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長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

やっつけ仕事と侮るなかれ! ヒッチコックみ濃厚なスペクタクル時代劇 ~映画『巌窟の野獣』~

2024年07月28日 21時27分44秒 | ふつうじゃない映画
 え~どうもみなさんこんばんは! そうだいでございまする。
 いよいよ夏本番と申しますか、だらだらと続いていた山形の梅雨も、もうすぐ明けるようでございます。単に慣れただけだからなのかも知れないけど、なんか今年の暑さはそんなでもないような気がする……と、毎日汗まみれの情けない姿で働いている奴が申しております。確かに暑いことは暑いんだけど、熱中症とか命の危険を感じるほどでもないような気がするんですよね。でも、私も年々少しずつ老いていることは明らかなので、自分の肉体に過度な自信を持っちゃあいけませんやね。水分補給は忘れずこまめに!

 さてさて、今回は「ヒッチコック監督作品おさらい企画」の更新でございます。また今回も、後半に羅列した視聴メモがやたらと長くなってしまったので、大雑把な感想はちゃちゃっといきたいと思います。

 いやぁ、この作品、個人的にはとっても面白かったですよ! もともと期待値がかなり低かったから、その反動で上がり幅が大きかっただけなのかもしれませんが、パッケージだけを見て「ヒッチコックの歴史ものぉ?」と食わず嫌いをするのは大損なような気がします。


映画『巌窟の野獣』(1939年5月公開 94分 イギリス)
 『巌窟の野獣(がんくつのやじゅう 原題: Jamaica Inn)』は、アルフレッド=ヒッチコック監督によるイギリスの冒険スリラー映画である。原作はイギリスの小説家ダフニ=デュ・モーリエ(1907~89年)の小説『原野の館』(1936年発表)。本作はヒッチコックが映画化したデュ・モーリエの3作品のうちの1作目である(他は『レベッカ』と『鳥』)。アイルランド出身の国際女優モーリン=オハラにとっては初の映画出演作であった。
 本作は、ヒッチコックがアメリカ合衆国に移住する前に作った最後のイギリス映画となった。

おもなスタッフ
監督 …… アルフレッド=ヒッチコック(39歳)
脚本 …… シドニー=ギリアット(31歳)、ジョーン・ハリソン(31歳)、アルマ=レヴィル(39歳)、ジョン・ボイントン=プリーストリー(44歳)
製作 …… エーリッヒ=ポマー(49歳)、チャールズ=ロートン(39歳)
音楽 …… エリック=フェンビー(33歳)
撮影 …… バーナード=ノウルズ(39歳)、ハリー=ストラドリング(37歳)
制作・配給 …… メイフラワー・プロダクションズ

おもなキャスティング
ハンフリー=ペンガラン侯爵 …… チャールズ=ロートン(39歳)
メアリー=イエレン     …… モーリン=オハラ(18歳)
ジェイム=トレハン     …… ロバート=ニュートン(33歳)
ジョシュ=マーリン     …… レスリー=バンクス(48歳)
ペイシェンス=マーリン   …… マリー=ネイ(43歳)
行商のハリー        …… エムリン=ウィリアムズ(33歳)
執事のチャドウィック    …… ホレイス=ホッジス(75歳)
側近のデイヴィス      …… フレデリック=パイパー(36歳)
馬丁のサム         …… ヘイ=ペトリー(43歳)
マーレイ船長        …… ジョージ=カーゾン(40歳)
ジョージ卿         …… ベイジル=ラドフォード(41歳)


 上の解説記事をお読みいただいてもわかる通り、本作はキャリア10年強、監督作品20本を超えていた1930年代時点でのヒッチコック監督史上最高傑作と評してもよいあの『バルカン超特急』の直後に制作され、そしてヒッチコック監督のキャリア全盛期の舞台となるアメリカ・ハリウッドへの進出第1作となる『レベッカ』の1コ前の作品ということで、彼の映画人生における第1章「イギリス立志編」の最後を飾る作品であるはずなのに、なにかと話題にされることの少ない不遇の作品であるような気がします。
 おそらくこれは、主演の名優チャールズ=ロートン自身のプロデュースということで、監督の意見よりもまず主演がいかに輝くかという「座長公演」のような作品になっていることが大きいと思うのですが、実際にこの作品は、自分の利益のために貧しいコーンウォールのならず者たちを影で支配し、そのためならば何の罪もない商船の乗組員を全員皆殺しにすることもいとわないという冷酷非道な地方領主が主人公となっているので、どうしてもスカッとした爽快感……からは程遠い印象の歴史ドラマとなっているのです。悪役が主役なんでねぇ、最後に死んじゃうのは仕方ないとしても、それでバンザーイ!って感じにはならないんですよね。

 それでも、この作品は少なくとも2つのポイントで非常に見ごたえのある傑作になっていることは間違いありません! いやホント、大スクリーンで観たらかなり大迫力のスペクタクルが楽しめたはずですよ。

 とはいえ、この『長岡京エイリアン』の他の記事をつまんでいただいてもおわかりの通り、なにを隠そうわたくしめが歴史好きであるということで、だいぶ加点要素が多くなっているというひが目もあるかも知れないのですが、19世紀前半のイギリスの史劇っていうのも、あんまり見た記憶がないので、そういう意味でも面白かったんですけどね。日本でいったら幕末直前、江戸時代がまさに太平の眠りとも言うべき完熟期を迎えていた頃なわけですが、その時期の先込めフリントロック式拳銃を主武器にすえた冒険映画なんて、けっこう珍しいじゃないですか。いや、本作で実際に発砲されたのはたったの1発だけなわけですが、それもそのはず、当時の銃はかなり扱いづらく、操作が面倒すぎ! ほんと、ヒーロー役のトレハンはあんなの1丁でよく悪党の巣窟に突入できたな……

 ともかく、そんな歴史加点を抜きにしましても、本作は以下の2点がすごいんでございます。


1、海洋(正確には海岸だけど)アクションとしての特撮をまじえた映像演出が大迫力!

 ほんとすごい、ほんとに甘く見てました、ヒッチコック監督の「海アクション愛」!!
 今までは特に列車特撮が監督作品のクライマックスに投入されることが多かったかと思うのですが、そうそう、ヒッチコック監督は「海」や「船」も作中の舞台に選ぶことがあったんですよね! 『ダウンヒル』(1927年)とか『リッチ・アンド・ストレンジ』(1931年)とか。あと、船のミニチュア特撮で言うと『第十七番』(1932年)での力の入れようが尋常じゃなかったし、海岸描写の美しさという点では、冒頭の一瞬ではあるものの『第3逃亡者』(1937年)でのカモメかなんかの羽ばたくスローモーション撮影が印象的でした。
 本作『巌窟の野獣』は、そういったヒッチコック監督の「海好き趣味」の集大成ともいえる全力投球ぶりで、大波の打ち寄せる嵐の岸壁や、積み荷の上げ下ろしでにぎわう夜の港町、そして大型帆船を丸ごと1個とか半分まるごとセットで組んで大迫力のスペクタクル劇を画面に収めています。実際にプールのような場所でザバザバ高い波が襲いかかってくる中を下着姿で泳いだり、雨風がビュービュー吹きすさぶ中で悪党ともみくちゃになりながら灯台の灯りを復活させようとするモーリン=オハラさんの女優根性はすごいぞ! 本来ならば、そういうことをさせるヒッチコック監督のサディスティックな演出志向の方が前に出てヤな感じになるところなはずなのですが、なにせ当時若干18歳のオハラさんが持ち前のダブリン魂を炸裂させて「できらぁあ!!」とバリバリやってのけるので、かわいそう感が全然ないのが最高ですよね。オハラさんの役だけ、なぜか高橋留美子ワールドのかほりを感じる……

 実寸大のスタジオセット撮影の迫力の他にも、ヒッチコック監督はその絶妙な映像センスとバランス感覚で、並みのオーバーラップ合成映像や実景を使ったスクリーンプロセス、そして遠景の帆船にはミニチュア撮影と、当時考えうる特撮技術をフル投入して海岸シーンを作っているので、本当に「ウソをホントに見せる」映画という魔術の教科書みたいな出来になっております。あとは怪獣が出てくれば最高だったのにぃ!!

 後半の、嵐の中で商船の転覆を待ち受ける海岸の強奪団のシーンなんか、なんか観客も強奪団の一味になっちゃったような没入感があって、ついつい「早く難破しやがれ! げっへっへっへ」みたいな気分になっちゃうんですよね。難破船襲撃、ダメ!ゼッタイ!!


2、主演ロートンの看板演技がすごい

 こちらはまぁ、いかにも悪辣な近世貴族ですといった、かなりオーバーな演技でもあるので、鼻について嫌だなという拒否反応が出る人も少なくはないかと思うのですが、それでも、本作のロートンは悪者一辺倒ではない、けっこう複雑な人物としてのペンガラン侯爵というキャラクターを創出しています。
 画質の良くないモノクロ映画時代の慣例でもあるかと思うのですが、ロートン演じる侯爵はまるで歌舞伎かコントのような派手な衣装に類型的なカツラ、作り眉といったいでたちで、メイクのためか表情もほとんど変化せず、身のこなしも基本的に鷹揚としているため一見、『水戸黄門』の悪代官とさして変わりないような典型的な悪役のような外見をしています。

 ところが、本作を観ていくにつれて、観客はどうやらこの侯爵が精神的にかなり破綻ギリギリのところまで追い詰められていて、それを執拗に隠そうとするがために、意図してあんなに泰然自若とした物腰で、なんにもない虚空を見つめながら話しているのではないかと気になってくるのです。つまり、侯爵に深刻な影の面があることが、それに直接ふれるシーンこそないものの、ロートンのハリボテのような演技によってありありと浮かび上がってくるのです。観たらわかります、これは単に私の妄想ではなくて、絶対にロートンの計算内の名演ですって!
 だって、侯爵はアップになると視線を周囲をちらちらせわしなく動かして、目の動きが落ち着かないそぶりを見せることが多いんですよ。これは、自分の犯罪がバレないと思って安心しきっている人間の挙動ではないでしょう。地方の権力者の傲慢さを演じながら、同時に心の弱い孤独な人間の怯えも表現する、ロートンの流石の名演。見ごたえは充分です! ちょっとサイコサスペンスみすらあるくらいですよ。

 また見逃せないのは、侯爵の奇行や犯罪には全く口出しこそできないものの、常に病人を気遣うような憐みのまなざしで彼を見守る執事のチャドウィックの存在感ですよね。彼あってこその侯爵、彼あってこその、稀代の悪人の破滅を描くピカレスクロマンとしての『巌窟の野獣』であるような気がします。

 侯爵の最後の断末魔である、「皆の者、騎士道の時代は死んだ! 余も、これから騎士道に殉じる!!」という言葉も、聞いた側からしてみれば「いや、それとこれとは話が別でしょ……あんたが悪いことして勝手に自滅してるだけっしょ。」と言いたくもなるのですが、近代という新しい時代の足音が聞こえてくることに怯えることしかできなかった人物の憐れさを象徴しているようで味わい深いものがあります。


 ……こんな感じで、ヒッチコック監督、イギリス時代のいったんの終わりを飾るこの最終作『巌窟の野獣』は、歴史ものという敷居の高さはあるものの、監督の映像センスの鋭さ、スピーディさをいささかも鈍らせていない、ピリオドに相応しい傑作になっていると思います。いかにもヒッチコック印という王道サスペンスものではありませんが、かつてのサイレント時代における非サスペンスもの諸作とはまるで次元の違う面白さが保証されていることは間違いありません。おヒマなら、ぜひぜひ観てみてください!

 さぁ、そしていよいよ次作からは、新天地ハリウッドでのヒッチコックの黄金時代へとつらなる第2章が始まりますよ~! この企画でカラー作品を扱うことになるのは、いったいいつのことになるのカナ!?

 大西洋を越えて新たなる地平を切り開くヒッチコックの大冒険。しかしそこには、ワンマンプロデューサーや第二次世界大戦というものすんごい障壁がわんさか待ち受けていて~!?


