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三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

愛読書

2008年02月28日 05時53分47秒 | 歴史探訪

もう何年間、この本と付き合ってきたか・・・。
司馬遼太郎さんの「関ヶ原」とか、「太閤記」とか。
ちなみに奥付を見たら、昭和51年発行になっているので、
もう30年以上も手元に置いて読み続けている本になるわけです。
定価はカバーに表記しています、と書かれていますが、
とうの昔にカバーはなくなっているので、いくらで購入した本であるか
いまはもうわかりません。
この「上巻」は、一部、綴じも壊れてしまっていますが、
それでも、ずっと読み続けてきた。
どんな読み方をしてきたのか、といえば、はじめはまぁ、2~3回通読した記憶はある。
その後は、適当にページを開いてそこから読み始めて
最後まで読むこともあったし、そのまま、寝込んでしまうこともあった。
長い時期で、数年間目にしないということもあるけれど、
時々思い起こしては、また読んでいる、っていう次第。

そんな読み方をしているので、
内容というか、書いてあることは、ほとんど全部と言っていいほど
記憶の中にインプットされている。
それでも、読み続けてきたのは、やはり、
こっちの年齢があがってくるほどに、「行間の消息」が見えてくるから。
意味としては、全部理解しているけれど、
そうではなく、小説なので人間の心理を描写しているので、
その心理などが、こっちの体験が加わるごとに重みが違ってきて、
書かれた文章の意味合いが、いろいろな色合いに見えてくるのですね。
とくに、死を巡っての否応ないこちらの体験の積み重なりが、
同じ無常観を体験した先人たちの心理を通して、
こちら側に、いつも違うかたちで読めてくるのですね。

司馬遼太郎さんというのは、
稀有な形の「国民文学」という最後の作家になるのかも知れないと思います。
ちょうど日本が高度成長期にさしかかり、
いつも「坂の上の雲」を目指し続けた時代の雰囲気の中で、
幸福な同時代感覚の中で、作家活動を続けることができた人ですね。
もう死んでから12年になるようです。
死ぬ前に書かれた文章では、日本の将来に明るさは残念ながら見られない
と、書かれていたことを覚えています。
産経新聞在職中に、自社の連載小説に応募して『竜馬がゆく』が
審査を通って採用になったのだそうですが、
その当時の社長さんが、社員でもきちんと賞金を払ってくれた(笑)
と書かれていました。でも、家一軒建てられるほどの賞金は、
新聞記者出身者らしく、「取材」のための古書購入費にほとんど充ててしまったそうです。
当時借りていた住宅の床が、それで抜けるのではないかと心配したということ。
そんなことから、歴史小説を書くのに、
かれは、本当に過去の出来事であるのに、
実際にその場所に行ったり、まさに、ニュース取材のような方法でやっていたらしい。
そういう結果として、日本の歴史に対して、
独特の歴史観や、思いが募ってくる部分があったのだろうと推測します。

そういうかれの仕事の中では、
比較的初期の仕事ではあるのですが、
戦国の終結期の、「天下」成立後の複雑な「政治」情勢が、
肉声が聞こえてくるような筆致で書かれているのですね。
ここまで長く付き合ってくると、
これからもきっと、読み続けるのも間違いないでしょう。
こんな読書の仕方もあると思う次第ですが、
出版という業種自体の危機が進行しています。
今後どうなっていくものか、先行きは難しい時代ですね。
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歴史画に残るアイヌ風俗

2008年02月18日 06時32分16秒 | 歴史探訪

この絵は、アイヌの人たちの風俗を描き続けた小玉貞良さんという絵師の方の筆。
古代蝦夷風俗之図(小玉貞良画)
アイヌの長老たちが松前城にウイマム(お目見え)に至る図。
小玉は18世紀中葉のもっとも古いアイヌ絵の画家であった。
当館北方資料室所蔵原画より複製。(貞良 宝暦年間頃活躍)

