はい~どうもこんばんは! そうだいです。関東地方はもう梅雨入りですか。早すぎるよ! 私の町は今日のところはパラパラとしか降りませんでしたが、明日以降は長雨が続くとかなんとか。キツいなぁ~。
ついこないだ、東京にお芝居を2本観に行った日は暑いくらいだったのにねぇ。あの日は、中野から駒場まで歩いて東大の学生食堂で遅いランチをいただいたりしてたんですよ。2時間くらいぶらっと歩くには最適なお天気でしたね。
最近はあったかい日と寒い日がたがいちがいになったりして、体調を崩すのがこわい毎日になっているのですが、まぁ今のところはカゼもひかずにやってきております。
ただ、寝つきがいいのか悪いのか私、近頃はっきりした夢を見ることが多くなってきてまして。
これは夢……なのかどうかわかんないんですけど、何日か前に変な体験をしました。ささいなことなんですけど、なんかひっかかるのよ。
その日は、仕事終わりにご飯を食べた時、おマヌケにも自分で自分の舌をかんでしまいまして、舌の右側にキズをつくったまま寝ました。
で、夜中にちょっとだけ目が覚めて、口の中で舌を動かしてみて、「ああ、まだベロが痛いなぁ……」なんて思いながらまた眠りについたんですよ。
それから翌朝にふつうに起きて、舌の右側のキズが治りかけてるのを確認しながら歯をみがいたりしたわけなのですが、「あれっ?」と思い当たることがあったんですよ。
夜中に目が覚めた時に痛かったのは、確かに、舌の「左側」の部分だったのね。
キャ~!!
なんなんすかね……文字どおりの「寝ぼけ」だったのか、「舌の左側にキズをおった私が夜中に目をさます」という夢を見ただけだったのか。
それともアレか、「真夜中はミラーワールド」的なやつか。
へんなの。やっぱり体調を崩しかけてんのかしらねぇ。まさに梅雨空のようにモヤッとした出来事でありんした~。
さて、といった前代未聞なグレー感で始まる「ざっくりすぎるアイドルグループ史」の続きなのですが、今回はまさに曇天、ほぼ日本全国で冷たい雨が降っていたある日からお話を始めていきたいと思います。
時は新年早々の1989年1月7日午前6時33分。
まさしく激動の昭和時代を体現する存在だった当時の「今上天皇」、昭和天皇が長い闘病のすえに崩御しました。御歳87。
この時をもって、太平洋戦争の敗戦とそこからの劇的な復興というはげしすぎる変転を見届けてきた史上最長の年号「昭和」は幕を閉じることとなります。最後の「昭和64年」は正味1週間しかなかったのね。
で、翌8日の午後2時半ごろに発表された新年号「平成」によって、新しい時代がスタートすることとなったのです。
しかし、日本国民のほとんど全員が知っている「ある方」の死をもって年号が変わる、という制度である以上、時代の交替には必ず国家規模での「喪に服する」、「自粛」というハンパなく重苦しいムードが不可分のものとしてついてくるわけでして。
思い出すねぇ、私その時はまだまだ小学校低学年のガキンチョだったんですけど、その日1月7日、身のまわりはほんっとに朝からどんよりとした空気に包まれていましてね。家族の朝の風景はいつもとおんなじだし、別に誰かが泣いてるというわけでもなかったんですけど、とにかくみんなうつむきかげん、無口! 視界がほんとに灰色。
私もさすがに、小学校低学年ながら「あぁ、誰かナイナイしたな、こりゃあ。」と勘づいたほどでした。そして誰もその話題にふれないというアンバランス感ね。
美空ひばりさんとか手塚治虫とか黒澤明とか、まぁいろんな世界の「神」と呼ばれていた方々が当然の摂理として亡くなっていくわけなのですが、そういった方々と比べてみても、やっぱり日本国民に与える影響の度合いはけた違いでしたね。
また、生前に「史上最強の晴れ男」と評されていた陛下らしく、その日の前後は逆に記録的な長雨が続いていたようです。
昭和天皇の不調が目に見えて深刻な問題となってきたのは1987年の春ごろからで、そのあたりから断続的な公務中止と再開を繰り返した後、1988年の夏の式典への出御を最後として、9月から翌年の崩御まで病床につくこととなります。
歴代天皇の中でも最長寿となった陛下も今回ばかりは……という空気は敏感に日本国中に浸透していき、もちろんそればっかりが理由でもないわけなのでしょうが、1987~89年は日本のエンタテインメント界、特にTV業界で「自粛」の2文字を頭のどこかにおいたバカ騒ぎしてられないという姿勢が、誰が言うともなく広がっていったのです。
平成の幕開けは、「未成熟のアイドルよりも成長したアーティストが評価される」時代の到来とともにやってきました。
前回に紹介した実力本位の「バンドブーム」の隆盛にくわえて、「そんなにフワフワしてられない」という重みをもった空気が、あたたかい目で未熟さもひっくるめて応援してくれるファン層が存在していることが前提となっていた「アイドル歌手」にはちときびしい環境を形成していたのです。
まぁ、そうはいっても当時の日本はまだまだうなるような活力がありあまっていて、良くも悪くもギラギラしていたわけですから! 夜の「ジュリアナ東京」なんてのは、昼間のおかたい日常のいたって健康的な反動だったんでしょうね~。ふぉう!