≪毎度おなじみ、視聴メモメモ!≫
・冒頭、イギリスのイングランド地方の南西端に位置するコーンウォールに伝わる俗謡が字幕で紹介されるのだが、ありていに言えば「海岸の住民が難破船の積み荷を臨時収入として得ていた」というか、なんだったら「救助せずに強奪までしていた」ことまで匂わせる不穏な習俗が語られている。まぁ、日本でも昔はそれに似た風習はあったかも知れない。戦国時代には農民だって、農閑期の出稼ぎ(相手領国のもろもろの収奪)という認識で合戦に参加していたそうですからね……京極夏彦の「巷説百物語」シリーズの1エピソードを連想させる。
・単に字幕にコーンウォール沖の荒波の映像をオーバーラップさせているのではなく、字幕に荒波が襲いかかるような合成処理にしているところが芸コマで実にヒッチコックらしい。そうそう、監督、海も大好きですもんね!
・さすがヒッチコックと言うべきか、リアルに作られた帆船のミニチュア撮影と、実物大の甲板でのセット撮影との切り換えが本当に巧みで、難破する商船のスペクタクルが素晴らしい。ほんと、ヒッチコックの特撮センスはバカにできない! この作品、絶対にやっつけでは作ってないぞ!
・波涛にもまれる船にとっての頼みの綱である、岬の灯台の灯りを隠す非情なコーンウォールの民……というか、それ、灯台なの!? どう見ても「かがり火」としか言いようのないレベルの小さな灯りなのが驚きである。それでも、当時は絶対不可欠な文明の利器だったんだろうなぁ。
・実物大の甲板どころか、商船の前部を丸ごと作り、それが座礁する岬の岩場さえもセットで作る気合の入りよう! そして、そこに惜しげもなく投入する、一体プール何杯分使ってるんだという水、水、水!! しかも、白波の立ち方が細かいために、モノクロで見ても絶対にそれ真水じゃないよね、という海水特有の濃度の濃さを感じさせる質感になっているのがものすごい迫力である。セット撮影の嘘くささを全力で消そうとしてる!
・命からがら難破船から逃げる船員たちに対して、あたたかい毛布どころか、文字通りの「ヒャッハー!!」なとびっきりの笑顔で殺到し、皆殺しにしようと襲いかかるコーンウォールの民……時代劇とはいえ、これ大丈夫? コーンウォール漁協のみなさんとかに訴えられない!?
・難破船の積み荷はひとつ残らず収奪し、現場には船員はおろか、怪我をした同胞であろうと誰一人として生かしては残さないという徹底した悪の営み。それを、ごくごくふつうの稲刈りのように行っている海岸の男たちの手慣れた動きが恐ろしい!
・乗合馬車に乗っているメアリーが「ジャマイカ亭に行きたいんですけど……」と言ったとたんに、同乗客も御者も一様に嫌な顔をするというリアクションが、かの怪奇小説『ドラキュラ』の展開と全くいっしょで面白い。これ、イギリス伝奇文学のひとつのパターンなのかな?
・コーンウォール海岸のむくつけき男どもとは対照的に、異様に豪奢な邸宅で貴族たちとの饗宴をたのしむペンガラン侯爵。ちなみに、この席で侯爵が「新国王ジョージ4世に乾杯。」と語っていることから、本作の時代設定がハノーヴァー朝イギリス王国第4代国王ジョージ4世の即位した「1820年」であることがわかる。日本でいうと江戸時代後期、将軍は徳川家斉。異国船打払令あたり! もう船、世界中でふんだりけったり!
・ペンガラン侯爵は、登場時から執事のチャドウィックを手足のようにこき使い、ジョージ4世の信任も篤いという経歴をかさに着て、客人の貴族たちさえもバカにしたような傲岸不遜な態度をとる人物として描かれている。この侯爵を演じているのが、本作の主役でありプロデューサーでもある名優チャールズ=ロートンなのだが、若干アラフォーとは思えない貫禄の風貌が圧巻である。さすが、アラサーにして史上初の名探偵エルキュール=ポアロ俳優となっただけのことはある! 映像作品でもポアロを演じてほしかったですね。
・ロートンの演じる侯爵は、メイクも衣装も大げさだし身のこなしも演劇的というか、歌舞伎みたいな仰々しさがあるので一見するとサイレント映画を観ているような古臭さがあるのだが、いつでも胸を張って笑顔を浮かべ、何もない中空を見つめながら話しているようなしぐさが、侯爵の虚栄に満ちた人生のうつろさやむなしさを漂わせていて意味深である。同い年のヒッチコックと同様に、ロートンも片手間では演じてませんね、この作品。
・侯爵に最も忠実なはずの執事のチャドウィックが、しじゅう苦虫を噛み潰したような表情で侯爵に寄り添っているのも、この後の展開を予兆させるようで興味深い。彼も、かなり前から侯爵の末路を予期してたんだろう……
・邸宅に来訪したメアリーが美人であると見た瞬間に態度を軟化させ、饗宴の客そっちのけでジャマイカ亭にエスコートしようとする好色な侯爵。特殊メイクはしていないはずなのに、どこからどう見ても「美女と野獣」なカップリングである。でも、心も野獣なんだよなぁ。
・メアリーの叔母ペイシェンスが経営する宿「ジャマイカ亭」は、難破船襲撃団の巣窟でもあった! しかも、襲撃団のリーダーはなんとペイシェンスの夫、つまりはメアリーの叔父にあたる漁師ジョシュなのだ……冷酷無比で粗野だが侯爵に頭が上がらず、妻を愛する一面もあるジョシュを演じるのは、ヒッチコックのサスペンスジャンルにおける出世作ともいえる『暗殺者の家』(1934年)で主演を務めた経験のある名優レスリー=バンクスなのだが、正直なところ悪役のピーター=ローレと妻役のエドナ=ベストのキャラに負けて個性がいま一つ出せなかった前作のリベンジを果たすかのように、本作では一番と言っていいインパクトのある複雑な人物を演じている。憎ったらしいだけじゃなくて、ちゃんと心の弱みや、育った環境の悲劇性もにじみ出てるんですよね。田中邦衛みたいないい味!
・貧しい身なりの漁師や宿無しで構成されるジョシュの強奪団だが、その中でもぴっちりシャツで耳にはピアス、うす汚れたトップハットの斜めかぶりスタイルを崩さないおしゃれキャラ・行商のハリーの存在感が見逃せない。プリンスのご先祖様みたいな伊達男だ。
・けっこう早い段階で、ジョシュら強奪団の略奪した積み荷の利益の大部分を、本来ならば犯罪者を取り締まるべき立場のはずの侯爵が裏で差配してふところに納めているというゲスな構図が明らかとなるのだが、よそから来たメアリーをホイホイとジャマイカ亭に連れていく侯爵の打算的な行動が、メアリーの美貌にあてられてヘタをうったというよりも、「バレたらバレたでいいや、もみ消すし。」という超余裕な姿勢のあらわれであるところが恐ろしい。田舎の権力者、こわすぎ!!
・……にしても、侯爵、メアリーを送ったら早く屋敷に帰れや! たぶん、「共通の親友がいなくなって会話が途切れる気まずい初対面同士」みたいになってるぞ、チャドウィックとお客さん達が!! それとも、ああ見えてチャドウィックには場を何時間でももたせられる宴会芸の特技でもあるのか? 「やむをえん、秘技『コーンウォール名物はらをどり』発動ォオ!!」
・妻やメアリー、手下に対してはあんなに乱暴者なジョシュが、侯爵を前にすると借りてきたネコのように姿勢を正して従順になる変貌ぶりがおもしろい。でも、地方領主とはいえ、最高爵位の侯爵だもんなぁ。むしろジョシュのような庶民と面と向かって密談するような侯爵の方が異様なのかも知れない。
・積み荷の利益の大半がどこか(侯爵)に消えている可能性を告発したがために、逆にその疑惑をジョシュにおっかぶせられてひどい目に遭う、強奪団の新入りトレハン。ダスティン=ホフマン8割に爆笑問題の田中さん2割といった感じのやや頼りない風貌が、ヒロインにしては顔つきも態度もしっかりしたメアリー役のオハラさんと対照的でいいバランスである。知性のトレハンと度胸のメアリー!
・首吊りの刑にされる寸前のトレハンを、2階から直接縄を切ることで助けるメアリー。うーん頼もしい。どっちがヒロインなんだかわからん!
・夜の邸宅で、食費の請求書を読み上げるチャドウィックにいきなりキレる侯爵。一見、話の本筋と関係の無いエピソードのようなのだが、地方貴族としての日常の生活に倦み飽きるあまりに、侯爵が確実に精神のバランスを崩していることと、それを侯爵自身も自覚して怯えている状況を象徴する大事なシーンである。結末への伏線が丁寧だ。
・2階にいるメアリーが1階のトレハンの首吊り処刑を盗み見る構図や、海岸の洞窟のメアリーとトレハンが頭上の穴から見下ろすハリーたち追っ手を見上げる構図など、ぶっちゃけ典型的な展開の連続で退屈する部分を、ちょっと斬新な見せ方の工夫でもたせようとするテクニックが実にヒッチコックらしい。「あぁ、今ヒッチコックを見てるなぁ。」と実感する瞬間である。
・海岸をただようボートをすぐさま発見してトレハンたちの隠れ場所を抜け目なく押さえるハリー。そこはなかなか有能なのだが、相手がいる下の洞窟にロープを下ろして、一人ずつえっちらおっちら降りていくという最悪の手段を取るのがよくわからない。そんなん、各個撃破されるに決まってんでしょ! しかも、最初のトーマスとかいう手下はロープを揺すられて2~3メートル上から落ちただけで気絶するし……都会の小学生か!
・馬には乗れるし、冬場の荒波の中でも上着をかなぐり捨ててスリップ姿で泳ぎまくるし、メアリーの行動スキルがハンパない! 『暗殺者の家』での名スナイパーヒロイン・ジルに勝るとも劣らない高スペックヒロインである。若干18歳の彼女が、こんなにもたくましく育たなければならないアイルランドって、一体どんな人外魔境なんだ!?
・お話の流れ的には、困窮する領民から年貢を搾り取って贅沢好きな生活に明け暮れる悪逆非道な侯爵というキャラ設定が妥当なのだろうが、借金が払えないとか家の雨漏りがひどいとかいう領民の声を直接面会して聞いてちゃんと対応してくれる侯爵の姿は、ちょっと暴君とはいいがたい度を越したおもねり方である。人目を気にした表向きの顔だけにしても、大した殿様であることは間違いない。人権とか言い出す若造に厳しいのは、19世紀前半の貴族としては当然の感情だろうし……生活は破綻してるけど、根はいい人なのかな?
・侯爵が難破船強奪団の黒幕であることを露ほども疑わず、命からがら侯爵の邸宅に逃げ込むメアリーとトレハン。その時に邸宅にいる客人のうち、昨夜の饗宴からいるジョージ卿を演じているのが前作『バルカン超特急』のベイジル=ラドフォードで、海軍のマーレイ船長を演じているのが『第3逃亡者』の真犯人役のジョージ=カーゾンである。なつかしい顔!
・自分達から邸宅にやって来たメアリーとトレハンに、飛んで火にいる夏の虫とほくそ笑む侯爵だったが、トレハンが難破船強奪団の摘発のためにジャマイカ亭に潜入捜査していたイギリス中央政府の特命刑事(海軍中尉)であることが判明し、一転して危機に陥る。とりあえずは動揺を隠して、馬小屋から書斎へと部屋を変えさせるのだったが、対応が豹変しすぎ!
・身体を張った潜入捜査によって、ジョシュが難破船強奪団のリーダーで、さらにその上にジョシュしか知らない黒幕がいることまで突きとめていた有能なトレハンだったのだが、地元領主の侯爵を全く疑わずに手の内をべらべら話してしまったのが大失敗だった……「まだ政府には報告していない。」という一言を聞いて、態度には全く表さないながらも「よっしゃー!!」とにんまり微笑し、むやみに銃をいじくり出して挙動が若干ハイテンションになる侯爵。トレハンと一緒にワインを飲むときに震える手とか、このやり取りの中での細かな演技の移り変わりが非常に上手である。役者やロートン!
・トレハンの提案したジョシュたちの現行犯逮捕作戦に乗ったふりをしてトレハンを油断させる侯爵だが、この時にポーズだけ書きつけた軍隊の応援を要請する書状の送り先が、ウィルトシャー州の州都トロー(ブリッジ)となっている。ウィルトシャーはコーンウォールと同じイングランド地方の南西地域に属しているのだが、コーンウォールからトローブリッジまでの距離はおおよそ250~300km となっているので、本作のように午前中に書状を送った場合、夜中の摘発時に軍隊が到着したら御の字といった感じだろうか。いや、間に合うか!? ムリじゃね!?
・表向き、意気投合してジョシュたちの摘発の準備を進める侯爵とトレハンだが、それを盗み聞きしてしまったメアリーは、叔母夫婦を縛り首から救うために邸宅を抜け出してジャマイカ亭に作戦をリークしてしまう。ここらへんの、それぞれの思惑を胸に秘めての行動のすれ違いがみごとにドラマチックで、一気に物語のテンションを高めてくれる。デュ・モーリエの原作小説を読んでいないので、ここらへんが原作通りなのかどうかはわからないのだが、なんかシェイクスピアっぽい展開でいいですね!
・メアリーがジャマイカ亭に行ったことを知り、トレハンと侯爵は急遽作戦を変更してジャマイカ亭の家宅捜索に向かうのだったが、いくら急を要するとはいえ、ここで侯爵とのたった2人きりで乗り込むあたり、やはりトレハンはお人よしで短慮すぎる。なぜそこまで侯爵を疑わない!?
・言わんこっちゃない、実質ひとりでジャマイカ亭に乗り込んだ形のトレハンは、ジャマイカ亭に戻って来たハリー達に苦も無く捕まってしまう。いや、いくら銃を持っていると言っても、一発撃ち損じたら次の装填に手間がかかりまくるフリントロック式単発拳銃だけの装備て!
・トレハンやハリー達がガン見してる中なのに、捕まったていの侯爵から「メアリーだけは殺すな。」と言われて思わず「わかりましたっ。」と会釈を返してしまうジョシュの、うそのつけない正直者っぷりが最高である。芝居のできねーヤローだぜ!
・侯爵の発言から推察するに、トレハンは夜9時を過ぎたあたりから「軍隊の救援が遅い!」と焦り出しているのだが、それはしょうがねんじゃね? 手紙で他州に応援を要請してるんだもんねぇ……実際、19世紀前半のイギリス国内の交通事情って、どうだったんだろ? やっぱ馬車メインか?
・ちなみに同じく侯爵の言によると、当時のイギリス貴族の夕食の時間は夜10時頃らしいのだが、ほんと? 健康に悪すぎない? 夜食の間違いじゃないの?
・ジョシュたちがマーレイ船長の黄金を積んだ帆船の襲撃に向かった後、トレハンとペイシェンスとの3人だけになったタイミングを見計らって、侯爵はついに満を持して難破船強奪団の影の首領としての正体を明らかにする! この時の、悠々と単発拳銃の装填をしながら真相を語るロートンの演技が、ほれぼれするほど悪の色気に満ちている。フリントロック式の拳銃は火薬と弾が別々だから、手間がかかるところを何の苦も無くやってのけているのもポイントが高い。その後の、「ボイル大尉などという隊長はいない。したがって守備隊も来ない。」という去り際の捨てゼリフもカッコイイ~!!
・マーレイ船長の帆船を待ち受けている時にハリーがメアリーにかける、「きれいな指輪を持って来てやるぜ! ちゃんと指は捨てておくからさ!」という冗談が非常に悪趣味ですばらしい。ブリティッシュジョーク!
・いよいよクライマックスとなる、嵐の夜の海岸シーンとなるのだが、実景と大規模なスタジオセットを組み合わせたスクリーンプロセスによる特撮が、モノクロで画質もよろしくないことが幸いしてかえって迫力たっぷりである。くっきりはっきり見えるだけが映画の良さじゃないですね!
・轟々たる荒波と、とてつもない風雨にさらされるジョシュたちが固唾をのんで見守る中、波しぶきでけぶる沖合に、木の葉のように揺れる帆船の影が! ここの大迫力ときたら!! いや~ほんと、ヒッチコック監督が怪獣映画を撮っていたら、どんな歴史的名作が生まれていたことか!!
・帆船の行方に気を取られるジョシュたちの目を盗み、メアリーは一人抜け出して灯台の灯りを復活させるという賭けに出る! ここで、マントを翻しながら崖を登り、ジョシュの手下をぶっ倒すメアリーの勇姿がステキすぎる……さすがに燃える布を素手で運ぶカットはスタント撮影かと思うのだが、いやマジ、トレハンかたなしすぎ!!
・このメアリーの命を賭けた行動によって、ジョシュたちの目論見は水泡に帰す。しかしメアリーはハリー達に捕まって、リンチされようがなにされようが仕方のない状況に陥ってしまうのだが、それでも一歩も引かずに「私はどうなってもいいけど、罪もない人たちを殺しまくったおめーらもただでは済まねぇからな!!」と見事な啖呵を切ってみせる。すごいな、この娘さん!!
・いっぽう、ジョシュたちの失敗を知らない侯爵は予定通りに深夜に邸宅を発ち、フランスへと高跳びするべく港へ急ぐ。この時のチャドウィックたち屋敷の人々との全くかみ合わない会話が、侯爵の狂気と末路を予見しているようで印象深い。チャドウィックふびんすぎ……
・ここからは、本性を現わした侯爵がメアリーを拉致し、それをトレハンが追い詰めるという定番の流れとなるのだが、ちょっとだけの時間ではあるものの、薄いドレスを着たメアリーに猿ぐつわをはめる侯爵の手つきが妙にエロい。ここにきてヒッチコック印きたー!!
・侯爵の最期は、言ってみればヒッチコックの過去作『殺人!』の変奏なのだが、ちゃんとロートンの決めゼリフを用意しているあたりや、ラストショットに映る人物がトレハンでもメアリーでもなくこの人であることも、本作の主人公があくまでもロートン演じる侯爵であることを証明している。すっきりしないラストではあるんだけど、ピカレスクロマンなんだから、しょうがないんだなぁ。
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怪獣不在の怪獣映画って、こういうことだろ! ~映画『生きものの記録』~

2024年07月10日 23時08分47秒 | ふつうじゃない映画
 ハイど~もみなさま、こんばんは! そうだいでございまする。
 最近は、山形もやっと梅雨らしくなり雨が降る日も増えてきまして、今日もだいぶ過ごしやすい気温の一日となったのですが、雨が降ればジメジメがすさまじいし、降らなきゃ降らないで気温がガン上がりだしで、なかなかいい感じの日がございません。でも、なんだかんだ言っても私の住む山形市は、朝と夜はちゃんと涼しいし今のところ34℃を超える日もありませんので、このくらいでウダウダ言ってる場合じゃないんですよね……夏本番はこれからだぜ! 熱帯夜やだ~!!

