三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【秋田城再見、古代水洗厠詳細探訪】

2018年12月17日 05時53分08秒 | Weblog


きのうの日曜日は秋田県内の遺跡関係を踏破いたしました。
県南の「払田柵」から始まって、「古四王神社in大曲」、
秋田市内の御所野遺跡、秋田城(王朝期)、さらに
きっかけの情報をいただいた西方里見さんに敬意を表して
最後は県北の西方さん設計の「道の駅・二ツ井」も行脚してきました。
わたしとしては古代史に夢広がる思いでワクワクの探訪ができました。
ここんところ、こういうまとまった時間はまったくとれなかったので、
日程調整して、札幌に帰らずに今週前半の青森行脚の途次、
たいへん楽しく有益に過ごすことができました。
古代史同好の士である西方さんに感謝であります。

で、本日はきっかけになった「古代の水洗トイレ」遺構のご紹介。
この秋田城は日本海辺に隣接する広大な「高清水」の丘陵地帯に造営されている。
わたしは以前にもこの遺構は探訪しているのですが
今回、周辺地域一帯が公園としても整備され、なお、秋田城跡歴史資料館が
隣接して開館しているのははじめて見学できた次第。
この資料館は2016年開館とされているので、
わたしが以前見学したときには存在していなかったのですね。
以前来たときには「秋田城」といえば市内中心部の江戸期「久保田城」のことで、
王朝時代の「国府」説が強いこちらの秋田城はマイナーな存在だった。
しかし今回いろいろな情報が摂取できて、
この「遠の朝廷」がいかに存在したか、リアリティを強めることが出来ました。
まずは立地が日本海を見晴らす高台で、その近くには古代にも湊があった。
男鹿半島が天然の防波堤的に機能して、比較的に良好な湊だったのでしょう。
多くのヤマト政権域外勢力、蝦夷と言われる人々、北海道の諸勢力、
アイヌの前身の人々やオホーツク文化人たち、さらには北東アジアに成立した
「渤海国」などの「朝貢」を受けるヤマト国家北辺の拠点だったのでしょう。

こうした古代研究が進んでいる様子が資料館展示では詳細にわかる。
で、今回探訪のきっかけになった「トイレ」についても
写真のように詳細な「利用方法」(笑)も詳細開示されていた。
悲しいかな、12月になって古代水洗厠は冬期閉鎖されていた(泣)。
このトイレは「臨池式庭園」周辺に立地していて、
中間貯蔵池を経て、周辺の「高清水」湧水池に自然循環させていたようです。
使い方は窓に対して背を向けた態勢で、ウケの陶器便器の上方に板を2本渡して
そこに座って、利用していた様子が想像復元されていた。
水瓶と杓子があるので、利用後、ウケの陶器に向かって放水して
「流した」のではないかと推測できますね。
なんと、化学分析の先端的研究も導入されてきて、
この水洗トイレ周辺の化学分析の結果、トイレ利用者の食事習慣まで
特定されてきているということです。
それによると当時のこの地域住民、ひろく日本列島住民一般の食生活とは
あきらかに違う「豚食」文化の特徴が解析されるのだそうです。
化学分析から、この遠の朝廷が北方外交の役を担っていた様子が明瞭。
こういう交流がどんな交易を生み、どのような経済利益を相互にもたらしたのか、
想像の翼は大きく広がってきました。う〜む、すごい。
コメント
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