長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

全国城めぐり宣言 第7回「下総国 佐倉城」 フィーチャリング ほとけさま

2011年08月23日 14時43分11秒 | 全国城めぐり宣言
 サマサマサマ~。どうもこんにちは、そうだいで~す。陽気な夏が戻ってまいりました!
 今しがたラジオから流れていた天気予報によると、南関東の今日の気温はだいたい30℃未満ぐらいになるのだそうで。ちょうどいいくらいの好天ですね~。
 夕べは夜遅くまで雨がしとしと降っていたんで、また今日も寒い日になるのかなぁと思っていたんですが、久々の夏日とあいなりました。

 とはいえ、甲子園も終わったことだし、夏もそろそろおしまいが近づいてきたわけでして。
 まぁ……今年もたいした夏の思い出はなかったね。いいんだいいんだ、まずそのための努力をしてないんだから。五体満足で秋を迎えられたらそれでいいんじゃね~の?
 夏だから恋だ愛だをどうこうしたい、なんてね~ぇ? ガキンチョじゃないんですから。

 もういい加減にそういった未練はなしにs ン夏じゃなくてもォ! 恋だ愛だどうこうしったいぃィ~!!!

 うむむ。やはり本心は隠しようがなかったか……個人ブログで虚勢をはってどうすんだって話ですからね。まだまだ私も、生への執着は残っておるんだにゃ~。当たり前です。


 そんなこんなで今回も、私が恋するヒマもおしんで打ちこんでいる全国城めぐり宣言への愛情を知っていただきたいと……あの、読んでる方、いらっしゃる!? いるよね?
 佐倉城のお話、もうすぐ終わりますから! ほんのちょっとだけガマンしてちょーだいませ。

 徳川家の関東移封以来、下総国佐倉の地は江戸城の「東の守り」として要衝の役割をになってきていました。
 そして、いよいよ江戸幕府の天下が確定的となってきた1610年代にいたり、時の佐倉藩主・土井利勝はその首都防衛の任務をさらに強化させるべく、政庁としては手狭で不便だった戦国時代臭ぷんぷんの本佐倉城から、新しい時代の政治的中心地としての佐倉城への移転という偉業をなしとげたのです。

 とまぁそんな感じで、しょっぱなから(徳川支配下の領主としては通算4代目ですが)土井利勝という偉大な藩主をむかえてしまった佐倉藩だったのですが、江戸幕府250年の歴史の中でもっとも有名な佐倉藩主は実のところその利勝さんではなく、幕末も近づいてきた19世紀前半に佐倉藩主となった(通算22代目)、堀田正睦(まさよし)ではないでしょうか。ちなみに、この方の息子さんの堀田正倫(まさとも)が、佐倉藩最後の藩主となっています。

 堀田正睦さんって、どのくらい有名な方なんでしょうかね? 最近はNHK大河ドラマ『篤姫』で辰巳琢郎さんが好演していたことで知名度がアップしたような気がします。
 前回にも名前が出てきた井伊直弼が大老に就任し幕府大権を独占する直前まで、「老中首座」として政務を担当していたのがこの正睦さんだったのですが、

「開国シナッサ~イ。」

 と日本にせまるアメリカなどの諸外国列強と、

「外国人なんぞをこの日本に入れるなどけがらわしい! とっとと追い出してたもれ。」

 と徹底的な拒否反応をしめす京の朝廷を中心とした国内の尊王攘夷勢力とのどうしようもない板ばさみにあった正睦さんは疲労困憊し、挙げ句の果てには朝廷説得のために京に出張していた最中、交渉難航を理由に江戸城から「あんた老中クビ!」と言い渡されるしまつ。
 おれ、こんなに西へ東へがんばってんのに……カンベンしてよ~! とひどい目に遭ってしまった正睦さんだったのですが、こういったあたりの幕府の混乱ぶりを象徴する立場となってしまった彼は、幕末をテーマとした大河ドラマにはほぼ必ず登場するものの、「なんら有効な手だてをうつことのできなかったダメ政治家」のような役回りを演じさせられています。比較的、徳川幕府側というか江戸城側を擁護する視点だった『篤姫』のみ(『徳川慶喜』はまた江戸城側とは違った派閥にある)がそんな正睦さんにスポットライトを当てたということになるでしょうか。またその後の『龍馬伝』でいつもの感じに戻っちゃったけど。

 そんなあたりのイメージとはまた別の一面として、佐倉藩主としての堀田正睦は非常に開明的なお殿様だったということでつとに有名です。
 どちらかというと、まず「外国に強い堀田どの」という定評があって老中首座になったのかも知れませんが、正睦さんは単なる「蘭癖(らんぺき 外国好き)」といった趣味の範疇を超えて西洋文化の導入に力を入れており、有名なところでは家臣に英語の研究を進めさせたこと、佐倉藩内に本格的な西洋医学塾兼病院の「順天堂」を開設させたことが知られています。順天堂はもちのろん、現在の順天堂大学の前身であります。このため、西洋文明に対して寛容な立場をとっていた当時の佐倉は「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれる文化都市に成長していました。
 そういった正睦さんなんですから、もともと本心としては、

「攘夷攘夷って……こんな文明もってる国に勝てるわけねぇじゃん!」

 と痛感していた開国派だったのですが、あまりにも急進的すぎる国内の突き上げに強硬的に対抗するすべを持っていなかったその理性が、正睦さんの乱世における政治家としての弱点となってしまいました。
 まぁ、そのおかげで正睦さんは井伊直弼のように暗殺されて生首をアメフトのようにパスされまくるという末路をたどらずに済んだわけで……人生、いったいなにが成功でなにが失敗なのかわからんもんですなぁ~。

 ともあれ、こういった堀田正睦という魅力的な殿様を後半にまねいて明治時代に入っていくこととなった佐倉なのですが、何回か前にもふれたように、明治以降の佐倉はなにかと政治的中心地という立場は千葉市にゆずっていくこととなりました。時代はすでに、「下総国」でなく「千葉県」へとシフトしつつあったのです。

 だが! しかし。

 佐倉の町は、「政治」や「文化」といった部分とはまた違った意味あいで重要な役割をになう都市になりました。
 それこそが、「軍都」。うおお!

 要するに、明治時代に入って佐倉藩の政庁という機能がなくなり、広大な土地をもてあますこととなった佐倉城は、大日本帝国陸軍の兵営(基地)としてリサイクルされるというはこびとなったのです。
 このため、佐倉は終戦にいたるまで陸軍にとって大切な意味を持つ土地となり、佐倉城跡は帝国陸軍歩兵第2連隊・歩兵第57連隊が長年にわたって訓練を重ねる関東有数の兵営となったのです。


 さぁ~。これでお膳立てはそろいました。
 ここまでの情報を知っているといないとでは、同じ目の前に広がる佐倉城の風景でも味わいがまるで違ってくるんじゃなかろうかと思うんですねぇ~。
 ま、別にそんなことを知っていなくてもいいんでしょうけど! なんか損した気持ちになるのよね~、知らないと。

 以上! いろいろと前情報をくっちゃべってきたわけなんですが。

 とにかく記憶しておきたいのは、現在の佐倉城が「戦国時代の基本構造」と「江戸時代のアレンジ」と「戦前の軍隊基地」という3つの要素が混在しているスポットになっているということ! ここが大事。
 ここらへんをふまえた上で、さっそく現場に行ってみることにいたしましょう。

 前に「ハンバーグみたいな台地」と言い表した鹿島山なのですが、地形は比較的東西に横長になっており、簡単に言うと佐倉城の敷地は西半分、塚本美術館などのあった一般の住宅地は東半分といった配分になっています。
 現在、その佐倉城の敷地には有名な「国立歴史民俗博物館」がデ~ンとできていますが、そこはかつて佐倉城につとめる家臣たちの武家屋敷が建ち並んでいた区画だったため、そことは別に佐倉城の城郭部分をしのぶ「佐倉城址公園」が開放されています。

 えっ、佐倉城を「しのぶ」!? 「城址公園」!?