こういう絵画というのは、いろいろなことを教えてくれる。
アイヌの人たちは文字を記録しなかったので、
その生活文化を表すよすががない。
そうした隙間を埋めてくれるのが、こういう絵。
日本の国家は、律令制時代の対・蝦夷以来、
伝統的に、「まつろわぬ」人々に対して「教化」するように
かれらを招いて、文化に触れさせる儀式を行ってきた。
小さい「外交」ともいえる。
で、それに招かれたアイヌの人たちを描いている様子。
アイヌの人たちにも階級分化があって、立派な蝦夷錦を着た
酋長と、その夫人、こどもと
従者と思われる荷物を背負った人物が表現されている。
アイヌの人たちは活発に交易していたようですが、
その着ている蝦夷錦も北方アジアの民族から手に入れた中国の官服生地。
肩からは、たぶん、日本社会との交易で得られた日本刀を背負っています。
従者が持っているのは、交易の品であるのかも知れませんね。

一方で、こうしたアイヌの人たちを描いて記録した
絵師というような職業が、少なくとも松前では成立していた。
このひとは、継続的に作品を残し続けているので、
ほぼそのような職業であったことはあきらかなんですね。
たぶん、松前藩のほうから、
「今度、アイヌの連中がやってくるから、記録にするので絵をひとつ頼むよ」
というような注文を受けて、描いたものでしょうね。
出来上がった作品は掛け軸にして
場合によっては、松前藩から幕府や、京都など上方に献上されたかも知れない。
たぶん、上方や江戸などでは、こういう異国情緒が好まれるだろう、
というような計算が働いていたに違いないと思います。
そういう「交易関係」がこうした絵が生産され、残ってきた背景にあるのでしょう。
いろいろな想像を掻き立てられる絵でした。

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ナスカ展

2008年02月10日 08時50分36秒 | 歴史探訪

きのうは国立博物館の展示体験記でしたが、
あんまりオススメではありませんね、ということでしたね。
ですが、もう一方の科学博物館での「ナスカ展」はすごい正解!
っていうか、こっちのほうは「アンコール」にお応えしての催事なので、
ほぼ、正解は理解できるところではあります。
とにかく、世界最大の謎と言ってもいい、ナスカの地上絵の謎解き展ですから
まぁ、盛り上がりが全然違うわけですね。
展示は、ナスカの人々のDNA分析やら、
先行する文化の特徴の紹介などなど、立体的に直感的にナスカ文化を体感できる。
とくにミイラの分析からナスカの人々が、バイカル湖周辺で誕生した
モンゴロイドの流れを汲む民族であり、
わたしたち、日本人と遠い親戚関係にある、というあたり、
「そんなこともわかってきたんだ」と現代科学を見直す思い。
地上絵については基本的には謎とされていますが、
デザイン自体は、ナスカの人々が800年前後という長い歴史期間、
かれらが育んできた世界観や、描写手法そのものであり、
また、地上絵を描く手法の解説なども開示されていて、
宇宙人説などへのおだやかなニュアンスでの否定が感じられます。
描き方は、まず小さく描きたい絵を地上に描いて、
そこから、放射線状にロープなどで、距離と角度を特定しながら、
「測量」的に描いていく方法が示唆されていました。
「なるほど」という説明ですね。
また、世界各地に地上絵の伝統はありますよ、という例示も示されています。

こういう表側のテーマとは別に、
わたし的に強く考えさせられたのが、DNA的に近いかれらの首狩りの風習。
戦国期など特徴的なように、わたしたちの文化でも
歴史というのはまさにお互い同士の殺し合いの連続そのもの。
ナスカの人々もたいへん戦闘的な民族だったようで、
繰り返し、首狩りへの執着心が語られています。
首狩りを文化的な、たとえば陶器などのデザインにまで登場させたりしている。
生と死、戦争というものの概念世界が現代世界とは違うので、
即座に野蛮と決めつけられないけれど、やはりすごいものがある。
そうした世界観のなかで、一方で頭部への開頭手術なども技術が進んでいる。
こうした手術の成功確率も高かったという調査結果。
信長は、宿敵・浅井長政の首級・骸骨を酒杯にして
家臣に回し飲みさせたというような逸話があるけれど、
やや、近いような感覚世界にかれらの世界観はあったと想像される。
わたしたちにも、似た感覚世界のDNAはあるということなのでしょうか。

