どうもこんにちは~い。そうだいでございます。
やっと天気が上向いてきましたねぇ。心なしかあったかくなってきたような……いや、やっぱ夜は寒いわ!
前回はついついトチ狂ってあんなことを口走ってしまったわけなんですが。
あの……はっきり言っちゃいますと、あんまりた削除削除削除削除たですね……
まぁ、美人にもれなく狂信的な反応を示すこの『長岡京エイリアン』内では、ちょっとはっきり申し上げるわけにはいかない感想、ということで。
でもさぁ、「美人」が大前提になってることのハードルの高さというのは恐ろしいものですなぁ!!
むしろ、良かれ悪しかれ少なくない反応があったことにかなりほっとしました。
おたかさんにおかれましては、ご自分のお望みになられる通りにマイペースに生きて、私や世間をぞんぶんに翻弄していっていただきたいと。
それが「異貌のひと」の特権なのですからねぇ。30代もよろしくお願いしたてまつりまする~。トオカミエミタメ。
さてさて、前々回に完全な自分勝手企画でズラズラーとならべてしまいました、わたくしが中高時代に熱聴していた「第1次ラジオブーム」をいろどる伝説のコンテンツの数々!!
なつかしいんですよぉ~、なにもかもが。単純に「温度」という視点からみるのならば、間違いなくあの頃の方が熱心にラジオを聴いていたということだけは確かでした。なんてったって、リアルタイムで聴きながらカセットテープで録音なんかもしてたりしてたんですから。
それで勉強しながらそのカセットを流して笑ってたりしてたわけなんですが……まぁ~勉強にゃなりませんわな!
今回のお話の中身は正真正銘、私のクソどうでもいい回想の連続ばっかになっちゃうんですが、おひまな方はぜひともおつきあいください。
「そうそう、自分もそんなだった!」って感じてくださる方はどのくらいいますかね。けっこうベッタベタな青春野郎の人生小径ですよ。
前回にふれたように、私が最初にラジオに夢中になっていた時期は、きっかり「中学2年生から高校3年生」。これはハッキリしております。
まず、ブームのきっかけは明らかに「勉強しながら楽しめるから」。自分の部屋に TVはなかったし、あってもつけながら勉強できるほど器用な人間じゃなかったからねぇ。
その点、ラジオは適当に聞き流しながら勉強できる軽さがあったし、少々気が散るような環境の中で問題に集中したほうが実戦的だとかなんとかいう自分なりのまことしやかな言い訳もあったのです。
まぁそれは、だいたい当時の私が部屋に入って勉強を始めた浅い夜(8~10時ごろ)には、確かにいい感じに役に立っていました。
その時間帯にやっていたのは、AM の山形ローカル局である「山形放送ラジオ」ではその局単独制作の番組であり、局のアナウンサーがいい感じに興味のない企画をスラスラ~ッと流しているというふぜいだったため、ほどよく勉強に専念することができていたわけです。
ここがローカル番組のうまいところで、「たいしておもしろくもないけど、聴きたくないほどひどくもない」という、まさしく「勉強している子どもか仕事をしている大人」のために制作された絶妙なコンテンツであるという寸法なんですな。
その点、TV は24時間視聴率を意識した番組を提供しているのですから、その努力の結果はおのづから「観ている人の手を止めるほどのおもしろさ」という方向に行ってしまうというわけで、これじゃあ困るという人もいるわけなんですね。なりほどなりほど。
ただねぇ、だいたい夜10時をこえた当たりから、がぜんラジオ番組がおもしろくなってきちゃうんだなぁ。
これはもちろん、そのあたりから AMでいうところのニッポン放送・文化放送・TBS といった有名キー局の人気番組がよりすぐりで詰めこまれた地方局ならではの、
「人気番組ぐっちゃぐちゃアワー」
がえんえん深夜3時まで続いてしまうからなんでございます!
はっきりは覚えてないんですけど、確か平日は、
10時~深夜0時 …… ミュージシャンやアイドルの月~金の10分間帯番組と週1の30分間番組の組み合わせ
0~1時 …… 文化放送の『カモンファンキーリップス』枠
1~3時 …… ニッポン放送の『オールナイトニッポン1部』枠
という流れでしたねぇ。今も山形はそんな感じなんでしょうか。
っていうか、山形は AMも FMも1局ずつのまんまなんですかね? それはそれでシンプルでいいですけど。
ともあれ、こういった感じに3つ以上のキー局の看板番組が1局に集中しちゃってるんですぜ? こんなの聴きながらまともに勉強なんてムリ!!
