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三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【羽黒山五重塔で感じたナゾ】

2019年05月21日 09時50分40秒 | Weblog
きのう書いた国宝・羽黒山五重塔続篇です。
五重塔という建築はお釈迦様の墓、というような意味だそうですが、
宗教性を持った建築そのものですね。
住宅というのは、こういう志向性を持つということは少ない。

いわゆる大工という存在は聖徳太子が四天王寺を建てたのが
日本における国家的宗教建築の最初であり、
そのときに朝鮮半島地域からいまも存続する「金剛組」の始祖が
日本に来て、その後「宮大工」として建築を管理し続けることで、
徐々に各地に宗教建築が建てられるようになったとされる。
日本全国に「国分寺」を建てるという詔勅を聖武天皇は発するのですが、
そこから主に「社寺建築」という公共事業のゼネコン的仕事として
いわゆる大工という仕事は広がっていったのでしょう。
ただし、この羽黒山五重塔は開基伝承として平将門の名が記されている。
将門という人物は関東の独立を志向して、
政府軍に鎮圧された関東の武家のシンボル的存在。
また、怨霊信仰としては菅原道真と並び称される存在。
「ひそかに」であるのか、公然とであるのか、
かれを始祖伝承に持つというのは、出羽三山という存在のありようの
日本社会での位置の一端を示してもいる。
菅原道真は怨霊として政権中枢を揺るがして、その鎮魂のために
各地に「天満宮」が造営されてきた。
一方で将門は、こうしたいわば公的な「鎮魂」はされなかった。
その彼の名を縁起にせよ、持っているというのは特異。
おっと、また、歴史ネタで空想が広がってしまう(笑)。

建築的に面白かったというか、ナゾを感じたのは2点。
1 いわゆる「心柱」が、基壇部には接続していなくて、2層目から
立ち上がっているのだということ。
2 この「心柱」は、つる性の植物繊維で「結びつけ」られている、ということ。
1については、400年前の再建時に心柱下方が腐っていて
それを除去して2層目からとしたのだというのです。
一般的に塔の建築では心柱が耐震性の基本のように思っていたのですが、
それが2層目からのものとなると、どのように地震の力を
受け止め、いなしているのか、大きく疑問に思った次第。
今回、明治以降で初めて公開されたということで、
建築力学的な解析研究も進むのではないかと期待しています。
2はもっと不可思議。実際に内部を見て確認もしました。
つる性植物をこのように使うと、
「揺れなどの力が加われば加わるほど、捕縛力が強くなっていく」
という説明をいただいたのですが、
こういう力学的な解析もぜひ、期待したいなと感じていました。
読者の方でこれらについて知見のある方のご意見をいただければと希望します。
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【国宝・羽黒山五重塔 特別拝観】

2019年05月20日 06時38分44秒 | Weblog


歳を取ってくると、ふつうに古寺巡礼のようなことが
趣味生活の大きな部分を占めるようになるのでしょうか?
WEBで発信される情報でも、こういう情報に敏感に反応してしまう。
明治以降ではじめての内部公開だという。

先般も「出羽三山の魅力に惹かれた民族歴史」みたいなことを書いたのですが、
その中核的な存在である出羽三山神社の「羽黒山五重塔」内部が公開される
という情報に接して、建築的興味抑えがたく、拝観してきました。
日本の「山岳信仰」の系譜として修験道は、飛鳥時代に役小角(役行者)が創始した。
かれ自身は生涯、特定の宗教に帰依しなかったようです。
というよりも、日本人に濃厚な「自然崇拝」は、やはり縄文以来の
この列島の地形・自然、なかでも特徴的な山岳に対する尊崇心が
そのまま、存続してきたモノであるように思えてなりません。
そのなかでも出羽三山に対しての尊崇心は特異に進化してきた。
日本人には宗教心よりも「美」に対する尊崇心の方が優勢である、という
そのような文化の深層への意見が強い。
廃仏毀釈とか神仏習合とか、日本は宗教への対応を経験してきたけれど、
宗教の側では案外柔軟に対応してきた、とされる。
日本人は「絶対的観念」への尊崇よりも、違う価値観が優勢している、
どうもそれは、縄文以来の自然の美への尊崇ではないのでしょうか。
役行者の「思想」のほうが先行的な精神といえるのではないか、
そういう気分が濃厚に感じられると思っています。
出羽三山というのは、そういう日本人的心性のなかでも
ある強い磁場を形成してきたように思われます。
都からは離れているけれど、日本海交易という長く主要物流航路であった
そういう視点から見れば、きわめて近接的であったのではないかと思う。
都人、その文化にとって熊野とならんで言の葉に上る、
そういう存在だったのではないか、と思えるのです。