というような、独特の異種世界を体験したような気がした展示。
最後にはバーチャルリアリティのナスカ地上絵空中見学体験もできました。
どうも、ああいうの、苦手気味なのですが、
なんとか、最後まで気分が悪くならないように注意しながら、
見学を終わった次第です。
面白かったです、文句なしです。
こういう展示として、構成なども素晴らしかった。
アンコール開催というのも、むべなるかなです。
東京に住んでいる人は、やっぱりずいぶん、トクしていると思います。
いいですよね、こんな大予算を使った展示のたぐいが
それこそ、毎日のようにどこかしこで行われているのですから、
そうしたメリットの地域間格差って、すごいものがある。
所得税というような「富裕税」は存在しているけれど、
こういう「文化接触格差」の税の概念って、取り上げられることは少ない。
こういう点、「都市の快適性」という側面から、論議すべき時期に来ている。
少なくともこういうことについての格差はまったく放置・無視されている。
ひとつの考えとしては「文化税」などを創設して、、こういう展示を見に行くのに
地方の人に必然的に掛かってくる旅費交通費などをキャッシュバックする。
その経費負担を「文化税」全体で考えていく、というのは無理なのでしょうか?
わたしだけかなぁ、こんなこと考えるのは?
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宮廷のみやび

2008年02月09日 06時13分00秒 | 歴史探訪

今週はずっと出張に出ていまして、
2日間ほど東京に滞在していました。
わたし、東京に来ると時間を作っては上野の東京国立博物館に行くのが習慣。
今回は、手前側の科学館でもなんと、「ナスカ展」アンコールを行っていましたので、
両方、掛け持ちで見学してきました。
本日は、そのうちの博物館での「宮廷のみやび」展です。

なんですが、のっけから結論を言ってしまうと、
やはりがっかりさせられた、というか予想通りというか、
「ああ、やっぱりね」という展示だったのです。
日本の文化の中で、藤原氏、のちに別れて近衛家となるのですが、
このような貴族が果たしてきた役割は、理解はできるのですが、
やはり生理的に、こういう国家権力に寄生して
その甘い汁を吸ってきた、という存在に対して好意的にはなれないのです。
展示は、おおむね、天皇家との関わりを誇示するようなものの羅列。
かれらにとっては、政治的な「戦利品」のようなものですね。
そういうものが、今日的な価値観で見返してみたとき、
はたしてどれほどの意味があるのか、疑問です。

貴族というのは、「文化・文芸」の道を民族の中で
大きな役割として果たしてきた、ということですが、
それは民衆への大きな抑圧の結果として
かれらが獲得し続けてきたことであって、多少の努力要素や素養というものはあったにせよ、
基本的には、たまたま、そのような境遇に生まれたからそうなっただけだと思うのです。
「そのことにどれほどの意味があるの」と内語し続けてしまった次第。
まぁ、下々の「ひがみ」ですね、これは(笑)。
よく「王朝文学の香り」とかなんとか、
一般民衆のリアリズムとはまったく無縁な恋物語などを
さも、立派な香しい文化ともてはやすような考えがありますが、
どうにも同意できませんね。