だもんで、当時のスチューデントな私は、おもだった宿題は夜10時までにだいたい終わらせて、あとは机に向かっているていでラジオを聴いてイヒヒと笑っているというアホンダラな夜を過ごしていたのです。
ただ、中学生や高校生という身分は、そりゃもう当然のように日中、肉体も脳もフル回転させているわけでして……通学、勉強、部活、妄想ねぇ。私の場合は恋愛は……なかった。
そうなると、月~金でオールナイトニッポンを3時まできっかり聴き通すことはそうとうな荒行になってしまいます。
ましてや、当時ガキンチョだった私は金曜日の『ユーミンのオールナイトニッポン』の良さを理解できるはずもなく。そこと、ただただ「モテモテ男の代表」として蛇蝎の如く嫌っていた(当時)月曜日の『福山雅治のオールナイトニッポン』は聴いていませんでしたねぇ。
そうやって節約していたつもりだったのに、松村邦洋やナインティナインのオールナイトを喜々として聴いていたつもりが、ついつい居眠りしてしまい、気がついたらわけのわからない演歌が流れていて涙をのんだという経験もしょっちゅうでした。
今現在、オッサンになった私は徹夜することもザラになっているし、好きなラジオ番組を聴いている最中に眠っちゃうなんてこともなくなっているんですが、これは別に私が夜に強くなったとかいうことなんじゃなくて、単純に日中それほど身体を酷使することがなくなったからなんじゃないでしょうかねぇ。
だってさ、中高生時代は「チャリ45分かけて通学~半日授業~3時間部活~チャリ45分かけて帰宅~3時間勉強」を週6でやり続けてたのよ!?
「週6」! そう、私の場合は、確か高校2年生くらいの頃から「週休2日制」が導入されたんでしたっけ。土曜日も授業やってたね~、昼ごろに学校は終わるんですけど、そのぶん部活がなげぇんだ!
まぁそういった過酷な環境の中でもどうにかこうにかラジオ生活は続けていたのですが、この蜜月関係は私が高校を卒業すると同時に見事に「ピタッ。」と終わりを告げてしまいました。
なんでかって……そりゃああなた、大学に合格して山形を離れちゃったからよ。
いや、もっと正確にいうのならば、「大学が千葉県にあったから」ですね。
はっきり言わせていただきますと、「フジテレビ」や「日本テレビ」といった超有名な TVキー局が直接「生(き)のまま」で視聴できるという新しい環境は、山形からやって来たばかりの私にとってはまさにドラッグ!! ラジオの魅力をきれいさっぱり忘れてしまうに足る衝撃を、1998年春の私は全身で受けとめてしまったのです。
「なんだずこれ!! 真夜中、アニメばっかしかやってねどれ! なに、この『lain (レイン)』って……やまがだずんにはわげわがんねず。」
「あっ、どごのレンタル屋にも置いでねがった映画『太陽を盗んだ男』をテレビでやるんだど!? どだな大盤振る舞いだず!」
「えっ、『タモリ倶楽部』って金曜の夜遅くにやってるもんだっけの? 日曜の昼3時んねっけんだ!!」
とまぁ、こういった驚きの毎日だったということで。はっきり言って、私の大学時代は完全に TV文化にいろどられたものとなっておりました。
ただ、今こうやって山形時代・学生時代のラジオに夢中になっていた私の姿をつらつら思い浮かべてみると、ラジオの「想像したものを楽しむメディア」という特性が、「世の中のまだ知らないなにかを夢想してニヤニヤする」あの頃の私に実にフィットしたものであったらしい気もするんですね。
私が夢中になっていたラジオ番組に限ってみても、もともと好きなタレントのやっている番組をチェックするということはあんまりなく、たまたまやっていた番組のパーソナリティがどんな人なのかを知るために毎回聴いてみる、というハマり方がほとんどだったような気がするんだな。