さて、すっかり前振りが長くなってしまった(笑)。
この五重塔は神社全体から見れば里山にあります。
神社本殿は羽黒山山上にあるのですが、里の宿泊施設群、
寺院建築に特徴的な何々「坊」といわれる建築群にほど近い山林中にある。
このあたり、神仏習合が出羽三山の成り立ちであった証拠ともいえる。
ただし、自然信仰よろしく、神威を感じる瀧であるとか、
直立する杉林などの奥深くに建てられている。
すぐ近くには「爺杉」という樹齢千年を超えるとされる杉も残っているなかに
この古建築は建っている。
わたし的には、杉林がやや途切れた地面からの反射光が
この五重塔の木組み面を下から照らし上げて、
さらにその表面が白くなっているので、反射光がより際だっている、
そういう印象を持ちました。
塔身には彩色等を施さない素木の塔というのがこれの特徴とされるので、
そういうことなのでしょうか?
杉というのは経年して、このような皮膚表情になるのか、と思った。
ほかの社殿建築もほぼ同様の表情を見せていたので、
そういうことであるのは間違いがないのでしょうね。
杉の表面が経年劣化して行くとこのような表情になるとは、
案内のひとから聞いた次第ですが、今度、専門家にも確認してみます。
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【竪穴と高床、どっちが根源的建築か?】

2019年05月18日 06時47分41秒 | Weblog


一昨日、東北フォーラムの年次総会に出席。
っていうか、どうしても外せない要件があって、懇親会にのみ参加。
いろいろな方と情報交換させていただきました。
わたしの場合は、北海道でも同様に研究者・実践者のみなさんと
情報交換もしているわけですが、やはり地域的な違いも感じる。
北海道の場合には、研究者・実践者、さらには行政側までも一体化する
そういった雰囲気があります。
たぶん、気候の厳しさが人間の情報交換の質にまであらわれている。
そういった「区別」が、同じような気候風土にさらされているなかで、
一種の共同意識を高めている部分があって、
いきなり現場的・実践的な話題内容に容易にスライドしていく。
そこでは、各自のスタンス的な違いがふっとんで、
「どうしたら、具体的に性能が向上するか?」という現実論になる。
それに対して、東北ではそういった部分もある程度はあるけれど、
やはりスタンスの違いというのが存在する。
まぁ、逆にそのことが刺激的でもあるのですが・・・。

で、一昨日はじめてお目に掛かった山形在住の設計者である、
空間芸術研究所主宰の矢野英裕さんから、
「あしたは山形に出張予定ですよ」と軽くご案内していたら、
さっそくのお誘いの電話をいただき、夕刻事務所に伺わせていただきました。
氏は、東大工学部出身者の最近の集まりで、東北フォーラムの
吉野理事長と面識を持たれて今次総会にはじめて参加されていたとのこと。
安藤忠雄さんが東大で教授を務められる5年前から安藤忠雄事務所で
勤務されて、つい最近まで務められていたということでした。
北海道が本拠であるわたしどもとしては、
安藤忠雄事務所というのは、なかなか縁の薄い世界だったのですが、
そういう経歴の方との情報交換は、たいへん刺激的でたのしい時間でした。

という前振りで表題のようなテーマにたどりついた次第(笑)。
「北海道は住宅を作るのに、どう作ろうかとニッポン社会に聞いたけど、
暖かい家を作るのに役立つ知見はなにも得られなかった」
「やむなく、北欧や北米と対話して、北方圏住宅の知恵を導入開発した」
っていうような話題を提供しておりました。
鎌田紀彦先生も、福島明先生も北欧で研究生活を過ごされている。
そしてさらに「凍結深度という概念があって、地表面の水分が気温低下の結果、
凍結したり、それが爆裂したりするので、地面を掘り下げる必要がある」
「住居の歴史として考えれば、これは竪穴住居の知恵までさかのぼる」
っていうような説明をしておりました。
それに対して、安藤忠雄事務所出身者としてのスタンスを聞くことが出来た。
日本の大学の建築学では、ヨーロッパの建築学がベースであり、
それもギリシャ・ローマが、論ずべき「建築」のスタートと考え、さらに
日本建築的な「独自性」をそれに対して意識的に深層的に対置させる、
そんなふうな、想像していたような反応がうかがえた次第。

