも大切な存在だということを
 そっと伝えよう

 「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や
 「気にしないで」を 伝える時を持とう
 そうすれば もし明日が来ないとしても
 あなたは今日を後悔しないだろうから


災害ボランティア3「天使の声」

2012年04月07日 06時00分21秒 | 教育論
災害ボランティアセンターに向かう途中、茶色い鉄骨だけが残された建物が見えた。
これが、南三陸町の防災対策庁舎だった。
震災直後は、建物を覆っていた瓦礫や漁業のフロートや網などが多く絡まっていたと聞く。
1年たった現在は、すべてそれらの瓦礫は撤去され、鉄骨のみが残されている。
この建物の下には、祭壇がもうけられ、千羽鶴や花が手向けられていた。
多くの方がここを訪れ、犠牲になった方々を悲しみ、哀悼の意を示す。

ここで震災当日、上司の三浦毅さんと共に、町民に避難を呼びかけ続けたのが遠藤未希さん。
最近になってその全記録がみつかり、全部で62回避難放送はされ、そのうち44回を遠藤未希さんが、そして、18回を三浦毅さんが行った。
男性の声でも放送した方が、危機感が伝わるとの判断で、三浦さんも放送したとのことである。

その遠藤未希さんが命がけで避難を呼びかけ続けたエピソードが埼玉県の中学校の教材となったとの報道があった。

要旨は次の通りである。

遠藤未希さん「天使の声」
 
 誰にも気さくに接し、職場の仲間からは「未希さん」と慕われていた遠藤未希さん。その名には、未来に希望をもって生きてほしいと親の願いが込められていた。
 未希さんは、地元で就職を望む両親の思いをくみ、四年前に今の職場に就いた。(昨年)九月には結婚式を挙げる予定であった。

 突然、ドドーンという地響きとともに庁舎の天井が右に左に大きく揺れ始め、棚の書類が一斉に落ちた。
 「地震だ!」
 誰もが飛ばされまいと必死に机にしがみついた。かつて誰も経験したことのない強い揺れであった。
 未希さんは、「すぐ放送を」と思った。はやる気持ちを抑え、未希さんは二階にある放送室に駆け込んだ。
 防災対策庁舎の危機管理課で防災無線を担当していた。

「大津波警報が発令されました。町民の皆さんは早く、早く高台に避難してください」。
未希さんは、同僚の三浦さんと交代しながら祈る思いで放送をし続けた。
 地震が発生して二十分、すでに屋上には三十人ほどの職員が上がっていた。すると突然かん高い声がした。
 「潮が引き始めたぞぉー」
 午後三時十五分、屋上から「津波が来たぞぉー」という叫び声が聞こえた。
 未希さんは両手でマイクを握りしめて立ち上がった。
 そして、必死の思いで言い続けた。
「大きい津波がきています。早く、早く、早く高台に逃げてください。早く高台に逃げてください」。
重なり合う二人の声が絶叫の声と変わっていた。
 津波はみるみるうちに黒くその姿を変え、グウォーンと不気味な音を立てながら、すさまじい勢いで防潮水門を軽々超えてきた。
容赦なく町をのみ込んでいく。信じられない光景であった。

 未希さんをはじめ、職員は一斉に席を立ち、屋上に続く外階段を駆け上がった。その時、
「きたぞぉー、絶対に手を離すな」という野太い声が聞こえてきた。
津波は、庁舎の屋上をも一気に襲いかかってきた。
それは一瞬の出来事であった。
 「おーい、大丈夫かぁー」「あぁー、あー…」。
力のない声が聞こえた。三十人ほどいた職員の数は、わずか十人であった。
しかしそこに未希さんの姿は消えていた。

 それを伝え知った母親の美恵子さんは、いつ娘が帰ってきてもいいようにと未希さん
の部屋を片づけ、待ち続けていた。

 未希さんの遺体が見つかったのは、それから四十三日目の四月二十三日のことであった。
町民約一万七千七百人のうち、半数近くが避難して命拾いした。

 五月四日、しめやかに葬儀が行われた。会場に駆けつけた町民は「あの時の女性の声
で無我夢中で高台に逃げた。あの放送がなければ今ごろは自分は生きていなかっただろ
う」と、涙を流しながら写真に手を合わせた。
 変わり果てた娘を前に両親は、無念さを押し殺しながら「生きていてほしかった。
本当にご苦労様。ありがとう」とつぶやいた。