例えば、キンキキッズは「俳優」としての活動は言うまでもなく『人間・失格』や『金田一少年の事件簿』などで当時から有名だったのですが、CDデビューは1997年からだったので、私はその直前までの「え、近畿……兄弟?」という空気も世間に色濃く残るお2人の元気なトークを聴いて楽しんでいたし、『YUKI のオールナイトニッポン』も、YUKI さんという人がどんなバンドのどんな顔をした人なのかもわからないまま聴いて、その過激すぎるコーナーやコントの毒気におかされてしまったといった感じです。
YUKI さんのオールナイトはほんとに大好きでした!! 狂気のヒーローものコント『イソヤンQ』シリーズは素晴らしかった……調べてみてびっくりしたんですけど、オールナイト1部はたった1年間しかやってなかったんですね! 体感はもっと長かったような気がしたんですが。
そういえば、「おっはー!」なんてまだやってなかった頃の山寺宏一さんの『GAP SYSTEM 』も最高だったんですよ。『スネークマンショー』レベルのハイレベルなコントのてんこもりでねぇ。
今でも忘れないんですけど、いつものように『GAP SYSTEM 』を聴いていたら、その回は特別企画で番組のスタッフが実際に殺害されるという「てい」の推理ドラマということになっていまして、探偵役となった山寺さんが多くの証言や情報を集めたところで、
「はっ、これは……わかったぞ、犯人はあいつだ!!」
といった流れとなり、「これこれの期日まで、真犯人の名前とその人だと推理した理由をハガキに書いて送ってきてください。驚愕の解答編と正解者の発表は次回!!」という応募キャンペーン形式になっていたのですが、その回のエンディングで山寺さんの口から、
「え~、山形放送ラジオをお聴きのみなさんとは今週でお別れです。今まで本当にありがとうございました。」
という文言が流れたときには心底「オトナの事情」というものの汚さを呪ってしまっておりました。なんでこのタイミング!? ひどすぎる!! おれ、犯人わかってたんだぜ!?
こんな感じでいろいろあったわけなんですが、「中高生の私にとってのラジオ」というものをもっともわかりやすく体現していた番組は、いろいろあった中でもやっぱりこれでした。
『内田有紀 夜空にYOU KISS!』
いいですねぇ。「ゆーきっす」ですよ。シャレですね~。この、「アイドルのラジオ番組のタイトルに名前のシャレをつける」っていう伝統は今も残っているんでしょうか。この伝統はぜひとも21世紀にも受け継がれていっていただきたい。
私が第一にこの番組をおす理由はもう明らかです。それは、
「動いている内田有紀をまったく見たことのない状態で聴いて楽しんでいたから。」
なんですねぇ~。本当なんですよ!
この、別に意識的にテレビを排除していたわけでもないごく普通な家庭で育ったそうだい少年が、なじょして1993~97年という時期に「アイドルとして押しも押されもせぬ黄金時代」を築いていたはずの内田有紀の活躍を TVでいっさい観ていなかったのかといいますと、そりゃもうあーた、「1993~97年の山形県のローカル TV局事情」というものが、私の青春ドンピシャでおかしな異常事態におちいっていたからだったのでございます。
これは、簡単に言いますと、
1993年の4月から97年の3月まで、山形県民は「フジテレビ系列の番組」がほとんど観られなくなっていた。
ということなんですね。
1993年の4月、それまで「フジテレビ系列」のネット局だった「YTS 山形テレビ」が、突如としてオトナの事情で「テレビ朝日系列」に鞍替えするという珍しい事態となり、以後、山形県民の強い要望に応えるかたちで1997年4月にフジテレビ系列の新しいネット局「SAY さくらんぼテレビ」が開局されるまで、山形県下では「正規のルートでは『笑っていいとも!』も『ダウンタウンのごっつええ感じ』も視聴できない」という古今未曽有の「バラエティ暗黒時代」がはびこっていたのです。『ニュースステーション』と『アタック25』でガマンでぎるわげねぇべよ!!