写真は九州の吉野ヶ里の復元建築。
高床式の建物もありながら同時に日常の暮らしの場は竪穴だった。
高床はその後、大型化して権威的な「建築」のベースになった。
一方、竪穴は日本でもながく、庶民一般の住居として存続し続けた。
さて、現代にまで至っている、この「対立的概念」は、
本当に対立的であるのかどうか、わたし的には疑問だと思っていますが。
今後、情報交換が面白くなると思っています(笑)。
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【時代遅れの碍子配線へのノスタルジー】

2019年05月17日 07時13分10秒 | Weblog

写真は先日行ってきた北海道十勝の「古民家風」蕎麦店内部。
この建物は数十キロ離れたところから「移築」されたと聞いたのですが、
くわしい状況についてはお店からヒアリングすることはできなかった。
お昼時で超多忙だったので、聞けなかった。
なんですが、写真を取ってみると柱や梁などはどうも新材を使っているように見える。
新材に茶色く塗装して「古民家風」としている印象。
で、その「移築」はいまから十数年前くらいだと言われた。

わたしが興味を持ったのは、電気配線をそのまま露出させた
「碍子配線」が採用されていること。
わたしもこの移築時期のちょっと前に旧事務所で採用していたので
強く興味を惹かれた次第なのです。
ただ、お店の方に聞くことはできなかったので、
この碍子配線の経緯を確認することもできませんでした。
碍子配線というのは、陶器製の電気線巻き取り装置で
電気配線を行っていくもので、
建物が前から建っているところに、「電気が後から」入ってきたことを明示する。
十勝に電気が導入されていったのは、さて何年前かは知りませんが、
まぁ十数年前には確実でしょうから(笑)、
この碍子配線はそのときに「意図的に」工事されたに違いない。
わたしの工事の時にも、この「碍子」を確保するのはけっこう苦労した。
設計者がプランしてくれたのですが、施工会社が手配してみると
北海道中に在庫はなくて、横浜の倉庫から見つけ出されたと言われた。
そのうえ、この碍子を使って電気線を配線していくのに、
工事技術者がいなくなっていた。で、数少ない技術者を探し出してきて
配線してもらった記憶が鮮明に残っています。
ということなので、ほぼ同時期、十勝でどのような経緯で
こうした工事が行われたのか、興味を持った次第。

いまや、IT化の極端な進展やクルマも自動運転がどうのこうのという時代。
こういった「手仕事」は存続可能性が低くなっているけれど、
ふと、目に飛び込んでくると、やはりなにか感じさせられる。
やがて人類記憶的に「古層」を形成するようなことがらだろうけれど、
なにか、力を感じるように思えてならない。
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【アジア的古層の建築&都市計画のカタチ】

2019年05月16日 06時55分30秒 | Weblog
本日は歴史建築への雑感です。
写真は仙台市博物館展示での「陸奧国分寺」模型。
手前から「南大門」があって、正殿に対して回廊まで配置されている。
わたしはこういう歴史建築の研究者ではありませんが、
この「回廊」は、建築的意味合いとしてかなり重要ということだそうです。
周囲を塀で囲んだほぼ正方形の幾何学形に土地を「街割り」して
内部にいろいろな建築を配置していくのは、古格なアジア的権威建築様式。
宗教的、あるいは政治的空間というものが、
ある「都市的整然性」を目指しているように感じられます。

江戸期・光格天皇の代の時に京都御所が火災で焼失したとき、
当時の江戸幕府の国家予算が90万両あまりだったのに、
再建費用として80万両の規模の再建が行われたのだそうです。
で、幕府としてはなるべく費用を抑えたいところ、
光格天皇は朝廷の威信復興をめざして、より立派な建築再現をめざした。
そもそも消失前には、この「回廊」建築は省略されていたのだそうですが、
朝廷権威復興のために、絶対に再建させたかったのだとされています。
この回廊の再建を認めるかどうかが、幕府と御所側とで
対立的なテーマになったとされているのですね。
朝廷側としては、それまで簡略化していた「王朝的行事・しきたり」を
きちんと再興したい思惑があったとされる。
朝廷行事というのが古式に則って、整然と行われることは
そこから「任命」される将軍権力にとっても有益だろうと説得したようなのですね。
回廊が、こういう古格な行事演出装置として
大きな役割を持っていたということのようなのです。
いわばアジア的権威性の揺籃装置というようなことでしょうか?
・・・というような情報は先日放送されたBSNHKの「英雄たちの選択」から。
どうも最近、光格天皇という方の事跡がクローズアップされてきている。
この方は、その先代にあたる後桃園天皇が、女子ひとりを
残されて亡くなられた後、6代前の天皇出自の「男系」宮家から即位した。
母親はごくふつうの庶民でしかも正妻ではなかったのだそうです。
そういう「偶然」に選択された天皇として、むしろ天皇権威について
より古格な復元を目指すようになったというのです。

