長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

全国城めぐり宣言 第4回「下総国 佐倉城」 フィーチャリング 塚本美術館

2011年08月19日 13時15分38秒 | 全国城めぐり宣言
 はいどーうもっ、こんにちは! そうだいでございます~。
 ついに「暑い暑い」といい続けていた思いが天に届いたのでしょうか。今日の千葉市は午前中からダイナミックな雷雨で幕を開けました。極端だなぁ~オイ!
 ともあれ、久しぶりに涼しげな日になりそうでほっとしました。寒くなりすぎても考えものなんですが、まずは雨のかおりを感じながら身体をゆっくり休ませたいところです。

 だってさぁ! 昨日はほんとに身体を使ったんですよ~。いやいや、私が勝手に企画しただけなんですけどね、昨日もほら、とてつもない炎天下だったから! 風が多少吹いてたのは助かりましたけど。


 え~、ためにためてしまって申し訳ないのですが、昨日行ってきた「ちょっとめずらしい美術館」というのは、千葉県佐倉(さくら)市裏新町にある「日本刀専門」の美術館・塚本美術館のことでありました。

 日本刀専門! なんか、スゲくね!? 展示物をながめているだけで身体の芯から涼しくなってくるようなイメージがわくじゃないですかぁ~。
 この塚本美術館の存在を知ったのは2年くらい前のことだったのですが、おなじ佐倉市にある有名な「川村美術館」に行こうとした時に、直通シャトルバスの出発までヒマだったのでなにげなく駅前の市内案内図をながめていたところ、この「千葉県唯一の刀剣美術館」の表示を目にしたのです。
 その時からずっと気になってたんだよねェ~。でも、彼女と2人で行くミュージアムじゃあないよな、とは思っていたのですが……昨日実際に行ってみて、その予想はバチコーンと当たっていたことを身をもって確認しました。うむ、ここはたしかに、かわいいベレー帽を頭にのっけた女の子が、

「きゅるんきゅるん☆ あ~、あったっ、備前長船だみゅ~。」

 などと言ってはしゃぐ場所ではなかった……なんなんだこの美術館好き女子イメージは。

 刀剣、特に日本刀を専門に展示する美術館はいちおう全国に点在しているようで、千葉県はここ塚本美術館1ヶ所であるものの、ちょっとインターネットで調べてみただけでも埼玉・栃木・静岡・岡山などにあるようです。近場で言うと、なんとあの東京は若者のメッカ・渋谷にもあるんですって! 今度はそこに行ってみよう。

 塚本美術館はその名の通り、元陸軍将校で戦後は実業家として活躍された塚本素山(そざん)氏の刀剣コレクションを展示する財団法人美術館で、1965年に東京の銀座で開館されたのち素山氏の没後、1983年に佐倉市の現在の場所に移転されました。
 なんともはや、元軍人さんだった実業家の個人コレクションという前提といい4~50年におよぶ歴史といい……気合いの入り方が違いますよね。山崎豊子さんの小説みたいだね!

 昨日の昼過ぎ、私はこの「日本有数の刀剣美術館」という塚本美術館への期待に胸をおどらせながらJR線で佐倉へ向かいました。
 私の住んでいる千葉市から佐倉市へ向かう途上、2つの市のあいだに位置する四街道市に広がっていた青々とした田園風景は実にさわやかでしたね~。今年もいいお米がとれるといいねぇ。

 ゆったりと進むJR総武本線の各駅停車の車中から外を見やり、私はおよそ10年前、まだ大学生だったころにこの四街道市でそうとうにイカレた自主製作映画もどきの撮影を敢行していたことを思い起こしていました。

 その時、私は別に自主製作映画サークルに入っていたわけではなかったのですが、当時所属していた推理小説サークルの大学祭での宣伝のために約20分ほどのセリフのないサスペンス劇場ふうの映像作品を制作し、その中でどうしても「横溝正史の作品に出てきそうな荒涼とした田園地帯」を出したかったので、テキトーなロケハンの末に、もっとも近場で田舎っぽい風景を撮れるのは四街道なんじゃないか?という結論に達したのです。
 そのねらいは見事に的中し、晩秋、刈り取り作業のすんだ後のこの地は、周辺をかこむ森林地帯や曇天とあいまって非常に雰囲気たっぷりなロケ地となり、その中で私は他の信頼できる親友たちとともに女子高生に変装しながら容疑者を尾行するという、地下の横溝先生に腹切ってわびてもすまないようなアホンダラな映像を撮影していました。そうそう、私、その撮影に寝坊して遅刻しそうになっちゃったから、現地まで女子高生ルックに着がえたまんまでタクシーに乗ってったのよ。若かった……

 四街道……なにもかもなつかしい。あのころに戻りた……くはさらさらねぇ!!

