うおお~、8月なのに、なぜ寒い!? どうもどうもこんばんは、そうだいでございます。
続きますよねレイニーデイズ! 私なんかもう耐えきれずに掛け布団ひっぱりだしてきちゃいましたよ。まいったね。
なんか、空気のにおいも秋の気配を見せてきてしまったような……早いなぁ~。
こういう雨のしとしと降る肌寒い日に、まかり間違って実録犯罪の記録なんか読んじゃったりしちゃうと、気分が大変なことになっちゃうんですねぇ~。すさむすさむ。ヤなもんでい。
そうこうしているうちにも、日本のアイドルグループ戦国時代は新たな局面を迎えつつあるようでして。
AKB48関連では、ついにベールに包まれていた謎の公式ライヴァルグループ「乃木坂48」のメインメンバーがお披露目!
いっぽう伝統あるハロー!プロジェクト陣営では、期待のルーキー「スマイレージ」の新メンバー5名が決定!
新メンバー5名ってあなた、スマイレージはもともと4名だったんですから、一気に9名に倍増しちゃったよ。
スマイレージをハロプロ大将格のモーニング娘。なみにヴォリュームアップする作戦に出たとは。いよいよスマイレージに力を入れるようになってきたというわけですか。
トレーニング期間もあるのですぐに9名体制で活動を開始するということではないようなのですが、私としては老婆心ながら、ハロプロの「中間管理職」とも言える位置にあるBerryz工房と℃-uteがこれからどういった独自色を打ち出していくのかが気になるところです。
大将・中堅・先鋒がそれぞれ輝いてこそ、ハロー!プロジェクトの未来は明るい。がんばってもらいたいですねェ! いつかちゃんと、全グループのコンサートをコンプリートしたいですねぇ。かせげかせげ~。
しゃてしゃて。
まるで夏が去ってしまったかのような気候なんですが、今回もあの酷暑をなつかしむかのようなしつこさで、数日前に行った「佐倉城めぐり」の続きに入っていきたいと思います。寒いのもいやですが、あの暑さもあれはあれでいやよ!? ほんとに倒れそうになったんですから。
え~、前回は戦国時代までの千葉家とその居城をめぐる長い歴史をつづってまいったわけなのですが、平安時代から連綿と続いた名族・千葉家も、ついに関東地方全体を掌握するにいたってしまった戦国大名・北条家の軍門にくだってしまうこととなってしまいました。
とはいっても、別に千葉家と北条家がガチンコの戦争状態に入って千葉家の面々が業火に包まれる居城・本佐倉城の中で枕をならべて討ち死にという、ドラマになりやすい劇的なラストがあったわけでもなく、実状としては、いかにも戦略に長けた北条家らしい「吸収合併」的なお家乗っ取り作戦により、下総国領主としての千葉家はしめやかな終焉を迎えることとなりました。
もともと戦国時代前期、千葉家は東京湾の向こうの北条家と盟約をむすんで弱体化した権威を復活させようとする努力はしていたのですが、次第に主導権を北条家にぶん取られることが多くなり、千葉家当主が北条家当主の娘をめとるという婚姻戦略も着々と進められるようになった挙げ句の1585年。前回にもあげた「おなら逆ギレ家臣事件」によって千葉家の第29代当主・邦胤が非業の死を遂げた(享年29歳)不幸に乗じて、当時の北条家当主・氏政が息子の直重(氏政の弟という説もあり)を千葉家の第30代当主として送り込んでしまったために、500年の長きにわたって下総国に大きな影響力をおよぼし続けた領主としての千葉家の歴史は幕を閉じることとなります。実は邦胤には嫡男の重胤がちゃんといたのですが、まだ10歳で幼いということを理由に北条家に次期当主の座を奪われてしまいました。
そうとう強引な乗っ取りのようにも見られるのですが、邦胤は正妻に北条氏政の娘をもらっていたために、形式上は「まだまだ子どもである重胤に代わって母方のおじさんである直重が当主をつとめる」というたてまえが成り立っていたのです。北条さん、おみごと~!