で、「遠の朝廷」の一部を構成する建築である陸奧国分寺でも
権力を示威する目的性が高く、回廊という建築装置は、
国家宗教施設建築として、儀式などの空間装置として
きわめて重要な役割を果たすものなのだといえるのでしょう。
奥州での金の発見という国家的慶事のその発源地として、
陸奥国という地域は日本国家にとって格別の地域ではあったのでしょうが、
こういう国分寺施設としてはほぼ同様の設計思想だっただろうと思える。
まぁ江戸期の朝廷再建とはかける予算も違うだろうけれど、
「格式・設計思想」としては、同様の考え方だったのでしょうね。
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【8インチWinノートPC サブで仲間入り】

2019年05月15日 05時05分43秒 | Weblog
モバイルな仕事生活が基本環境になっています。
大体、週の半分は札幌であと半分は主にオフィスのある仙台・東北。
その他、東京や関西などにも通常的行動半径は広がっている。

ということで、おおむねノートパソコン、MacBookAirが基本仕事環境。
なんといっても寄る年波で、軽量化したいのが切実な願い。
これまでのものからAirに換えて、画面も15➡13インチになり、
重さはほぼ半減してきていた。
しかし、わたしの仕事ではときどきWindowsのソフト環境が必要になる。
しばらくの間はMac上の仮想環境を使っていましたが、
やはりいろいろ不具合対応が必要になる。
Win環境はせいぜい1日には数十分程度で済むのに、
その環境維持のために注意力を注ぐのが、どうもコスパが悪い。
ということで、だったら別にWindowsノートPCを買った方がマシだと。
そういう用途なのでこだわりなく中古マシン。
別段その環境で問題なく処理出来ていたのですが、
このサブノートPCは15インチで重いのですね(泣)。
以前、長年使ってきたMacBookPro15と比べても、2倍くらいの重さ。
頻繁な出張移動にMacBookAirといっしょに持ち歩くのはツライ。
しかしWin環境の仕事は出張にも、もれなくついてくる。
そういった経緯から、ごく軽量のWinノートを探していた。
きのう、久しぶりに札幌の街に出たついでにパソコンショップで
写真左側の、Dynabookというヤツ、それも8インチという
まことにかわいらしいコンパクトな中古を発見して、即購入。
モノは試しなので、いちばん安いヤツから2番目をゲット(笑)。14,800円也。

しかし、最初は例のWin「タイル画面」表示だったので
それを通常のデスクトップ画面に変更するのに、
メーカーの電話窓口のお世話になったりもした。
あの「タイル画面」って、使いやすいと思うひともいるのでしょうか?
コントロールパネルを探し出すのにも一苦労して、
そこからさらに深い階層でようやく「タイル画面」解除方法がわかった。
作業で必要なソフトは3つほどなのでインストールして使い始め。
まずまず、必要な作業については画面表示でも不足はなさそう。
ごらんのようなコンパクトさ。MacbookAir13よりも2回りくらい小さいので
必要な作業だけをモバイル環境で、という用途にはピッタリ。
本日からの移動に、ガラガラスーツケースに収納させても加重感は少ない。
最近、韓国のサムソンがスマホで画面が2倍になるヤツを
予定価格20数万円程度で売り出そうとして実機を制作したけれど
液晶画面の折り返し部分をテープで持たせただけのシロモノで
ITメディアの使用テストで即壊れて出荷停止、発売中止になったようですね。
こういう作業画面が欲しいのなら別にスマホである必要はないのではないか。
Dynabook8インチ、わたし的にはなかなかいいかもと思っています。
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【自然は「完全」なカタチを教える】