グラビアアイドル、アダルトビデオ業界、バラドル。いろんな世界が日の出の勢いで力をつけていく中、本来の「アイドル」の意味そのものだったはずのアイドル歌手は苦戦をしいられることとなり、それはまたアイドルグループも同じことでした。
そのため、その当時第一線で活躍していたアイドルグループ(デュオ)は、さすがに「キャハ! エヘ!」ばっかり言っている小娘スタイルで押すわけにもいかず、ある程度は唄う楽曲やダンスのクオリティで人々をひきつける硬派アーティストスタイルをとる方々が中心となっていました。
Wink(1988~96年)デュオ
相田翔子(18歳)と鈴木早智子(19歳)
笑顔をあえて少なくしたクールなスタイルとシンプルなシンメトリー振りつけ
あくまで「歌手」を活動の中心においた姿勢(洋楽アーティストの楽曲提供も多い)
代表曲 『淋しい熱帯魚』(1989年7月)
相田さんはタレントとして活躍・鈴木さんは最近なにかと話題が多い
なんといっても平成初期を代表するアイドルデュオといえばウインクなのですが、とにかくクールな楽曲とダンス、その無表情っぷりが当時からよくパロディにされていましたね。人形みたいな静物みたいな存在感がバラエティ全盛の芸能界で逆に目立った秘訣だったのかも知れませんが、それだけに笑顔が武器の「王道アイドル」のようには受けとられていなかったようです。特にはっきりした解散宣言や解散コンサートがなかったところも、「アイドルっぽくなさ」を強調していますよね。
だとしたらば、その時「正統派アイドルグループ」を標榜していたのはどなたかと言うと、「CoCo」や「ribbon」といった「乙女塾」出身のグループがまずあげられます。
乙女塾(1989~91年にあったフジテレビのタレント養成コース)
「歌手コース」、「俳優コース」、「モデルコース」の3コース制
CoCo、ribbon、中嶋ミチヨらを輩出
乙女塾全体としての楽曲は発表していない
『パラダイスGoGo!!』(『夕焼けニャンニャン』と同じ時間帯 1989年4月~90年3月)
乙女塾の出演していたバラエティ番組
B-21スペシャルや田代まさしが出演
CoCoとribbonの活動をサポートする役割
人気がでず関東ローカル番組に縮小して終了
CoCo(1989~94年)5~4人組
いわゆる「アイドル冬の時代」中、最もヒットした正統派アイドルグループ
ではあるものの、楽曲はクールなアーティスト志向のものが多かった
代表作 『夏の友達』(1990年4月)
1992年5月のメンバー瀬能あずさの卒業により4人組に
ribbon(1989~94年)3人組
16~19歳 おもに永作博美(19歳)がセンターヴォーカル
永作さんの存在感・ポテンシャルがケタ違い
それぞれのソロ活動が忙しくなり、メンバー松野有里巳(ありみ)の所属事務所退社により消滅
代表作 『そばにいるね』(1990年4月)
ここですねぇ~。CoCoですねぇ~。
要するに、かつてのおニャン子クラブと同じ手法でふたたびブームを巻き起こそうというフジテレビの算段だったようなのですが。
のちに乙女塾のメンバーとなる人々が『パラGO!』の放送開始前に『オールナイトフジ 女子高生スペシャル』にゲスト出演していたという入り方もまさにおニャン子クラブと同じであるわけなのですが、ちょーっと、乙女塾は本質的におニャン子クラブとはまったく別の集まりだったんですね。
まず、だいたい2~30名ほどのメンバーが常に在籍していた乙女塾は、完全に「プロになることを目指すタレントの卵」だけが集まった集団でした。つまり、「タレントとかどうでもいいで~す。」という姿勢の軽さこそが魅力の源泉だった「しろうと感」重視のおニャン子クラブとは真逆の真剣さをおびていたんですね。
そして、「歌手になりたい」「女優になりたい」「モデルになりたい」という各方面の志望者が集まっていた乙女塾が、ひとつのアイドルグループとしての活動をしなかったのも当たり前のことだったのですが、そのためにおニャン子クラブのような明確な母体にならなかった乙女塾は、必然的におニャン子クラブほどのネームバリューを持つ看板にはなりませんでした。
それがそのままCoCoとribbonの苦戦に反映してしまった、と言い切ってしまうのは酷なのですが、この2つのグループがオリコンチャートの首位をとることはついにかなわず。
ただ、CoCoのアイドルグループとしての存在は堂々たるもので、首位こそ逃したものの活動中は基本的にヒットチャートをにぎわせる存在になっていたし、伝統ある日本武道館でのコンサートを上演できる人気もほこっていました。
私はもうほんとに三浦理恵子さんの笑顔が好きでしてねぇ~。こっちもつられて笑ってしまうようなあのお顔の崩れっぷりね! 崩れてるのにかわいいんだなぁ。
といっても、私が三浦さんにメロメロになってしまったのは、CoCoが終わってずいぶんたってからの『ブラックワイドショー』でなんですけど……変態じゃねぇかァ!!