で、ご存じの通り、黄金時代の内田さんは、TV の仕事はそのほとんどをフジテレビでこなしていたというわけで、そりゃもう映画や CDといった世界でも顔は知られていたというものの、山形県人にかぎって、
「なんだ、このおどごみでぇなの? うつだゆぎ……しゃね(知らない)なぁ。」
という忌むべき空気が。
そんな中でしたが、リスナーのネタハガキに「ぎゃはは!」と笑い、スタッフの用意した企画に「うひょえー!」と活きのいいリアクションを返すあけっぴろげで豪快な内田有紀さんの魅力が爆発した『YOU KISS!』は、私個人の中での内田さん株を、実際以上にズビズバ高騰させるすばらしい魔力を持った番組になっていたのでした。
「ボーイッシュ」と言うよりは「チャキチャキの江戸っ子」、「アイドル」と言うよりは「かなわない親友」……
内田さんとリスナーとの距離は近かった近かった。内田さん、自分のするおならの話題とかやってましたよね。とてつもないお方だ。
この番組での、リスナーからの内田さんの呼び名は「うちゆき姫」ということになっていたのですが、それはもう完全に「プリンセス」ではなく「おてんば姫」といった感じの呼び方でして、「女の子らしくない子をわざと姫と呼ぶ」という部分も、ずいぶんと長く顔をつきあわせてきた幼なじみをそう呼ぶような不思議な効力を持っていたのです。
ただ、哀しいことに、こういった私の一方的な「妄想うちゆき姫」も、1997年の春から簡単に内田さんの動く姿が観られるようになったことと、それ以上にもっと大きな変化として、内田さんご本人が「クールな実力派女優」を志向するようになったという転換によって、ガラスの如くもろくも崩れ去ることとなりました。
おしとやかで演技のうまい女優もいいですけど、内田さんにはいつまでも、ニカッと笑ったときに見せる白い歯がかわいい、世界にただ1人しかいない「うちゆき姫」でいてほしかった。
「そっちの方向でいって榊原郁恵さんみたいなチャーミングなおばちゃんになってもよかったんじゃないでしょうか!? ジュン、まさかてめぇのせいなんじゃねぇだろうな!! なにが『三丁目の夕日』だくそバカヤロー!!」
……と、私は海に向かって叫びたい。
かつて、江戸時代の過酷な禁教令にも屈せずにキリスト教を信仰していた「隠れキリシタン」。
250年後。明治の世に外国の宣教師がその里を訪れたとき、彼らの信仰していた宗教は、長い年月を経たがゆえにキリスト教とは似ても似つかない異形のものに変わりきっていたという。
私が愛していた「うちゆき姫」も、そういったものだったのでしょうか。
しかし、信仰しているかぎり、神は神。
もしかしたら現実の世界には存在していないのだとしても、いつまでも心の中に光り輝きつづける存在こそが、本当のアイドルなのです。
……まぁ、私の場合は「多神教」なんで、うちゆき姫以外にも神様はゴロッゴロましますわけなんですが。
浮気じゃねぇよ!! イッツ・ア・やまとごころ。いえ~。
やっと天気が上向いてきましたねぇ。心なしかあったかくなってきたような……いや、やっぱ夜は寒いわ!
前回はついついトチ狂ってあんなことを口走ってしまったわけなんですが。
あの……はっきり言っちゃいますと、あんまりた削除削除削除削除たですね……
まぁ、美人にもれなく狂信的な反応を示すこの『長岡京エイリアン』内では、ちょっとはっきり申し上げるわけにはいかない感想、ということで。
でもさぁ、「美人」が大前提になってることのハードルの高さというのは恐ろしいものですなぁ!!
むしろ、良かれ悪しかれ少なくない反応があったことにかなりほっとしました。
おたかさんにおかれましては、ご自分のお望みになられる通りにマイペースに生きて、私や世間をぞんぶんに翻弄していっていただきたいと。
それが「異貌のひと」の特権なのですからねぇ。30代もよろしくお願いしたてまつりまする~。トオカミエミタメ。
さてさて、前々回に完全な自分勝手企画でズラズラーとならべてしまいました、わたくしが中高時代に熱聴していた「第1次ラジオブーム」をいろどる伝説のコンテンツの数々!!
なつかしいんですよぉ~、なにもかもが。単純に「温度」という視点からみるのならば、間違いなくあの頃の方が熱心にラジオを聴いていたということだけは確かでした。なんてったって、リアルタイムで聴きながらカセットテープで録音なんかもしてたりしてたんですから。
それで勉強しながらそのカセットを流して笑ってたりしてたわけなんですが……まぁ~勉強にゃなりませんわな!