 そんな遠い眼をしているうちに、電車は無事に佐倉市に到着。炎天下の中、意気揚々と塚本美術館へ徒歩で向かうこととあいなりました。

 話はそれるのですが、みなさん! ここでちょっと私からのワンポイントアドバイス。

「駅名が同じでも、JR線と京成線は駅舎の距離がハンパなく離れているから気をつけよう!」

 ご存じの方も多いのかも知れませんが、東京や神奈川みたいな感覚で、同じ名前なんだからすぐ近くにあるんでしょ?と思っていると本当に痛い目に遭うのよねぇ、千葉は。
 たとえば、私は「稲毛駅」や「幕張駅」、「津田沼駅」なんかですでに経験済みだったのですが、同じ駅名なのにJR線と京成線はだいぶ離れた場所に路線ができているんですね。さすがに「千葉駅」は隣接していますけど。
 さて、今回の「佐倉駅」はどうだったのかといいますと、その距離およそ2キロ。とおっ。

 そして、私が目指す塚本美術館は当たり前のように、「京成」佐倉駅に近い場所にあったのです……はいはいそーですねー。わかりましたよ、歩けばいいんでしょー歩けば! そりゃそうですけど。

 非常に興味深い点だと思うのですが、佐倉市の場合は、江戸時代に下総国(千葉県北西部)を代表する雄藩だった佐倉藩の中心地としてさかえた地域は「京成線」佐倉駅のほうで、戦後に新たなニュータウンとして開発された地域が「JR線」佐倉駅のほうになっているようなんです。実際に歩いてみて強く感じたのですが、同じ佐倉でも京成線沿いの町並みとJR線沿いの町並みは全然ちがっているんですね。

 電車を降りてきれいなつくりのJR佐倉駅の北口から外に出ると、駅の北方2キロにうっそうとした木々の密集した丘がそびえているのが目に入ってきます。

 そう、これこそが江戸時代、佐倉藩の政庁として機能していた下総国の名城にして、江戸城の「東の守り」の責をになっていた佐倉城の存在していた鹿島山であります。わおわお~!
 鹿島山とはいいつつも、ざっといえば標高30メートルほど、広さ2キロ四方の「台地」と言ったほうがしっくりくるハンバーグみたいな地形なのですが、今はかなりの樹齢と思われる木々や孟宗竹の立ち並ぶ、緑というよりも黒っぽい印象の目立つ不思議な地域となっています。

 んで。目下、私の目指す塚本美術館もその鹿島山にのぼりきった土地にあるのですが、もうお察しの通り、私は塚本美術館を拝観したあとはその台地上にある佐倉城を探訪しようという算段でやって来たわけなのでした。
 2006年に選定された「日本100名城」の第20番目にその名をおく名城・佐倉城! 見逃さない手はないですよねぇ~。今まで小弓城、高品城とやってきた私の全国城めぐり宣言だったのですが、ここにきてさっそく全国レベルのメジャー城のご登場とあいなりました。『信長の野望』にも、佐倉城でてきてたよ!

 だが、しかし。
 私はナメていました……天下の堅城・佐倉城の大きさと、気温35℃の真夏の照りつけを! まいったねコリャ。

 まずは、JR佐倉駅から2キロ歩いて鹿島山にのぼって塚本美術館にたどり着くまでの段階で汗だくになってしまいましたからね。しんど~。
 歩きはじめ、JR佐倉駅の周辺は高層マンションに大手銀行支店におしゃれなカフェにパチンコ屋と、だいたい駅前にありそうな面々がそろっているのですが、県道265線にそって鹿島山に近づくにつれて、田園、森林、そして瓦葺きのいかめしい日本家屋が目立ってくるようになってきます。汗をかきかきエッチラオッチラと坂をのぼり、ふと振り返ってみると伝統的な家屋と新興住宅のいりまじったなかなか味わい深い風景が眼下に広がっていました。

 どうでもいいのですが、その中に、瓦屋根のド真ん中に直径2メートルくらいの大きさの穴がボコッとあいて傾きかけている廃屋があったのがものすごく気になった……あれ、なに? 隕石おちてきた?