 そうなんすよぉ~。実は今現在、佐倉城時代に使用されていた建造物はほぼすべて撤去されてしまっていて、その後には緑なす大地しか残ってないんですよ。たったひとつだけ、敷地のはずれの水堀ぎわにささやかな瓦葺きの門が残っているのですが、これはこれで立派ではあるものの、かつて首都防衛ラインの東をになった名城の威容を語るものにはなっていません。

 確かに、明治時代に入ってから全国各地の名城はかなりひどいあつかいを受けてしまっており、天守閣・大手門・多聞櫓などといった数々の歴史ある建造物がガンラガンラと取り壊されていったという悲劇はあったものの、こと、この佐倉城の破壊っぷりは徹底的なものがあります。

 なぜなのか!?
 それはねぇ、他ならぬ明治政府が陸軍兵営をおくために気合いを入れすぎちゃったから。そんなに「脱亜入欧」じゃなくてもいいじゃなっすか~。
 そのため、現在の佐倉城址公園のあちこちには、軍隊物資やトラックの出入りを簡便にするために兵営時代になってからブチ抜かれた大通りやコンクリート製のトイレ跡などが残っており、確かに広い土地ということもあいまって「城跡」というよりも「基地跡」といったほうがいいような雰囲気を持っているところがあります。

 私は今回、いったん台地の上を通る県道256線に沿って北に向かい鹿島山を降り、裏にまわるような形で佐倉城跡に入ることとしました。そこからの長い坂道が現在もっとも利用の多い「歴博」の入り口(佐倉城の旧・田町門口)になっていたからです。
 キッツイなぁ! その坂を汗をかきかきヒーヒー言いながらのぼると、ちょっといったところになぜか高さ約3メートルの巨大な仏像が!
 なんでこんな所に……まぁいいや、ありがてぇからお参りしていこう。

 坂道から右にそれた木陰の涼しい場所に鎮座ましましていたのは、大分県臼杵市にある国宝「臼杵磨崖仏・古園(ふるぞの)大日如来」!! ……の、レプリカ。といってもれっきとした石像なので迫力は満点です。
 いやぁ~、ありがたかったねぇ。よく見ると、お顔がもんのすごく恐い。100%無表情なんですが、よ~っく見ると薄くあけた眼で見ていらっしゃるんですよ、こっちを。ばっちり。
 まさに宇宙の創造者。なにもかもすべてお見通しってわけか……レプリカとはいえ、いーいもの見させていただきました。
 いわゆる「丈六仏」というやつで、座ったお姿の大きさが約3メートルなんですから、立ち上がったら5メートルということになるでしょうか。
 やっぱりね、仏像というものはただ愛情たっぷりであたたかい表情をしていればいいってものじゃあない。何を考えているのかわからない、見る者の心の奥底の、なるべくならば隠しておきたい部分までをも容赦なくあばくかのような、冷徹な「ツン」の一面も必要なのですねぇ。

 宇宙を統べるホトケさまのことはいいとして、坂をのぼりきってドデ~ンと巨大な四角い箱に「歴博」という2文字の看板がついているマンガみたいな建物(ほんとにでかいよ!)を横目に進んでいきますと、いよいよ佐倉城址公園のフィールドとなります。

 さて、ここからなんだなぁ。

 先ほども言ったように、現在の佐倉城には「往事の建造物」はほぼなんにも残っていません。
 それなのに、なぜ佐倉城は「日本100名城」の20番目に名をつらねているのか!?

 それは、佐倉城の「建造物」は残っていなくとも、「構造物」の保存状態が素晴らしいからなのです。

 なぬ? 構造物とはナンジャラホイ! という話になるわけなのですが……

 まぁ~、この続きはまた次回にしますか。ゆっくり落ち着いていきましょうよ~。たぶん、次回でやっとおしまいになりますね。
 つうことで、まったね~! 佐倉城址公園名物の「戦慄! トマソン階段」も出てくるヨ。
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全国城めぐり宣言 第6回「下総国 佐倉城」 フィーチャリング お城のできるまで

2011年08月21日 22時41分58秒 | 全国城めぐり宣言
 うおお~、8月なのに、なぜ寒い!? どうもどうもこんばんは、そうだいでございます。
 続きますよねレイニーデイズ! 私なんかもう耐えきれずに掛け布団ひっぱりだしてきちゃいましたよ。まいったね。
 なんか、空気のにおいも秋の気配を見せてきてしまったような……早いなぁ~。
 こういう雨のしとしと降る肌寒い日に、まかり間違って実録犯罪の記録なんか読んじゃったりしちゃうと、気分が大変なことになっちゃうんですねぇ~。すさむすさむ。ヤなもんでい。

 そうこうしているうちにも、日本のアイドルグループ戦国時代は新たな局面を迎えつつあるようでして。
 AKB48関連では、ついにベールに包まれていた謎の公式ライヴァルグループ「乃木坂48」のメインメンバーがお披露目!
 いっぽう伝統あるハロー!プロジェクト陣営では、期待のルーキー「スマイレージ」の新メンバー5名が決定!

 新メンバー5名ってあなた、スマイレージはもともと4名だったんですから、一気に9名に倍増しちゃったよ。
 スマイレージをハロプロ大将格のモーニング娘。なみにヴォリュームアップする作戦に出たとは。いよいよスマイレージに力を入れるようになってきたというわけですか。
 トレーニング期間もあるのですぐに9名体制で活動を開始するということではないようなのですが、私としては老婆心ながら、ハロプロの「中間管理職」とも言える位置にあるBerryz工房と℃-uteがこれからどういった独自色を打ち出していくのかが気になるところです。
 大将・中堅・先鋒がそれぞれ輝いてこそ、ハロー!プロジェクトの未来は明るい。がんばってもらいたいですねェ! いつかちゃんと、全グループのコンサートをコンプリートしたいですねぇ。かせげかせげ~。


 しゃてしゃて。
 まるで夏が去ってしまったかのような気候なんですが、今回もあの酷暑をなつかしむかのようなしつこさで、数日前に行った「佐倉城めぐり」の続きに入っていきたいと思います。寒いのもいやですが、あの暑さもあれはあれでいやよ!? ほんとに倒れそうになったんですから。