ribbonはアイドルグループとしてはあまりブレイクできなかったのですが、CoCoよりもさらに「昭和アイドルっぽさ」に回帰した明るい楽曲が中心となっていました。まぁ、それが「古くさい」と言われてもやむなしな感じはあるのですが。
しかし! やっぱり永作さんだよねぇ~、なんと言っても。他の2人はまぁ、「昭和のかわいい人だな。」といった印象なのですが、永作さんはさすが永作さんといった感じで、思わず何年前の映像だったのかを計算してしまいたくなるほどにribbon時代から変わってないの!
ribbonは思うように人気が伸びなかったという事情もあったため、はっきりした解散活動はなかったのですが、末期の1994年ごろからすでに女優としての活動を始めていた永作さんは、のちにみなさんご存じの通りの大輪の妖花を咲かせていくことになります。こわいね~! こわいけど、お近づきになりたいよね~!!
女優と言えば、ここいらも忘れちゃいけませんわねぇ。
東京パフォーマンスドール(1990~96年)7人組・2軍制だった
14~19歳 篠原涼子(17歳)ら
名前どおり、東京・原宿のライブハウス「ルイード」でのライブ活動を中心としたダンスグループ
1軍(フロントメンバー)、2軍(ライブメンバー)、研修チームという実力本位の変動制
CoCoと競合するが人気はいまひとつ(日本武道館コンサートは上演している)
代表作 『ダイヤモンドは傷つかない』(1993年11月)
グループでの活動に並行してメンバーのソロ活動も積極的におこなっていた
1994年に主要メンバーの篠原、市井由理らが卒業し、翌1995年10月のリーダー木原さとみの卒業をもってメンバー一新
1995年の秋ごろからは仲間由紀恵(17歳)も加入していたが、当時グループとしての活動はほぼなかった
1996年4月の楽曲リリースを最後に自然消滅
桜っ子クラブさくら組(1991年3月~94年8月)
テレビ朝日のジャニーズ系アイドル番組『桜っ子クラブ』(毎週土曜午後3時 SMAPやTOKIOがレギュラー出演!)のアシスタントグループ
井上晴美(17歳)・大山アンザ(現ANZA 15歳)加藤紀子(18歳)・菅野美穂(14歳)・中谷美紀(15歳)・持田真樹(17歳) ら総勢38名
入れ替わりがはげしかったが、基本的に15名前後のメンバー構成になっていてセンターは加藤紀子だった
番組『桜っ子クラブ』への出演以外では、各メンバーのソロ活動が中心だった(歌手、女優など)
5枚のシングルを発表しており、アニメ『クレヨンしんちゃん』やミュージカル『美少女戦士セーラームーン』のテーマ曲にもなる
『桜っ子クラブ』の放送終了により解散
メンバーが出演していたミュージカル版『美少女戦士セーラームーン』は、1998年までアンザ主演(セーラームーン月野うさぎ役)で継続
KEY WEST CLUB(1991~92年)桜っ子クラブさくら組から結成されたアイドルデュオ
中谷美紀ら
3枚のシングルを発表するがパッとせずにコンビ解消
代表曲 『夢はマジョリカ・セニョリータ』(1992年8月)
はい、東京パフォーマンスドール(略してパードル いや、ほんとですよ!)と桜っ子クラブさくら組ですね。
この2つのグループ、パードルはライブ活動メイン、さくら組はTV番組出演メインということで、性質はまったく異なっているのですが、ともに「ソロ活動を強く押し進めていた。」という部分は共通しています。
というか、はっきり言っちゃうとグループとしてのそれぞれは、ライブコンサートか持ち番組でしか活動しないという露出度の低さがモロに起因してかなり知名度の点で苦戦をしいられていたのです。
露出を限定するという戦略を採ったのはあのおニャン子クラブも同じだったはずなのに、なぜこれほどまでに正反対な結果になってしまったのか?
そりゃもうねぇ、CDがさほど売れなかったから!