 さてさて今回は、そんなじめっとした季節に観るのにもってこいな名作映画についてのあれこれをば。
 この監督さんの撮る「雨」って、現実の雨以上に重たく見えるんですよね~! 特にモノクロ作品は。墨汁で雨を着色したっていう撮影逸話も有名なんですが、本作でもまた、雨……というか、雨の「気配」が重要なキーワードになっているような気がします。


映画『生きものの記録』(1955年11月公開 103分モノクロ 東宝)

 『生きものの記録』は、アメリカとソ連の核軍備競争やビキニ環礁での第五福竜丸被爆事件(1954年3月1日発生)などで加熱した反核世相に触発されて、原水爆の恐怖を真正面から取り上げた社会派ドラマ映画である。原子爆弾の恐怖に取り付かれる60歳の老人を演じた三船敏郎は当時35歳だった。作曲家の早坂文雄の最後の映画音楽作である。
 本作の構想は、前作『七人の侍』(1954年)の撮影中に黒澤明が友人の早坂文雄宅を訪れたときに、ビキニ環礁の水爆実験のニュースを聞いた早坂が「こう生命をおびやかされちゃ、本腰を入れて仕事は出来ないね。」と言い出したことがきっかけとなった。当初は『死の灰』と名付けられたこの企画は小國英雄と橋本忍との共同脚本で、1955年1月に静岡県今井浜の旅館「舞子園」に投宿して執筆作業を開始し、3月初旬に『生きものの記録』と改題した決定稿が完成した。
 1955年の5月中旬に撮影準備に取りかかり、8月1日に東宝撮影所内のセットで撮影開始した。10月11日に台風25号の被害で工場のオープンセットがほぼ壊滅し、作り直すために撮影中断したが、10月31日にクランクアップした。

 本作では、『七人の侍』で採用した複数のカメラで同時に撮影する「マルチカム撮影法」を本格的に導入しており、3台のカメラを別々の角度から同時に撮影することで、カメラを意識しない俳優の自然な演技を引き出している。主人公の放火で焼け落ちた工場のセットは東宝撮影所内の新築されたばかりの第8スタジオの前に組まれ、新築のスタジオの壁面を焼け跡に見立てて塗装したため東宝に怒られたという。また、都電大塚駅のセットは電車の先頭部分を含めて、本物そっくりに作られた。
 音楽は早坂文雄が担当したが、撮影中の10月15日に結核で亡くなった。親友だった黒澤はそのショックで演出に力が出ず、黒澤自身も「力不足だった」と述べている。早坂はタイトル曲などのスケッチを残しており、弟子の佐藤勝がそれを元に全体の音楽をまとめて完成させた。

 本作は興行的に失敗し、黒澤自身も「自身の映画の中で唯一赤字だった」と語っており、その理由について「日本人が現実を直視出来なかったからではないか」と分析している。第29回キネマ旬報ベスト・テンでは4位にランクされ、第9回カンヌ国際映画祭ではコンペティション部門に出品された。大島渚は鉄棒で頭を殴られたような衝撃を受けたとしており、徳川夢声は「この映画を撮ったんだから、君はもういつ死んでもいいよ」と激賞したという。佐藤忠男は「黒澤作品の中でも問題作」と述べている。


あらすじ
 歯科医の原田は、家庭裁判所の調停委員をしている。彼はある日、家族から出された中島喜一への準禁治産者申し立ての裁判を担当することになった。鋳物工場を経営する喜一は、原水爆の恐怖から逃れるためと称してブラジル移住を計画し、そのために全財産を投げ打とうとしていた。家族は、喜一の放射能に対する被害妄想を強く訴え、喜一を準禁治産者にしなければ生活が崩壊すると主張する。しかし、喜一は裁判を無視してブラジル移住を性急に進め、ブラジル移民の老人を連れて来て、家族の前で現地のフィルムを見せて唖然とさせる。

おもなスタッフ
監督 …… 黒澤 明(45歳)
製作 …… 本木 荘二郎(41歳)
脚本 …… 橋本 忍(37歳)、小国 英雄(51歳)、黒澤明
撮影 …… 中井 朝一(54歳)
美術 …… 村木 与四郎(31歳)
録音 …… 矢野口 文雄(38歳)
照明 …… 岸田 九一郎(48歳)
音楽 …… 早坂 文雄(41歳 本作の制作中に死去)、佐藤 勝(27歳)、松井 八郎(36歳)
記録 …… 野上 照代(28歳)
音響効果  …… 三縄 一郎(37歳)
制作・配給 …… 東宝

おもなキャスティング
中島 喜一    …… 三船 敏郎(35歳)
原田       …… 志村 喬(50歳)
原田の息子・進  …… 加藤 和夫(27歳)
中島 とよ    …… 三好 栄子(61歳)
中島 一郎    …… 佐田 豊(44歳)
中島 二郎    …… 千秋 実(38歳)
山崎 隆雄    …… 清水 将夫(47歳)
山崎 よし    …… 東郷 晴子(35歳)
中島 すえ    …… 青山 京子(20歳)
中島 君江    …… 千石 規子(33歳)
須山 良一    …… 太刀川 洋一(24歳)
喜一の愛人・里子 …… 水の也 清美(39歳)
栗林 朝子    …… 根岸 明美(21歳)
朝子の父     …… 上田 吉二郎(51歳)
堀弁護士     …… 小川 虎之助(57歳)
荒木判事     …… 三津田 健(53歳)
ブラジルの老人  …… 東野 英治郎(48歳)
岡本       …… 藤原 釜足(50歳)
石田       …… 渡辺 篤(57歳)
地主       …… 左 卜全(61歳)
鋳造所職長    …… 清水 元(48歳)
留置人A     …… 谷 晃(45歳)
留置人B     …… 大村 千吉(33歳)
精神科医     …… 中村 伸郎(47歳)


 これはもうね、文句なしの歴史的名作でございます。いまさらこんな超零細ブログで語るまでもないことでありますが。

 話は脱線するのですが、昨今、日本の本家東宝でのシリーズ最新作『ゴジラ -1.0』がアメリカのアカデミー賞・視覚効果賞を受賞し、そのアメリカでもハリウッド版ゴジラシリーズ(モンスターヴァース内)が最新作『ゴジラ×コング 新たなる帝国』まで4作も制作されるという活況を呈しており、さらには CGアニメシリーズという形ではあるのですが、あの『ガメラ』も最新作が制作されるなど、令和になって地味~に特撮・怪獣のジャンルが盛り上がってきております。あの~、ちょっと各作品の展開がバラバラなので「ブーム」とまでは言えないかも知れないのですが、円谷プロの「ウルトラシリーズ」もコンスタントに新作が制作される状況が定着していますし、もはや特撮・怪獣の何かしらの新作が常に楽しめる現状は、ブーム以上に喜ぶべきジャンル全体の底上げを意味しているのではないでしょうか。
 うれしいですね……実に嬉しいです。わたくし、生まれも育ちも1980年代の人間ですもので、何年かに一作品がポツ、ポツ……と慈雨のように続くばかりだった特撮冬の時代の厳しさを経験した身としては、今、幼少年期を過ごしている少年たちはもう、心の底からうらやましくてたまりません。『ウルトラマン80』、『ゴジラ1984』、『仮面ライダー BRACK』2部作、『仮面ノリダー』あたりで約10年間枯渇をしのいでいたわけでして、それ以外はもっぱらレンタルビデオで昭和時代の旧作を観て素養をみがいておりました。平成の到来とともに『ゴジラ VS ビオランテ』(1989年)から始まった「 VSシリーズ」、そして「平成ガメラシリーズ」の、なんと神々しかったことか……あと、映画『ウルトラQ 星の伝説』(1990年)もネ。

 そういった感じで、いつでもどこかに「怪獣がいて当たり前」という幸せな時代が只今到来しているわけなのでありますが、このようにポンポンと怪獣が世に出てきますと、そもそも人間の想像上の存在であるはずの「怪獣」って、なんなの?というところに興味がわく話にもなってくるかと思います。

 日本で、そして今や世界で最も有名な怪獣は何かといえば、それはもうほぼ満場一致で「水爆大怪獣ゴジラ」ということになるかと思われるのですが、そのゴジラの解釈も作品ごとに大きな違いがあり、1954年に産声をあげたシリーズ第1作『ゴジラ』や最新作『ゴジラ -1.0』におけるゴジラは、人類文明の身勝手な核開発競争が生んだ異形の被害者にして、核・放射能の恐怖の象徴ですし、ハリウッドのモンスターヴァースシリーズのゴジラは、人類文明の繁栄によって衰亡の危機に瀕しつつある地球を回復させる「バランサー」という、きわめて「神に近い存在」となっているのです。おんなじゴジラでもこんなに違う! 確かによく見りゃハリウッド版のゴジラの表皮には、日本産ゴジラのトレードマークともいえる「ケロイド状のザラザラ」なんてどこにもないんですよね。余談ですが、『ゴジラ -1.0』のゴジラは厳密には時間軸的に水爆大怪獣ではないそうです。

 行き過ぎた人類文明に警鐘を与える「超越者」、人智を超えた力を持つ「自然災害のメタファー」、はたまた、人類が滅ぼしてしまった、もしくはないがしろにしてきた「過去の遺物の怨念」……さまざまな作品に登場する怪獣たちは、各種各様の背景を秘めた存在となっています。もちろん、単純に子どもが大好きになる「強くてカッコいいキャラ」だったり、「宇宙人の差し向けた生物兵器」として暴れまくるだけなのもいいと思います。円谷プロのウルトラ怪獣みたいにデフォルメされて人気を集めるポケモン的な展開もひとつの定番ですよね!

 そして、こんな風に怪獣の出るフィクション作品が量産されてきますと、そういった怪獣ものの逆張りとして、「怪獣が出てこない怪獣映画」というキワモノも出てきます。ほら、サメ映画だって最近、「サメが出てこないサメ映画」が出たっていうじゃないですか。いくとこまでいったな~!!
 でもこれ、かなり重要な話のような気がするんですよね。

 要するに、怪獣のように「巨大で恐ろしい何か」を表現するのに、怪獣そのものが必ずしも登場する必要はないんじゃないかという問題なのです。
 確かにそういわれれば、映像作品の中に怪獣が登場する時、絶対に無くてはならないのは、「怪獣に出くわして恐れおののく人間のリアクション」だと思います。そして、その反応の演技がヘタだったりすると、たちまち出現した怪獣もまた、チープで安っぽい作り物になってしまうのです。
 思い出してみてください、あの『ゴジラ』(1954年)での、大戸島の山上に初めてゴジラが首をもたげた時の村人たちの悲鳴、そして、ゴジラの咆哮を聴いた時のヒロイン・山根恵美子(演・河内桃子)の絶叫! 実のところ、ここで画面に出てくるゴジラそのものはハンドパペット式のギニョール人形なのでやや頭でっかちで、怖いというよりもむしろちょっとかわいいくらいなのですが、それを観た人々の反応があまりにもリアルで恐怖に満ちたものなので、それによってゴジラも実物以上に禍々しくおぞましい存在になりえているのです。
 つまり、ギニョール人形だったり着ぐるみだったり CGだったりして、そもそも作り物である怪獣を「現実にあるもの」に変換するために、周囲の現実にいる人間の反応は必要な儀式装置なのでしょう。怪獣は造形物のみによって命を得るものなのではなく(もちろんパーセンテージは大きいと思いますが)、それに反応し対峙する人間たちのリアクションを含めた作品全体によって完全な姿を得るものなのでしょう。

 だとするのならば、「おそれる人たち」の演技を最高品質のものとすれば、極端な話、怪獣そのものが出てこなくとも怪獣レベルに人類文明をおびやかす脅威の存在を実感させうる作品はできるのではないか?
 この問いに正面から向き合った空前絶後、唯一無二の映画作品こそが、この『生きものの記録』なのではないでしょうか。まさにこれは、「ひたすら恐怖する人」としての「生きもの=中島喜一老人」の記録のみに特化した作品であるわけです。

 私がつらつら思い起こす限り、いわゆる「怪獣の出てこない怪獣映画」は世の中に何作かありますが、それは「予算の都合で怪獣がちょっとの時間しか出てこない」とか「怪獣の死体しか出てこない」とか、結局はひよった中途半端な姿勢に終わってしまうものが多く、だいたい見えない怪獣の存在に命を吹き込めるほどスタッフや演者の皆さんが魂を込めて仕事をしていないので映画としても実につまらない作品になってしまっている、というものがほとんどだと思います。やっぱり、いない怪獣を相手にして90分も2時間も話をもたせるって、それこそ本作レベルにそうとうな覚悟と技量を持って臨まないと、なかなかできることじゃないのよね……ただその点、『ウルトラセブン』(1967~68年放送)での、怪獣や特殊造形の宇宙人がまるっきり出てこない数エピソードとか、その正統な続編である『ウルトラセブンX 』(2007年放送)などのように、20~30分の物語世界で後世に語り継がれるべき傑作が生まれる例は多いような気はします。そこらへんはもう特撮というよりも SFの世界ですからね。実相寺昭雄ワールド~♡ でも、ここにいくとゴダールの『アルファヴィル』(1965年)とか、かの聖タルコフスキー監督の諸作のほうに話がいってしまいますので、脱線はここまでにしておきましょう。

 それでこの『生きものの記録』なのですが、この作品って、明らかに前年に公開された『ゴジラ』(1954年)の精神的な双子みたいな作品だと思うんですよね、同じ現実世界の「第五福竜丸事件」を親とした。
 本作と『ゴジラ』との時間的関係を見てみますと、両者の間には1955年4月に公開された『ゴジラの逆襲』という作品があります。これも私、ゴジラシリーズの中で一、二を争うくらいに大好きな作品!