ちなみに、本来の30代目になるはずだった千葉重胤は「養育」を名目に北条家の本拠である小田原城に連れて行かれており、まぁはっきり言って人質のようなあつかいを受けていたようなのですが、その北条家が豊臣秀吉の天下統一によって滅亡した後は全国を流浪する浪人として天寿をまっとうしたようです(享年58歳)。このへんの後半生は重胤から30代目を奪ったおじさん直重もまぁ似たようなもので、実家の滅亡後は四国徳島藩の大名・蜂須賀家の一介の家臣となっています。あぁ、人生の浮き沈み。
とまぁ長々とつづりましたが、私が先日おとずれた佐倉城は、千葉家とはさほど関係がありません! ゼロではないんだけど。
上のような巧妙な手段できれいに下総国を手中におさめた北条家だったわけなのですが、そのわずか5年後。
今度はその北条家がさらにその上をいく勢いの豊臣秀吉によってツブされてしまうと、下総国も含めて、関東地方の支配者の顔は再びガラッと変わることとなります。
北条家の広大な領地を秀吉の命によって受け継ぐこととなったのは、ご存じ徳川家康。
まぁ直接対決を避けたい家康を京から遠ざけるという秀吉の思惑もあったのでしょうが、ここがガマンのしどころと要求をのんだ家康は、故郷である東海地方を離れて武蔵国の江戸城に移転することとなりました。その時はもう大変な僻地ですよ。
んで、その一家総引っ越しにのってやって来て下総国佐倉を治めることとなったのが、徳川家康に近い関係にある面々。
それぞれの佐倉藩主としての在任期間は短かったのですが、家康の5男の武田信吉(在任9年・石高4万石 滅亡した甲斐武田家の跡を継いでいる)、6男の松平忠輝(在任1年・石高5万石)、4男の松平忠吉の家老だった小笠原吉次(在任2年・石高2万2千石)といった感じで、さすがは江戸城の東の守り、かなり徳川家に近い人物が藩主を歴任していました。このころの佐倉藩政庁は戦国時代に千葉家が住んでいた本佐倉城のままだったようです。
そしてそして、さらにそういった佐倉藩の政治的意義を強めることになったのが、彼らの次に佐倉藩主となった土井利勝(としかつ)です。このお人が佐倉城にやっと関わってくるわけ!
土井利勝は江戸幕府の確立にかかわった非常に重要な政治家で、系図上は家康の「いとこ」にあたるのですが、実は家康の「ご落胤」なんじゃなかろうか、とも語られていた人物です。なんだか年をとればとるほど家康に似てきていたようで、当時からそのうわさはまことしやかにささやかれていました。
利勝は自分が7歳だった時から家康3男の徳川秀忠の「お守り役」をおおせつかっており、当然ながらその秀忠が徳川幕府2代将軍となったころには秀忠の側近中の側近としてその実力をいかんなく発揮していました。
そんな利勝が1610年、大御所・家康の命を受けて藩主となったのが下総国・佐倉藩3万2千石だったというわけなのですが、藩主につとめるという以外にも、利勝さんは重大なミッションを家康からさずかっていたようです。
それこそが! 「江戸城の東の守りとなる堅城をきずくべし。」というもの。
ここでにわかにクローズアップされてきたのが、前回にふれたように、戦国時代につくりかけられておきながら惜しくも放棄されてしまった「第二佐倉城建設予定地」だったというわけなんですねェ~。
なりほどなりほど。確かに利勝さんは徳川家はえぬきのエリートではあるのですが、他の文字通りの「一国一城の主」である戦国大名とは違って財力にも限界があるし、ましてやたかだか3万石強の領地の財源を元にとてつもない名城を一から建造することはムリに決まっています。
そこで「あっ、あれいいじゃん、鹿島山! だって基礎はできてるんだろ!?」という意見が出たことは想像に難くありません。安上がり is the Best!