CDが売れて「あいつらいったい何者なんだ?」という注目をファン以外の世間からも集めだしたのが「おニャン子ブーム」の第一歩だったわけなのですが、そこでつまずいちゃったのねぇ。
あとは、グループ活動に対してあまりにソロ活動が自由だったために、それぞれのファンがそれぞれの活動先でできてしまいグループのメンバーでいつづけるメリットがなくなった、ということもあったでしょう。
そりゃそうですよ、篠原さんは『ダウンタウンのごっつええ感じ』での過酷なカラミに耐えて実力と人気はあげるは、ソロ歌手として発表した『恋(いと)しさとせつなさと心強さと』(1994年7月)は220万枚セールスというアホみたいな超絶ヒットになるは。
市井さんはソロ活動の一環として組んだユニット「EAST END × YURI」で、日本ヒップホップ史上初のミリオンセラー『DA.YO.NE』(1994年8月)をたたき出すは。
井上さんはセクシーグラドルとして、菅野さんと中谷さんと持田さんは女優として、加藤さんはバラドルとして名を挙げていくは。
要するに、アイドルグループに骨を埋めるという時代じゃなくなってたんですな。まさに個性の時代がやってきたというかなんというか。菅野さんも中谷さんも「グループ活動」が似合いそうなイメージはまるでありませんからね。
余談ですが、さくら組内のユニット「キーウエストクラブ」の代表曲に私は3rdシングルの『夢はマジョリカ・セニョリータ』をあげてみました。
本体のさくら組にもれずキーウエストクラブもCDセールスはかなり厳しかったのですが、このやけくそともとれるタイトルの曲は、メロディだけは国民的な知名度のあるものとなっています。
歌いだしはこんな感じです。
「踊り明かしましょうルナ 12杯目のテキーラ」
「ごめんね素直じゃなくって 夢の中ならいえる」
「こよい独り者どうし 泣きましょういいじゃない」
「思考回路はショート寸前 今すぐ会いたいよ」
あれれ? なんか別の曲とリズムがカブってますね。じゃあサビのところは?
「ゆーめ~の~マージョーリカ~セーニョリータ~」
「つーき~の~ひーかーりに~てーらされーて~」
「あーな~たは~マタードール~」
「もーい~ちど~めぐーりーあう~」
そうなんですよ。この曲は、かの90年代アニメ界を代表するヒットシリーズ『美少女戦士セーラームーン』の1992~96年の主題歌に使用された『ムーンライト伝説』と同一の曲なんです。歌詞がちがうだけ。
最初、これは歌手で作曲家の川島だりあがキーウエストクラブに提供したものだったのですが、人気低迷のためにCD化される予定のたたないまま事務所にアニメ『美少女戦士セーラームーン』への楽曲提供の話が舞い込んできたため、歌詞をあらためて作り直したものをテーマ曲にして、その後はご存じの通りのアニメヒットとあいなったわけのです。ちなみに『マジョリカ』の歌詞は作曲の川島さんによるもので、『ムーンライト』は小田佳奈子さんという方によるものです。私個人としては、やっぱりわけのわかんない『マジョリカ』のほうが好きだなぁ。「12杯目のテキーラ」って! いくら恋にやぶれたっていってもそりゃ飲みすぎだよお客さん。
そして、その時に『ムーンライト伝説』を唄っていたのは、当然のようにキーウエストクラブではなくDALI(ダリ)という4人組アイドルグループでした。DALIはこの曲の発表だけで解散するのですが、その中にいたメンバー2人がすぐにMANISHというユニットを結成し、こちらはアニメ『スラムダンク』のエンディングテーマ『煌めく瞬間(とき)に捕われて』(1995年)をヒットさせたりもしています。
奇しくもその後にはミュージカル版『セーラームーン』に参加した桜っ子クラブのメンバーが唄ったりもした『ムーンライト伝説』だったのですが、見事に自分の手をすりぬけて国民的ヒットとなっていったこの曲を聴いて中谷美紀さんの胸に去来したものはなんだったでしょうか。
「なんか、私が唄ってた曲を、別の人が紅白歌合戦(1993年の)で唄ってる……坂本冬美とかが。」
たぶん、のちに女優となった中谷さんが浮かべるなんともいえない虚無感に満ちたまなざしって、このあたりから生まれてるんじゃないかな。
まぁそんなこんなもありまして、「アイドル冬の時代」のきびしさをモロに受けた正統派アイドルグループのみなさんだったのですが、みのりこそしなかったものの、パードルの創始した「ライブ活動中心のアイドルグループ」というスタイルは言うまでもなく現在のAKB48の原型となっているわけでして、しろうと感を排した洗練されたダンスパフォーマンスなどから言っても、おニャン子クラブよりもよっぽどパードルの方が現在のアイドルグループたちの直接のモデルになっているように見えますね。
時代が遅すぎたのか早すぎたのか……ほんとに、アイドルのはやりすたりは「あざなえる縄のごとし」なんですなぁ!
とはいえ、まだまだ続く「アイドル冬の時代」。この季節を打開する新時代のグループは果たして現れるのだろうか!?
へへへ、もう5月も終わりになっちまうよ……でも続けてやる! なんとか総選挙終了後のAKBまでたどりついてやる!! こうなったらもうエンドレスワルツだ。わけわかんねぇやチキショーイ!
