三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【秋田大仙「古四王神社」 戦国期独自デザイン宗教建築】

2018年12月20日 06時35分34秒 | Weblog



秋田県南部、払田柵のことを先日書きましたが、
そこから秋田道高速に移動しようとして、ふと道端に「重要文化財」の文字。
よく見ると「古四王神社」とありました。
あとで知ったのですが、払田柵以降に奈良平安期の律令国家が
出羽国に置いた本格政庁・秋田城にも「古四王神社」が祀られていたそうです。
その創建時には大阪の「四天王寺」の別院のように建てられていたとのこと。
いうまでもなく四天王寺は聖徳太子が仏教を日本に国家として導入する
その嚆矢となった宗教建築。
国家鎮護思想の一環として、東西南北四方の安寧を祈願する意味があったという。
律令日本国家として、北辺の鎮護に当たって、
こうした宗教建築が意図されたものだろうとされています。
その後、この四天王寺分院は江戸期の「神仏習合」政策の結果、
「古四王神社」として今日まで存続してきているというのです。
実際に秋田城にほど近く、神社建築はありました。
で、この払田柵に近い位置にある「古四王神社」も、同様の意図を持った
宗教建築であったと考えるのが自然だろうと思われます。

そういった背景を持った神社なのですが、
その「重要文化財」としての説明文を見ると、この神社建築は
戦国時代の「元亀元年(1570年)」に、「飛騨の匠」と伝承されていた
岐阜県古川出自の大工・甚兵衛が作ったという墨書が発見されたのだそうです。
さらにこういった経緯を発掘した昭和5年の調査時に
文部省からの委託を受けた調査官・伊東忠太博士(明治から昭和期の建築家、建築史家・
東京帝国大学名誉教授)の文章として
「手法磊落放縦、端倪すべからず実に奇中の奇、珍中の珍なり」と評されたとされる。
さらに天沼俊一(建築史家。京都大学名誉教授。)氏からは
「建築様式にまったくこだわらず、和・唐・天を超越した天下一品の建物である」
とまで激賞されていたと書かれていた。
・・・というような情報に、この正史文献記録にも書かれていない払田柵近くで
まさか遭遇するとは思わなかったので、驚愕させられた。
まぁいくつかの驚くべき事実がそこにはあると思われました。
1 戦国期にあっても、こうした古建築への需要があったということ。
2 どのような経緯で「飛騨の匠」とされた大工がこの地で仕事したのか?
3 この神社建築創建時、払田柵は秋田城と比肩する社格という「常識」が存在した。
4 どのような権力機構主体が公共建築としてこの建築を勧請したのか?
5 こういった創建時の消息がその後、情報としては忘却されてきたのはなぜか?
6 そもそもこの建築の建築デザインの「意図」はどのようであったのか?
7 払田柵は戦国当時、秋田城並みに歴史的建築価値を持っていたのか?
こういったナゾが、わたしに一気に訪れてきたのであります。
というようなことで自宅環境に戻ってから、撮影した写真データを修正加工し、
まずはデザイン意図把握のため、建築データ的に水平垂直を再構成してみた。
写真の上2枚は「本殿」建築のものであります。
一目して、屋根と主体建築部がスライドされているような建築と読み取れる。
本殿とその前方の「拝殿」とおぼしき建物は
屋根がそれぞれ反対方向にスライドされているので、
全体として流動感、水平ラインが強く意図されていることが伝わってくる。
昭和5年段階の建築史家権威2者が激賞したということは、
この建築の独創性を強く権威付けしたでしょうが、
ではそのデザイン意図はどうであったかは、読み取りきれない。
個人としての表現者称号としての「建築家」という職業人格性に似たものが
「飛騨の匠」名称には強く込められていた、という歴史文化概念も浮かんでくる。
まるで戦国期に出現した安藤忠雄建築的驚きといったらいいでしょうか?

わたしとしては、まさに鳩が豆鉄砲を食らった驚きが
今に至っても、ずっと続いている状態なのであります。
ぜひ多くのみなさんからのこの建築への情報を求めます。よろしく。
コメント
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