今回のお話の中身は正真正銘、私のクソどうでもいい回想の連続ばっかになっちゃうんですが、おひまな方はぜひともおつきあいください。
「そうそう、自分もそんなだった!」って感じてくださる方はどのくらいいますかね。けっこうベッタベタな青春野郎の人生小径ですよ。
前回にふれたように、私が最初にラジオに夢中になっていた時期は、きっかり「中学2年生から高校3年生」。これはハッキリしております。
まず、ブームのきっかけは明らかに「勉強しながら楽しめるから」。自分の部屋に TVはなかったし、あってもつけながら勉強できるほど器用な人間じゃなかったからねぇ。
その点、ラジオは適当に聞き流しながら勉強できる軽さがあったし、少々気が散るような環境の中で問題に集中したほうが実戦的だとかなんとかいう自分なりのまことしやかな言い訳もあったのです。
まぁそれは、だいたい当時の私が部屋に入って勉強を始めた浅い夜(8~10時ごろ)には、確かにいい感じに役に立っていました。
その時間帯にやっていたのは、AM の山形ローカル局である「山形放送ラジオ」ではその局単独制作の番組であり、局のアナウンサーがいい感じに興味のない企画をスラスラ~ッと流しているというふぜいだったため、ほどよく勉強に専念することができていたわけです。
ここがローカル番組のうまいところで、「たいしておもしろくもないけど、聴きたくないほどひどくもない」という、まさしく「勉強している子どもか仕事をしている大人」のために制作された絶妙なコンテンツであるという寸法なんですな。
その点、TV は24時間視聴率を意識した番組を提供しているのですから、その努力の結果はおのづから「観ている人の手を止めるほどのおもしろさ」という方向に行ってしまうというわけで、これじゃあ困るという人もいるわけなんですね。なりほどなりほど。
ただねぇ、だいたい夜10時をこえた当たりから、がぜんラジオ番組がおもしろくなってきちゃうんだなぁ。
これはもちろん、そのあたりから AMでいうところのニッポン放送・文化放送・TBS といった有名キー局の人気番組がよりすぐりで詰めこまれた地方局ならではの、
「人気番組ぐっちゃぐちゃアワー」
がえんえん深夜3時まで続いてしまうからなんでございます!
はっきりは覚えてないんですけど、確か平日は、
10時~深夜0時 …… ミュージシャンやアイドルの月~金の10分間帯番組と週1の30分間番組の組み合わせ
0~1時 …… 文化放送の『カモンファンキーリップス』枠
1~3時 …… ニッポン放送の『オールナイトニッポン1部』枠
という流れでしたねぇ。今も山形はそんな感じなんでしょうか。
っていうか、山形は AMも FMも1局ずつのまんまなんですかね? それはそれでシンプルでいいですけど。
ともあれ、こういった感じに3つ以上のキー局の看板番組が1局に集中しちゃってるんですぜ? こんなの聴きながらまともに勉強なんてムリ!!
だもんで、当時のスチューデントな私は、おもだった宿題は夜10時までにだいたい終わらせて、あとは机に向かっているていでラジオを聴いてイヒヒと笑っているというアホンダラな夜を過ごしていたのです。
ただ、中学生や高校生という身分は、そりゃもう当然のように日中、肉体も脳もフル回転させているわけでして……通学、勉強、部活、妄想ねぇ。私の場合は恋愛は……なかった。
そうなると、月~金でオールナイトニッポンを3時まできっかり聴き通すことはそうとうな荒行になってしまいます。
ましてや、当時ガキンチョだった私は金曜日の『ユーミンのオールナイトニッポン』の良さを理解できるはずもなく。そこと、ただただ「モテモテ男の代表」として蛇蝎の如く嫌っていた(当時)月曜日の『福山雅治のオールナイトニッポン』は聴いていませんでしたねぇ。
そうやって節約していたつもりだったのに、松村邦洋やナインティナインのオールナイトを喜々として聴いていたつもりが、ついつい居眠りしてしまい、気がついたらわけのわからない演歌が流れていて涙をのんだという経験もしょっちゅうでした。
今現在、オッサンになった私は徹夜することもザラになっているし、好きなラジオ番組を聴いている最中に眠っちゃうなんてこともなくなっているんですが、これは別に私が夜に強くなったとかいうことなんじゃなくて、単純に日中それほど身体を酷使することがなくなったからなんじゃないでしょうかねぇ。
だってさ、中高生時代は「チャリ45分かけて通学~半日授業~3時間部活~チャリ45分かけて帰宅~3時間勉強」を週6でやり続けてたのよ!?
「週6」! そう、私の場合は、確か高校2年生くらいの頃から「週休2日制」が導入されたんでしたっけ。土曜日も授業やってたね~、昼ごろに学校は終わるんですけど、そのぶん部活がなげぇんだ!