展示の中で、近衛前久という戦国期日本史にも名前が登場する人物が出てきます。
わたしは、司馬遼太郎さんの文学で、この名前を知っていました。
家康を描いた司馬さんの「覇王の家」のなかで、
ほぼ天下統一の事業が完成に近づきつつあった信長を
家康が自分の領土の中を通らせて富士山を見物させる旅行接待をするくだりがあります。
その間の政治的な背景に触れながら、
家康と信長の心事を推量し、考察しながら展開するお話ですが、
そこにこの「前・関白」の名が登場します。
政治的にはなんの実態もない存在でありながら、身分だけは高位であるこのひとが、
信長に、富士山見物の旅への同行をねだったのですね。
それに対して信長は、「わごれなどは、さっさと帰れ!」と大喝したという描写があります。
<確か本文では、東山道を帰れ、となっていたはずですが。>
「信長から酷いことを言われた」と日記に記していたそうです。
しかし、このとき信長は、天下一気性の難しい自分を接待するという家康の
政治的な覚悟のほどを思いやって、その心事を計っていて、
そのうえ、身分だけは天下第一等である近衛が加われば、
家康には、どれだけの心理的負担になるか、それを考慮しない近衛前久に
つい、どなってしまった、というような消息を文章にしていたのです。
そうした存在であるという、知識の下敷きから、
展示を見ている自分がいるせいなのか、やはり遊離した存在という意識が働くのですね。

しかし、信貴山絵物語など、目を奪われるような素晴らしいものもあります。
また、書の歴史展示と考えれば、大きな意義のある展示でしょう。
確かにこういう存在がなければ、
日本の文化の大きな部分は継続性を持ってこれなかったのは事実でしょう。
まぁ、色々な事柄を考えたり、感じたりした展示でした。
その意味では、意義はある、とも言えるかも知れませんね。
ということで、本日は国立博物館レポートでした(笑)。ではでは。
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面白新聞発見

2008年01月14日 08時08分33秒 | 歴史探訪
写真は先日、見学した勿来の関文学館で発見した展示。
こういう歴史展示館って、歴史的な考証はあんまりいい加減にはできないので、
そのときどきの歴史認識があらわれるもの。
そうした歴史認識をベースにして、入場者に対して
一種のユーモアを持って、展示物を考えていく作業というのも、
なかなかに面白そうな仕事だろうな、と思って見ることにしています。

ということなんですが、
やってくれておりますね。
ニュース的な手法で過去事実を紹介するというのは
まぁ、そこそこありますので、その点は置くとしても、
でも、当時の時代感覚は概ね伝わってきました。
京都の朝廷政権が最末期を迎えていて
そうでなくても地方からの徴税がうまくいかなくなってきていたときに、
飢饉がやってきて、完全に行き詰まっていた、という当時の
経済的な側面が大きかっただろうと思われるのです。
そうした事情を把握しなければ、生きた歴史は感覚できない。
この時代、平氏が主に貿易による利益で力を付けてきた背景には
律令体勢が完全に崩壊の縁にあって、
国家予算の執行もままならない、というような事情があったと思われるのです。
そういう背景の中から、地方の実質的な権力、
在地の開拓農場主である武家が大きく力を付け、
律令体勢を揺さぶっていたのでしょう。
関東の武士団は、独立的権力を得るために「大頭」として
律令国家とも政治的に渡り合える「政治家」として
頼朝を政治的な盟主としていただいた、というのが実質。

奥州の独立藤原政権、西国での立貿易権力としての平氏、
老醜の身ながら、かろうじて全国政権ではあった、京都の王朝国家、
さらに北国・越の国を根拠とした木曾義仲、
もっとも根底的に京都の王朝政権と対峙する存在であった
鎌倉の関東武家政権。
このような分断された政治的な状況が見えてきますね。
このようななかで「治天の君」であった後白河と、
政治的にもっとも互角に渡り合い、勝利者になったのが頼朝と関東武家政権。

確かにこういう状況を伝えるには、
ちょうど、現代の政治状況を伝えるような新聞形式が似つかわしい。
思わず、ニヤッとさせられた展示でした。
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日本の家系

