北前船という江戸から受け継がれてきた
日本の交易ビジネス文化に深く興味を持っています。
この図表は、そういった調査研究のひとつの資料であります。
北前船というのは、<Wikipediaより>
江戸時代から明治時代にかけて活躍した主に買積み廻船の名称。
買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、
航行する船主自体が商品を買い、
それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。
当初は近江商人が主導権を握っていたが、
後に船主が主体となって貿易を行うようになる。
上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して
瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかう船のことである。西廻り航路の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長された。
ということで、北海道ときわめてゆかりが深い。
というか、この交易は北海道の産品の移出が始まることで
より大きくなっていったビジネス。
司馬遼太郎さんの書いた「高田屋嘉兵衛」の物語などで
その当時の様子を知ることが出来ます。
しかし具体的な貸借対照表のようなものは見る機会がなかったのですが、
上のような図表を発掘(?)した次第。
弁財船と呼ばれる船は1艘で約1000両ほど建造費がかかったそうです。
でも、この1回の航海での貸借対照表を見ると
北海道に資材を持って行って販売したものの利益が60両ほどなのに対して
北海道から大坂に持ってきて得た利益は2181両以上になっている。
この経理内容からすると、
この1回の取引交易だけで、船の建造費まで償却してしまっている。
現在の貨幣価値に換算すると1億5000万円超の利益だったそうです。
こういう「交易活動」が江戸期~明治期を通じて
活発に国内で行われてきた。
一番利益があったのは、魚肥としてのニシンだったそうです。
北海道側では、身欠ニシン生産のゴミとしての内蔵や尾ひれなどが
江戸期を通じて活発だった木綿生産の畑の肥料として
供給され続けていた。
それが大坂から畿内地域の木綿畑に広く販売された。
こうした船舶交易は、流通業ではなく、
海に浮かんだ総合商社というように言えるのだそうです。
船主、船頭には当然、船乗りとしての才能は要求されたけれど、
それ以上に、売買についての情報能力が重要視された。
そしてそれを基礎にしたビジネス交渉力が決定的だった。
確かに難破の危険とはつねに隣り合わせだっただろうけれど
身分制の桎梏の中にあった江戸期社会では、
稀有な上昇機会、いわばジャパニーズドリームとして機能した。
こうしたビジネスマンたちが、
その後の日本資本主義のベースの人材となっていった。
坂本龍馬などは、こうした「身分制度からのはみ出し」が
大きな魅力だなぁと思って海援隊などを創始したのでしょうね。
江戸期に男として生まれたら、
こんな生き方をしてみたいと思った人間はきっと多かったんでしょう。
今日に至る、日本人の北海道へのロマンの感情のもとには、
きっとこうした成功者たちの夢が反映している部分があるのだろうと思います。
生々しい数字に想念が広がった次第。