 え~、前回は戦国時代までの千葉家とその居城をめぐる長い歴史をつづってまいったわけなのですが、平安時代から連綿と続いた名族・千葉家も、ついに関東地方全体を掌握するにいたってしまった戦国大名・北条家の軍門にくだってしまうこととなってしまいました。
 とはいっても、別に千葉家と北条家がガチンコの戦争状態に入って千葉家の面々が業火に包まれる居城・本佐倉城の中で枕をならべて討ち死にという、ドラマになりやすい劇的なラストがあったわけでもなく、実状としては、いかにも戦略に長けた北条家らしい「吸収合併」的なお家乗っ取り作戦により、下総国領主としての千葉家はしめやかな終焉を迎えることとなりました。
 もともと戦国時代前期、千葉家は東京湾の向こうの北条家と盟約をむすんで弱体化した権威を復活させようとする努力はしていたのですが、次第に主導権を北条家にぶん取られることが多くなり、千葉家当主が北条家当主の娘をめとるという婚姻戦略も着々と進められるようになった挙げ句の1585年。前回にもあげた「おなら逆ギレ家臣事件」によって千葉家の第29代当主・邦胤が非業の死を遂げた(享年29歳)不幸に乗じて、当時の北条家当主・氏政が息子の直重(氏政の弟という説もあり)を千葉家の第30代当主として送り込んでしまったために、500年の長きにわたって下総国に大きな影響力をおよぼし続けた領主としての千葉家の歴史は幕を閉じることとなります。実は邦胤には嫡男の重胤がちゃんといたのですが、まだ10歳で幼いということを理由に北条家に次期当主の座を奪われてしまいました。
 そうとう強引な乗っ取りのようにも見られるのですが、邦胤は正妻に北条氏政の娘をもらっていたために、形式上は「まだまだ子どもである重胤に代わって母方のおじさんである直重が当主をつとめる」というたてまえが成り立っていたのです。北条さん、おみごと~!
 ちなみに、本来の30代目になるはずだった千葉重胤は「養育」を名目に北条家の本拠である小田原城に連れて行かれており、まぁはっきり言って人質のようなあつかいを受けていたようなのですが、その北条家が豊臣秀吉の天下統一によって滅亡した後は全国を流浪する浪人として天寿をまっとうしたようです(享年58歳)。このへんの後半生は重胤から30代目を奪ったおじさん直重もまぁ似たようなもので、実家の滅亡後は四国徳島藩の大名・蜂須賀家の一介の家臣となっています。あぁ、人生の浮き沈み。


 とまぁ長々とつづりましたが、私が先日おとずれた佐倉城は、千葉家とはさほど関係がありません! ゼロではないんだけど。

 上のような巧妙な手段できれいに下総国を手中におさめた北条家だったわけなのですが、そのわずか5年後。
 今度はその北条家がさらにその上をいく勢いの豊臣秀吉によってツブされてしまうと、下総国も含めて、関東地方の支配者の顔は再びガラッと変わることとなります。

 北条家の広大な領地を秀吉の命によって受け継ぐこととなったのは、ご存じ徳川家康。
 まぁ直接対決を避けたい家康を京から遠ざけるという秀吉の思惑もあったのでしょうが、ここがガマンのしどころと要求をのんだ家康は、故郷である東海地方を離れて武蔵国の江戸城に移転することとなりました。その時はもう大変な僻地ですよ。

 んで、その一家総引っ越しにのってやって来て下総国佐倉を治めることとなったのが、徳川家康に近い関係にある面々。
 それぞれの佐倉藩主としての在任期間は短かったのですが、家康の5男の武田信吉(在任9年・石高4万石 滅亡した甲斐武田家の跡を継いでいる)、6男の松平忠輝(在任1年・石高5万石)、4男の松平忠吉の家老だった小笠原吉次(在任2年・石高2万2千石)といった感じで、さすがは江戸城の東の守り、かなり徳川家に近い人物が藩主を歴任していました。このころの佐倉藩政庁は戦国時代に千葉家が住んでいた本佐倉城のままだったようです。

 そしてそして、さらにそういった佐倉藩の政治的意義を強めることになったのが、彼らの次に佐倉藩主となった土井利勝(としかつ)です。このお人が佐倉城にやっと関わってくるわけ!

 土井利勝は江戸幕府の確立にかかわった非常に重要な政治家で、系図上は家康の「いとこ」にあたるのですが、実は家康の「ご落胤」なんじゃなかろうか、とも語られていた人物です。なんだか年をとればとるほど家康に似てきていたようで、当時からそのうわさはまことしやかにささやかれていました。
 利勝は自分が7歳だった時から家康3男の徳川秀忠の「お守り役」をおおせつかっており、当然ながらその秀忠が徳川幕府2代将軍となったころには秀忠の側近中の側近としてその実力をいかんなく発揮していました。

 そんな利勝が1610年、大御所・家康の命を受けて藩主となったのが下総国・佐倉藩3万2千石だったというわけなのですが、藩主につとめるという以外にも、利勝さんは重大なミッションを家康からさずかっていたようです。

 それこそが! 「江戸城の東の守りとなる堅城をきずくべし。」というもの。
 ここでにわかにクローズアップされてきたのが、前回にふれたように、戦国時代につくりかけられておきながら惜しくも放棄されてしまった「第二佐倉城建設予定地」だったというわけなんですねェ~。

 なりほどなりほど。確かに利勝さんは徳川家はえぬきのエリートではあるのですが、他の文字通りの「一国一城の主」である戦国大名とは違って財力にも限界があるし、ましてやたかだか3万石強の領地の財源を元にとてつもない名城を一から建造することはムリに決まっています。
 そこで「あっ、あれいいじゃん、鹿島山! だって基礎はできてるんだろ!?」という意見が出たことは想像に難くありません。安上がり is the Best!
 しかも、一説によると、「第二佐倉城再利用案」とその縄張りを指図したのは他ならぬ大御所・徳川家康ご本人であるとも言われているのですから、まさに徳川家肝いりのリサイクル大作戦だったというわけなんですな。

 当時、利勝が佐倉藩主となった1610年は、まだまだ大坂に豊臣家が健在ではあったとはいえ、さすがに徳川家お膝元の関東で戦乱が起きる可能性は低くなっていました。そんな中でもここまで第二佐倉城の建造による江戸防衛ラインの強化を急いでいた家康と幕府……「歴史的勝者」という立場にあまんじない細心さが伝わってくるエピソードですねぇ。

 ともあれ、当時どこまで「つくりかけの第二佐倉城」ができていたのかは定かではないのですが、工事は実にスムースに進んで築城開始から10年もたたない1617年にはすでに新しい「佐倉城」は完成、佐倉藩政庁としての機能を充分に果たすお城となっていたようです。
 これと、江戸幕府が1615年に発布した新法「一国一城令」によって、戦国時代の本佐倉城は役割を(第二)佐倉城にゆずって廃城ということとなりました。もちろん、この法令の成立にも当時老中だった利勝さんその人が大いにかかわっています。

 そんな土井利勝以来、佐倉藩は数回の藩主交替を重ねつつも、平均石高10万石ほどの中堅藩に拡大して幕末まで存続しました。藩主は利勝さんの跡を継ぐだけあって、多くが江戸幕府老中の重責をになっています。

