飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

東日本大震災から二年が経過して

2013年05月03日 14時45分59秒 | 東日本大震災
ゴールデンウィークの後半が始まった。
電車も飛行機も、行楽地やふるさとへ帰省する人々でごった返している。
道路も軒並み、30km以上の渋滞予想が出ている。

そんな中で東京駅での親子のインタビューシーンがあった。
「この休みを利用して2年経った被災地の様子を見てきたい。」
と答えていた。
どんな形であれ、人々の記憶から忘れさられることなく、覚えていることが復興支援にもなる。

ある本の中にこんな言葉があった。

計り知れない傷跡をのこしたあの震災から間もなく二年。
吹く風は春の訪れの近いことを告げているけれど、多くの人がいまなお心に癒しきれない傷を負ったまま、厳冬の中で佇んでいる。
一方で、惨禍を免れた者は、ともすると日常の生活にとりまぎれ、そうした人たちに思いを馳せることも少なくなっていく。
そして、いつしか、何事もなかったかのように揖斐を過ごすようになっていく。
もとより大きな災害や不慮の事故に見まわれたとき、周囲がどれほど災難に遭った人たちの心中を汲み取り、つらさを分かちあいたいと望んでも、実際に経験していない以上、そうした人々の本当の気持ちは解せまい。
しかし、それでもできること、しなくてはいけないことがある。
それは、いつまでも忘れないこと。
その出来事を風化させず、困苦に耐えている人たちの心にそい続けること。
そこから、いま自分ができることが見えてくるに違いない。
お互いに心を寄せ合いたい。
他人事ではなく、災禍は、いつ、どこで、誰に降り掛かってくるかわからないのだから。

自分に何ができるか、いつも考える。
忘れることなく、伝えること、このことは忘れずにいたい。
それが、ボランティアに行く率直な理由かもしれない。
saitani
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