三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

白村江の戦い

2010年01月07日 06時42分52秒 | Weblog




本日は「暖房の話」、ちょっと一休みさせてください(笑)。

歴史家・岡田英弘さんの著作を読み続けています。
っていっても、購入したのはもう10年以上前の文庫本で、
気が向いてから、寝る前の睡眠薬として活用してきたので(笑)
最近になってようやく、その本格的な部分が見えてきたという次第。
タイトルは「倭国の時代」です。
外国の、たとえばギリシャやローマの歴史などは
詳細なテレビ番組などになったりしていて、
かなり西洋の古代史の研究っていうのは進んでいますが、
中国の古代史と比較しても、どうも日本の古代史は、霞と闇の塊のようで、
天皇制という触れられない部分が関わらざるを得ないので、
スッキリと見えなくなっている部分が大きい。
しかし、たとえば白村江の戦いなど、
「日本国家」成立と深く関わっている時期の国際関係はかなり明瞭。
白村江の戦いって、中国に唐という超強大国家が出現し、
それと古代以来の部族連合的国家群との戦いだったと思われます。
朝鮮半島から日本列島にかけては、
古代的な部族国家がたくさん存在するような状況だったのではないか。
倭国の卑弥呼などの調整型権力というような存在が
この列島社会の伝統的な「王権」のありようだったと思います。
それに対して、明確な国家体制としての「律令」を持つ専制国家・唐が
軍事としても文化としても、圧倒的な威圧感をもって登場してきた。
そういうものに明確に敗戦したのが、白村江の戦いだった。
ときの天皇が九州北部に居を移し、実質的な宰相だった皇太子・天智天皇が
直接軍を指揮して戦って、敗戦したのですね。
「にぎたずにふなのりせんと・・・」という万葉の歌は、
この戦役に向かう軍船団の出航の様子を謳った戦争の歌なんですね。
この敗戦の結果、やはり進んだ律令国家体制をこの列島社会に作らなければ
唐に占領支配される、という強い危機感が支配層に充満した。
敗戦後、国防的な一連の処置を行ってからでなければ、
天智は即位もできなかった。
で、白村江の戦いをともに戦い破れた、百済からの難民を受け入れたのが
関東であったのですね。
そういえば、古代で関東の中心だった「毛野国」の豪族長とおぼしき人物が
白村江の戦いの指揮官として名前も見えている。
そして、天智の死後、天智の息子との武力衝突・壬申の乱によって
王権を得た弟・天武は、関東の武力を利用して勝利者になったといわれる。

このような光景が、どうも見えてきた。
岡田さんという方は、ずっとこういうスタンスで古代史を
説き続けてきているようです。
で、このような古代史の最大事件の周辺で、
「日本」という国家が目的的に創設されてきたのだ、というのが結論的な部分。
古代史というと、魏志倭人伝や、古事記・日本書紀だとかの
「ために創作した」と思われる記述に振り回されて、その記述解釈に
血道を上げているような傾向が強いなかで、
まさにクリアに見えてくるような著作だと、感銘いたしました次第です。
東アジア3カ国・日本・韓国・中国による
共同歴史研究って、きわめて大切だと思う次第です。
最近のNHK歴史番組などでも、たとえば元寇の元の撤退の真相分析など、
たいへん客観性に満ちた歴史が立ち現れてきています。
どうも、日本の歴史学会や認識が世界標準からはだいぶ、ずれていると感じます。
このような研究の一層の進展に期待したいと思います。

きのうから本格的な仕事が始まっていまして、
さっそく長期出張が始まりそうな様子なんですが、
きょうは久しぶりに爽快な歴史ロマンのお話しで、一服清涼感を感じています(笑)。
写真は、北海道中世の上ノ国の軍事集落再現模型です。
まぁ、昔から軍事と権力は一体のものですね。






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