 またまた脱線~。
 江戸幕府といえば、政治をつかさどったのは「将軍」じゃねぇの? とイメージする方も多いかと思うのですが、みずから政策方針を決定していく5代綱吉や8代吉宗といったやり手の将軍もいたことはあったものの、一貫して最終的な決定や具体的な法令の制定をとりしきっていたのは「老中」という職についた政治家たちでした。簡単に言うと、老中は有力藩の藩主が持ち回りで就任していた将軍直属の政治最高職で、定員はだいたい常時5名前後だったようです。
 常に複数名いた老中にはいちおう「筆頭」というリーダー格は設定されていたものの、特に筆頭が他の老中にたいして絶対的にえらかったというわけではなく、あくまで政治決定は老中たちが合議して取りきめるかたちとなっていました。
 要するに、将軍はあくまで江戸幕府にとっての「王様」であって、王様の意見ももちろん重視はするものの、最終的なものごとを采配するのは「何人かいる総理大臣」の老中だったということなのです。今でいう「専門ごとの大臣」は、さらにその老中チームの下にいる「~奉行」や「大目付」といったことになるかと。
 ちなみに、「老中」という職名が定着したのは17世紀中盤の3代将軍家光のころからで、それまでは「宿老」や「年寄衆」と呼ばれていました。

 あと、江戸幕府の最高権力職といえば有名なのが、幕末の「桜田門外ノ変」で有名な井伊直弼の「大老」という職名なのですが、これは幕府にとっての緊急事態に非常職として設置される「老中以上の政治決定権を持つ」ポストで、この大老こそが、老中筆頭とは比較にならない権力を持った最高権力者ということになります。
 ただ、この「大老」職は、実は他ならぬ土井利勝さんが初代なのですが(ただし、彼以前には井伊直孝・酒井忠世の両名が「大老に近い位置」にいた)、利勝さんの場合は30年近く老中をつとめあげ、65歳になり老齢で政務をとることが困難になった彼に、当時の将軍・家光が「終身名誉監督」みたいな意味あいでプレゼントした職名なのでした(利勝は「大老」職受領の6年後に死去)。最初は名誉職だったんですね~。


 脱線終了!
 ……といきたいところだったんですが、今回はここまで! また字数がかさんできちった。

 も~う、どんだけこの話題でもたすつもりなんでしょうねぇ~。
 これだから現代のはやすぎる時間の流れについてけないんだよなぁ!

 ツイッターなんぞ、夢のまた、夢……
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全国城めぐり宣言 第5回「下総国 佐倉城」 フィーチャリング 刀のできるまで

2011年08月20日 14時06分55秒 | 全国城めぐり宣言
 ちぇーすとぉー!! どうもこんにちは、そうだいでございます。今日も涼しいですねぇ。

 なんか、あの知る人ぞしる東京・赤羽の低予算アイドルグループ「AKBN 0(エーケービーエヌ・ゼロ)」に大きな動きがあったみたいですね!
 イベント集客やグッズ販売で得た収入のみで活動していくというグループの資金が、今月17日をもってついに1千万円を突破したようです。うおお~。
 その結果、彼女たちにとっての次の活動目標となっていた「1千500万円たまったら新宿の日本青年館でコンサート」が、にわかに現実味をおびてきたようですね。
 これはもしかしたら、年内の目標達成も……どうかしらねぇ~! とにかく、「現役最年長センター」との異名をとる茜チュインあいさんが20代であるうちにひと花咲かせていただきたいと。がんばってくだしゃ~い。


 さてさて、前回に続いて「塚本美術館」と日本刀の話題でございます。

 私、そこの「日本刀ができるまで」展示で恥ずかしながら初めて知ったんですけど、まぁ~日本刀の製作技術はとてつもないんだ。

 まず「日本刀づくり」という言葉を聞くと、ほとんどの方は「相撲の行司さんみたいな格好をした職人さんが、真っ赤に熱せられた鉄をトンカチみたいなものでたたいて延ばして刀をつくる」というイメージを思い起こされるのではないでしょうか。
 私もそんな映像を観たことがある、という記憶しかなかったので、てっきり日本刀とは、鋼鉄のかたまりをただ高熱で日本刀の形にすればできあがり!というものかと思っていたのですが……

 甘い!! 「きゃりーぱみゅぱみゅ」というネーミングセンスくらい甘い。

 日本刀はねぇ、ざっくり言っちゃうと、「ものすご~く斬れる硬度の高い外側」で「しなやかに衝撃を吸収する比較的やわらかい芯」をつつんだ構造になっているのです。だからこそ、名刀は「よく斬れる」のに「丈夫」というミラクルの域に達しているのですね。
 どちらの部分も、日本古来の「たたら製法」で砂鉄から錬成していく「玉鋼(たまはがね)」によってつくられた鋼鉄であることに違いはないのですが、芯となる「心鉄(しんがね)」はやわらかいままにしておいて、いっぽうで外側をつつむことになる「皮鉄(かわがね)」はも~う鍛える鍛える。
 皮鉄にする玉鋼は、加熱して延ばしては折りたたみ、また延ばしては折りたたみをおよそ10回程度は繰り返し、これによって皮鉄は1層が2層、2層が4層、4層が8層、8層が16層といったぐあいで見る見るうちに鋼鉄のミルフィーユを構成していくこととなり、これがのちの切れ味につながっていくこととなります。

 そして、できあがった皮鉄でどうやって心鉄をつつむのかは流派によって違っているらしいのですが、おもなものとしては、
・皮鉄を2つ折りにしてパニーニ風に心鉄をサンドする「眞甲伏(シンノコウブセ)」
・2枚の皮鉄で心鉄をサンドウィッチする「本三枚(ホンサンマイ)」
・4枚の皮鉄で心鉄を全方位からサンドする「四方詰(シホウヅメ)」

 といったものがあるんですって。うわ~一生に一度でも口に出せたらラッキーだね! でもなんとなくおぼえておきたい。

 で! やっと、あの映像でよく見るトンテンカンカンの作業に入っていくわけなのです。ここから、ビデオテープみたいな四角四面の形の鋼鉄を日本刀の形にしていくわけなんですね。
 はぁ~大変だわ。

 日本刀の製作はまさにデリケートそのもので、皮鉄がはげて心鉄が露出しないように注意しながら! あの細さをつくっていくわけなのです。
 しかも、最終的に日本刀の切れ味を左右することになる最終段階の「焼き入れ」に関しては、鋼鉄の耐えられる限界の高温までにもっていくために、刀身には熱の伝わりを急激にさせないために特殊な土を塗ってコーティングしてから加熱します。この時に刃の部分の土を薄く塗ることによって、あの極限までに鍛えられた白刃ができあがるというわけなんですね。『トリビアの泉』で拳銃の弾を真っ二つにした実力はこの努力から生まれていたんですね。まぁ、弾は斬っても、持ち主にできる傷が1コから2コに増えるってだけなんでしょうけど。意味ねぇ!

 いやぁ~、勉強になりました! 世界一の武器なのかどうかは使い手次第だと思うんですが、日本刀に流れるおそろしいまでに洗練された技術の数々の片鱗を垣間見ることができたような気がします。日本人のこだわりって……ちょっぴり病的。
 ただ、今回はやっていた企画展示が平和な時代の大坂新刀だったということもあってか、どちらかというと美術的な良さや技術の洗練具合がクローズアップされた感じがあったのですが、私としてはもっとより実践的な戦国時代以前、特に南北朝時代あたりの「斬るより叩く!」みたいな剛刀も観てみたいんですよね。あと、大陸の武器の雰囲気も残していながら日本刀の原型にもなっている平安時代の「太刀(たち)」もいいですよねぇ、エキゾチックで。まぁそれはまた、別の機会に。

 まま、そんな感じで大いに堪能した塚本美術館だったのですが、残念ながら1時間ほどで早めにきりあげて移動しなければなりませんでした。

 そりゃもうあなた、日が出ているうちに近所の佐倉城めぐりを楽しむためでございますよ! なにはなくともここはおさえていかねば。


 おお、佐倉城!!