2008年01月10日 08時12分53秒 | 歴史探訪

最近、いろいろな家の家運の盛衰の話題を聞きます。
以前はすごい大成功者と思われていたお宅が、
進路選択上での判断のミスで商売の第一線から姿を消すケースが多い。
老舗の行き詰まりというようなことで、語られるケースが増えていると思う。
失われた90年代以降、骨の太い戦略という部分が見えなくなってきていて、
手探りでの試行錯誤が常態化しつつあるのが経済の実態といえるなか、
もはや、家系というような継承的なことでは立ち行かなくなるのかも知れませんね。

写真は山形・庄内地方の大豪商・本間家の本邸。
江戸期、北前の交易やコメの問屋など、
幅広いビジネスを展開して、
「本間さまには及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」
とまでうたわれていたという伝説的大成功家系といえます。
聞いた話では、地域を基盤として経済を動かす中で、
飢饉のときなどには、自らの私邸の建築工事を起こして
多くの職人に仕事を作り出し、
まぁ、現在で言えば、不況時の公共事業のようなこともやっていたそうです。
大阪市場でのコメや色々な産品の投機的な売買ビジネスから、
そうした公共事業的なことまで、
幅広い展開を行っていたのだそうですね。
本間家の家訓のようなものも残されていると聞きます。
現代では、「本間ゴルフ」という会社が名を知られている。

この家には、本家の当主のための居室が残されています。
一番奥の部屋で、4畳半ほどの床の間付きの部屋。
方角的にもっとも運気がよいとされる場所に置かれていたそうです。
歴史的には方位学などはもっとも「実学」的なもので、
現世利益の象徴のような学問だったそうですが、
そうした粋を凝らして、ひたすら家運の隆昌を請い願っていたのでしょう。
面白いデザインの床の間で、幾何学的な、むしろモダンなデザインが施されていました。
(撮影禁止)
きっと、こういう床の間デザインも
そういういわれのあるものだったのだろうと推定できました。
江戸中期から今日に至るまで、
家系を保ち続けてきているというのは、敬服に値するものと思いました。
やっぱり年の初め、経済的な話題が続きますね(笑)。ではでは。
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9世紀中国への旅

2008年01月05日 08時32分59秒 | 歴史探訪

ライシャワーさんが著した円仁さんの唐代中国への旅行記。
なかなか、読了できません。
きのうから、銀行に行ったりしていて、そろそろ仕事が始まったのと、
情けないですが、目が疲れやすくなってきたのと。
やっぱり細かい活字を追うというのは辛くなりますね。
講談社学術文庫というヤツの本文、480ページくらいのものを
ようやく250ページくらい。
年末年始の休み、はじめのころはたまった疲れから睡魔が強くて、
ここにきて、少しスピードアップしましたが、
なかなか読み終えることができません。
なんとか明日までには、終えたいところですが、さてどうかなぁ?

なんですが、ライシャワーさんの慧眼とディテールへの着眼がさすがに面白くて
読みながら、立ち止まってしまうことも多いのです。
とくに、9年間にもわたった旅行を支えた経済的側面とか、
リアリズムで迫ってくるものがある。
いったいどういう宿泊施設に泊まったのか、
それに対して対価を支払ったのかどうか、
またその間、当時の日本王朝政府が資金を渡そうとした努力など、
まことに興味深い。
文中でも書かれていますが、9世紀のこの時代でありながら、
唐の国の治安は、この日本からの旅客僧にとって、たいへん素晴らしかったようです。
情報ネットワークとしての政府組織も信頼が置けるようで、
僧であることもあるのでしょうが、賄賂などもそうは必要ではなかった。
日本からの資金援助が、何回かではあれ円仁に渡ったということは
こうした情報と、信用、交通というような面で、
この超大国が、かなり整備された国家だったということを証し立てている。
その逆に、そのような整備された国家機関というネットワークを利用するための
官僚機構による煩雑な手続きなどが、最大の障害。
かれらが発行する「通行許可」というものが、最大のパワーを持っていた。
この通行許可によって、政府が管掌する旅泊施設などでの宿泊が容易になっている。
まぁ、それだけ皇帝権力が強大に及んでいた、ということでしょうね。
ここで重要だったろうと思われるのが、漢文の修辞能力。
徹底的な文書主義の官僚機構だったようで、
円仁の側で十分に慣れない間、かなり決済に渋滞を余儀なくされたように思います。
円仁は日本では大変な秀才で、漢籍も相当なレベルだったと思われます。
現代で言えば東京大学の大学院クラス。
そういうひとが現地へ行って、はじめ言葉が通じなかった、ということ。
なにやら、日本の教育システムを暗示させているようです(笑)。