しかも、一説によると、「第二佐倉城再利用案」とその縄張りを指図したのは他ならぬ大御所・徳川家康ご本人であるとも言われているのですから、まさに徳川家肝いりのリサイクル大作戦だったというわけなんですな。
当時、利勝が佐倉藩主となった1610年は、まだまだ大坂に豊臣家が健在ではあったとはいえ、さすがに徳川家お膝元の関東で戦乱が起きる可能性は低くなっていました。そんな中でもここまで第二佐倉城の建造による江戸防衛ラインの強化を急いでいた家康と幕府……「歴史的勝者」という立場にあまんじない細心さが伝わってくるエピソードですねぇ。
ともあれ、当時どこまで「つくりかけの第二佐倉城」ができていたのかは定かではないのですが、工事は実にスムースに進んで築城開始から10年もたたない1617年にはすでに新しい「佐倉城」は完成、佐倉藩政庁としての機能を充分に果たすお城となっていたようです。
これと、江戸幕府が1615年に発布した新法「一国一城令」によって、戦国時代の本佐倉城は役割を(第二)佐倉城にゆずって廃城ということとなりました。もちろん、この法令の成立にも当時老中だった利勝さんその人が大いにかかわっています。
そんな土井利勝以来、佐倉藩は数回の藩主交替を重ねつつも、平均石高10万石ほどの中堅藩に拡大して幕末まで存続しました。藩主は利勝さんの跡を継ぐだけあって、多くが江戸幕府老中の重責をになっています。
またまた脱線~。
江戸幕府といえば、政治をつかさどったのは「将軍」じゃねぇの? とイメージする方も多いかと思うのですが、みずから政策方針を決定していく5代綱吉や8代吉宗といったやり手の将軍もいたことはあったものの、一貫して最終的な決定や具体的な法令の制定をとりしきっていたのは「老中」という職についた政治家たちでした。簡単に言うと、老中は有力藩の藩主が持ち回りで就任していた将軍直属の政治最高職で、定員はだいたい常時5名前後だったようです。
常に複数名いた老中にはいちおう「筆頭」というリーダー格は設定されていたものの、特に筆頭が他の老中にたいして絶対的にえらかったというわけではなく、あくまで政治決定は老中たちが合議して取りきめるかたちとなっていました。
要するに、将軍はあくまで江戸幕府にとっての「王様」であって、王様の意見ももちろん重視はするものの、最終的なものごとを采配するのは「何人かいる総理大臣」の老中だったということなのです。今でいう「専門ごとの大臣」は、さらにその老中チームの下にいる「~奉行」や「大目付」といったことになるかと。
ちなみに、「老中」という職名が定着したのは17世紀中盤の3代将軍家光のころからで、それまでは「宿老」や「年寄衆」と呼ばれていました。
あと、江戸幕府の最高権力職といえば有名なのが、幕末の「桜田門外ノ変」で有名な井伊直弼の「大老」という職名なのですが、これは幕府にとっての緊急事態に非常職として設置される「老中以上の政治決定権を持つ」ポストで、この大老こそが、老中筆頭とは比較にならない権力を持った最高権力者ということになります。
ただ、この「大老」職は、実は他ならぬ土井利勝さんが初代なのですが(ただし、彼以前には井伊直孝・酒井忠世の両名が「大老に近い位置」にいた)、利勝さんの場合は30年近く老中をつとめあげ、65歳になり老齢で政務をとることが困難になった彼に、当時の将軍・家光が「終身名誉監督」みたいな意味あいでプレゼントした職名なのでした(利勝は「大老」職受領の6年後に死去)。最初は名誉職だったんですね~。
脱線終了!
……といきたいところだったんですが、今回はここまで! また字数がかさんできちった。
も~う、どんだけこの話題でもたすつもりなんでしょうねぇ~。
これだから現代のはやすぎる時間の流れについてけないんだよなぁ!