 今でこそ、歴史の教科書の中では「江戸時代の民衆の英雄・佐倉惣五郎がいたところ」という程度のあつかいしかなされていない佐倉なのですが、実は江戸時代には間違いなく、下総国(千葉県北西部)の首都としての重要な意味合いを持っていました。
 つまり、佐倉藩は幕府の首都・江戸の東を守る最大の防衛基地である佐倉城を擁しており、それが逆にあだとなって、江戸幕府終焉後の明治以降は千葉県の主要都市としては政治的な意義を敬遠されるようになってしまったともいえるのです。結果、下総国のあった土地の中心都市は江戸時代には目立たない存在だった千葉市、県名も千葉県になってしまい現在にいたるっちゅうことなんですな。あぁ、歴史のおもてうら。

 ところで、佐倉といえば「佐倉城」があり、千葉といえば「千葉城」があるわけなのですが……

 実は! どちらも戦国時代にはまともな「城郭」としての機能を果たしておりませんでした!!

 あれ? ちょっと待てそうだい、おめぇ前回、ゲームの『信長の野望』に佐倉城が出てきてたって言ったじゃねぇか! と思う方、いらっしゃるでしょ?
 そうなんですよ。10作以上ある『信長の野望』シリーズの中には、確かに「佐倉城」という名前のお城がちょいちょい出てくるんですね。こりゃいってぇどうしたことなんでい!?

 はい~、これはですねぇ、現在ある「佐倉城」のほかに、戦国時代に大名・千葉家の居城として機能していた「第一佐倉城」とも言うべき「本佐倉(もとさくら)城」というお城があったからなんですねぇ! だから、『信長の野望』に登場する佐倉城は今ある佐倉城ではないんです。
 へへへ……ややこしいだろう! でも、このややこしさを楽しく思わないと本当の城めぐりの醍醐味を味わうことはできないわけなんですよ~。ホント!

 時代をおって説明していきますと、下総国には、なんと平安時代の昔からこの地をおさめる名族・千葉家が戦国時代にいたるまでのおよそ500年間、領主としての絶対的地位を守り続けていました。
 千葉家はまさしく、あの平安時代を切り開いた、つまりはあの平安京を創始した、つまりはつまりはあのあの長岡京を創始しようとして途中でやめちゃった桓武(かんむ)天皇の直接の子孫にあたる由緒正しい血筋で、しかも平安時代最大の反乱ともいえた「承平・天慶の大乱」の関東地方での主役となった平将門(まさかど)のいとこの流れでもあるという、武人としてのほまれも高い一族なのでした。つまりはりっぱな「平家」の子孫だったのですね。「武士」という概念のできる前から豪族として存在していたとは……
 ところが、千葉家は平安時代の終わりを告げるきっかけとなった源平の大乱では、遠い親類である京都の平家に味方することはせず、関東武士団の気持ちをくんでくれた源頼朝の強力なスポンサーとなって地方守護家としての確固たる地位を築いたわけなのです。

 で! そのころの創業期からの千葉家の本拠となっていたのが現在の千葉市にある千葉城(旧名・亥鼻城)だったのですが、戦国時代も間近にさし迫った15世紀なかば、千葉家では一族間で大変な抗争が勃発してしまいました。
 1455年、当時の当主だった千葉胤直と、叔父の馬加康胤(まくわり・やすたね 馬加は現在の「幕張」の旧名)とのあいだで戦乱が発生してしまい、康胤が胤直を攻め滅ぼして千葉家当主の座を乗っ取るという大事件が発生。
 ここで乗っ取られた千葉家本家の訴えを聞いた京の室町幕府の将軍・足利義政は大規模な康胤追討軍を関東に派遣(総司令官は義政の歌道友だちの東常縁:とう・つねより)、文武両道に通じ意外にも名将だった常縁の攻撃に一時は康胤の野望もここまでかと思われたのですが、タイミングの悪いことに京で応仁大乱が!! 「こりゃあ千葉家どころじゃねぇ!」とあわてた常縁軍は京に引き上げてしまったため、なし崩し的に千葉家は康胤一族のものとなってしまいました。もうね~、このグダグダ感が室町時代のいいところなのよねぇ!! だいっすき。

 この戦乱の中で、戦時用の城郭としてはやや手狭だった千葉城に不安を感じた康胤の次男・千葉輔胤(すけたね 康胤の弟との説もある)は、チャッチャと未練げもなく一族伝来の千葉城を放棄し、そこから北東20キロにいったところにある佐倉の地に本拠を移してしまいました。東京湾に面して開けた場所にあった(今はだいぶ開拓されて海は遠くなっていますが)千葉城に対して、山奥に分け入った佐倉の城は、当時大規模な沼地となっていた印旛沼を天然の水堀とした戦争用に特化した難攻不落の名城となりました。
 これこそが現在「本佐倉城」と呼ばれているお城のことで、だいたい1480年代半ばには完成して千葉家の新しい居城となり、結果的に1590年の豊臣秀吉の小田原遠征の巻き添えをくらって戦国大名としての千葉家が滅亡するまでの100年間をともにすることとなりました。
 こちらの本佐倉城は現在の地名でいうと、千葉県の佐倉市と印旛郡酒々井(しすい)町の境にあり、建造物はあとかたもないのですが、空堀や土塁などの戦国時代前期の城郭特有の縄張り(構造物配置)はかなり良好に残っているのだそうです。近いうちに必ず観にいきますよ!

 ギャ~!! ぜんっぜん私が行った佐倉城の話が始まってねぇよ!
 とにかくですね、簡単に言ってしまえば平安~室町時代の千葉家のお城が千葉城で、戦国時代のお城が本佐倉城だったというわけなんですよ。

 それで、じゃあ本題の佐倉城はすっかり平和になった江戸時代になってつくられたお城なのかと言いますと……そう簡単な話でもないんですよ~。

 本佐倉城についての詳しい解説は、またいつかそこを探訪したときにあらためてちゃんとやりたいのですが、間近に迫った敵軍の攻撃に耐えるために選ばれた本佐倉城は、戦争には最適な城郭だったものの時代の流れにはさからえず。
 平安時代から続いた名族・千葉家も、戦国時代に入ってマルマルモリモリと相模国・小田原から同心円状に勢力を拡大してきた北条家の前に屈せざるをえない状況を呈してきました。
 もともと戦国時代の千葉家が、それまでの千葉本家を追い落として当主を名乗った親戚だったことからもわかるとおり、千葉家は常に本家と親類とのあいだに対立の火種をくすぶらせており、それに加えて房総半島の南からやってくる新興勢力の里見家と西からの北条家の圧迫ときたもんで、もはや歴史ある千葉の家も内憂外患で風前の灯火という状態となっていました。