 言うまでもなく、『ゴジラの逆襲』は前年の『ゴジラ』の正統の続編にして、「ゴジラ対別の怪獣」という王道パターンの開祖となった記念碑的作品です。そして何よりも、出てくるゴジラ(2代目)が怖い、怖い!! 現代定着したポップな怪獣というイメージからは程遠い荒々しさとケダモノっぽさがあって、撮影ミスで新怪獣アンギラスとの戦闘シーンが異様にスピーディになっているのもリアルな猛獣同士の殺し合いという雰囲気が出ているし、牙も犬歯が吸血鬼みたいに長くて真っ直ぐ前をにらんでいる目つきも生々しく、なんか妖怪のような不気味があるんですよね。
 ただし言わずもがな、『ゴジラの逆襲』の世界における日本人は、かつて東京に上陸して大暴れしたゴジラという驚異をすでに「知っている」のです。そのため、そのゴジラの2頭目が今度は大阪に上陸するかも知れないという話になってくると、民間人はそそくさと避難して市街地はほぼ無人となり、撃退するために自衛隊とその最大兵力が待ち構えるだけという万全の対策を迅速にとるわけです。万全っていってもまぁ、てんで役に立たないんですけどね☆

 つまり、怪獣というジャンルを創始した当のゴジラシリーズは、その第2作から早々に「核・放射能の脅威=怪獣」という図式を取っ払ってしまい、「努力次第で人類でもなんとかできてしまう巨大害獣」にスケールダウンさせてしまっているのです。でも、これは起承転結のある娯楽作品としてシリーズ化させるためには仕方のない舵取りでしょう。そんな、毎回毎回オキシジェン・デストロイヤーみたいなデウス・エクス・マキナをひねり出すわけにもいきませんからね。

 その一方で、ゴジラシリーズが、少なくともそれ以降の昭和作品では捨ててしまった「核や放射能の恐ろしさ」をかなり高い純度で継承……というか、初代『ゴジラ』と分かち合った作品こそが、この『生きものの記録』だと思うんですよ。

 映画『生きものの記録』に、当然ながら怪獣そのものはまるっきり登場しません。しかし、それとほぼ同じくらいに正体不明で曖昧模糊とした「いつか来るかもしれない核戦争や放射能汚染の脅威」を本気で感じ取り、恐れおののく人間として登場する中島喜一老人の存在感と振る舞いが十二分すぎる程に切迫感溢れるものとなっているために、画面に全然出てこなくとも、「ひたすら恐ろしい、逃れられないなにか」がひたひたと近づいてくる不安感が迫ってくる作品になり得ているのです。そのために、当時30歳代の三船敏郎をわざわざ老人役にすえなければならないほどのエネルギーを、黒澤監督は求めたのではないでしょうか。
 ただし、若い俳優に老人を演じさせたからと言って、黒澤監督は安易に中島老人にパワフルな演技をさせたり、実際の60歳の人間にはできないような芸当をさせるようなことはしていません。当然、演じているのがあの三船さんなのでどんな狂態も問題なく演じられたはずなのですが、あくまでも「何の変哲もない老人」という範囲の中で、ただひたすらに「おびえ、おそれる」演技を100% 全力で演じることを要求しているだけなのです。
 たとえば、本作のクライマックスで中島老人はついに、自身の家族のブラジル移住を推し進めようと焦った挙句、現在の一家の生活の基盤となっている、自分自身が創業したはずの鋳物工場に放火をして全焼させてしまうという最終手段に出てしまいます。
 ここのくだり、なんせ前作が『七人の侍』(1954年)という全盛期真っ最中の黒澤監督なんですから、炎上する工場のスペクタクルを撮影するなんてお手の物かと思うのですが、本作ではそんな場面はきれいさっぱりはしょられており、いきなり黒焦げの焼け跡となった工場の残骸が映し出される展開となっており、そこから愕然とする一家の混乱の果てに、中島老人の告白がしめやかに語られる展開となっています。
 この、映画としては本作中最も派手な事件といってもよい工場炎上が全く描写されないのは、おそらく、観客が中島老人のおそれる恐怖の正体を工場炎上のスペクタクルと混同したり、もしくはおそれる中島老人自身が結局は周囲の人間にとっての災害(=怪獣)になっちゃいましたとさ、みたいにオチだと解釈したりして、安易に作中に怪獣を顕現されないようにするための予防策だったのではないでしょうか。この作品において、あくまでも怪獣は全く映画に登場しない存在でなくてはならず、いかなエネルギッシュな三船さんであれども、怪獣を想起させかねない方向にいくことは厳に許されないタブーだったのでしょう。

 ここで重要なのが、全く出てこない怪獣(核や放射能)に代わって、作中で中島老人を直接的に恐怖させる存在なのですが、これは具体的には2つありまして、ひとつは「雷鳴と驟雨」で、もうひとつは「中島老人の愛人の一人・朝子の親父(演・上田吉二郎)」です。ヤ~なおとっつぁんなんだ、この朝子のオヤジっていうのが!

 雷鳴と驟雨というのはもうそのまんまで、作中ことあるごとに夕立のような遠雷と風、そしていきなりの大雨がやってくるタイミングがあるのですが、それにいちいち中島老人が過剰に反応しておびえる、という描写があるのです。
 これは、別に中島老人がカミナリ嫌いだというわけではなく、雨雲に乗って太平洋上空に残留する放射能が日本列島に上陸し、あの原子爆弾の炸裂直後に降ったという「黒い雨」がまた降り注ぐのではないかという不安を中島老人が強くいだいているということの暗示に相違ありません。
 こういう放射能と雨との関連づけって、広島・長崎の原子爆弾投下以降、世代が代わるたびにどんどん薄れていくものかと思っていたのですが、まことに不幸なことに、2020年代現在を生きる私達日本人の多くは、2011年3月に「放射能を含んだ雨」の不安を現実にいだく経験をしてしまいました。デマとわかっていながらも、実際にメールで不気味な警告メールを受け取った方も多いのではないでしょうか。それを即座に笑い飛ばせた人は、果たしてどのくらいいたでしょう。

 もうひとつの中島老人をおびえさせた存在として挙げた朝子のおとっつぁんなのですが、この人はもう本当にどうしようもない、自分の娘の愛人(中島老人)の財力に頼らないと何もできないようなダメおやじです。しかしながら自分の感情に素直に生きようとする生命力だけは非常に貪欲で、作中では中島老人の一家と共に自分達父娘をもブラジルに移住させようとする老人の決断に強い反感を抱きながらも、直接老人に反抗するようなそぶりは隠しておいて、素知らぬ顔で娘を通して老人に金をせびりながら、裏で老人の家族にまわってブラジル移住を破談に追い込もうとする包囲網も形成させていくという狡猾さを持った人物なのです。
 ここ! このおとっつぁん(名前すらない!)の、『ゲゲゲの鬼太郎』のねずみ男みたいなトリックスターっぷりが、怪獣もスペクタクルもない本作を非常に起伏豊かなものにしてくれるのです。長期的な人生のプランはないが、ともかく今日を生きたいというエネルギーだけはものすごいんですね。この生き方を笑える人が、果たしてこの世にどのくらいいるでしょうか。

 このおとっつぁんが、作中で一度だけ中島老人に残酷な牙をむくシーンがありまして、それが、夕立ちの降りそうな昼下がりに、縁側で世間話をするかのように老人に「放射能汚染の恐怖」を聞いたふうに吹聴するところです。被爆した人間がどうなるのか、子ども達の世代の未来はどうなってしまうのか、みたいな話を他人事のように話すわけなのですが、それを聞いた中島老人は不安にかられ、憔悴しきった表情になってしまいます。
 ここの局面で、おとっつぁんが中島老人をおびえさせて具体的にどうしたかったのかは、まるでわかりません! 特におとっつぁんにメリットのあることでもないように見えるのですが、彼に何かしらの策があったというよりも、「今まで偉そうにしてた奴がなんか弱ってるから、もっと怖がらせてやれ。」みたいな、なんのひねりもない子どもみたいな感情がふっと湧いてきて話し出したように見えるんですよね。そして、そういったなんでもないようないたずらがめぐりめぐって、中島老人と一家の崩壊を招いてしまうのですから、このおとっつぁんの、ある意味で「邪気の無い」悪意が、この映画でいちばん怖いものだったのではないでしょうか。
 また、この場面での、おとっつぁん役の上田吉二郎さんの語りがめっちゃくちゃ上手いんですよね! ほんと、基本的にだるんだるんのランニング姿でだらしないオヤジなのですが、ここで薄暗い縁側に座って語るときだけ、稲川淳二もビックリな超一流の怪談師みたいなオーラを身にまとうんですよ。やっぱり腕のある俳優さんは違うなぁ!!


 いろいろくっちゃべってまいりましたが、本作『生きものの記録』は、「怖いものを見せずにその恐ろしさを伝える映画」の究極だと思います。その決意のほどは相当なもので、核や放射能に関する情報を映像で見せることは一切なく、ひたすらそれを「怖がる人」しか映し出していない徹底ぶりは空前絶後の完璧さです。
 実は、つい最近にこの『生きものの記録』と精神的にかなり近いと思われるアプローチの映画として、あの魁!!クリストファー=ノーラン番長の『オッペンハイマー』があったわけなのですが、主人公がしっかり「怪獣級の天才」として描かれる部分があり、しかもかなりギリギリまでがんばったものの、ほんの一瞬とは言え直接に原子爆弾の悲惨な事実を(幻影としながらも)描いてしまったという点で、やはり『生きものの記録』のほうが数段、目指す志と完成度が上ではないかと確信しています。原爆の惨禍を全く描かないという選択肢が非常に難しいものであることは、『オッペンハイマー』をめぐる日本公開までの議論をみても明らかでしょう。ノーラン監督はかなりがんばったけど、やっぱり最後に「ある異常天才の半生記」に落ち着けるという安易な手を選んでしまったのです。キビシ~ッ!!

 先ほども申しましたが、本作で主演を務める三船敏郎は、これはもうまごことなき「怪獣レベル」の存在感とスター性を持った名優です。それこそ、ゴジラ級の破壊力と輝きを持った才能! それはもう、黒澤監督の前作『七人の侍』でも証明されていることですし、三船さんも初代ゴジラも対する相手が同じ志村喬さんだという事実もそれを裏付けるものでしょう。
 それなのに、本作で黒澤監督は三船敏郎35歳のエネルギッシュなパワーを炸裂させることは一瞬間も許さず、ただひたすらに彼の演じる中島老人を孤立させ、憔悴させることによって、「経営も発展させて愛人を何人も囲うような大人物が、どうしてそこまで……」と思わせることに成功しているのです。そこまで彼を追い詰める核・放射能とは一体なんなのか? そして、そんな人がいるのに、その一方でどうして同じ日本列島に住む我々日本人は、特に不安に思うこともなくのうのうと暮らし続けていられるのか……

 本作において黒澤監督は、中島老人を徹底的に「孤立した人間」に描いてはいるのですが、結末こそ精神病院送りにはなっているものの、老人を「核・放射能を並外れて怖がる異常な人」だったり、「不安になるあまりに家庭を崩壊させてしまう危険な人物」に見せるような演出はかなり神経質に避けているように思えます。老人も、世間体を考えて怖い怖いと本音を言うことは控える自意識は持っていますし、工場に放火するという非常手段も、結局は繊細な自身の心を壊してしまう諸刃の剣となってしまうのでした。
 よくよく考えてみると、中島老人のブラジル移住計画も、さんざん老人が危険だ危険だと思い込んでいる日本に「喜んで帰国したい」と申し出ているブラジルの農園主(演・東野英治郎)がいるから進んでいる話なので、中島老人の「日本から逃げよう」という主張に賛同している人なんて、作中に一人もいないんですよね。作中唯一の清涼剤ともいえる末娘のすえ(ネーミングセンス……)だって、哀れな父の姿に同情こそすれ、父の恐怖までをも共有しているとは思えません。中島老人の孤立はあくまでも彼自身の「おそれ」に起因するものなのであって、老人のカリスマ性やエネルギーによるものではないのです。

 中島老人を特殊なキャラクターにしないというこの頑なな決意は、すなはち「この物語を特異なケースにさせない」という黒澤監督の思いの表れなのだと思います。怪獣不在の怪獣映画とは、「いつ怪獣が出てくるかわからない」という状態を、この映画を観た後も観客に継続させようとする、一種の「呪い」なのではないでしょうか。
 つまり、映画を観終わった後に「放射能を怖がり過ぎるおじいさんが出てくるヘンな話だったね。」では絶対に済まさず、「放射能が怖いのはよくわかってる。じゃあ、そんな放射能がすぐそばにあるこの世界にいて、なんの不安も抱かない私達は、果たして正常なのかな?」と考えさせることこそが、この映画が生まれた意味なのではないでしょうか。
 怪獣が出てこないことによって、永遠に終わらない映画、そして問題。この『生きものの記録』は、そんなとんでもなくヘビーなテーマを、そのわりには非常に見やすく提示してくれる作品なのです。キャスト表見てみてよ~、もう全盛期の黒澤組ができあがりつつあるよ!!

 あの三船敏郎を擁しといて、こんなに贅沢な使い方を確信的にできる黒澤監督の剛腕もものすごいのですが、文字通りの「大スター怪獣ミフネトシロウ」の大暴れは、この後の黒澤映画諸作でもうイヤンとなるほど楽しめますからね! その振れ幅の大きさもまた、黒澤映画の魅力の一つですよね~。

 それにしても、Wikipedia にあった「この映画撮ったんだから、君いつ死んでもいいよ。」という言葉は、最大限の賞賛であるのはよくわかるのですが……なんかイヤ~!! 言う人も言われる人も、ものすごいよね。
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才気超爆発!!イギリス時代のヒッチコック文句なしの最高傑作 ~映画『バルカン超特急』~

2024年06月28日 20時37分56秒 | ふつうじゃない映画
 ハイみなさまどうもこんばんは~! そうだいでございますよ~い。
 さぁさ、いよいよ夏だ夏だ! こちら山形ではつい先週に梅雨入りしたばっかりなんですが、私の住む山形はそんなにひどい雨も降らないし、基本的にもう夏本番といった感じです。今年も、ど~か暑さはお手柔らかに……

 そんでもって、今回はまた「ヒッチコック監督の諸作を観なおす企画」の続きでありますが、いや~、ついにここまで来たかという感じですね! いろいろと思い入れのあるタイトル。初期イギリス時代の代表作といっても過言ではない、この作品のご登場でございます!