まぁそういった過酷な環境の中でもどうにかこうにかラジオ生活は続けていたのですが、この蜜月関係は私が高校を卒業すると同時に見事に「ピタッ。」と終わりを告げてしまいました。
なんでかって……そりゃああなた、大学に合格して山形を離れちゃったからよ。
いや、もっと正確にいうのならば、「大学が千葉県にあったから」ですね。
はっきり言わせていただきますと、「フジテレビ」や「日本テレビ」といった超有名な TVキー局が直接「生(き)のまま」で視聴できるという新しい環境は、山形からやって来たばかりの私にとってはまさにドラッグ!! ラジオの魅力をきれいさっぱり忘れてしまうに足る衝撃を、1998年春の私は全身で受けとめてしまったのです。
「なんだずこれ!! 真夜中、アニメばっかしかやってねどれ! なに、この『lain (レイン)』って……やまがだずんにはわげわがんねず。」
「あっ、どごのレンタル屋にも置いでねがった映画『太陽を盗んだ男』をテレビでやるんだど!? どだな大盤振る舞いだず!」
「えっ、『タモリ倶楽部』って金曜の夜遅くにやってるもんだっけの? 日曜の昼3時んねっけんだ!!」
とまぁ、こういった驚きの毎日だったということで。はっきり言って、私の大学時代は完全に TV文化にいろどられたものとなっておりました。
ただ、今こうやって山形時代・学生時代のラジオに夢中になっていた私の姿をつらつら思い浮かべてみると、ラジオの「想像したものを楽しむメディア」という特性が、「世の中のまだ知らないなにかを夢想してニヤニヤする」あの頃の私に実にフィットしたものであったらしい気もするんですね。
私が夢中になっていたラジオ番組に限ってみても、もともと好きなタレントのやっている番組をチェックするということはあんまりなく、たまたまやっていた番組のパーソナリティがどんな人なのかを知るために毎回聴いてみる、というハマり方がほとんどだったような気がするんだな。
例えば、キンキキッズは「俳優」としての活動は言うまでもなく『人間・失格』や『金田一少年の事件簿』などで当時から有名だったのですが、CDデビューは1997年からだったので、私はその直前までの「え、近畿……兄弟?」という空気も世間に色濃く残るお2人の元気なトークを聴いて楽しんでいたし、『YUKI のオールナイトニッポン』も、YUKI さんという人がどんなバンドのどんな顔をした人なのかもわからないまま聴いて、その過激すぎるコーナーやコントの毒気におかされてしまったといった感じです。
YUKI さんのオールナイトはほんとに大好きでした!! 狂気のヒーローものコント『イソヤンQ』シリーズは素晴らしかった……調べてみてびっくりしたんですけど、オールナイト1部はたった1年間しかやってなかったんですね! 体感はもっと長かったような気がしたんですが。
そういえば、「おっはー!」なんてまだやってなかった頃の山寺宏一さんの『GAP SYSTEM 』も最高だったんですよ。『スネークマンショー』レベルのハイレベルなコントのてんこもりでねぇ。
今でも忘れないんですけど、いつものように『GAP SYSTEM 』を聴いていたら、その回は特別企画で番組のスタッフが実際に殺害されるという「てい」の推理ドラマということになっていまして、探偵役となった山寺さんが多くの証言や情報を集めたところで、
「はっ、これは……わかったぞ、犯人はあいつだ!!」
といった流れとなり、「これこれの期日まで、真犯人の名前とその人だと推理した理由をハガキに書いて送ってきてください。驚愕の解答編と正解者の発表は次回!!」という応募キャンペーン形式になっていたのですが、その回のエンディングで山寺さんの口から、
「え~、山形放送ラジオをお聴きのみなさんとは今週でお別れです。今まで本当にありがとうございました。」
という文言が流れたときには心底「オトナの事情」というものの汚さを呪ってしまっておりました。なんでこのタイミング!? ひどすぎる!! おれ、犯人わかってたんだぜ!?
こんな感じでいろいろあったわけなんですが、「中高生の私にとってのラジオ」というものをもっともわかりやすく体現していた番組は、いろいろあった中でもやっぱりこれでした。
『内田有紀 夜空にYOU KISS!』
いいですねぇ。「ゆーきっす」ですよ。シャレですね~。この、「アイドルのラジオ番組のタイトルに名前のシャレをつける」っていう伝統は今も残っているんでしょうか。この伝統はぜひとも21世紀にも受け継がれていっていただきたい。
私が第一にこの番組をおす理由はもう明らかです。それは、
「動いている内田有紀をまったく見たことのない状態で聴いて楽しんでいたから。」
なんですねぇ~。本当なんですよ!