まったじっかい~。
ついこないだ、東京にお芝居を2本観に行った日は暑いくらいだったのにねぇ。あの日は、中野から駒場まで歩いて東大の学生食堂で遅いランチをいただいたりしてたんですよ。2時間くらいぶらっと歩くには最適なお天気でしたね。
最近はあったかい日と寒い日がたがいちがいになったりして、体調を崩すのがこわい毎日になっているのですが、まぁ今のところはカゼもひかずにやってきております。
ただ、寝つきがいいのか悪いのか私、近頃はっきりした夢を見ることが多くなってきてまして。
これは夢……なのかどうかわかんないんですけど、何日か前に変な体験をしました。ささいなことなんですけど、なんかひっかかるのよ。
その日は、仕事終わりにご飯を食べた時、おマヌケにも自分で自分の舌をかんでしまいまして、舌の右側にキズをつくったまま寝ました。
で、夜中にちょっとだけ目が覚めて、口の中で舌を動かしてみて、「ああ、まだベロが痛いなぁ……」なんて思いながらまた眠りについたんですよ。
それから翌朝にふつうに起きて、舌の右側のキズが治りかけてるのを確認しながら歯をみがいたりしたわけなのですが、「あれっ?」と思い当たることがあったんですよ。
夜中に目が覚めた時に痛かったのは、確かに、舌の「左側」の部分だったのね。
キャ~!!
なんなんすかね……文字どおりの「寝ぼけ」だったのか、「舌の左側にキズをおった私が夜中に目をさます」という夢を見ただけだったのか。
それともアレか、「真夜中はミラーワールド」的なやつか。
へんなの。やっぱり体調を崩しかけてんのかしらねぇ。まさに梅雨空のようにモヤッとした出来事でありんした~。
さて、といった前代未聞なグレー感で始まる「ざっくりすぎるアイドルグループ史」の続きなのですが、今回はまさに曇天、ほぼ日本全国で冷たい雨が降っていたある日からお話を始めていきたいと思います。
時は新年早々の1989年1月7日午前6時33分。
まさしく激動の昭和時代を体現する存在だった当時の「今上天皇」、昭和天皇が長い闘病のすえに崩御しました。御歳87。
この時をもって、太平洋戦争の敗戦とそこからの劇的な復興というはげしすぎる変転を見届けてきた史上最長の年号「昭和」は幕を閉じることとなります。最後の「昭和64年」は正味1週間しかなかったのね。
で、翌8日の午後2時半ごろに発表された新年号「平成」によって、新しい時代がスタートすることとなったのです。
しかし、日本国民のほとんど全員が知っている「ある方」の死をもって年号が変わる、という制度である以上、時代の交替には必ず国家規模での「喪に服する」、「自粛」というハンパなく重苦しいムードが不可分のものとしてついてくるわけでして。
思い出すねぇ、私その時はまだまだ小学校低学年のガキンチョだったんですけど、その日1月7日、身のまわりはほんっとに朝からどんよりとした空気に包まれていましてね。家族の朝の風景はいつもとおんなじだし、別に誰かが泣いてるというわけでもなかったんですけど、とにかくみんなうつむきかげん、無口! 視界がほんとに灰色。
私もさすがに、小学校低学年ながら「あぁ、誰かナイナイしたな、こりゃあ。」と勘づいたほどでした。そして誰もその話題にふれないというアンバランス感ね。
美空ひばりさんとか手塚治虫とか黒澤明とか、まぁいろんな世界の「神」と呼ばれていた方々が当然の摂理として亡くなっていくわけなのですが、そういった方々と比べてみても、やっぱり日本国民に与える影響の度合いはけた違いでしたね。
また、生前に「史上最強の晴れ男」と評されていた陛下らしく、その日の前後は逆に記録的な長雨が続いていたようです。
昭和天皇の不調が目に見えて深刻な問題となってきたのは1987年の春ごろからで、そのあたりから断続的な公務中止と再開を繰り返した後、1988年の夏の式典への出御を最後として、9月から翌年の崩御まで病床につくこととなります。
歴代天皇の中でも最長寿となった陛下も今回ばかりは……という空気は敏感に日本国中に浸透していき、もちろんそればっかりが理由でもないわけなのでしょうが、1987~89年は日本のエンタテインメント界、特にTV業界で「自粛」の2文字を頭のどこかにおいたバカ騒ぎしてられないという姿勢が、誰が言うともなく広がっていったのです。
平成の幕開けは、「未成熟のアイドルよりも成長したアーティストが評価される」時代の到来とともにやってきました。
前回に紹介した実力本位の「バンドブーム」の隆盛にくわえて、「そんなにフワフワしてられない」という重みをもった空気が、あたたかい目で未熟さもひっくるめて応援してくれるファン層が存在していることが前提となっていた「アイドル歌手」にはちときびしい環境を形成していたのです。
まぁ、そうはいっても当時の日本はまだまだうなるような活力がありあまっていて、良くも悪くもギラギラしていたわけですから! 夜の「ジュリアナ東京」なんてのは、昼間のおかたい日常のいたって健康的な反動だったんでしょうね~。ふぉう!