ツイッターなんぞ、夢のまた、夢……
続きますよねレイニーデイズ! 私なんかもう耐えきれずに掛け布団ひっぱりだしてきちゃいましたよ。まいったね。
なんか、空気のにおいも秋の気配を見せてきてしまったような……早いなぁ~。
こういう雨のしとしと降る肌寒い日に、まかり間違って実録犯罪の記録なんか読んじゃったりしちゃうと、気分が大変なことになっちゃうんですねぇ~。すさむすさむ。ヤなもんでい。
そうこうしているうちにも、日本のアイドルグループ戦国時代は新たな局面を迎えつつあるようでして。
AKB48関連では、ついにベールに包まれていた謎の公式ライヴァルグループ「乃木坂48」のメインメンバーがお披露目!
いっぽう伝統あるハロー!プロジェクト陣営では、期待のルーキー「スマイレージ」の新メンバー5名が決定!
新メンバー5名ってあなた、スマイレージはもともと4名だったんですから、一気に9名に倍増しちゃったよ。
スマイレージをハロプロ大将格のモーニング娘。なみにヴォリュームアップする作戦に出たとは。いよいよスマイレージに力を入れるようになってきたというわけですか。
トレーニング期間もあるのですぐに9名体制で活動を開始するということではないようなのですが、私としては老婆心ながら、ハロプロの「中間管理職」とも言える位置にあるBerryz工房と℃-uteがこれからどういった独自色を打ち出していくのかが気になるところです。
大将・中堅・先鋒がそれぞれ輝いてこそ、ハロー!プロジェクトの未来は明るい。がんばってもらいたいですねェ! いつかちゃんと、全グループのコンサートをコンプリートしたいですねぇ。かせげかせげ~。
しゃてしゃて。
まるで夏が去ってしまったかのような気候なんですが、今回もあの酷暑をなつかしむかのようなしつこさで、数日前に行った「佐倉城めぐり」の続きに入っていきたいと思います。寒いのもいやですが、あの暑さもあれはあれでいやよ!? ほんとに倒れそうになったんですから。
え~、前回は戦国時代までの千葉家とその居城をめぐる長い歴史をつづってまいったわけなのですが、平安時代から連綿と続いた名族・千葉家も、ついに関東地方全体を掌握するにいたってしまった戦国大名・北条家の軍門にくだってしまうこととなってしまいました。
とはいっても、別に千葉家と北条家がガチンコの戦争状態に入って千葉家の面々が業火に包まれる居城・本佐倉城の中で枕をならべて討ち死にという、ドラマになりやすい劇的なラストがあったわけでもなく、実状としては、いかにも戦略に長けた北条家らしい「吸収合併」的なお家乗っ取り作戦により、下総国領主としての千葉家はしめやかな終焉を迎えることとなりました。
もともと戦国時代前期、千葉家は東京湾の向こうの北条家と盟約をむすんで弱体化した権威を復活させようとする努力はしていたのですが、次第に主導権を北条家にぶん取られることが多くなり、千葉家当主が北条家当主の娘をめとるという婚姻戦略も着々と進められるようになった挙げ句の1585年。前回にもあげた「おなら逆ギレ家臣事件」によって千葉家の第29代当主・邦胤が非業の死を遂げた(享年29歳)不幸に乗じて、当時の北条家当主・氏政が息子の直重(氏政の弟という説もあり)を千葉家の第30代当主として送り込んでしまったために、500年の長きにわたって下総国に大きな影響力をおよぼし続けた領主としての千葉家の歴史は幕を閉じることとなります。実は邦胤には嫡男の重胤がちゃんといたのですが、まだ10歳で幼いということを理由に北条家に次期当主の座を奪われてしまいました。
そうとう強引な乗っ取りのようにも見られるのですが、邦胤は正妻に北条氏政の娘をもらっていたために、形式上は「まだまだ子どもである重胤に代わって母方のおじさんである直重が当主をつとめる」というたてまえが成り立っていたのです。北条さん、おみごと~!