 で、その中で苦肉の策として発案されたのがふたたびの「本城移転策」で、戦国時代半ば以降の1550~80年代に、歴代の千葉家当主は当時の佐倉城よりもより堅固な「第二佐倉城」の建造を最大懸案事項としてきました。
 そこで選ばれたのが! 本佐倉城の西南5キロに位置する台地、つまり私の行ったあの「鹿島山」だったわけなのですね。やっときました~。ちなみに鹿島山の名前の由来は、最初に千葉家の命を受けてこの地への新城建造を担当した武将の名前が「鹿島幹胤(みきたね やはり千葉家一族)」だったことによります。

 だが、時すでに遅し……
 千葉家の新城建築を明らかな敵対行為とみなした北条家は圧力を加え、千葉家の中で北条家に内通した有力者が幹胤を暗殺してしまったために、建築は中断されてしまいます。ただし、この時にだいたいの基礎工事はできあがっていたようです。
 その後、当時の千葉家当主・千葉邦胤(くにたね)みずからが鹿島山の築城を再開するという時期もあったのですが、今度はその邦胤が、「宴会中におならをしたことを怒られて恥をかいた」ということから彼に個人的な恨みを持っていた家来に暗殺されるという悲劇が起きてしまい、ここにいたって新城建築と千葉家復活の可能性は完全についえてしまいました。そりゃおならをした家来がいちばん悪いんだろうけど、そんなことで復讐されちゃった邦胤さんも戦国大名としてどうだろうか。

 そんな経緯があったもので、現在「佐倉城」と呼ばれているお城が戦国時代に誕生することはなかったのですが、いちおう「いい城ができそうな土地である。」という認識はされていたらしいんですね。
 で、結果的にそんな千葉家の遺志を継ぐ形であらためて第二の佐倉城を完成させることとなったのが、江戸時代初期、幕府の重鎮として活躍することとなった佐倉藩初代藩主・土井利勝(としかつ)さんだったというわけなんですねェ~。

 ……

 あの~、なかば確信犯的にやってるんですけど、ここまで話が進まないとは思ってもみませんでした……
 申し訳ないんですが、具体的な佐倉城リポートはまた次回ということで。

 いや、ホントすんません、次回で終わりますから!! 次……いや、次の次の回? いや、ひょっとしたら……

 え~……

 1ヶ月は続かないから、安心してください!!
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全国城めぐり宣言 第4回「下総国 佐倉城」 フィーチャリング 塚本美術館

2011年08月19日 13時15分38秒 | 全国城めぐり宣言
 はいどーうもっ、こんにちは! そうだいでございます~。
 ついに「暑い暑い」といい続けていた思いが天に届いたのでしょうか。今日の千葉市は午前中からダイナミックな雷雨で幕を開けました。極端だなぁ~オイ!
 ともあれ、久しぶりに涼しげな日になりそうでほっとしました。寒くなりすぎても考えものなんですが、まずは雨のかおりを感じながら身体をゆっくり休ませたいところです。

 だってさぁ! 昨日はほんとに身体を使ったんですよ~。いやいや、私が勝手に企画しただけなんですけどね、昨日もほら、とてつもない炎天下だったから! 風が多少吹いてたのは助かりましたけど。


 え~、ためにためてしまって申し訳ないのですが、昨日行ってきた「ちょっとめずらしい美術館」というのは、千葉県佐倉(さくら)市裏新町にある「日本刀専門」の美術館・塚本美術館のことでありました。

 日本刀専門! なんか、スゲくね!? 展示物をながめているだけで身体の芯から涼しくなってくるようなイメージがわくじゃないですかぁ~。
 この塚本美術館の存在を知ったのは2年くらい前のことだったのですが、おなじ佐倉市にある有名な「川村美術館」に行こうとした時に、直通シャトルバスの出発までヒマだったのでなにげなく駅前の市内案内図をながめていたところ、この「千葉県唯一の刀剣美術館」の表示を目にしたのです。
 その時からずっと気になってたんだよねェ~。でも、彼女と2人で行くミュージアムじゃあないよな、とは思っていたのですが……昨日実際に行ってみて、その予想はバチコーンと当たっていたことを身をもって確認しました。うむ、ここはたしかに、かわいいベレー帽を頭にのっけた女の子が、

「きゅるんきゅるん☆ あ~、あったっ、備前長船だみゅ~。」

 などと言ってはしゃぐ場所ではなかった……なんなんだこの美術館好き女子イメージは。

 刀剣、特に日本刀を専門に展示する美術館はいちおう全国に点在しているようで、千葉県はここ塚本美術館1ヶ所であるものの、ちょっとインターネットで調べてみただけでも埼玉・栃木・静岡・岡山などにあるようです。近場で言うと、なんとあの東京は若者のメッカ・渋谷にもあるんですって! 今度はそこに行ってみよう。

 塚本美術館はその名の通り、元陸軍将校で戦後は実業家として活躍された塚本素山(そざん)氏の刀剣コレクションを展示する財団法人美術館で、1965年に東京の銀座で開館されたのち素山氏の没後、1983年に佐倉市の現在の場所に移転されました。
 なんともはや、元軍人さんだった実業家の個人コレクションという前提といい4~50年におよぶ歴史といい……気合いの入り方が違いますよね。山崎豊子さんの小説みたいだね!

 昨日の昼過ぎ、私はこの「日本有数の刀剣美術館」という塚本美術館への期待に胸をおどらせながらJR線で佐倉へ向かいました。
 私の住んでいる千葉市から佐倉市へ向かう途上、2つの市のあいだに位置する四街道市に広がっていた青々とした田園風景は実にさわやかでしたね~。今年もいいお米がとれるといいねぇ。

 ゆったりと進むJR総武本線の各駅停車の車中から外を見やり、私はおよそ10年前、まだ大学生だったころにこの四街道市でそうとうにイカレた自主製作映画もどきの撮影を敢行していたことを思い起こしていました。

 その時、私は別に自主製作映画サークルに入っていたわけではなかったのですが、当時所属していた推理小説サークルの大学祭での宣伝のために約20分ほどのセリフのないサスペンス劇場ふうの映像作品を制作し、その中でどうしても「横溝正史の作品に出てきそうな荒涼とした田園地帯」を出したかったので、テキトーなロケハンの末に、もっとも近場で田舎っぽい風景を撮れるのは四街道なんじゃないか?という結論に達したのです。
 そのねらいは見事に的中し、晩秋、刈り取り作業のすんだ後のこの地は、周辺をかこむ森林地帯や曇天とあいまって非常に雰囲気たっぷりなロケ地となり、その中で私は他の信頼できる親友たちとともに女子高生に変装しながら容疑者を尾行するという、地下の横溝先生に腹切ってわびてもすまないようなアホンダラな映像を撮影していました。そうそう、私、その撮影に寝坊して遅刻しそうになっちゃったから、現地まで女子高生ルックに着がえたまんまでタクシーに乗ってったのよ。若かった……

 四街道……なにもかもなつかしい。あのころに戻りた……くはさらさらねぇ!!