グラビアアイドル、アダルトビデオ業界、バラドル。いろんな世界が日の出の勢いで力をつけていく中、本来の「アイドル」の意味そのものだったはずのアイドル歌手は苦戦をしいられることとなり、それはまたアイドルグループも同じことでした。
そのため、その当時第一線で活躍していたアイドルグループ(デュオ)は、さすがに「キャハ! エヘ!」ばっかり言っている小娘スタイルで押すわけにもいかず、ある程度は唄う楽曲やダンスのクオリティで人々をひきつける硬派アーティストスタイルをとる方々が中心となっていました。
Wink(1988~96年)デュオ
相田翔子(18歳)と鈴木早智子(19歳)
笑顔をあえて少なくしたクールなスタイルとシンプルなシンメトリー振りつけ
あくまで「歌手」を活動の中心においた姿勢(洋楽アーティストの楽曲提供も多い)
代表曲 『淋しい熱帯魚』(1989年7月)
相田さんはタレントとして活躍・鈴木さんは最近なにかと話題が多い
なんといっても平成初期を代表するアイドルデュオといえばウインクなのですが、とにかくクールな楽曲とダンス、その無表情っぷりが当時からよくパロディにされていましたね。人形みたいな静物みたいな存在感がバラエティ全盛の芸能界で逆に目立った秘訣だったのかも知れませんが、それだけに笑顔が武器の「王道アイドル」のようには受けとられていなかったようです。特にはっきりした解散宣言や解散コンサートがなかったところも、「アイドルっぽくなさ」を強調していますよね。
だとしたらば、その時「正統派アイドルグループ」を標榜していたのはどなたかと言うと、「CoCo」や「ribbon」といった「乙女塾」出身のグループがまずあげられます。
乙女塾(1989~91年にあったフジテレビのタレント養成コース)
「歌手コース」、「俳優コース」、「モデルコース」の3コース制
CoCo、ribbon、中嶋ミチヨらを輩出
乙女塾全体としての楽曲は発表していない
『パラダイスGoGo!!』(『夕焼けニャンニャン』と同じ時間帯 1989年4月~90年3月)
乙女塾の出演していたバラエティ番組
B-21スペシャルや田代まさしが出演
CoCoとribbonの活動をサポートする役割
人気がでず関東ローカル番組に縮小して終了
CoCo(1989~94年)5~4人組
いわゆる「アイドル冬の時代」中、最もヒットした正統派アイドルグループ
ではあるものの、楽曲はクールなアーティスト志向のものが多かった
代表作 『夏の友達』(1990年4月)
1992年5月のメンバー瀬能あずさの卒業により4人組に
ribbon(1989~94年)3人組
16~19歳 おもに永作博美(19歳)がセンターヴォーカル
永作さんの存在感・ポテンシャルがケタ違い
それぞれのソロ活動が忙しくなり、メンバー松野有里巳(ありみ)の所属事務所退社により消滅
代表作 『そばにいるね』(1990年4月)
ここですねぇ~。CoCoですねぇ~。
要するに、かつてのおニャン子クラブと同じ手法でふたたびブームを巻き起こそうというフジテレビの算段だったようなのですが。
のちに乙女塾のメンバーとなる人々が『パラGO!』の放送開始前に『オールナイトフジ 女子高生スペシャル』にゲスト出演していたという入り方もまさにおニャン子クラブと同じであるわけなのですが、ちょーっと、乙女塾は本質的におニャン子クラブとはまったく別の集まりだったんですね。
まず、だいたい2~30名ほどのメンバーが常に在籍していた乙女塾は、完全に「プロになることを目指すタレントの卵」だけが集まった集団でした。つまり、「タレントとかどうでもいいで~す。」という姿勢の軽さこそが魅力の源泉だった「しろうと感」重視のおニャン子クラブとは真逆の真剣さをおびていたんですね。
そして、「歌手になりたい」「女優になりたい」「モデルになりたい」という各方面の志望者が集まっていた乙女塾が、ひとつのアイドルグループとしての活動をしなかったのも当たり前のことだったのですが、そのためにおニャン子クラブのような明確な母体にならなかった乙女塾は、必然的におニャン子クラブほどのネームバリューを持つ看板にはなりませんでした。
それがそのままCoCoとribbonの苦戦に反映してしまった、と言い切ってしまうのは酷なのですが、この2つのグループがオリコンチャートの首位をとることはついにかなわず。
ただ、CoCoのアイドルグループとしての存在は堂々たるもので、首位こそ逃したものの活動中は基本的にヒットチャートをにぎわせる存在になっていたし、伝統ある日本武道館でのコンサートを上演できる人気もほこっていました。
私はもうほんとに三浦理恵子さんの笑顔が好きでしてねぇ~。こっちもつられて笑ってしまうようなあのお顔の崩れっぷりね! 崩れてるのにかわいいんだなぁ。
といっても、私が三浦さんにメロメロになってしまったのは、CoCoが終わってずいぶんたってからの『ブラックワイドショー』でなんですけど……変態じゃねぇかァ!!