ちなみに、本来の30代目になるはずだった千葉重胤は「養育」を名目に北条家の本拠である小田原城に連れて行かれており、まぁはっきり言って人質のようなあつかいを受けていたようなのですが、その北条家が豊臣秀吉の天下統一によって滅亡した後は全国を流浪する浪人として天寿をまっとうしたようです(享年58歳)。このへんの後半生は重胤から30代目を奪ったおじさん直重もまぁ似たようなもので、実家の滅亡後は四国徳島藩の大名・蜂須賀家の一介の家臣となっています。あぁ、人生の浮き沈み。
とまぁ長々とつづりましたが、私が先日おとずれた佐倉城は、千葉家とはさほど関係がありません! ゼロではないんだけど。
上のような巧妙な手段できれいに下総国を手中におさめた北条家だったわけなのですが、そのわずか5年後。
今度はその北条家がさらにその上をいく勢いの豊臣秀吉によってツブされてしまうと、下総国も含めて、関東地方の支配者の顔は再びガラッと変わることとなります。
北条家の広大な領地を秀吉の命によって受け継ぐこととなったのは、ご存じ徳川家康。
まぁ直接対決を避けたい家康を京から遠ざけるという秀吉の思惑もあったのでしょうが、ここがガマンのしどころと要求をのんだ家康は、故郷である東海地方を離れて武蔵国の江戸城に移転することとなりました。その時はもう大変な僻地ですよ。
んで、その一家総引っ越しにのってやって来て下総国佐倉を治めることとなったのが、徳川家康に近い関係にある面々。
それぞれの佐倉藩主としての在任期間は短かったのですが、家康の5男の武田信吉(在任9年・石高4万石 滅亡した甲斐武田家の跡を継いでいる)、6男の松平忠輝(在任1年・石高5万石)、4男の松平忠吉の家老だった小笠原吉次(在任2年・石高2万2千石)といった感じで、さすがは江戸城の東の守り、かなり徳川家に近い人物が藩主を歴任していました。このころの佐倉藩政庁は戦国時代に千葉家が住んでいた本佐倉城のままだったようです。
そしてそして、さらにそういった佐倉藩の政治的意義を強めることになったのが、彼らの次に佐倉藩主となった土井利勝(としかつ)です。このお人が佐倉城にやっと関わってくるわけ!
土井利勝は江戸幕府の確立にかかわった非常に重要な政治家で、系図上は家康の「いとこ」にあたるのですが、実は家康の「ご落胤」なんじゃなかろうか、とも語られていた人物です。なんだか年をとればとるほど家康に似てきていたようで、当時からそのうわさはまことしやかにささやかれていました。
利勝は自分が7歳だった時から家康3男の徳川秀忠の「お守り役」をおおせつかっており、当然ながらその秀忠が徳川幕府2代将軍となったころには秀忠の側近中の側近としてその実力をいかんなく発揮していました。
そんな利勝が1610年、大御所・家康の命を受けて藩主となったのが下総国・佐倉藩3万2千石だったというわけなのですが、藩主につとめるという以外にも、利勝さんは重大なミッションを家康からさずかっていたようです。
それこそが! 「江戸城の東の守りとなる堅城をきずくべし。」というもの。
ここでにわかにクローズアップされてきたのが、前回にふれたように、戦国時代につくりかけられておきながら惜しくも放棄されてしまった「第二佐倉城建設予定地」だったというわけなんですねェ~。
なりほどなりほど。確かに利勝さんは徳川家はえぬきのエリートではあるのですが、他の文字通りの「一国一城の主」である戦国大名とは違って財力にも限界があるし、ましてやたかだか3万石強の領地の財源を元にとてつもない名城を一から建造することはムリに決まっています。
そこで「あっ、あれいいじゃん、鹿島山! だって基礎はできてるんだろ!?」という意見が出たことは想像に難くありません。安上がり is the Best!