 出棺の時、雨も降っていないのに、西の空にひとすじの虹が出た。未希さんの声は
「天使の声」として町民の心に深く刻まれている。

引用終わり。



災害ボランティア2「1日目」

2012年04月01日 11時37分23秒 | 教育論
「くりこま高原駅」を出発したバスは1時間ちょっとで登米市を通過し、南三陸町へと入った。
峠を越えて、海が見えるところまで来ると風景は一変した。
我々がこれまで見てきた映像や写真にはない、無惨な風景がそこには広がっていた。
これまでに私たちがみてきたものは狭い範囲の切り取られた様子であり、こうして今、全体をみわたせる場所にたつと全く異なったものに見えた。

確かにここには1年前までは、ふつうののどかな漁村の暮らしがあった。
それが一瞬にして、見渡す限り何もない景色になってしまった。
前日に降った雪でほとんどは地表は白く覆われているものの、地面は建物の土台を残してまったくない。
かろうじて残っているのは、鉄筋のコンクリートづくりの建物だけである。
その鉄筋の建物の周りを、ボードなどで囲ったもものについては、骨組みしか残っていない。
信号機はついているものの、人の姿はまったくない。
この二日間を通じて子どもの姿は一度も見なかった。
ここまでひどいとは、少なからずショックを受けた。
見える部分の瓦礫に関しては、きれいに撤去されているので、この程度だが、震災直後の惨状は想像を絶するでだろう。

バスは、町の中心街をぬけて高台にある災害ボランティアセンターに着いた。
休日と言うこともあり、駐車場には駐車できないほどの車が止まっていた。
バスも多く、遠くは長崎の島原から見えている集団もあった。

この横にあるベイサイドアリーナは、震災直後は、泊まりがけのボランティアもいたそうだ。
受付をすませたあと、午後の活動場所へと向かった。

saitani

災害ボランティア1「東北へ」

2012年04月01日 10時48分25秒 | 教育論
今日から、4月。
昨日は春の嵐と言うべき、雨風の強い日だった。
今日は、うってかわってやや風はあるものの晴天である。

ちょうど1週間前の、3月24日・3月25日の二日間、東北のボランティアに行かせてもらった。
大手旅行会社の新幹線を使用したツアーである。
なぜか、ツアーと呼ぶには違和感がある。
旅行会社が企画しているのだから、ツアーに違いないのだが、ボランティアにいくのだからという思いがある。

東日本大震災から、1年以上が過ぎた。
今は、ほとんど当時の様子をテレビでみることはない。
被災された方の心情を考えれば当然である。
深く心に刻まれた傷跡を思い出すのもつらい。
その記憶を呼び起こすような、映像は流すべきではないとも思う。

現在も、行方不明者の安否を報告する内容が新聞の片隅に載っている。
人数は、少なくなったものの、今も家族や知人を捜し求め、やっとの思いで再会を果たす方々もいるのである。

3月24日、東京駅に8時に集合した。
添乗員さんから、東北新幹線の切符を受け取る。
今回は、新幹線ツアーを選択した。
職場の若い同僚が、これまでに2回ボランティアツアーに参加し、バスは体力的にきついものがあるとのことこで自分の年齢、そして、時間的な制約を考えての選択である。
そして、大学生の息子も、私が誘って同行した。

ツアーの参加者は、年齢も自分の息子が最年少であり、最高齢は65歳の男性だった。
男女比は、3分の2が女性といった感じだろうか。

東北新幹線に乗車し、一路宮城を目指す。
途中、福島や郡山では雪景色となった。
東北地方も海の近くはあまり雪はふらないときいていたが。

新幹線は、3時間ほどで目指す駅へと到着した。
ここからは、1時間ちょっとで、バスで南三陸町に着く。

途中、登米市内をバスは走ったが、震災の影響はまったく感じなかった。
これで本当に東日本大震災があったのかと思えるほどの穏やかな町中をバスは走っていった。

saitani