ribbonはアイドルグループとしてはあまりブレイクできなかったのですが、CoCoよりもさらに「昭和アイドルっぽさ」に回帰した明るい楽曲が中心となっていました。まぁ、それが「古くさい」と言われてもやむなしな感じはあるのですが。
しかし! やっぱり永作さんだよねぇ~、なんと言っても。他の2人はまぁ、「昭和のかわいい人だな。」といった印象なのですが、永作さんはさすが永作さんといった感じで、思わず何年前の映像だったのかを計算してしまいたくなるほどにribbon時代から変わってないの!
ribbonは思うように人気が伸びなかったという事情もあったため、はっきりした解散活動はなかったのですが、末期の1994年ごろからすでに女優としての活動を始めていた永作さんは、のちにみなさんご存じの通りの大輪の妖花を咲かせていくことになります。こわいね~! こわいけど、お近づきになりたいよね~!!
女優と言えば、ここいらも忘れちゃいけませんわねぇ。
東京パフォーマンスドール(1990~96年)7人組・2軍制だった
14~19歳 篠原涼子(17歳)ら
名前どおり、東京・原宿のライブハウス「ルイード」でのライブ活動を中心としたダンスグループ
1軍(フロントメンバー)、2軍(ライブメンバー)、研修チームという実力本位の変動制
CoCoと競合するが人気はいまひとつ(日本武道館コンサートは上演している)
代表作 『ダイヤモンドは傷つかない』(1993年11月)
グループでの活動に並行してメンバーのソロ活動も積極的におこなっていた
1994年に主要メンバーの篠原、市井由理らが卒業し、翌1995年10月のリーダー木原さとみの卒業をもってメンバー一新
1995年の秋ごろからは仲間由紀恵(17歳)も加入していたが、当時グループとしての活動はほぼなかった
1996年4月の楽曲リリースを最後に自然消滅
桜っ子クラブさくら組(1991年3月~94年8月)
テレビ朝日のジャニーズ系アイドル番組『桜っ子クラブ』(毎週土曜午後3時 SMAPやTOKIOがレギュラー出演!)のアシスタントグループ
井上晴美(17歳)・大山アンザ(現ANZA 15歳)加藤紀子(18歳)・菅野美穂(14歳)・中谷美紀(15歳)・持田真樹(17歳) ら総勢38名
入れ替わりがはげしかったが、基本的に15名前後のメンバー構成になっていてセンターは加藤紀子だった
番組『桜っ子クラブ』への出演以外では、各メンバーのソロ活動が中心だった(歌手、女優など)
5枚のシングルを発表しており、アニメ『クレヨンしんちゃん』やミュージカル『美少女戦士セーラームーン』のテーマ曲にもなる
『桜っ子クラブ』の放送終了により解散
メンバーが出演していたミュージカル版『美少女戦士セーラームーン』は、1998年までアンザ主演(セーラームーン月野うさぎ役)で継続
KEY WEST CLUB(1991~92年)桜っ子クラブさくら組から結成されたアイドルデュオ
中谷美紀ら
3枚のシングルを発表するがパッとせずにコンビ解消
代表曲 『夢はマジョリカ・セニョリータ』(1992年8月)
はい、東京パフォーマンスドール(略してパードル いや、ほんとですよ!)と桜っ子クラブさくら組ですね。
この2つのグループ、パードルはライブ活動メイン、さくら組はTV番組出演メインということで、性質はまったく異なっているのですが、ともに「ソロ活動を強く押し進めていた。」という部分は共通しています。
というか、はっきり言っちゃうとグループとしてのそれぞれは、ライブコンサートか持ち番組でしか活動しないという露出度の低さがモロに起因してかなり知名度の点で苦戦をしいられていたのです。
露出を限定するという戦略を採ったのはあのおニャン子クラブも同じだったはずなのに、なぜこれほどまでに正反対な結果になってしまったのか?
そりゃもうねぇ、CDがさほど売れなかったから!
