飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

2013年05月06日 12時28分48秒 | 東日本大震災
東日本大震災以来、絆という言葉が注目をあびている。
学級集団作りでも、絆づくりということがよく聞かれる。

絆は、どのようなときに築かれるのでしょうか。
本来の絆とは何でしょうか。
今回の震災を通して、生きていくために食べていくために力らを合わせて働くときに本当の絆は培われていくと感じる。
一緒に時をただ過ごしたり、遊んだりすることからは本当の絆は生まれない。
生きるために互いに助け合うという心にしか絆は宿らないのではないか。

昨年、南三陸を訪れ、そして、今年、陸前高田と気仙沼をボランティアで訪れた。

そのボランティアの質は、明らかに変化している。

南三陸では、町営住宅の瓦礫の撤去と漁業支援としてワカメの収穫をお手伝いさせていただいた。
そして、今年は陸前高田で、被災畑の草取りと石の撤去を行った。
すでに今年は、瓦礫の撤去のような震災直後に必要とされた活動はない。
全体の支援ではなく、個々のニーズに基づいた活動に移行してきているという。
しかし、ボランティは必要だとボランティアステーションの方はおっしゃっていた。
被災された方々の心のなかでは、忘れ去られることが一番こわいという。

ボランティアが現地で作業をしていると必ず、現地の方がみている。
その姿をみていただくことが一番の復興支援なのだと教えられた。
側溝の土だしをしても、大きな復興にはならない。
しかし、必要なボランティアなのだ。

現在の状況から考えれば、実際に東北に足を運ぶことはあまり意味はないように感じる。
しかし、そばにいられなくても、遠くからでも忘れずに見守っていることはとても意味のあることだと言える。
自分たちはいつも東北を思っている。
そんなメッセージをいつも、様々な形で送り続けることが大事。
想像力を精一杯に働かせて、被災者の方々に思いを馳せること。

今の東北の人たちが抱えている悲しみやもどかしさ、せめてその悲しみくらいは想像しなければならないと感じる。

同じ、人間として、日本人として。

saitani
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