2019年05月14日 06時34分37秒 | Weblog


ようやく北海道でも新緑の季節がやってきて
これまで骨と皮だけのようだった木々がいっせいに芽吹いてきた。
木が葉を伸ばすというのは、その置かれた環境に対して
もっとも合目的的なやり方であることは自明。
この写真の木のように、成長に伴って自然に古層から、
先端部の最新層に至るまで、整然と秩序づけられるし、
葉っぱはもっとも陽を受けやすい場所を選択して葉を生長させる。
太陽というエネルギーの源に対して整然とした対応をみせる。
そういった様子は、同じイキモノとしての人間には「美」として
強く印象されるのだと思う。
自然が造作するカタチにはすべて合理性があり、
そして太陽に対して素直であることで美観にいたる。

たぶん、建築というものも最終的にはそういうことでしょう。
下の写真は仙台市博物館付属の茶室「残月亭」。
人間が建築を思い立ったときに最大のテーマは
人間のいごこちが究極的だったことは間違いがない。
その人間は自然の一部であり、同じく自然のものである木を
その材料として活用するのが一般化した。
そうすると、木本来が持っているだろう美観の根源というものに
建築を作ろうとする人間はいちばんアナロジーを感じただろう。
とくに人間が「見る」外観デザインに於いては
周辺に存在する木々との調和というものが目指されたに違いない。
ながくその場所に存在して、環境と相互につりあうような関係が
たぶん多くの建築者は考え続けたに違いない。
長期間ありつづけても、自然と調和できる姿カタチ。
日本の古来の都市建築である町家建築では
あらたに建築する場合でも、それまでの建築と調和させるように
その「作法」とか、たたずまいをリスペクトして
建てられ続けたというように聞く。

木を見続けていると、その姿カタチに常に「完全」があるように思う。
こういった完全に対してリスペクトして
それと調和させる建築的たたずまいをと、
人間は考え続けてきたのだろうと思います。
茶室というニッポン的そのもののような「簡素」の美。
その作る精神ではやはり、こんなイメージが素のままに
目指されてきたのだろうと思えます。
さて、現代われわれが作っている住宅建築は
はたしてそのようであるでしょうか?
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【トイレ設計のエチケット】

2019年05月13日 05時44分18秒 | Weblog


現代人というのはとにかく「移動」し続ける。
飛行機・鉄道・公共交通機関・クルマなどなど、
移動手段は無数に存在し、定点的に生きるよりも移動する生活の方が
現代人類をより深く規定している要素。

移動すれば、人間にはかならず排泄が伴っていく。
ということなので、トイレは公共建築施設の最重要要素だと思う。
こういう建築要素については、常識とかマナーとか
エチケットといった公的な部分が十分に配慮される必要があると思う。
昨日もなにげなくカミさんとやや遠出して高速を利用した。
わたしが運転していたけれど、ブログでの書き損じに気付いて、
応急でスマホを使って修正するためにあるPAで運転チェンジ。
そのチャンスでトイレを利用した。
正面から進行方向を見たのが1枚目の写真。
まっすぐの「目隠し壁」がやや方向が振ってある。
建築的意匠に属するので習い性で、おや、どういう意図かなぁと推測。
ふつう考えられるのは、いきなり便器が見えるのを避けるのは常識として
さらになにか、動線的に仕掛けたいのかなと想像した。
ところが、右動線も左動線にも明瞭な意図はなかった。
特段の装置的なものもなかった。
あえて見いだせば、右側に方向性の「流れ」を作りたかったのか。
向かって左側に小があって、右側が大という当然の配置。
で、わたしは左で用を足した。
けれど、すぐになにか奇異な「違和感」を感じた。
そうなんです、カラダの左側面から予期しない映像が視線に入ってくる。
方向を振っていた目隠し壁には手洗いが背面に配置されていて
その鏡がトイレ側から視線に入ってきてしまうのです。
そこには用便している自分自身が映し出されている。
こういう姿勢、こういう行為を見続けたい人間というのは、
まずそれほどいないだろうと、困惑させられる。
わたしも言いようのない羞恥心を抱かされた。「おいおい」であります。
こういう行為の様子を自分自身で見たくもないし、
ましてや他者の視線にさらしたくもない。
どうにも、この鏡の配置には違和感、
さらにはプライバシー的疑問が湧き上がってきてしまった。