映画『バルカン超特急』(1938年10月 97分 イギリス)
 『バルカン超特急』(原題:The Lady Vanishes)は、イギリス・アメリカ合作のサスペンス映画。原作はイギリスの推理小説家エセル・リナ=ホワイト(1876~1944年)の長編ミステリー小説『車輪は回る』(1936年刊)。

 本作のマクガフィン(観客の興味を引っ張るストーリー上の謎)である「ギター弾きの歌」に関してヒッチコックは、「ばかばかしいものだ」と言いつつも大いに気に入っていた旨の発言をしている(ヒッチコックとフランソワ=トリュフォーの対談集『映画術』より)。
 本作でノーントン=ウェインとベイジル=ラドフォードが演じたイギリス人の乗客2人は、1940年のキャロル=リード監督のスリラー映画『ミュンヘンへの夜行列車』(プロデューサーが本作と同じエドワード=ブラック)にもほぼ同じ役で再登場している。また役名は異なるが、1945年のホラー映画『夢の中の恐怖』や1948年のオムニバス映画『四重奏』にも出演している他、日本未公開の8作の映画にコンビで出演している。さらに BBCラジオでは、2人が出演するスピンオフラジオドラマシリーズ『チャータースとカルディコット』も1946~52年に放送された。
 ヒッチコック監督は、エンディング近くのヴィクトリア駅のシーンで、コートを着てタバコをふかし、肩をすくめて通り過ぎる人物の役として出演している。

 本作は、イギリス映画協会が1999年にイギリスの映画や TV業界の1000人に行ったアンケート「20世紀の英国映画トップ100」で第35位に選ばれている。
 また、イギリスの雑誌『タイムアウト』が150人以上の俳優、監督、脚本家、プロデューサー、評論家や映画界関係者に行ったアンケート調査による「イギリス映画ベスト100」で第31位に選ばれている。
 本作は1979年にシビル=シェパード主演で『レディ・バニッシュ 暗号を歌う女』(製作ハマー・プロ)としてリメイクされている。


あらすじ
 世界各国がふたたび戦争に突入しそうな不穏な時代。ヨーロッパ・バルカン半島のある国バンドリカの山奥でスイス行きの列車が雪崩により運行停止となり、駅の待合所では出発が翌日に延期される旨が乗客に告げられた。乗客にはクリケット狂のチャータースとカルディコット、トッドハンター弁護士と実は妻ではなく愛人で不倫関係にある仮のトッドハンター夫人、家庭教師のミス・フロイなどがいて、仕方なく駅の近くの狭いホテルに泊まることになる。チャータースとカルディコットは、ホテルで客室が足りないためにメイド用の部屋を当てがわれ、レストランでは食べる物が足りず、イギリス本国でのクリケットの試合結果情報も入ってこないので不満ばかり。同じホテルには、結婚前の最後の旅行を友人2人と楽しんでいるアイリス=ヘンダーソンというイギリス人女性がいるが、友人たちからは結婚を心配されている。その夜、ミス・フロイがホテルの自室で窓の外から流れるギター弾きの歌を聴いていると、上階からクラリネットと民族舞踊の踊りが始まり、隣室のアイリスはうるさくて眠れないので静かにするようにとホテル支配人に頼む。しかし上の階のギルバートは、クラリネットで民族舞踊を記録するのは大事な作業だと譲らなかった。支配人に部屋を追い出されたギルバートはアイリスの部屋に転がり込んできて、根を上げたアイリスはギルバートを元の部屋に戻してもらう。この間、ホテルの外にいたギター弾きは何者かに殺される。
 翌日、列車運行は再開されるが、アイリスは出発時にミス・フロイを狙って落ちて来たと思われる植木鉢が頭に当たり、列車に乗ってからも意識が朦朧としていた。列車で同室となったミス・フロイと食堂車に行ってお茶を飲んで過ごし、客車に戻って一眠りしたアイリスが起きた時には、ミス・フロイは消えていた。同室の乗客がミス・フロイなど知らないと言ったため、不審に思ったアイリスは列車内を探し回るのだが、他の乗客も乗務員も初めからそんな老女は見なかったと口を揃える。さらに同乗していた高名な医師のエゴン=ハーツは、ミス・フロイは実在せず、アイリスが頭を打った後遺症で記憶障害を起こしているのだと断定した。ミス・フロイの実在を信じるアイリスは、たまたま乗り合わせていたギルバートと共に列車内でミス・フロイを探し始める。しかし、お忍びの不倫旅行中のトッドハンター弁護士は周囲の他人と関わりたくないために見た覚えがないと嘘を吐き、イギリスで開催されるクリケットの試合観戦に間に合いたいチャータースとカルディコットは、列車を停車させてでも捜し出すと息巻くアイリスの訴えを煙たがり、さらにクリケットを馬鹿にしたアイリスに激怒して協力を拒否してしまう。

おもなキャスティング
アイリス=ヘンダーソン     …… マーガレット=ロックウッド(21歳)
ギルバート           …… マイケル=レッドグレイヴ(30歳)
チャータース          …… ベイジル=ラドフォード(41歳)
カルディコット         …… ノーントン=ウェイン(37歳)
ミス・フロイ          …… メイ=ウィッティ(73歳)
エリック=トッドハンター弁護士 …… セシル=パーカー(41歳)
仮のトッドハンター夫人     …… リンデン=トラヴァース(25歳)
奇術師ドッポ          …… フィリップ=リーヴァー(34歳)
ドッポ夫人           …… セルマ=ヴァズ・ディアス(26歳)
クマー夫人           …… ジョセフィン=ウィルソン(34歳)
尼僧              …… キャサリン=レイシー(34歳)
アトーナ男爵夫人        …… メアリー=クレア(46歳)
エゴン=ハーツ医師       …… ポール=ルーカス(44歳)
ホテルの支配人ボリス      …… エミール=ボレオ(53歳)

おもなスタッフ
監督 …… アルフレッド=ヒッチコック(39歳)
脚本 …… シドニー=ギリアット(30歳)、フランク=ラウンダー(32歳)、アルマ=レヴィル(39歳)
製作 …… エドワード=ブラック(38歳)
音楽 …… ルイス=レヴィ(43歳)、チャールズ=ウィリアムズ(45歳)
撮影 …… ジャック=コックス(42歳)
編集 …… ロバート=E=ディアリング(45歳)
製作 …… ゲインズボロウ・ピクチャーズ、ゴーモン・ブリティッシュ映画社
配給 …… メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(イギリス)、20世紀フォックス(アメリカ)


 きたきたきた~! バル超! バル超! そんな略し方してる人が果たしているのかどうかわかんないのですが、列車ミステリーというジャンルで行くと、かの名作映画『オリエント急行殺人事件』(1974年 監督シドニー=ルメット)や、我が国が誇る伝説のカルト映画『シベリア超特急』シリーズ(1996~2005年 監督マイク水野)の祖先にあたる作品ですし、本作後半の列車スリラーアクションという展開から見れば映画『新幹線大爆破』(1975年 監督・佐藤純彌)や『カサンドラ・クロス』(1976年 監督ジョージ・パン=コスマトス)の源流ともなっているかなり重要な作品です。もしかしたら、黒澤明の『天国と地獄』(1963年)とか、スティーヴン=セガールはんの『暴走特急』(1995年)にも、このバル超の血が流れているのかも~!? いや、関係ねっか。
 ちなみに、映画じゃなくて原作小説の『オリエント急行殺人事件』をアガサ=クリスティが発表したのは1934年のことなので、そこはさすがにミステリーの女王が一歩先をリードしております。そこはやっぱ、そうよね~。

 ただし、ヒッチコック監督はこの作品以前にも、「船」とおんなじくらいに作中によく「列車」を登場させていますし、特に『第十七番』(1932年)や『三十九夜』(1935年)『間諜最後の日』(1936年)では、作中の大きな見せ場に「走行中の列車内」というシチュエーションを持ってくるテクニックをすでにバンバン使っています。やっぱり、もうもうと黒煙を上げて驀進する機関車というイメージが、映画ならではのサウスペンスフルな興奮と相性がいいんですかね。
 それでも、本作『バルカン超特急』の「列車成分」は格段にアップしているというか、具体的に見てみますと「上映時間97分中、67分が列車内」という高濃度になっております。イメージだけだと、もっと列車シーンばっかりだと思ってたんですけどね。

 さて、本来ならば、このヒッチコックおさらい企画をやるときは通常、ざっと映画本編を見た上でシーンごとで気になったポイントを羅列していく「視聴メモ」のコーナーを設けているのですが、今回『バルカン超特急』に関しましては、もうそんなこといちいちやってたらこの記事の字数が2万字を余裕で超えてしまいますので、やりません! もうとにかく皆さん、まだ観てないという方はとにかく観て!!

 いやホント、ヒッチコック監督の約半世紀という悠久のキャリアの中でのベスト、最高傑作を選ぶことほど難しい問題もないのですが、こと初期イギリス時代に限って言うのならば、ヒッチコックのベストはもう簡単、満場一致でこの『バルカン超特急』で決まりだと思いますよ。いや、異論なんて、出てくる!?
 もちろん、ここにくるまでの諸作でも、21世紀の今観てもなお魅力的な傑作はいっぱいありました。『下宿人』(1927年)のショッキングなカメラワーク、『恐喝(ゆすり)』(1929年)の野心的なロング無音ショット、『暗殺者の家』(1934年)の緊迫感あふれる銃撃戦、そして前作『第3逃亡者』(1937年)のユーモアたっぷりなストーリーテリングと、ただ実験的なだけじゃなくて観客の興味をちゃんと引っ張ってくれるロングワンカット撮影!
 どの作品一つをとっても、「昔ものすごく斬新な映画監督がいたよ」という記憶に残ってしかるべき仕事ではあるのですが、ヒッチコック監督はそこで満足することなど決してなく、ついにそれらの良かった点をぜ~んぶまるっと一つの作品におさめ、それどころが全面において上位互換となる、さらにワンステップ上の超傑作を生んでしまったわけなのです。

 それまでのヒッチコック監督作品の、文字通りの総決算にしてネクストレベル、そして「次なる時代」を開く奇跡の鍵となった伝説的名作! それこそが、この『バルカン超特急』なのであります!! そこまででっかくブチあげていいでしょうか!? い~んです!! へぱりーぜ!!


 そもそも、私がこの作品の時代を超えた面白さのとりことなったきっかけは、かなり昔の話になります。

 話は『バルカン超特急』からも脱線してしまうのですが、そもそも私がアルフレッド=ヒッチコックという歴史的に有名な映画監督がいることを生まれて初めて知ったのは、ご多分に漏れず彼の映画そのものの鑑賞ではなく、彼の生涯を描いたバラエティ番組や、彼の映画を題材にしたパロディコントからでした。

 具体的に思い出してみますと、なんてったって1990年代の日本のテレビ界における「偉人伝バラエティ」といえばこれ!とも言うべき、日本テレビ系列で毎週日曜日の夜9時から放送していた『知ってるつもり?!』をはずすことはできませんね。関口宏と加山雄三!!
 ここでヒッチコックが特集されたのは1992年7月19日の放送回だったのですが、彼の生涯を通覧しつつも、あの「切り裂きジャック事件」をキーワードにヒッチコックと故郷ロンドンとの因縁をミステリアスに強調したり、はっきりパワハラとは言わないまでも、彼の映画に主演したブロンド美人女優たちとの愛憎関係にはっきり言及したりと、なかなか、当時紅顔の小中学生だったそうだい少年には刺激の強い内容となっておりました。ヒッチコックって、こえぇ!

 その他、思い出せる限りでは NHKで放送されていた同趣向の伝記バラエティ番組『西田ひかるの痛快人間伝』(1991~93年放送)の1992年5月14日放送回でもヒッチコックが取り上げられていまして、こちらはさすがに天下の NHKの教養番組だしナビゲーターも西田ひかるさんなんで、ヒッチコックの実人生よりも彼が監督した映画に導入されたグリーンバック合成や遠近法を利用した大胆な映像演出のセンスにクローズアップした内容だった覚えがあります。各映画にカメオ出演したヒッチコックの登場シーン集なんてのもやってましたよね。なつかし!

 そんな感じで、映画の面白さは西田ひかるさんから、人間ヒッチコックのヤバさは『知ってるつもり?!』から知らされた上で、私は満を持してヒッチコック監督作品そのものに触れる流れとなったのでした。あの、『痛快人間伝』(5月)と『知ってるつもり?!』(7月)とで、ヒッチコックを特集した時期がミョ~に近いんですが、1992年ってヒッチコックのなんかのアニバーサリーイヤーでしたっけ? 別に生没年のどっちから見てもキリのいい年ではないのですが……なんで?

 あ~、ごめんなさい! もひとつ、いっすか!?
 そういった伝記番組の他にもう一つ、私とヒッチコックとの出逢いを語る上で絶対に忘れるわけにはいかない、この番組のあの放送回に触れさせていただきたいと思います。個人ブログなんで、もちっと我慢してつかぁさい!

 それは、『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』内のコントドラマコーナーで1990年12月1日に放送されたヒッチコック作品のパロディ『裏の窓』です!! うわ~なつかし~!!
 これ、もともと映画好きとしても知られているウッチャンナンチャンの趣味が爆発したような、毎回毎回有名な映画作品のパロディコントを繰り広げるコーナーの1エピソードだったのですが、特にこの回は、言わずもがなヒッチコックの超有名作『裏窓』(1954年)をそうとうぜいたくな予算のセットで再現していて、当時小学生だった私には本当に面白かったんです。足を骨折した役のナンチャンを介護する田中律子さん(当時19歳)の看護師がかわいかった! 今現在も私が健康的に日焼けした女性が大好きなのは、ここに原因があります。
 ここでは、ウッチャンが映画の登場人物でなく全身とほっぺに肥満体メイクをしてハゲヅラをかぶってヒッチコックその人を演じていたのですが、思えば、ここでの「なんか怪しげなおじさん」こそが、私とヒッチコックとのほんとに最初の出逢いだったのです。いや、本人じゃねぇけど!

 すみません、ここでいい加減にお話を戻しますが、こういったさまざまな前情報をゲットした上で最初に私が観た正真正銘のヒッチコック作品は、記憶する限りレンタルビデオでは1992、3年ごろに借りた『サイコ』(1960年)で、テレビで観た最初が NHK衛星第2(当時)の『衛星映画劇場』内で放送していた『バルカン超特急』だったのでした。やっと戻って来たよ~!!
 ここ、確か『サイコ』が先で『バル超』が後だったかと思います。なんでかっていうと、『バル超』を観てかなりほっとした記憶があるんですよ。「あ~、ヒッチコックって、やっぱウッチャンナンチャンがやってたみたいに面白い映画撮る監督なんだよねぇ!」って。

 そうなんです。『サイコ』は言うまでもなくヒッチコック畢生の大傑作ではあるのですが、やっぱりああいった感じでかなりトンガッた作品なので、正直、当時中学生だった私はドン引きしちゃってたんですよね。そしてその後に観たのがこの『バル超』だったので、その頭をからっぽにしてハラハラドキドキを楽しめる100% エンタメ全振りな内容に、胸をなでおろすことができたのでした。
 まぁ、そうやって安心した直後、調子に乗って『鳥』(1963年)を観ちゃって、再び恐怖のズンドコに叩き落されるんですけどね……もう、いじわる!!