 さて、第一の目的地となる塚本美術館は、鹿島山の台地地域に入って、県道からややはずれた所にある閑静な住宅地の中に静かにたたずんでいました。

 あの、塚本美術館に行きたいと思っておられる方がいらっしゃったら、あらかじめホームページなどで美術館の外観を確認しておくことをおすすめします。塚本美術館は江戸時代の土蔵のような感じの白い縦長の建造物なのですが、道沿いに塀があるのでけっこう目立たないんですね。
 しかも、入り口に立てかけてある木製の看板が……年季が入りすぎていて読めない! かろうじて最後の「……術館」が判読できるくらいの見事な粘土色になっているので気をつけましょう。

 ハンカチで汗をぬぐいつつ、スリッパにはきかえて館内にはいると、一階は受付窓口とささやかな談話スペースしかない空間になっていました。
 到着は午後2時。ワイドショーを見ていたらしい受付のご老人は、おもむろに名前を記入してください、と窓口にあるノートを指しました。その隣には当たり前のように筆ペンが。

 筆っすか……(サラサラ)あぁ~、字ィうまくなりてぇなぁーオイ。もういいやこんなんで。さらっさら~のさらさーてぃ~っと。
 名前をなんとか記入してあたりを見まわすと、うしろにうすぐら~い階段があります。節電だからしょうがないんでしょうけど、展示物が展示物だけに、ちょっとこわい……

 おっかなびっくり2階にのぼると、そこには噂にたがわぬ驚くべき光景が!
 さすがは刀剣専門美術館。そろいもそろったり、日本の美の極みともいえる日本刀に関する垂涎ものの展示品がなんと……その数なんと30点!

 ……なんですか。30点ですよ、30点。
 あぁ~っ、あなたもしかして今、「それだけ?」とか思いませんでした!? まさか、少ないなァなんて感じたんじゃないでしょうね~。

 いやぁ~、そいづぁうまぐねぇな。いっぺんでもいいがらほんものの日本刀ばみでみればわがっどおもうんだげんと、ちゃんとしたのが10本もそろってだらもうそれ以外になにがいるんだずって話なんだよぉ。
 ホントなんですよ。

 確かに、塚本美術館の展示室である2階のひと部屋は、まぁ~広さを例えるのならば……頭にパッと思い浮かぶサイズのコンビニエンスストアの半分くらい? 部屋のスペースとしては充分に広いんですが、ちょっと展示室としてはささやかなものとなっています。
 あと、私が入ったときには当然のごとく展示室は無人で、結局、私がいるあいだに入ってきたお客さんは若い夫婦とその子ども2人の家族が1組だけだったのですが、最初こそ「スッゲ、かたな!!」と叫んでテンションを上げていた子どもたちも、またたく間に展示室をひとまわりしてしまって、その家族は5分もたたないうちに去っていってしまいました。ダミよ~! せっかくなんだからもっとよく見なきゃあ。

 私がおとずれた昨日に塚本美術館に展示されていた日本刀は11本。鎌倉時代から現代(昭和)までに製作された5本の常設展示と、1シーズン(3ヶ月)ごとにかわる企画展示が、昨日は6本。あとはこれまた見ていてちっとも飽きない美術工芸品「鍔(つば)」が約10点と、「日本刀ができるまで」のさまざまな製作途中での段階の「なりかけ日本刀」を約10点にわけてならべているといった魅惑のラインナップとなっています。

 いやぁ~日本刀。なんてったって日本刀。美しいですね~。美しいながらも、ギラリと冴え渡るこわさがある!
 もちのろん、展示されている品はすべてガラスごしにしか見られないわけなのですが、わずか2~30センチ向こうに真剣があるのかと思うともうたまりませんね。クリスマスプレゼントにショーケースのトランペットがほしくってガラスにいつまでも張りついていたトビー少年ばりに見入ってしまいました。トビー少年しらないけど。