写真は勿来の関の近くの記念館で見た古地図風案内図。
現代の平面的な地図よりも、なんか旅愁を誘うように感じられます。
とくに雲の描き方って、なんともいえず昔の方がロマンティック。
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仏教への情熱

2008年01月03日 03時51分44秒 | 歴史探訪

なぜ、日本では宗教イデオロギーとしての
仏教をここまで受容してきたのだろうか、と思う。
東アジア世界のなかで、中国で仏教が大きく勢力を伸ばし、
随とか唐とかの世界最強国家が出現する中で、
「遣唐使」というかたちの朝貢外交を展開し、受容するしか、
道はなかった、ということなのだろうか?
初期の仏教伝来期には、これを受容するかどうかの対立があったとされる。
朝鮮から「仏教が伝来」したときにそれへの対応を巡って
国論が別れ、結局聖徳太子がリードするかたちで
仏教を受容する方向がかたまり、その過程で国家体制の強化が図られた。
天皇権力体制、朝廷権力の強化が同時に進行したといわれる。

しかしその過程では外圧とか、利用する、という態度とはいえない
かなりの「のめり込み」が感じられてならない。
イデオロギーとしての仏教と共に、
流入した最新の「文化」総体に巨大な魅力があった、ということなのだろう。
世界最先端の思想や、文化が仏教周辺で大きく花開いていて、
その総体を輸入しようと考えれば、結局仏教を「熱狂的に」導入せざるを得なかった。
一度、導入すると決めた以上、徹底的に国家が全体重をかけて
文化輸入に徹底していったと言うこと。
こういう民族的な体験って、比肩するとすれば、
明治以降から現代に連なる、徹底的な「脱亜入欧」思想がそれに当たるのだろうか?
「欧米か」というフレーズでヒットした芸人さんがいるけれど、
着るものから髪型、国家体制の基本まで、ありとあらゆる欧米文化を圧倒的に受容してきた。
そういう類推が、やはり一番近いのだろうと思う。
いまはその過渡期なので、仏教に対する過去の伝統的な日本人の態度が
忘却されているのではないか。
そのように考えれば、ようやくにして、
仏教への日本人の情熱が理解できるような気がしてきます。
確かに、欧米思想の導入はすさまじいものだったし、
こういうことと、仏教の導入とは同様の事態だったと考えれば、
納得できてくる部分がある。
しかし、世界の大きな国家で、ここまで積極的に外来文化を受容した経験がある国って
どれくらいあるのでしょうかね。

写真は国宝に指定されている、奥州藤原氏の縁戚が残した「浄土庭園」を持つ白水阿弥陀堂。
中央から離れた地でも、仏教の末法思想から来る
このような大規模な土木建築工事が残されるほどの情熱ぶりだったのですね。
宗教というものの影響力の深さ、大きさを実感させられます。
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勿来の関