 まぁ長々と思い出話をしましたが、私が言いたいのは、ヒッチコックのエンターテイナー、娯楽映画作家としての才能が最初にいかんなく発揮された大傑作こそが、この『バルカン超特急』なのではないか、ということなんですね。

 本作の面白さを語り出したら本当にキリがなくなってしまうのですが、大事なところをかいつまんで申しますと、「無駄な登場人物がいない」というか、「登場人物全員がキャラ立ちしている」という事実が大きいかと思います。そして、主人公であるアイリスとギルバートの凸凹コンビの好感度がハンパない!!

 上の情報の通り、本作はヒッチコック作品恒例の「男女カップル主人公」という定型を踏襲しているのですが、アイリスは婚約者との結婚を目前に控えたマリッジブルーまっただ中の娘さんで、対するギルバートは恋愛そっちのけで自身の民俗学研究に没頭するさすらいの放浪青年という、まるで接点の生じようのない関係から始まります。しかも、出逢いの最初はホテルの部屋の中でブンガブンガ大音響を立てて民俗舞踊を現地人に踊らせるギルバートにアイリスが「うっせぇ!!」と苦情を入れ、それを根に持ったギルバートが荷物をひっくるめて「同室いいっすか!? おめぇのクレームのせいで支配人から部屋追い出されたんで!!」とアイリスの部屋に押しかけるという最悪の状況から。高橋留美子のマンガか!?

 ところが、この2人があれよあれよという間に、「列車の中でアイリスが見知っている老婦人が失踪する」という謎をきっかけに距離を縮めていき、「老婦人なんて最初っからいなかったよ?」とか「モル……じゃなくてアイリス、あなた疲れてるのよ。」とか言われたりして孤立無援の状態になったアイリスを見て、「義を見てせざるは勇無きなり!!」とばかりに敢然と立ちあがった英国紳士ギルバートが彼女のナイトになるという、そりゃアイリスもフィアンセそっちのけで惚れてまうやろがいという運命的な関係に発展していくのです。

 うわ~、この甘ったるいまでのスリル&ロマンス!! まさにエンタメですよねぇ。ま、若干「吊り橋効果」の不正操作疑惑もありますが、ギルバートを演じるマイケル=レッドグレイヴの上品な雰囲気もあって、アイリスを助けるギルバートの存在は本当に飄々としていながらも頼もしく、かっこいいんです。
 いや~、このカップルってほんと、『三十九夜』のリチャード(演ロバート=ドーナット)とパメラ(演マデリーン=キャロル)の「出逢いも過程も最悪カップル」を反面教師にしてるとしか思えませんよね。リチャードは冤罪で逃亡中の身とはいえ、パメラにやってること最低すぎますから……本編終了後にパメラに速攻で訴えられるどころか、殺されても文句は言えません。

 ともかく、映画は「主人公にどれだけ感情移入できるか」が非常に大きいと思うのですが、今作は二重三重の構えでアイリスとギルバートのキャラクターを魅力的にする盤石の態勢を敷いているのです。
 私、不勉強なことに本作の原作である小説『車輪は回る』をチェックできていないのですが、アイリスのマリッジブルー設定あたりは原作由来なのかな。なんか、これまでのヒッチコック作品におけるヒロインたちは同性から見ると嫌な感じになりそうな状況に陥ることが多かった気がするのですが、婚約者をむげにフッてしまうような自由度すら持っている今作のアイリスは、けっこう画期的に新しいキャラなのではないでしょうか。

 このアイリスとギルバートの定番主人公ペアだけでも充分に面白いわけなのですが、今作のすごいところは、ここにさらに脇役ポジションでも「チャータースとカルディコット」という名コンビが加わっているという事実ですよね、やっぱ。
 上にあるように、この2人は嫌味なまでに英国紳士あるあるな滑稽さを備えたキャラであるために、本作の後に完全独立していくつもの映画やラジオドラマに登場する名コンビになっています。
 この2人の魅力は、本編序盤30分くらいの「無理やり泊まらされるはめになった雪のド田舎の宿屋」シチュエーションのやりとりでも十二分に発揮されているのですが、これが単ににぎやかし要員で呼ばれているだけでなく、のちに列車内の展開で「大好きなクリケットをバカにされたから捜査に協力してやんない」という、作品の本筋にも大きな影響を与える存在になっているのが本当に素晴らしいです。

 敵か味方かだけじゃなく、「機嫌が悪いと協力しない」第三勢力のいる作品世界って、ものすごくリアルで目が離せない緊張感を生む味付けになりますよね。ここが効いてるんだよなぁ! チャータースとカルディコットは、『それいけ!アンパンマン』のドキンちゃんやロールパンナの祖先だった……!?

 まぁ、終盤の銃撃戦でこの2人が異様に頼もしい戦力になるのは、さすがにご都合主義な感も否めないのですが、それも「俺達のクリケット観戦の邪魔をする奴ら……全員ぶっ殺す!!」という、イギリス・ウェールズ伝統の聖獣レッドドラゴンの逆鱗に触れた当然の結果であるとも言えます。よくできてんなぁ~。

 ちょっと、字数の都合で登場人物全員の魅力を語るわけにもいかないのですが、取り上げた2カップル4名の他にも、今作最大の謎の渦中にいる謎の老婦人ミス・フロイから田舎ホテルの支配人ボリスにいたるまで、もはやマンガチックと言うまでにキャラの立った人物のオンパレードで、本作は本当に楽しいです。もちろん、だからといって単なる喜劇になっているわけでは決してなく、楽観的で平和主義を標榜するトッドハンター弁護士があんな目に遭ってしまう描写なんかは、背筋がぞわっとするリアルさがありますよね。一瞬にして場の空気が変わる、その見事な演出。

 たくさんいる魅力的なキャラの中でも、特に私がおおっと感じたのは、クライマックスになって実はそうとう悪い役だったと判明する、あの人ですよね。それまで列車の中では無口で目立たない存在だったのに、主人公たちの乗る列車が走り去るのを見て、ハーツ医師の横でタバコをスッパーと吸って微笑する姿は、悪の大幹部の魅力たっぷり! あっ、この人、前作『第3逃亡者』で意地悪な叔母さんを演じてた人か! そりゃ悪いわ。


 俳優さんに限らず、この作品は本当に語るべき魅力がたくさんあふれまくりの大傑作なのですが、やはり主人公たち一行と観客の視線が一緒になって、「異国の地で孤立無援となったヒロインは救われるのか」、「失踪した老婦人はどこへ行ったのか」、そして「一行の乗ったバルカン超特急は無事に終着駅にたどり着くことができるのか!?」という興味がクライマックスに向かってきれいに集束していく構造の美しさ! ここが最大の魅力だと思います。ただ笑えるシーンやドキドキするシーンがつるべ打ちになってるだけじゃなくて、全てが伏線となってハッピーエンドにつながってゆく……無駄な部分がほぼないんですよね。

 よく言われますが、国際的にかなり重要な機密情報が、ほんとにあんな単純で短い鼻歌のメロディにおさまりきるのかという問題は当然あります。でも、

「こまけぇこた、いいんだよ!!」

 という、チャキチャキのロンドンっ子ヒッチコックのエンタメ精神が、これほどまでにはっきり打ち出されたマクガフィン要素も、他作品には無いのではないでしょうか。後年の『サイコ』における「横領した現金4万ドル」と比べて、どんだけ粋で風流なんだって話ですよ。


 本作『バルカン超特急』は、確かにヒッチコック「全生涯中のベストはどれか?」という観点からすれば、決して目立つ位置にはいない作品であるとは思います。
 しかしながら、彼がただの映画監督どころか、名匠と讃えられるレベルの人達の中でも、さらに数段上の次元に達している人物であるがゆえに、そんな信じられないクオリティのインフレを招いているのであって、『バルカン超特急』単体は押しも押されもせぬサスペンス映画の大傑作であることは間違いないでしょう。
 古い映画とあなどることなかれ……ほんと、観て絶対に損しない名作だと思いますよ。時間だって1時間半ちょっとよ! ぜひぜひ見てみて!!

 こうして、監督デビューから13、4年目にしてとんでもない傑作を生んでしまったヒッチコック監督なわけですが、この才能はイギリス一国に留まらず、海を渡って映画の都ハリウッドへと、進化の場を移していくのであります!
 さぁさぁ、 サスペンスの巨匠ヒッチコックの真の大躍進の場となるアメリカ・ハリウッド編が、ついに始まるぞぉ~!!


 ……え? ハリウッド編、まだ? もう1本、イギリス時代の作品が残ってるって?

 あぁ、そう……じゃあ、次回はそれいってみよっか。そのあとハリウッドね、うん……
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ヒッチコック meets 赤川次郎チック少女冒険譚!? ~映画『第3逃亡者』~

2024年06月02日 23時10分13秒 | ふつうじゃない映画
 みなさま、どうもこんばんは! そうだいでございます~。週末いかがお過ごしでしょうか。明日からまた月曜日! ひえ~。
 いよいよ私の住む山形も雨のお天気が増えてきまして、梅雨入りももうすぐかな、という感じになってまいりました。とは言っても、まだまだ先かな。キュウリ、キュウリ! うちの食卓のどこかに必ずキュウリが顔を出す季節がやって来ます……キュウリが嫌いじゃなくてほんとに良かった。
 キュウリって、食べるのが平気な人から見たら、そのまんまでも漬け物にしてもサラダに加えても、何にでも応用が利く素晴らしい食材ですよね。やみつきキュウリ最高!
 しかし、そんな万能選手なキュウリでも、嫌いな人はその強い「青臭さ」が苦手なので、どの料理に参加しても必ずその存在感を隠さず発揮してしまうところがたまらなく嫌なのだそうです。確かにキュウリは、トマトやナスほど「生だった時代の自分を消す」ことはできませんよね。頑固一徹というか、自分を貫くというか。

 ということで今回は、どのジャンルの作品を撮影しても、自身の色やセンスが隠しようもなく見えてしまうヒッチコック監督の諸作の中でも、特に「青春の青臭さ」のただよう傑作を……もう、何も言わないで! 強引なのは私が一番知ってるから。助けてキューちゃん!!


映画『第3逃亡者』(1937年11月公開 84分 イギリス)
 『第3逃亡者(だいさんとうぼうしゃ)』 (原題:Young and Innocent)は、イギリスのサスペンス映画。イギリスの推理小説家ジョセフィン=テイ(1896~1952年)による、スコットランド・ヤードのグラント警部を主人公とする小説シリーズの第2長編『ロウソクのために一シリングを』(1936年)の映画化作品である。 ただし、本作での真犯人は、原作小説とは異なる人物に設定されている。

 本作の見どころとして、クライマックスシーンにおけるクレーンを使った大がかりな移動撮影によって、真犯人の居場所を観客にだけ先に明示する約70秒間のワンカット撮影シーンが挙げられる。
 ヒッチコック監督は本編開始15分34秒、裁判所前で小さなカメラを抱えた記者の役で出演している。


あらすじ
 ある朝の海岸で、水着姿の映画女優クリスティーン=クレイの遺体を偶然発見した青年ロバート=ティズダルは、殺人犯と誤解されて逮捕されてしまうが逃亡し、警察に追われながらも、警察署長の娘エリカの助けを借りながら真犯人を探し出して自らの潔白を証明しようと奮闘する。

おもなキャスティング
エリカ=バーゴイン    …… ノヴァ=ピルビーム(18歳)
ロバート=ティズダル   …… デリック=デ・マーニー(31歳)
バーゴイン署長      …… パーシー=マーモント(54歳)
エリカの叔母マーガレット …… メアリー=クレア(45歳)
エリカの叔父ベイジル   …… ベイジル=ラドフォード(40歳)
ケント警部補       …… ジョン=ロングデン(37歳)
ウィル爺さん       …… エドワード=リグビー(58歳)
男            …… ジョージ=カーゾン(39歳)
クリスティーン=クレイ  …… パメラ=カルメ(?歳)

おもなスタッフ
監督 …… アルフレッド=ヒッチコック(38歳)
脚本 …… チャールズ=ベネット(38歳)、エドウィン=グリーンウッド(42歳)、アンソニー=アームストロング(40歳)、ジェラルド=サヴォリ(28歳)、アルマ=レヴィル(38歳)
製作 …… エドワード=ブラック(37歳)
音楽 …… ルイス=レヴィ(43歳)
撮影 …… バーナード=ノウルズ(37歳)
編集 …… チャールズ=フレンド(28歳)
制作 …… ゴーモン・ブリティッシュ映画社


 ということでありまして、今回はイギリス時代のヒッチコック監督の手腕もいよいよピークに近づいてきた、監督第21作の登場でありんす。
 作品の内容に関するつれづれは、いつものように後半の視聴メモにまとめましたので総論から言いますと、この作品は全体的に非常にコメディチックでライトな雰囲気でありながらも、随所でヒッチコック監督の専売特許である「細かいカットの切り換えしによるスピーディな映像」が楽しめるハイクオリティな娯楽作となっております。

 この作品、邦題が『第3逃亡者』ということで、『三十九夜』(1935年)みたいに主人公がヒーヒー言いながら逃亡するサスペンスなのかなと思われる方もいるかも知れないのですが、原題を直訳すると『若者と子ども』ということで、青年ロバートと18歳の少女エリカの2人が奇妙な逃走劇を繰り広げながらも、ロバートにおっかぶせられた殺人容疑者の疑いを晴らすべく真犯人を追うという愉快痛快な冒険スリラーになっているのです。
 しかも、2人のうち実質的な主人公となるのは少女エリカのほうで、裁判所から逃走してお尋ね者となっているロバートに変わって活躍する場面が非常に多く、事件解決後のラストカットも彼女の笑顔になっているので、まるであの、薬師丸ひろ子あたりが主人公となって1980年代前半に大ブームとなった角川アイドル映画群、もしくは NHK-FMのラジオドラマシリーズ『青春アドベンチャー』や NHK教育(当時)の「少年ドラマシリーズ」 をほうふつとさせるジュブナイル映画の先駆け的傑作なんですね。カイ……カン♡

 エリカを演じたノヴァ=ピルビームさんは、正面から見た顔こそ、眉毛と目つきがきりっとしていて実年齢以上に大人びた雰囲気はあるのですが、ロバートたち大人の男どもと並ぶといかにも体格が小さくて華奢ですし、横顔も意外とデコッぱちなラインを描いているので、人並外れて義侠心のあるだけのフツーの18歳の少女が青年の冤罪を証明するという、赤川次郎作品にありそうな、大人顔負けの子どもが大活躍する作品に仕上がっております。
 作中のノヴァさんの凛としたたたずまいは非常にかっちょよく、薬師丸ひろ子というよりはむしろジブリアニメのヒロインのようなりりしさに満ちているのですが、たとえば警察の追手がすぐそこまで迫ってきているのに、冷静に愛車のセダンのフロントグリルにささったクランク棒を半回転させて、ノーミスでブルンッとエンジンを起動させて運転席に飛び乗る一連の仕草なんか、もうこれに惚れずになにに惚れるんだっていう漢前感ですよね。あれ、一発で起動させるのそうとう難しいんじゃないの!? かっけぇ!!