しかも、一説によると、「第二佐倉城再利用案」とその縄張りを指図したのは他ならぬ大御所・徳川家康ご本人であるとも言われているのですから、まさに徳川家肝いりのリサイクル大作戦だったというわけなんですな。
当時、利勝が佐倉藩主となった1610年は、まだまだ大坂に豊臣家が健在ではあったとはいえ、さすがに徳川家お膝元の関東で戦乱が起きる可能性は低くなっていました。そんな中でもここまで第二佐倉城の建造による江戸防衛ラインの強化を急いでいた家康と幕府……「歴史的勝者」という立場にあまんじない細心さが伝わってくるエピソードですねぇ。
ともあれ、当時どこまで「つくりかけの第二佐倉城」ができていたのかは定かではないのですが、工事は実にスムースに進んで築城開始から10年もたたない1617年にはすでに新しい「佐倉城」は完成、佐倉藩政庁としての機能を充分に果たすお城となっていたようです。
これと、江戸幕府が1615年に発布した新法「一国一城令」によって、戦国時代の本佐倉城は役割を(第二)佐倉城にゆずって廃城ということとなりました。もちろん、この法令の成立にも当時老中だった利勝さんその人が大いにかかわっています。
そんな土井利勝以来、佐倉藩は数回の藩主交替を重ねつつも、平均石高10万石ほどの中堅藩に拡大して幕末まで存続しました。藩主は利勝さんの跡を継ぐだけあって、多くが江戸幕府老中の重責をになっています。
またまた脱線~。
江戸幕府といえば、政治をつかさどったのは「将軍」じゃねぇの? とイメージする方も多いかと思うのですが、みずから政策方針を決定していく5代綱吉や8代吉宗といったやり手の将軍もいたことはあったものの、一貫して最終的な決定や具体的な法令の制定をとりしきっていたのは「老中」という職についた政治家たちでした。簡単に言うと、老中は有力藩の藩主が持ち回りで就任していた将軍直属の政治最高職で、定員はだいたい常時5名前後だったようです。
常に複数名いた老中にはいちおう「筆頭」というリーダー格は設定されていたものの、特に筆頭が他の老中にたいして絶対的にえらかったというわけではなく、あくまで政治決定は老中たちが合議して取りきめるかたちとなっていました。
要するに、将軍はあくまで江戸幕府にとっての「王様」であって、王様の意見ももちろん重視はするものの、最終的なものごとを采配するのは「何人かいる総理大臣」の老中だったということなのです。今でいう「専門ごとの大臣」は、さらにその老中チームの下にいる「~奉行」や「大目付」といったことになるかと。
ちなみに、「老中」という職名が定着したのは17世紀中盤の3代将軍家光のころからで、それまでは「宿老」や「年寄衆」と呼ばれていました。
あと、江戸幕府の最高権力職といえば有名なのが、幕末の「桜田門外ノ変」で有名な井伊直弼の「大老」という職名なのですが、これは幕府にとっての緊急事態に非常職として設置される「老中以上の政治決定権を持つ」ポストで、この大老こそが、老中筆頭とは比較にならない権力を持った最高権力者ということになります。
ただ、この「大老」職は、実は他ならぬ土井利勝さんが初代なのですが(ただし、彼以前には井伊直孝・酒井忠世の両名が「大老に近い位置」にいた)、利勝さんの場合は30年近く老中をつとめあげ、65歳になり老齢で政務をとることが困難になった彼に、当時の将軍・家光が「終身名誉監督」みたいな意味あいでプレゼントした職名なのでした(利勝は「大老」職受領の6年後に死去)。最初は名誉職だったんですね~。
脱線終了!
……といきたいところだったんですが、今回はここまで! また字数がかさんできちった。
も~う、どんだけこの話題でもたすつもりなんでしょうねぇ~。
これだから現代のはやすぎる時間の流れについてけないんだよなぁ!
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