2007年12月29日 10時44分28秒 | 歴史探訪

勿来の関、と書いて「なこそのせき」、と読むんですが、
読めないですよね、一般的には。
まぁ、そういうことなんですが、
王朝期から平安期ころには盛んに日本史に登場する関所。
関東から奥州に向かうところにあるわけで、
「まつろわぬ」ひとびとと、王朝国家を隔てるための装置だったのですね。
いわば、国境線。
江戸期以降の近代化は、日本人から地方感覚、独立的感覚を奪ってきた歴史。
近代国家としての普遍性が一般化しましたが、
ちょっと歴史をさかのぼれば、日本には多くの「国家」感覚が存在した証だと思います。
ちょうど、藤原氏が奥州に派遣を樹立した頃には、
外ヶ浜から白河まで、里塚を建てたという時期とも重なる。
言葉は通じるけれど、違う国家が並立していたのでしょう。

だから、「征夷大将軍」というような役職が存在もしたのだと思います。
というようなことはさておき、
この勿来の関には、源義家の像が置かれています。
こういう人物がおかれているあたり、この地の歴史が伝わってきますが、
現代から見れば、やや遙かな感じがする。
でも、関東や東北各地には源氏の氏神といわれる「八幡神社」が多い。
源義家は八幡太郎という別名のような武名が高い武将。
対奥州国家への侵略者というのが実相のように思われるのだけれど、
英雄視されて伝わっているのは、その後の頼朝による全国制覇が預かっているのではないか。

そんな雑感が思い起こされるのですが、
やはり歴史の深さが直接的に伝わってくるような史跡です。
ただ、周辺は最近になってやや整備が進んできてはいますが、
資料館などもそれほどの奥行きはない、
やや残念な資料蓄積と感じられました。
しかし、白河の関と並ぶ、関東・奥羽の境の関所。
訪れることができて、うれしかったです。

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平泉・茅葺きの能舞台

2007年12月28日 05時59分37秒 | 歴史探訪

ことしも今日が仕事納め。
とは言っても、来年に向けて打合せや計画づくりなど、
作業は休み中も結局、継続しそうではあります。
しかし、まぁ、閑話休題。

ことしも休まず、書き続けてこられたので、
また、がんばっていこうと思いますが、
年末年始の時期には、すこし歴史系のテーマを増やして、
日頃の「うっぷん」を晴らしたい(笑)、と考えています。
仕事が関係なければ、やっぱり歴史にどっぷり身を浸していたいのが
わたしの本性なのではないか、というのがブログを書き続けてみての実感。
そういう意味では、ブログって、自分自身を知る鏡でもありますね。
仕事の関係で、日本中、とは言っても北日本中心ですが、
歩き回るなか、ちょっとした時間を見つけてはいろいろな土地の
歴史遺産のようなものに触れたくなるのです。
北海道のみならず、東北各地を巡るようになって、
幹線的に東北自動車道を使うので、必然的に平泉は定番になっています。
平泉・奥州藤原氏については、敗者の側の歴史ということで、
比較的につまびらかではない部分もあり、
大きくそそられるものがあります。

開祖である、藤原清衡が堀河天皇の勅命を受けて伽藍を整備したのが、中尊寺の創建とされます。
というのが通説ですが、それ以前に天台宗の実質的創業者
第3代天台座主である円仁(慈覚大師)が嘉祥3年(850年)、
関山弘台寿院を開創したのがはじまりともいわれます。
円仁については米国大使であったライシャワー氏が注目し、研究されたことでも有名。
かれは日本最初のリアリズムに満ちた旅行記を著したことでも知られます。

こういう茅葺きの能舞台まで残されている中尊寺。
能は、どのような機能を果たしていたのか、
民衆のための舞台と言うよりは、もうすこし権威的なものではあったと思いますが、
きらびやかな衣装をまとってた役者たちが
この地で舞い演じたさまを想起すると、さまざまな想念が沸き上がります。
多くの肉親を戦乱の中に失ったり、殺し合ったりした
藤原清衡が、鎮魂の志も込めて、この地にこの寺を建てた思いも
そうしたなかで、見えてくるような気もします。
昔の人たちが、いったいどのような思いを持ってこうした建築を遺し続けてきたのか、
そんな興味は、尽きることがやっぱりありませんね。
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