 いや~、こういう映画が、第二次世界大戦のおよそ2年も前に作られてたんだねぇ。さすがはイギリス、文化レベルが高い。

 ただ、実はここまで少女エリカが前に出てクライマックスまで活躍するのは、毎度おなじみヒッチコック監督による映画化の際の完全オリジナルな改変なのでありまして、本作の原作となった推理小説『ロウソクのために一シリングを』(1936年)では、エリカの活躍はせいぜい物語の中盤程までとなっており、ロバートの出番もさらに少なく、あくまでも女優殺人事件の捜査の中で発生したエピソードのひとつとしてしか語られていないのです。ヒッチコック監督、ふくらましたねぇ~!!
 具体的に言うと原作小説『ロウソク……』は、序盤でロバートが女優殺害の濡れ衣を着せられる展開や、彼を助けるために警察署長の娘エリカが冤罪の証拠となる「ロバートのコート」を捜すという流れこそ同じではあるのですが、女優が生前に残した遺言書にロバートのことは全く書かれておらず、映画版には一人も登場しなかった女優の親族・関係者たちが捜査線上に容疑者としてあがっていくというように物語が分岐していきます。つまり、わりと早めにエリカの奮闘によってロバートが真犯人でないことが判明して、その後は女優の周辺の人物たちの中から真犯人を探し当てていくという、非常にまっとうな本格ミステリーにシフトしていくのが原作小説なんですね。

 ここで特記しておきたいのですが、原作小説『ロウソク……』も、映画版とは全く違うベクトルでめちゃくちゃ面白い推理小説となっております! ハヤカワ・ポケットミステリから邦訳が出ているのですが、1930年代にこういう真犯人の設定してる作品があったんだ……と私はビックリしました。もちろん、映画版の真犯人とはまるで別の人物です。
 これ、ふつうにデイヴィッド=スーシェの「名探偵ポワロ」シリーズみたいに原作に忠実に映像化しても面白いと思いますよ。ただ、本作の名探偵であるグラント警部がいまいちパッとしないんだよなぁ。原作でロバートをみすみす逃亡させてたのもこの人のせいだし。
 でも、この原作の真犯人像って、好きですねぇ。スーシェ版の「名探偵ポワロ」の中にも、非常に似たテイストの犯人が出てくる傑作があるのですが、それも私、大好きなんだよなぁ。いいですよね、こういう人間の心の闇が生む犯罪……

 意外とダークな味わいの原作小説と違って、ヒッチコックが映像化した映画版はきわめて明朗快活な娯楽作で、例えて言うのならば、日本の江戸川乱歩の大人向け通俗探偵小説『猟奇の果』(1930年)とか『影男』(1955年)が原作小説『ロウソク……』側で、子ども向け探偵小説の『怪人二十面相』(1936年)とか『超人ニコラ』(1962年)が映画版側、ということになるでしょうか。要するに、完全オリジナルではないのですが、原作の中の「エリカの大冒険!」パートだけ抽出してひとつの作品にまで拡大したのが映画『第3逃亡者』なわけなのです。

 あ~そうか、イギリスで本作が出ていたのとほぼ同時期に、日本でも『怪人二十面相』を皮切りとする大乱歩の「少年探偵団シリーズ」も産声をあげていたんですなぁ。なんか、浅からぬ縁を感じますな。映画好きの乱歩だったらイギリスで『 Young and Innocent』という映画が出たという情報は絶対に掴んでいたでしょうけど、『怪人二十面相』の連載開始のほうが先なんですよね。イギリスに天才あらば、極東にも天才あり!


 本作『第3逃亡者』は、ちょっとお堅いタイトルからは想像できないような、肩の力を抜いて楽しむこともできるファミリー向けな娯楽作となっております。ただし、ちょっとしたアクションにも細かなカットの切り換えしを入れて臨場感を持たせる編集の妙や、グランドホテルのロビーとミュージックホールの実寸大セットを壁ぶち抜きで製作し、そこを縦横無尽に動くクレーンを投入して70秒間長回しのカットを創出するカメラワークなど、当時のヒッチコックが全力をかけて本気で作った意欲作であることは間違いありません。エンターテイナーとしてのヒッチコックの、当時の時点での最高の仕事を堪能できる傑作になっていると思います。
 唯一の瑕疵というのならば、作中の警察の方々がびっくりするくらいに無能ぞろいなところくらいですかね……『ルパン三世』第2シリーズの警察か君たちは!? ま、作品の流れ上、いたしかたないよね。有能だったらロバート速攻でとっつかまって話が続かないから。

 まぁ、その「ヒッチコック史上最高」の記録は、このすぐ後の次作でいとも軽々と更新されちゃうんですけどね! すげーなヒッチコック!!


≪いつもの視聴メモ~!≫
・ジャズ調のアップテンポな音楽で始まり、開幕の嵐吹きすさぶ夜のシーンから、女優を殺害する真犯人の顔と、彼が女優の夫であること、そしてその犯行動機までもが矢継ぎ早に観客に提示されるというスピード感がハンパない。でも、原作小説の真犯人とは全くの別人なので問題ナシ!
・嵐の去った翌朝、快晴のドーバー海峡の砂浜に打ち上げられた女優の遺体! モノクロではあるのだが海岸の情景は非常に美しく撮影されていて、もともとヒッチコック監督が鉄道と同じくらいに海や船の撮影も好きであることを思い出させてくれる(『マンクスマン』や『リッチ・アンド・ストレンジ』など)。
・女優の遺体を最初に発見したがためにいろいろひどい目に遭ってしまう主人公ロバート。高身長のハンサムというわけではないのだが、マイケル=J・フォックスやオリエンタルラジオの藤森さんみたいな、人たらしっぽくて憎めない顔立ちの青年である。いいキャスティング!
・ロバートの次に遺体を発見して恐れおののく女性2人の表情に、空を舞うカモメのスローモーション映像をかぶせ、遺体を直接撮影しないところが非常にお上品。
・ちゃんと警察に通報したのに、「第一発見者こそ怪しい」みたいな雰囲気だけで身柄を確保されてしまうロバート。ひどすぎ……哀しいけど、これ、ヒッチコック映画なのよね。理屈よりもテンポ重視!
・被害者と親しかったことと、遺体のそばにあったベルトがロバートのオーバーコートから取れたものらしいことを警察が調べ上げ、ロバートの旗色は俄然悪くなってしまう。本作でのキーワードとなるこのベルトは、原作小説ではコートのボタンである。もちろん、映画として見栄えするという理由からの変更だと思われる。
・ロバートを追求する理知的なケント警部補を演じるのは、『ゆすり』(1929年)以来ヒッチコック作品にちょいちょい出演しているジョン=ロングデン。刑事役が似合う。
・殺された女優が生前、ロバートに資産1200ポンドを譲る旨の遺言書を残していたと知り、ロバートはプレッシャーのあまり失神してしまう。ちなみに1937年当時の1200ポンドの価値は、現在の日本円にして約1200万円である。う~ん、そんなに多くもないのが逆に生々しい!
・失神したロバートを、刑事そっちのけで率先して介抱する本作のヒロイン・エリカ! 演じるのはヒッチコック作品『暗殺者の家』(1934年)で子役を演じていたノヴァ=ピルビーム18歳。本作のタイトルでは身もフタもなく「子ども」と評されている彼女だが、のっけから義侠心にあふれた漢気あふれる勇姿を見せてくれる。顔立ちこそ正統派な美人ではないものの、いかにも刑事の娘らしくきりっとしたまゆ毛と鋭い眼光がすばらしい。親父さんのバーゴイン署長のほうが、逆にのほほんとした顔なんですよね。
・冒頭の真犯人といい失神したロバートといい、男どもが女優さんがたに、これでもかというほどにビンタされるくだりが頻繁に出る。ヒッチコック監督、ご趣味がもれてます!
・ロバートの顔を見て「人殺しをするような顔じゃない。」とつぶやくエリカ。それを聞いた刑事が「見た目で判断しちゃいけませんぜ。」と諭すと、何を勘違いしたのかエリカは冷たい表情で「べっ、別にタイプだからってかばったわけじゃないんだから!」と答える。お~い、ツンデレ! 第二次世界大戦前のツンデレ発見!! しかもこれ、原作小説にもがっつりあるくだり!
・そうやってエリカがツンとなったかと思えば、エリカのおかげで失神から目が覚めたロバートも、開口一番「し、失神なんかしてないぞ。」と意味不明な意地を張って応戦する。相性よすぎだろ、この2人。ちなみに、こっちのロバートの返し言葉は原作には無い。脚本、グッジョブ!
・登場してすぐに立ちまくったキャラクターを発揮するエリカだが、さらには警察署長の令嬢で車の運転もお手の物というおてんば娘でもあった。いや~、このへんのつるべ打ち感、21世紀でも全然通用する軽快なテンポである。映画というよりはテレビドラマっぽいけど。
・さほど物語には絡んでこないのだが、裁判がかなり不利な状況なのに他人事のようにのんびり天気の話などをして、ロバートが大丈夫なのかと尋ねると「今すぐ前金払える?」と外道なことをぬかす高田純次みたいな弁護士のおっちゃんがいい感じにひどい。そりゃロバートも早々に見切りをつけるわ!
・裁判所の喧騒にまぎれてみごと脱走に成功するロバート。ここでの、ちょっとした廊下の混みあいにまぎれた失踪からさざ波のように「被告が脱走したってよ!」の伝言ゲームが始まり、最終的に裁判所から全員が逃げ出してパトカーがバンバン出動する大騒ぎに発展するピタゴラスイッチな流れが非常に丁寧で面白い。その中にちっちゃなカメラを抱えた記者の役で、迷惑顔のヒッチコック監督自身がいるのも粋である。
・本作ではエリカの愛車として、当時としても古いと思われるオープン形式のセダン車が大活躍するのだが、いちいちフロントグリルに付けたクランク棒(スターティングハンドル)を回してエンジンを起動させなきゃいけないのが古式ゆかしい。ジブリアニメの『紅の豚』か! このコツのいる力仕事を自分でやれるっていうのが、エリカ18歳のすごいとこなんだな! 余談だが、1930年代の当時でも車内からの操作で電力によってエンジンを起動させる機能(英語でセルフスターター。日本でよく使われる「セルモーター」は和製英語)はすでに普及しており、クランク棒を使って起動させるエリカの姿は周囲からそうとう珍しく見られていたと思われる。今で言うと、うら若い娘さんがマニュアル車を運転しているようなものだろうか。かっこいいな!
・このエリカの愛車についてなのだが、実は原作小説での愛車(「ティニー」という愛称もある)は、イギリスの自動車メーカー「モーリス」の2ドア小型車である「初代モーリス・マイナー」(1928~34年製造 車長3m、重量700kg、最高時速88km)であると推定され、映画に登場するような立派な図体のセダン車(おそらく同じモーリスが1919~26年に製造していた「2代目モーリス・カウリー」と思われる)ではない。また、映画で描写されるようにクランク棒で人力起動させることもなく、普通に車内からの電力起動でエンジンをかけている。要するに、原作版のエリカは若い女性が一人で使用する車として機能的にも価格的にも順当な小型中古車を使っているのに、映画版のエリカはわざわざロープを使ってレバーを引きながら人力起動させなければいけない(=電力起動が故障している)ほどに古くて無駄にでかいセダン車を使っているのである。これはつまり、ロバートがエリカの車のトランクに隠れて裁判所からの逃走に成功するという映画オリジナルの展開のために小型車でなくセダン車にしたという理由もあるし、何よりも「画的に面白い」という動機から原作以上におんぼろな車種にしたものと思われる。いや~ヒッチコック監督、この頑ななまでの「原作がどうか知らんが、映画的には絶対にこっちの方が面白い」と確信した時のためらいの無いアレンジが微に入り細に穿ちまくりである。こまけ~!!
・中古車をはさんでのエリカとロバートの奇妙な出逢いから、2人がロバートの無実を証明するコートを探し求めるドラマチックな逃避行の始まりとなるのだが、原作小説での2人の接触はほんの数分間のみで、ロバートはエリカを巻き込むまいと早々に姿を消し、彼の無実を確信したエリカが単独でコートを探すという流れとなる。まぁそっちのほうが現実的なのだが、どちらのバージョンでもエリカが人並外れた義侠心の持ち主であることに変わりはない。むしろ原作版のエリカは行きがかり上の必要から、スカートの下に履いていたブルマの内側に刺繍された自分の名前を、初対面の中年男性にめくって見せるという映画版以上にきわどい行動もとっていて、ほんと、勇気と無謀が紙一重の大冒険をしてしまうのである。さすがにこれ、当時の映画界では映像化不可能だったろうなぁ。
・宿なしの連中がたむろする定食屋「トムの帽子」に単独潜入するエリカに、亭主がうっかり見慣れないコートを着たウィル爺さんの話をしてしまい、ウィル爺さんをかばおうとする連中と正直に話そうとするトラックの運ちゃん達とで壮絶な殴り合いに発展してしまう。ここ、やっぱり殴り合いの部分が映画オリジナルなので、別にウィル爺さんから金をもらってるわけでもないのに殴り合いまでする理由がよくわからない。まぁ、それだけ仲間意識の強いホームレスさんなんだな、ということで……
・展開的には強引なのだが、この客同士の大乱闘のおかげで、巻き添えをくらって流血してまでもエリカを救おうとしたロバートの勇気が証明される重要なシーンとなったので、映画的にはオールオッケー! でも、あのドリフのコントみたいな噴水のくだり、2人ともよく笑わずに演技できたな……
・ロバートの「君の左折に感謝するよ。」というセリフも粋だが、その後に並木道をさっそうと去って行くロバートの後ろ姿も、後年の歴史的名画『第三の男』(1949年)の構図を先取りしているようで小憎らしい。そしてそこからの「続くんかーい!」な流れは、ユーモアセンスが冴えわたる流れである。
・2人が忍んでエリカの叔父叔母の邸宅に寄ったところ運悪く誕生パーティの真っ最中で、しかも詮索好きな叔母とお人よしすぎる叔父のために予想外の足止めをくらうという展開が観ていてハラハラするわけだが、別にその時点で警察が『三十九夜』のように全力で2人を追っているわけでもないので、いまひとつ緊張感がわかないのが惜しい。ロバートの人相が知れ渡るテレビニュースみたいなツールも無いしね……のんびりしたもんです。
・どうやら仲が良くないらしい妹マーガレットからのチクリ電話によって、娘エリカに変な男が同行していることを知るバーゴイン署長。最初こそ「まぁあいつも年頃だし、彼氏の一人や二人……」と余裕の表情だったが、なんとその相手がくだんの逃亡者らしいと聞いて愕然としてしまう。とは言っても、愛娘が殺人犯の恐れのある男と2人きりでいるという絶望的状況にぶち当たった割には、的確に捜査網を張って2人を確保寸前まで追い詰めているので署長は意外と冷静である。さすが父娘、エリカに対して「そう簡単におっ死ぬようなやつじゃないよ、あいつは。」という堅い信頼があるのであろうか。
・本作は原題通りにロバートとエリカの逃避行が中心の物語となるので、運転席と助手席に並ぶ2人を映す「スクリーンプロセス」撮影のシーンが非常に多い。だが、さすがヒッチコック監督というべきか、バーゴイン署長の張った検問を抜けた時に慌てふためく警察官たちを背景に映すなど、合成前の映像にもしっかり演技をつけているので、観ていて飽きない。それにしても、2人が突破した検問のお巡りさんは、非常時にすぐ出動できるパトカーも用意していなかったのか……役に立たなすぎ!
・ほんとに一瞬しか使われないのだが、捜査網から逃れた2人が潜入した地方駅の車両倉庫を遠景で映すために、町並みから線路から、そこを走る汽車や自動車、果てはロバートとエリカの人形までをもミニチュアサイズで制作して撮影する力の入れようがものすごい。ふつうの特撮映画だったら、そういうのが出てきたらのちのちハデに破壊されるのかとか思うじゃん? それが、そんなスペクタクルほとんどないんだなぁ! 監督、ロケ撮影めんどくさかった!?
・浮浪者用の安宿「ノビーの宿」で、問題のウィル爺さんを待つロバート。逃避行でたまった疲労からついつい熟睡してしまい、朝に起きるとウィル爺さん用のベッドには誰かが寝ていた跡が! ここでの「人間の形にへこんだベッドの跡」という小道具が、のちのちの『サイコ』(1960年)のあるカットを彷彿とさせる。こんなに昔から使ってたキーワードだったんだなぁ。
・念願のウィル爺さんを確保したロバートは、エリカの車で駅から脱出するが、その時にミニチュアと実景を非常にうまく組み合わせたカーアクション撮影で、パトカーに追われる緊迫感を見事に演出している。ここ、横転クラッシュや爆発炎上が当たり前の昨今のハデハデなカーアクションから見ればかわいらしいことこの上ないひと幕なのだが、0コンマ何秒で切り換わるカット割りがスピーディなので、21世紀の現在でも固唾を呑んで楽しめる場面になっている。やっぱ、映像作品はカット割りが命!
・とっつかまえたウィル爺さんから、ベルトの無いロバートのコートをくれた謎の男の存在を聞き出し、2人はついに女優殺害の真犯人にたどり着く。この、ロバート、エリカとは別の「第3の逃亡者」の出現で邦題の伏線回収となるわけだが、ここまでかれこれ約1時間、真犯人の動向はまったく語られていないので、やっぱり邦題はいまいちピンとこない感がある。そもそも、真犯人は逃亡してねぇし! 薬のみながら頑張って働いてるし!
・駅からなんとか逃れたものの、結局エリカは逃げ込んだ炭坑で警察に確保され、ロバートとは離れ離れになる。ここも、単に別れたというだけでなく、1分そこそこの場面なのにかなり大規模な炭坑崩落の実寸大アクションを入れてくるのが贅沢きわまりない。エリカの愛車と愛犬、お疲れさまでした。
・ロバートと別れて警察の厳重な取り調べを受け、失意のていとなるエリカ。原作のエリカはバーゴイン署長の一人娘なのだが、映画版では4人の弟たちがいる設定となっている。普段は元気でうるさいのに、お父さんにこってりしぼられたエリカを気遣いシュンとなってしまう弟たちの様子がほほえましい。
・1~2日の逃避行の中でロバートが犯人でないことを確信したエリカだったが、逃亡犯を手助けした上に頑固にかばおうとする娘を深刻に思ったバーゴイン署長は、自身の辞表さえをも用意してロバート捜索に血道をあげる。まぁ、はたから見たらエリカの言動はストックホルム症候群以外の何者でもないだろうしね……
・しかし、バーゴイン署長が自身のバッジも懸けて捜索しているというのに、他ならぬ署長の邸宅に侵入してまんまとエリカに再会しおおせるロバートの逃亡スキルがハンパじゃない。1人で逃げてんじゃないよ、ヨボヨボのウィル爺さんも一緒なんだぜ!? ジャパンのニンジャもビックリな隠密行動術だ。
・真犯人につながるたった一つのキーアイテム「グランドホテルのマッチ」をつかみ取り、物語はついに伝説の「約70秒間のワンカット撮影」をまじえたクライマックスへ! そこで単に盛り上がる音楽を流すというだけでなく、演奏するバンドの中に……という演出が非常に巧妙でニクい。『暗殺者の家』でのオーケストラ公演中の殺人に並ぶアイデアだと思う。もちろん、こんな展開は原作小説のどこにもない。
・グランドホテルの場面は、観客がすでに冒頭で真犯人が誰なのかを知っているので、『刑事コロンボ』のように真犯人が追い詰められるハラハラを中心に描く倒叙ものミステリーのような楽しみ方となる。ただ正直言って、本作に名探偵のようなポジションの万能キャラがいないので(原作小説にはいるのに……)理論で真犯人が責め立てられる醍醐味はなく、エリカのいつもの義侠心によって「たまたま」真犯人が見つかるという結末なので爽快感はさほどないのだが、「天網恢恢疎にして漏らさず」といった因果応報なラスト、と言えるかもしれない。なによりも、捕まったことでホッとしたような朗らかな笑顔を浮かべる真犯人の表情が興味深い。結論:悪いことはしちゃダメ!!
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おもしろ要素ばっかりなのに、なぜ退屈!? ~映画『間諜最後の日』~