 常設展示のほうの5本はまさに日本史の各時代を象徴する面々といった感じで、鎌倉時代の「来国俊(らいくにとし)」から南北朝~室町時代の名匠「備前長船(びぜんおさふね)」派、そして江戸幕末期の乱世ぶりを象徴するかのごとき「月山貞吉(がっさんさだよし)」の手による勤王刀。

 やっぱりいちばん異様だったのは勤王刀ですよねぇ。本物を見てはじめてわかる「狂気」というか、とにかく聞きしにまさる時代のあだ花っぷりを実感しました。
 勤王刀というのは、要するに幕末の前期に巻き起こった「尊王攘夷」というナショナリズム(な部分はごく一部で、ほとんどはただの江戸幕府に対する不満の爆発)の高揚に歩調を合わせて大流行した「異常に大きなつくりの日本刀」のことで、当時のお侍さんが腰にぶっ差していた打刀(うちがたな)の常識的な長さは6~70cmだったのにたいして、勤王刀は80~100cmという破格の長さとなっています。
 コンセプトとしては「戦国時代の実戦刀にもどれ!」という精神はあったのかもしれませんが、これはもう、はっきりいって逆にでかくて使いづらいものになっただけで、本当に侍と侍がせまい路地や天井の低い屋内で斬り合う事態となった後期には、勤王刀は一瞬にしてすたれていくこととなってしまいました。

 でかけりゃいいってもんじゃないんですね。そういう意味では、なりこそ非常に立派なものではあるものの、勤王刀は1980年代の不良のリーゼントヘアみたいなものだったんじゃないでしょうか。
 ほんとにね、実際に命の取り合いをする戦闘で自分で使うとしたらと考えてみて、1メートルもある刀は使いきれるものではありませんよ!?

 現在、日本人男性の平均身長はおよそ172cm前後だと言われていまして、だいたいそのくらいの高さである私が見て「ムリ!」と感じているわけなんですけど、ましてや当時、江戸時代の日本人男性の平均身長はなんと155~58cmだったらしいんですよ。戦う以前に鞘からうまく抜けるのかも疑問です。
 もちろん、これはあくまで「平均」の話でありまして、江戸時代にも2メートルを超える身長のおすもうさんはいましたし、たとえばあの、みんな大好き坂本龍馬さんは身長180cmだったと言われています(170cm前後だったという異説もあり)。これは奇しくも、去年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』で龍馬さんを熱演していた福山雅治さんの身長とほぼ同じなのですが、江戸時代の180cmと平成時代の180cmとでは周囲にあたえる印象ががまったく違っていたことは間違いないでしょう。
 そして。その恵まれていた身長だったはずの龍馬さんが「勤王刀ちゅうもんなんぞ長すぎて役にたたんきに!」と明言していたらしいんですからね。にわか土佐弁ですみません。

 いっぽう、私が訪れた時の企画展示のほうは「大坂新刀」特集ということで、江戸の太平の世に大坂を中心に発展した「実戦よりも見た目やでぇ~。」的な、意匠を重視した日本刀が展示されていました。「新刀」とは、江戸時代前半、17世紀~18世紀半ばに製作された日本刀のことをさします。
 ちなみに、地名の「おおさか」の表記に「大阪」が使われるようになったのは江戸時代からなんですが、当時はまだまだ古い「大坂」表記のほうが一般的でした。読み方も「おおさか」と「おおざか」が混在していたようです。
 こっちはこっちで興味深いですねぇ。まだ戦乱のにおいがあった桃山時代の井上国貞2代の刀には野太さがあるものの、時代がくだるにつれて華やかな調子の刃文(はもん 焼き入れのさいに刀身の斬れる白い部分と斬れない黒い部分との境目にできる文様)が出てきたりして「鑑賞してたのしむ」美術品になっていくという歴史の流れを、わずか6振りの刀が雄弁に語ってるっちゅう話なんですな。

 「日本刀ができるまで」も勉強になったねぇ~。
 日本刀を形成する鋼鉄という物質が、硬度を増すほどもろくなるものであることは宿命なのですが、武器としての耐久性を保持するためにどういった技術的努力をしているのかっつうとねぇ、あの~……

 ……あ、あれ、もう字数がかさんできちゃった?

 みなさん、もうちょっと日本刀とお城の話が続きますけど……ついてきていただけますかね?

 大丈夫? ちょっと不安になりつつも、つっづく~。

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