CDが売れて「あいつらいったい何者なんだ?」という注目をファン以外の世間からも集めだしたのが「おニャン子ブーム」の第一歩だったわけなのですが、そこでつまずいちゃったのねぇ。
あとは、グループ活動に対してあまりにソロ活動が自由だったために、それぞれのファンがそれぞれの活動先でできてしまいグループのメンバーでいつづけるメリットがなくなった、ということもあったでしょう。
そりゃそうですよ、篠原さんは『ダウンタウンのごっつええ感じ』での過酷なカラミに耐えて実力と人気はあげるは、ソロ歌手として発表した『恋(いと)しさとせつなさと心強さと』(1994年7月)は220万枚セールスというアホみたいな超絶ヒットになるは。
市井さんはソロ活動の一環として組んだユニット「EAST END × YURI」で、日本ヒップホップ史上初のミリオンセラー『DA.YO.NE』(1994年8月)をたたき出すは。
井上さんはセクシーグラドルとして、菅野さんと中谷さんと持田さんは女優として、加藤さんはバラドルとして名を挙げていくは。
要するに、アイドルグループに骨を埋めるという時代じゃなくなってたんですな。まさに個性の時代がやってきたというかなんというか。菅野さんも中谷さんも「グループ活動」が似合いそうなイメージはまるでありませんからね。
余談ですが、さくら組内のユニット「キーウエストクラブ」の代表曲に私は3rdシングルの『夢はマジョリカ・セニョリータ』をあげてみました。
本体のさくら組にもれずキーウエストクラブもCDセールスはかなり厳しかったのですが、このやけくそともとれるタイトルの曲は、メロディだけは国民的な知名度のあるものとなっています。
歌いだしはこんな感じです。
「踊り明かしましょうルナ 12杯目のテキーラ」
「ごめんね素直じゃなくって 夢の中ならいえる」
「こよい独り者どうし 泣きましょういいじゃない」
「思考回路はショート寸前 今すぐ会いたいよ」
あれれ? なんか別の曲とリズムがカブってますね。じゃあサビのところは?
「ゆーめ~の~マージョーリカ~セーニョリータ~」
「つーき~の~ひーかーりに~てーらされーて~」
「あーな~たは~マタードール~」
「もーい~ちど~めぐーりーあう~」
そうなんですよ。この曲は、かの90年代アニメ界を代表するヒットシリーズ『美少女戦士セーラームーン』の1992~96年の主題歌に使用された『ムーンライト伝説』と同一の曲なんです。歌詞がちがうだけ。
最初、これは歌手で作曲家の川島だりあがキーウエストクラブに提供したものだったのですが、人気低迷のためにCD化される予定のたたないまま事務所にアニメ『美少女戦士セーラームーン』への楽曲提供の話が舞い込んできたため、歌詞をあらためて作り直したものをテーマ曲にして、その後はご存じの通りのアニメヒットとあいなったわけのです。ちなみに『マジョリカ』の歌詞は作曲の川島さんによるもので、『ムーンライト』は小田佳奈子さんという方によるものです。私個人としては、やっぱりわけのわかんない『マジョリカ』のほうが好きだなぁ。「12杯目のテキーラ」って! いくら恋にやぶれたっていってもそりゃ飲みすぎだよお客さん。
そして、その時に『ムーンライト伝説』を唄っていたのは、当然のようにキーウエストクラブではなくDALI(ダリ)という4人組アイドルグループでした。DALIはこの曲の発表だけで解散するのですが、その中にいたメンバー2人がすぐにMANISHというユニットを結成し、こちらはアニメ『スラムダンク』のエンディングテーマ『煌めく瞬間(とき)に捕われて』(1995年)をヒットさせたりもしています。
奇しくもその後にはミュージカル版『セーラームーン』に参加した桜っ子クラブのメンバーが唄ったりもした『ムーンライト伝説』だったのですが、見事に自分の手をすりぬけて国民的ヒットとなっていったこの曲を聴いて中谷美紀さんの胸に去来したものはなんだったでしょうか。
「なんか、私が唄ってた曲を、別の人が紅白歌合戦(1993年の)で唄ってる……坂本冬美とかが。」
たぶん、のちに女優となった中谷さんが浮かべるなんともいえない虚無感に満ちたまなざしって、このあたりから生まれてるんじゃないかな。
まぁそんなこんなもありまして、「アイドル冬の時代」のきびしさをモロに受けた正統派アイドルグループのみなさんだったのですが、みのりこそしなかったものの、パードルの創始した「ライブ活動中心のアイドルグループ」というスタイルは言うまでもなく現在のAKB48の原型となっているわけでして、しろうと感を排した洗練されたダンスパフォーマンスなどから言っても、おニャン子クラブよりもよっぽどパードルの方が現在のアイドルグループたちの直接のモデルになっているように見えますね。
時代が遅すぎたのか早すぎたのか……ほんとに、アイドルのはやりすたりは「あざなえる縄のごとし」なんですなぁ!
とはいえ、まだまだ続く「アイドル冬の時代」。この季節を打開する新時代のグループは果たして現れるのだろうか!?
へへへ、もう5月も終わりになっちまうよ……でも続けてやる! なんとか総選挙終了後のAKBまでたどりついてやる!! こうなったらもうエンドレスワルツだ。わけわかんねぇやチキショーイ!
まったじっかい~。
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