飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

災害ボランティア4「今日という日を」

2012年04月07日 15時05分04秒 | 授業論
午後からの作業は、県営住宅の瓦礫の撤去作業だった。
バスで、5分ほどの場所へ移動した。
バスを停めた場所は、老人ホームの駐車場だった。
ここも津波の被害を受け、建物は残っているものの、屋内はひどいままだった。
ここにも祭壇があり、思わず手を合わせる。

天気は、回復し、やや風はあるものの晴天となった。
バスを停めた老人ホームよりもさらに高台には志津川高校がある。
万が一、作業中に地震が来たら、その高校のグランドまで逃げるように指示があった。

震災当日、志津川高校の野球部がちょうどグランドで練習中だったそうだ。
そして、津波が迫ってくるのをしると走って坂道を下り、老人ホームの人たちを背負って避難させたという話も伺った。

県営住宅は鉄筋立ての3階だった。
この建物も、全部津波をかぶり、犠牲者も出たと言う。
建物内部の瓦礫は、他のボランティアによって屋外に出されていた。
その建物のまわりにある瓦礫を分別して片づける作業である。

前日に降った雪が、晴天のために解け、足下はぬかるんで、重いものを運ぶのに苦労する。
ひとつひとつ手作業で処理していく。
目にするもには、すべて震災の直前まで、ここで暮らしていた人たちが使用されていたもの。
教科書やノート、学習プリント。
洋服やバッグ、毛布、ベッド。
炊飯器や調味料など。
そのひとつひとつに思いであり、生活が合ったのである。

ここで暮らしていた人たちに、思いをはせると悲しさがこみ上げてくる。

あまりに多くの瓦礫のため、今日中には無理だと思っていたが、ボランティアの意識の高さとチームワークによりみるみると片づけられていった。
誰一人、愚痴を言わず黙々と働いている。
誰かが思いものを持とうとすると、さっと近くにいた人が手を貸す。
そんな互いの気配りがあって、作業はスムーズに進む。

ボランティアの中には若い大学生も多くいたが、率先してソファーや冷蔵庫といった重いものを運んでいた。

昨日までふつうにありふれた生活があった。
そして、それは明日も続くと思った。
いや永遠に続くとされ思われた。

それが、3月11日の東日本大震災の日から、全てを奪われた。
我々は、今日という日を本当に大切に生きているだろうか。
自分に問いかけながら作業を終えた。

◎さ い ご だ と わ か っ て い た ら「tomorrow never comes」
 (ノーマ・コーネット・マレック「10歳の男児を溺死で喪ったアメリカの母親」)

 あなたが眠りにつくのを見るのが
 最後だとわかっていたら
 わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
 神様にその魂を守ってくださるように 
 祈っただろう

 あなたがドアを出て行くのを見るのが 
 最後だとわかっていたら
 わたしは あなたを抱きしめて
 キスをして
 そしてまたもう一度呼び寄せて
 抱きしめただろう

 あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
 最後だとわかっていたら
 わたしは その一部始終をビデオにとって
 毎日繰り返し見ただろう

 あなたは言わなくても
 わかってくれていたかもしれないけれど
 最後だとわかっていたら
 一言だけでもいい…「あなたを愛している」と
 わたしは 伝えただろう
 たしかにいつも明日はやってくる
 でももしそれがわたしの勘違いで
 今日で全てが終わるのだとしたら
 わたしは 今日
 どんなにあなたを愛しているか 伝えたい

 そして わたしたちは 忘れないようにしたい
 若い人にも 年老いた人にも
 明日は誰にも約束されていないのだということを
 愛する人を抱きしめられるのは
 今日が最後になるかもしれないことを

 明日が来るのを待っているなら
 今日でもいいはず
 もし明日が来ないとしたら
 あなたは今日を後悔するだろうから

 微笑みや 抱擁や キスをするための
 ほんのちょっとの時間を
 どうして惜しんだのかと
 忙しさを理由に
 その人の最後の願いとなってしまったことを
 どうして してあげられなかったのかと

 だから 今日
 あなたの大切な人たちを
 しっかりと抱きしめよう
 そして その人を愛していること
 いつでも
 いつまでも大切な存在だということを
 そっと伝えよう

 「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や
 「気にしないで」を 伝える時を持とう
 そうすれば もし明日が来ないとしても
 あなたは今日を後悔しないだろうから