週の初めのブログテーマとしては、
ややすっきりしないテーマではありましたが、
多くの人が利用する「公共」的空間の建築意匠として
どうであるかと、疑問を持った次第です。
あるいはこの方向を振った目隠し壁と洗面鏡には
こうしたデメリットを乗り越える利便性・メリットがあるのでしょうか?
建築意匠を考えることが多いけれど、どうも見いだせなかった・・・。
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【ハナミズキとヤマモミジ競演 in 山形市】

2019年05月12日 08時35分16秒 | Weblog


きのうは山形市内を巡っていたのですが、
至るところ、街路樹としてハナミズキとヤマモミジ。

北海道ではハナミズキが街路樹に使われるって
あんまり見覚えがなく、またほかの街でも見たことは多くない。
山形市では「街の木」としてこのハナミズキとヤマモミジを
選定しているのだろうか、意図的と思われるほど
市内各所で目について、初夏を思わせるあたたかさのなか、
やや上気したような気分で、花を愛でておりました。
街路樹としてはヤマモミジの方が多数、植え込まれている印象。
ハナミズキの方は、ところどころ
まるで紅白のバランスを考えたように植え込まれていた。

わたしはこの2つの木が大好きで、
とくにヤマモミジを以前のオフィスで植えていた経験があります。
ハナミズキは明治以降、アメリカから移植された樹種であり、
近縁種のヤマモミジこそが日本的な樹種であると
そういった知識もあるのですが、
しかしこの両種がこのように意図的に配置されると
そのコントラストが素晴らしいことに大いに気付かされる。
たまたま、この山形市でこの両種の開花時期に出会ったことで
気付かされた次第ですが、こういう「街の景観」はすばらしい。
先日も書きましたが、やはり人間は情緒的に生きている存在。
こういう「雰囲気の演出」がひとびとのこころに
ある影響を与える力というのは、非常に大きいと思います。
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【多忙な日常のいっとき、霊峰月山の神威を仰ぐ】

2019年05月11日 07時27分03秒 | Weblog
日本中をあちこちと訪ね回る仕事を重ねてきています。
幼少期に札幌の当時の最大幹線道路・石山道路という
建築資材の札幌軟石を「石山」から運搬してきたメイン道路に面した家に住んでいて、
その活発な状況、その後の「モータリゼーション」の予感、
そして、なんとなく「遠くへの憧れ」を抱いていたのでしょう。
南方向・石山からその先のニッポン方向を毎日見ては、
「この先にどんな場所があるのか」と
妄想をたくましくするのが、少年期の心的生活だったと思っています。
「北海道人」という雅号を使ったという幕末の探検家・松浦武四郎は、
幼年期、お伊勢参りの大旅客群を毎日見続ける日々だったとされますが、
こういった「移動・交通」ということに感受性を刺激される
人間類型というのが存在するのだと思う次第。

で、そういう心的傾向を持つ者として
「出羽三山」といわれる山々に魅せられた人々のことが
なんとなくいつも気に掛かっています。
きのう、久しぶりに仙台ー庄内地域を往復したのですが、
いまだに高速道路が月山地域で寸断されている。
刻々と日が沈んでいくのと、仙台までの距離の長さを気に掛けながら
どうしても、霊峰を仰ぎ見たい心境とで板挟みになりつつ、
トイレ休憩時に、はるかな遠景で「たぶんあれだろう」と
この時期の霞の掛かった美しい山体を仰ぎ見た。
そして高速道路が寸断された山道を走らせながら
「おお、これが月山だ」と見とれていた。
しかしハンドル操作を停めるまでの時間的ゆとりはなく、
こころに強くそのお姿を焼き付けながら、
残念無念とクルマを急がせておりました(泣)。
しかしそれでも日本海に沈む夕陽を受けながら、山頂には雪を抱き
神々しく光を照り返している姿・カタチには
まことに「神威」を感じざるを得ませんでした。

ニッポンは四季変化が明瞭で、しかも年間降雪量が多く、
四季を通しての景観の変化がまことにバラエティに富んでいる。
そういった自然環境に抱かれている人間の心性は
どのような「環境影響」を受けるモノであるのか、
たぶん日本人と他国民との、集団としてのメンタルの相違に
こうしたことは表れるのだろうと思っています。
日本人的なメンタルの最たるものとして「水に流す」という
たいへんおかしな心性があると思う。
新緑の美しさ、まぶしさ、淡い蒸発水分の空気感のなか、
あれは、こうした自然環境が育んだモノであるように
なんとなく感じ続けておりました。・・・
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