 そんな遠い眼をしているうちに、電車は無事に佐倉市に到着。炎天下の中、意気揚々と塚本美術館へ徒歩で向かうこととあいなりました。

 話はそれるのですが、みなさん! ここでちょっと私からのワンポイントアドバイス。

「駅名が同じでも、JR線と京成線は駅舎の距離がハンパなく離れているから気をつけよう!」

 ご存じの方も多いのかも知れませんが、東京や神奈川みたいな感覚で、同じ名前なんだからすぐ近くにあるんでしょ?と思っていると本当に痛い目に遭うのよねぇ、千葉は。
 たとえば、私は「稲毛駅」や「幕張駅」、「津田沼駅」なんかですでに経験済みだったのですが、同じ駅名なのにJR線と京成線はだいぶ離れた場所に路線ができているんですね。さすがに「千葉駅」は隣接していますけど。
 さて、今回の「佐倉駅」はどうだったのかといいますと、その距離およそ2キロ。とおっ。

 そして、私が目指す塚本美術館は当たり前のように、「京成」佐倉駅に近い場所にあったのです……はいはいそーですねー。わかりましたよ、歩けばいいんでしょー歩けば! そりゃそうですけど。

 非常に興味深い点だと思うのですが、佐倉市の場合は、江戸時代に下総国(千葉県北西部)を代表する雄藩だった佐倉藩の中心地としてさかえた地域は「京成線」佐倉駅のほうで、戦後に新たなニュータウンとして開発された地域が「JR線」佐倉駅のほうになっているようなんです。実際に歩いてみて強く感じたのですが、同じ佐倉でも京成線沿いの町並みとJR線沿いの町並みは全然ちがっているんですね。

 電車を降りてきれいなつくりのJR佐倉駅の北口から外に出ると、駅の北方2キロにうっそうとした木々の密集した丘がそびえているのが目に入ってきます。

 そう、これこそが江戸時代、佐倉藩の政庁として機能していた下総国の名城にして、江戸城の「東の守り」の責をになっていた佐倉城の存在していた鹿島山であります。わおわお~!
 鹿島山とはいいつつも、ざっといえば標高30メートルほど、広さ2キロ四方の「台地」と言ったほうがしっくりくるハンバーグみたいな地形なのですが、今はかなりの樹齢と思われる木々や孟宗竹の立ち並ぶ、緑というよりも黒っぽい印象の目立つ不思議な地域となっています。

 んで。目下、私の目指す塚本美術館もその鹿島山にのぼりきった土地にあるのですが、もうお察しの通り、私は塚本美術館を拝観したあとはその台地上にある佐倉城を探訪しようという算段でやって来たわけなのでした。
 2006年に選定された「日本100名城」の第20番目にその名をおく名城・佐倉城! 見逃さない手はないですよねぇ~。今まで小弓城、高品城とやってきた私の全国城めぐり宣言だったのですが、ここにきてさっそく全国レベルのメジャー城のご登場とあいなりました。『信長の野望』にも、佐倉城でてきてたよ!

 だが、しかし。
 私はナメていました……天下の堅城・佐倉城の大きさと、気温35℃の真夏の照りつけを! まいったねコリャ。

 まずは、JR佐倉駅から2キロ歩いて鹿島山にのぼって塚本美術館にたどり着くまでの段階で汗だくになってしまいましたからね。しんど~。
 歩きはじめ、JR佐倉駅の周辺は高層マンションに大手銀行支店におしゃれなカフェにパチンコ屋と、だいたい駅前にありそうな面々がそろっているのですが、県道265線にそって鹿島山に近づくにつれて、田園、森林、そして瓦葺きのいかめしい日本家屋が目立ってくるようになってきます。汗をかきかきエッチラオッチラと坂をのぼり、ふと振り返ってみると伝統的な家屋と新興住宅のいりまじったなかなか味わい深い風景が眼下に広がっていました。

 どうでもいいのですが、その中に、瓦屋根のド真ん中に直径2メートルくらいの大きさの穴がボコッとあいて傾きかけている廃屋があったのがものすごく気になった……あれ、なに? 隕石おちてきた?

 さて、第一の目的地となる塚本美術館は、鹿島山の台地地域に入って、県道からややはずれた所にある閑静な住宅地の中に静かにたたずんでいました。

 あの、塚本美術館に行きたいと思っておられる方がいらっしゃったら、あらかじめホームページなどで美術館の外観を確認しておくことをおすすめします。塚本美術館は江戸時代の土蔵のような感じの白い縦長の建造物なのですが、道沿いに塀があるのでけっこう目立たないんですね。
 しかも、入り口に立てかけてある木製の看板が……年季が入りすぎていて読めない! かろうじて最後の「……術館」が判読できるくらいの見事な粘土色になっているので気をつけましょう。

 ハンカチで汗をぬぐいつつ、スリッパにはきかえて館内にはいると、一階は受付窓口とささやかな談話スペースしかない空間になっていました。
 到着は午後2時。ワイドショーを見ていたらしい受付のご老人は、おもむろに名前を記入してください、と窓口にあるノートを指しました。その隣には当たり前のように筆ペンが。

 筆っすか……(サラサラ)あぁ~、字ィうまくなりてぇなぁーオイ。もういいやこんなんで。さらっさら~のさらさーてぃ~っと。
 名前をなんとか記入してあたりを見まわすと、うしろにうすぐら~い階段があります。節電だからしょうがないんでしょうけど、展示物が展示物だけに、ちょっとこわい……

 おっかなびっくり2階にのぼると、そこには噂にたがわぬ驚くべき光景が!
 さすがは刀剣専門美術館。そろいもそろったり、日本の美の極みともいえる日本刀に関する垂涎ものの展示品がなんと……その数なんと30点!

 ……なんですか。30点ですよ、30点。
 あぁ~っ、あなたもしかして今、「それだけ?」とか思いませんでした!? まさか、少ないなァなんて感じたんじゃないでしょうね~。

 いやぁ~、そいづぁうまぐねぇな。いっぺんでもいいがらほんものの日本刀ばみでみればわがっどおもうんだげんと、ちゃんとしたのが10本もそろってだらもうそれ以外になにがいるんだずって話なんだよぉ。
 ホントなんですよ。

 確かに、塚本美術館の展示室である2階のひと部屋は、まぁ~広さを例えるのならば……頭にパッと思い浮かぶサイズのコンビニエンスストアの半分くらい? 部屋のスペースとしては充分に広いんですが、ちょっと展示室としてはささやかなものとなっています。
 あと、私が入ったときには当然のごとく展示室は無人で、結局、私がいるあいだに入ってきたお客さんは若い夫婦とその子ども2人の家族が1組だけだったのですが、最初こそ「スッゲ、かたな!!」と叫んでテンションを上げていた子どもたちも、またたく間に展示室をひとまわりしてしまって、その家族は5分もたたないうちに去っていってしまいました。ダミよ~! せっかくなんだからもっとよく見なきゃあ。

 私がおとずれた昨日に塚本美術館に展示されていた日本刀は11本。鎌倉時代から現代(昭和)までに製作された5本の常設展示と、1シーズン(3ヶ月)ごとにかわる企画展示が、昨日は6本。あとはこれまた見ていてちっとも飽きない美術工芸品「鍔(つば)」が約10点と、「日本刀ができるまで」のさまざまな製作途中での段階の「なりかけ日本刀」を約10点にわけてならべているといった魅惑のラインナップとなっています。