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災害ボランティア3「天使の声」

2012年04月07日 06時00分21秒 | 教育論
災害ボランティアセンターに向かう途中、茶色い鉄骨だけが残された建物が見えた。
これが、南三陸町の防災対策庁舎だった。
震災直後は、建物を覆っていた瓦礫や漁業のフロートや網などが多く絡まっていたと聞く。
1年たった現在は、すべてそれらの瓦礫は撤去され、鉄骨のみが残されている。
この建物の下には、祭壇がもうけられ、千羽鶴や花が手向けられていた。
多くの方がここを訪れ、犠牲になった方々を悲しみ、哀悼の意を示す。

ここで震災当日、上司の三浦毅さんと共に、町民に避難を呼びかけ続けたのが遠藤未希さん。
最近になってその全記録がみつかり、全部で62回避難放送はされ、そのうち44回を遠藤未希さんが、そして、18回を三浦毅さんが行った。
男性の声でも放送した方が、危機感が伝わるとの判断で、三浦さんも放送したとのことである。

その遠藤未希さんが命がけで避難を呼びかけ続けたエピソードが埼玉県の中学校の教材となったとの報道があった。

要旨は次の通りである。

遠藤未希さん「天使の声」
 
 誰にも気さくに接し、職場の仲間からは「未希さん」と慕われていた遠藤未希さん。その名には、未来に希望をもって生きてほしいと親の願いが込められていた。
 未希さんは、地元で就職を望む両親の思いをくみ、四年前に今の職場に就いた。(昨年)九月には結婚式を挙げる予定であった。

 突然、ドドーンという地響きとともに庁舎の天井が右に左に大きく揺れ始め、棚の書類が一斉に落ちた。
 「地震だ!」
 誰もが飛ばされまいと必死に机にしがみついた。かつて誰も経験したことのない強い揺れであった。
 未希さんは、「すぐ放送を」と思った。はやる気持ちを抑え、未希さんは二階にある放送室に駆け込んだ。
 防災対策庁舎の危機管理課で防災無線を担当していた。

「大津波警報が発令されました。町民の皆さんは早く、早く高台に避難してください」。
未希さんは、同僚の三浦さんと交代しながら祈る思いで放送をし続けた。
 地震が発生して二十分、すでに屋上には三十人ほどの職員が上がっていた。すると突然かん高い声がした。
 「潮が引き始めたぞぉー」
 午後三時十五分、屋上から「津波が来たぞぉー」という叫び声が聞こえた。
 未希さんは両手でマイクを握りしめて立ち上がった。
 そして、必死の思いで言い続けた。
「大きい津波がきています。早く、早く、早く高台に逃げてください。早く高台に逃げてください」。
重なり合う二人の声が絶叫の声と変わっていた。
 津波はみるみるうちに黒くその姿を変え、グウォーンと不気味な音を立てながら、すさまじい勢いで防潮水門を軽々超えてきた。
容赦なく町をのみ込んでいく。信じられない光景であった。

 未希さんをはじめ、職員は一斉に席を立ち、屋上に続く外階段を駆け上がった。その時、
「きたぞぉー、絶対に手を離すな」という野太い声が聞こえてきた。
津波は、庁舎の屋上をも一気に襲いかかってきた。
それは一瞬の出来事であった。
 「おーい、大丈夫かぁー」「あぁー、あー…」。
力のない声が聞こえた。三十人ほどいた職員の数は、わずか十人であった。
しかしそこに未希さんの姿は消えていた。

 それを伝え知った母親の美恵子さんは、いつ娘が帰ってきてもいいようにと未希さん
の部屋を片づけ、待ち続けていた。

 未希さんの遺体が見つかったのは、それから四十三日目の四月二十三日のことであった。
町民約一万七千七百人のうち、半数近くが避難して命拾いした。

 五月四日、しめやかに葬儀が行われた。会場に駆けつけた町民は「あの時の女性の声
で無我夢中で高台に逃げた。あの放送がなければ今ごろは自分は生きていなかっただろ
う」と、涙を流しながら写真に手を合わせた。
 変わり果てた娘を前に両親は、無念さを押し殺しながら「生きていてほしかった。
本当にご苦労様。ありがとう」とつぶやいた。

 出棺の時、雨も降っていないのに、西の空にひとすじの虹が出た。未希さんの声は
「天使の声」として町民の心に深く刻まれている。

引用終わり。



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