この、別に意識的にテレビを排除していたわけでもないごく普通な家庭で育ったそうだい少年が、なじょして1993~97年という時期に「アイドルとして押しも押されもせぬ黄金時代」を築いていたはずの内田有紀の活躍を TVでいっさい観ていなかったのかといいますと、そりゃもうあーた、「1993~97年の山形県のローカル TV局事情」というものが、私の青春ドンピシャでおかしな異常事態におちいっていたからだったのでございます。
これは、簡単に言いますと、
1993年の4月から97年の3月まで、山形県民は「フジテレビ系列の番組」がほとんど観られなくなっていた。
ということなんですね。
1993年の4月、それまで「フジテレビ系列」のネット局だった「YTS 山形テレビ」が、突如としてオトナの事情で「テレビ朝日系列」に鞍替えするという珍しい事態となり、以後、山形県民の強い要望に応えるかたちで1997年4月にフジテレビ系列の新しいネット局「SAY さくらんぼテレビ」が開局されるまで、山形県下では「正規のルートでは『笑っていいとも!』も『ダウンタウンのごっつええ感じ』も視聴できない」という古今未曽有の「バラエティ暗黒時代」がはびこっていたのです。『ニュースステーション』と『アタック25』でガマンでぎるわげねぇべよ!!
で、ご存じの通り、黄金時代の内田さんは、TV の仕事はそのほとんどをフジテレビでこなしていたというわけで、そりゃもう映画や CDといった世界でも顔は知られていたというものの、山形県人にかぎって、
「なんだ、このおどごみでぇなの? うつだゆぎ……しゃね(知らない)なぁ。」
という忌むべき空気が。
そんな中でしたが、リスナーのネタハガキに「ぎゃはは!」と笑い、スタッフの用意した企画に「うひょえー!」と活きのいいリアクションを返すあけっぴろげで豪快な内田有紀さんの魅力が爆発した『YOU KISS!』は、私個人の中での内田さん株を、実際以上にズビズバ高騰させるすばらしい魔力を持った番組になっていたのでした。
「ボーイッシュ」と言うよりは「チャキチャキの江戸っ子」、「アイドル」と言うよりは「かなわない親友」……
内田さんとリスナーとの距離は近かった近かった。内田さん、自分のするおならの話題とかやってましたよね。とてつもないお方だ。
この番組での、リスナーからの内田さんの呼び名は「うちゆき姫」ということになっていたのですが、それはもう完全に「プリンセス」ではなく「おてんば姫」といった感じの呼び方でして、「女の子らしくない子をわざと姫と呼ぶ」という部分も、ずいぶんと長く顔をつきあわせてきた幼なじみをそう呼ぶような不思議な効力を持っていたのです。
ただ、哀しいことに、こういった私の一方的な「妄想うちゆき姫」も、1997年の春から簡単に内田さんの動く姿が観られるようになったことと、それ以上にもっと大きな変化として、内田さんご本人が「クールな実力派女優」を志向するようになったという転換によって、ガラスの如くもろくも崩れ去ることとなりました。
おしとやかで演技のうまい女優もいいですけど、内田さんにはいつまでも、ニカッと笑ったときに見せる白い歯がかわいい、世界にただ1人しかいない「うちゆき姫」でいてほしかった。
「そっちの方向でいって榊原郁恵さんみたいなチャーミングなおばちゃんになってもよかったんじゃないでしょうか!? ジュン、まさかてめぇのせいなんじゃねぇだろうな!! なにが『三丁目の夕日』だくそバカヤロー!!」
……と、私は海に向かって叫びたい。
かつて、江戸時代の過酷な禁教令にも屈せずにキリスト教を信仰していた「隠れキリシタン」。
250年後。明治の世に外国の宣教師がその里を訪れたとき、彼らの信仰していた宗教は、長い年月を経たがゆえにキリスト教とは似ても似つかない異形のものに変わりきっていたという。
私が愛していた「うちゆき姫」も、そういったものだったのでしょうか。
しかし、信仰しているかぎり、神は神。
もしかしたら現実の世界には存在していないのだとしても、いつまでも心の中に光り輝きつづける存在こそが、本当のアイドルなのです。
……まぁ、私の場合は「多神教」なんで、うちゆき姫以外にも神様はゴロッゴロましますわけなんですが。
浮気じゃねぇよ!! イッツ・ア・やまとごころ。いえ~。
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