 いやぁ~日本刀。なんてったって日本刀。美しいですね~。美しいながらも、ギラリと冴え渡るこわさがある!
 もちのろん、展示されている品はすべてガラスごしにしか見られないわけなのですが、わずか2~30センチ向こうに真剣があるのかと思うともうたまりませんね。クリスマスプレゼントにショーケースのトランペットがほしくってガラスにいつまでも張りついていたトビー少年ばりに見入ってしまいました。トビー少年しらないけど。

 常設展示のほうの5本はまさに日本史の各時代を象徴する面々といった感じで、鎌倉時代の「来国俊(らいくにとし)」から南北朝~室町時代の名匠「備前長船(びぜんおさふね)」派、そして江戸幕末期の乱世ぶりを象徴するかのごとき「月山貞吉(がっさんさだよし)」の手による勤王刀。

 やっぱりいちばん異様だったのは勤王刀ですよねぇ。本物を見てはじめてわかる「狂気」というか、とにかく聞きしにまさる時代のあだ花っぷりを実感しました。
 勤王刀というのは、要するに幕末の前期に巻き起こった「尊王攘夷」というナショナリズム(な部分はごく一部で、ほとんどはただの江戸幕府に対する不満の爆発)の高揚に歩調を合わせて大流行した「異常に大きなつくりの日本刀」のことで、当時のお侍さんが腰にぶっ差していた打刀(うちがたな)の常識的な長さは6~70cmだったのにたいして、勤王刀は80~100cmという破格の長さとなっています。
 コンセプトとしては「戦国時代の実戦刀にもどれ!」という精神はあったのかもしれませんが、これはもう、はっきりいって逆にでかくて使いづらいものになっただけで、本当に侍と侍がせまい路地や天井の低い屋内で斬り合う事態となった後期には、勤王刀は一瞬にしてすたれていくこととなってしまいました。

 でかけりゃいいってもんじゃないんですね。そういう意味では、なりこそ非常に立派なものではあるものの、勤王刀は1980年代の不良のリーゼントヘアみたいなものだったんじゃないでしょうか。
 ほんとにね、実際に命の取り合いをする戦闘で自分で使うとしたらと考えてみて、1メートルもある刀は使いきれるものではありませんよ!?

 現在、日本人男性の平均身長はおよそ172cm前後だと言われていまして、だいたいそのくらいの高さである私が見て「ムリ!」と感じているわけなんですけど、ましてや当時、江戸時代の日本人男性の平均身長はなんと155~58cmだったらしいんですよ。戦う以前に鞘からうまく抜けるのかも疑問です。
 もちろん、これはあくまで「平均」の話でありまして、江戸時代にも2メートルを超える身長のおすもうさんはいましたし、たとえばあの、みんな大好き坂本龍馬さんは身長180cmだったと言われています(170cm前後だったという異説もあり)。これは奇しくも、去年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』で龍馬さんを熱演していた福山雅治さんの身長とほぼ同じなのですが、江戸時代の180cmと平成時代の180cmとでは周囲にあたえる印象ががまったく違っていたことは間違いないでしょう。
 そして。その恵まれていた身長だったはずの龍馬さんが「勤王刀ちゅうもんなんぞ長すぎて役にたたんきに!」と明言していたらしいんですからね。にわか土佐弁ですみません。

 いっぽう、私が訪れた時の企画展示のほうは「大坂新刀」特集ということで、江戸の太平の世に大坂を中心に発展した「実戦よりも見た目やでぇ~。」的な、意匠を重視した日本刀が展示されていました。「新刀」とは、江戸時代前半、17世紀~18世紀半ばに製作された日本刀のことをさします。
 ちなみに、地名の「おおさか」の表記に「大阪」が使われるようになったのは江戸時代からなんですが、当時はまだまだ古い「大坂」表記のほうが一般的でした。読み方も「おおさか」と「おおざか」が混在していたようです。
 こっちはこっちで興味深いですねぇ。まだ戦乱のにおいがあった桃山時代の井上国貞2代の刀には野太さがあるものの、時代がくだるにつれて華やかな調子の刃文(はもん 焼き入れのさいに刀身の斬れる白い部分と斬れない黒い部分との境目にできる文様)が出てきたりして「鑑賞してたのしむ」美術品になっていくという歴史の流れを、わずか6振りの刀が雄弁に語ってるっちゅう話なんですな。

 「日本刀ができるまで」も勉強になったねぇ~。
 日本刀を形成する鋼鉄という物質が、硬度を増すほどもろくなるものであることは宿命なのですが、武器としての耐久性を保持するためにどういった技術的努力をしているのかっつうとねぇ、あの~……

 ……あ、あれ、もう字数がかさんできちゃった?

 みなさん、もうちょっと日本刀とお城の話が続きますけど……ついてきていただけますかね?

 大丈夫? ちょっと不安になりつつも、つっづく~。
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あ~づ~い~ばんだいさ~ん~

2011年08月18日 18時38分26秒 | 日記
 はいーみなさんこんにちは、そうだいでございます~。

 え~、ついさきほど、家に帰ってまいりました。もちろん、昨日言っていた「ある美術館」に行ってきた帰りでございます。
 いやぁ、いい所でしたね! 思った以上の収穫がありました。あったんですが……

 涼んでくることは、できませんでした!

 その美術館は文句なく良かったのですが、そのあとに思いあまってチャレンジしてしまった別のくわだてで、汗だくになってしまったから!!

 昨日もあんなに「死んじゃうからこの炎天下にジョギングのたぐいはしない」って言ってたのに……そんなに身体を動かしたい人だったのか、わたくしは。

 ということで、今日行って来た美術館とその後のチャレンジについては、また次回にあらためてレポートしたいと思います。


 実は、今回家に帰ってくるなりつづっておきたかったのは、そのことではありません。
 ちょうど、日中にそれを楽しんでいた時にふとケータイのニュース速報を見たら、驚くべきバッドニュースが!

 つい昨日、「応援するゾ!」なんて口走っていた甲子園の千葉・習志野高校と奈良・智弁学園が、よりによって同じ日に枕をならべて討ち死に……!!

 なんで私がエールを送った2校が翌日にそろって……甲子園には魔物はいても神はいらっしゃらないというのか!?

 も、もしかして、私が珍しくスポーツのチームを応援するなんていう行為におよんでしまったから、宇宙の隅々までをみわたしているというあの大日如来が、「こ~の、にわかスポーツ好きが。」なんてイラッときておしまいになったのでは!?

 ハッ!? そういえば、幼少時代にこんな記憶が。
 かつて私の母も、「私が応援すると負ける気がする。」とつぶやいて、大好きな桑田真澄投手が登板した巨人軍のナイター中継は一言も歓声をあげずにTV画面を見つめていた……
 当時は「自意識過剰もはなはだしいよ……」と思いながらほほえんでいたのですが、まさかあの体質は本物だったとでも言うのか。

 もし、私にもそんな「応援すると負ける気質」が色濃く受け継がれていたのだとしたら……
 だとすれば、かの、なでしこジャパンの世界一も得心が行きます。私、TV観られなかったからなぁ。恐ろしいことや。

 てな感じで、妄想もたいがいにせぇよという規模に大きくなってきたところで今日はおひらき。

 次回は美術館とその後のチャレンジ企画の報告で~す。

 テーマはズバリ、「刀と城」!! 暑苦しいなぁ~オイ。
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