2024年03月20日 20時18分37秒 | ふつうじゃない映画
 どもどもこんばんは、そうだいでございます。
 え~、今回は例によって、別に誰が待っているわけでもないのに個人的になんとな~く続けている「ヒッチコックのサスペンス映画をなるべくぜ~んぶ観てみよう企画」の続きでございます。巨匠ですから作品数も多いような先入観があるのですが、よくよく調べてみると黒澤明監督みたいな感じで、それほど多いってわけでもないんですよね。だいいち、おおむね面白い作品ばっかりなので苦痛じゃないし。
 昨今のガチャガチャした最新映画もけっこうですが、たまには温故知新、昔の傑作もひもといてみないと、もったいないやねぇ。

 そんでもって今回なのですが、これは世間的な評判はどうなのかわからないのですが、個人的には「珍しくヒッチコック監督の采配がうまくいっていない作品」であると見ました。いや、それでも合格点以上のおもしろさではあると思うんですけれど!

 たまには、失敗から教訓を学んでみるというのもよろしいのではないでしょうか。
 かの松村邦洋氏も言っております。「失敗に成長あり、成功に成長なし」! けだし金言ですね~。


映画『間諜最後の日』(1936年5月 87分 イギリス)
 『間諜最後の日(かんちょうさいごのひ 原題:Secret Agent )』は、イギリスのスパイ・スリラー映画。イギリスの小説家サマセット=モーム(1874~1965年)原作の連作短編小説『アシェンデン』(1928年発表)内のエピソード『 The Traitor(裏切者)』と『 The Hairless Mexican(禿げのメキシコ人』の映画化作品である。
 ヒッチコック監督は、本編開始約8分30秒にジョン=ギールグッドと共にスイスに降り立つ乗客の役として出演している。

あらすじ
 第一次世界大戦中の1916年5月10日。イギリス帝国軍大尉で小説家のエドガー=ブロディは休暇で帰国したところ、新聞に自分の死亡記事を発見する。ブロディは「R」と名乗る軍高官のもとに連行され、Rはブロディに、中東で動乱を引き起こすためにアラビアに向かうドイツ帝国のエージェントを見つけ出し事前に排除するという極秘任務を命じた。同意したブロディには「リチャード=アシェンデン」という新たな名が与えられ、「禿げのメキシコ人」や「将軍」などと呼ばれるプロの殺し屋の協力を得ることとなる。

おもなスタッフ
監督 …… アルフレッド=ヒッチコック(36歳)
脚本 …… チャールズ=ベネット(36歳)他
製作・配給 …… ゴーモン・ブリティッシュ映画社

おもなキャスティング
エドガー=ブロディ / リチャード=アシェンデン …… ジョン=ギールグッド(32歳)
エルサ=キャリントン …… マデリーン=キャロル(30歳)
モンテスマ将軍    …… ピーター=ローレ(31歳)
ロバート=マーヴィン …… ロバート=ヤング(29歳)
ケイパー   …… パーシー=マーモント(52歳)
ケイパー夫人 …… フローレンス=カーン(58歳)
R      …… チャールズ=カーソン(50歳)
リリー    …… リリー=パルマー(22歳)


 こういう感じの基本情報なのですが、まずまぁ今回は作品を観て、具体的に「どこがどう良くないのか」を感じていただくのがよいかと思います。ですので、このブログ内で詳細に物語の経緯を説明するのも話が長くなるだけですし、最初にこの作品を鑑賞してみてのわたくしの感じたポイントをざっと羅列するところから始めさせていただきます。
 もし、まだこの作品を観たことのない方でご興味がある方がいらっしゃったら、ぜひともこれを良い契機にご覧になってみてください! いかんせん90年近く昔(!)の映画なわけですが、少なくともピーター=ローレの演技には21世紀にも通用する不思議な魅力がありますよ。


≪いつものよぉ~に 視聴メモ≫
・冒頭でしめやかに行われた軍人の葬式の直後、参列者が式場から去って行った瞬間に、蝋燭の火でタバコをふかしながら空っぽの棺桶を片付けようとする片腕の上司らしき軍人高官の一見不可解な挙動が、これから始まる物語の波乱万丈っぷりを予見しているようで興味深い。にしても、参列者の誰かが「すんません、忘れもの……」なんて言って戻ってきてもおかしくないうちから、火の点いた蝋燭をぶっ倒してもおかまいなくドンガドンガと撤収にかかる段取りがいかにもマンガチックで、ヒッチコックらしい「論理よりも印象」な演出の一端が垣間見える。むちゃくちゃやな、君!
・第二次世界大戦のロンドン空襲はつとに有名だけど、第一次世界大戦でもロンドンは空襲されてたんだ……と今さらながら勉強になった冒頭の空襲シーンなのだが、マット画による遠景描写と爆発音に薄暗い照明という地味な演出ながらも、本作が制作されたのは「第一次世界大戦のおよそ20年後」で「第二次世界大戦のわずか3年前」である。つまりはリアルにきな臭い時期に作られたわけで、娯楽作品ながらも何かしらの危険な空気をかぎ取っていたのではないかと邪推してしまう切迫感があるような気がする。ま、経験していないにしても第二次世界大戦の歴史をちょっとでも知ってる未来人が見たら、そう思っちゃいますわな。
・勝手に死んだことにされてプンスカ憤る主人公に、大英帝国の存亡にかかわる重要な極秘プロジェクトの命がくだされる!という荒唐無稽な展開が非常にテンポよく進む。う~ん、007の大先輩!
・一国の首都に敵軍の空襲が及んでいるというかなりヤバい戦況なのだが、Rのおっちゃんが泰然自若として「部屋の水槽の金魚がおびえて困るよ。ははは。」みたいに受け流しているのが実にイギリスっぽい。日本じゃ真似できんわ……
・アシェンデンに協力する怪しい二重スパイのモンテスマ将軍役のピーター=ローレは『暗殺者の家』(1934年)に続いて二度目のヒッチコック作品への出演なのだが、さすが国際的怪優と言うべきか、前作とは全く違う意味で危険な男を嬉々として演じている。前作の落ち着きまくったラスボス役も良かったが、当時若干30歳前後ということで、今作のねずみ男みたいな小悪党キャラの方が実年齢に近そうなハイテンションで元気いっぱいな演技で楽しい。そして、どっちの作品でも染谷将太によく似てる……
・アシェンデンと初めて会った時に、アシェンデンそっちのけで Rのいる官邸のメイドを追っかけまわしていた好色な将軍を見て交わしたアシェンデンと Rとのそっけない会話が実にいい。「彼は女専門の殺し屋なんですか?」-「女以外も殺すよ。」
・今作のヒロインである女スパイのエルサを演じるのも、今作が前作『三十九階段』に続いて二度目の出演となるマデリーン=キャロルで、のちにヒッチコック監督作品のトレードマークとなる「金髪美女ヒロイン」の伝統が本格的に始まる最初の女優さんということになる。彼女もまた、前作で演じた「巻き込まれ型一般女性ヒロイン」とはまるで違う、クセも裏もありまくりで元祖ふ~じこちゃ~んみたいなスパイを好演している。前作もそうとうに気丈な女性ではあったが、今作もまた別のしたたかな魅力がある。
・出会った瞬間にエルサにモーションをかける将軍だが、アシェンデンの妻という名目になっていると知って途端にブチギレて暴れ出す。この情緒不安定さが『暗殺者の家』では観られなかったローレのコメディセンスを示してくれてうれしい。ただ、それだけに将軍の「プロの殺し屋」という裏の顔の闇が深まるんですけどね……
・スイス入りした翌日にランゲンタール村の教会におもむき、イギリスに寝返ったドイツのエージェントとの接触を試みるアシェンデンと将軍。しかし教会に足を踏み入れるとエージェントはすでに……という展開はテンポがよく、死体が教会のパイプオルガンの鍵盤に突っ伏しているために音が鳴り響き続けているという音響効果もけっこうなのだが、教会の外にいても聞こえるような音量になっているので村人が異常に気付かないわけがないし、近づく前から死んでいることが丸わかりなので結果が読めてしまうのが惜しい。アシェンデンと将軍がたっぷり時間をかけて慎重にエージェントに近づく挙動とも矛盾しちゃってるしなぁ。ここは絶対に無音の方が良かったと思う。演出の明確な失敗が見られる、ヒッチコック監督にしては珍しい例ではなかろうか。
・教会に入ってくる人影を見て、慌ててアシェンデンと将軍が上階の鐘楼に登るという判断も、とてもじゃないがプロのスパイのするものではないと思う。どうやったって逃げられない状況に自分達から突っ走っちゃうんだから、それをピンチと言われても、どうにも感情移入しづらい……
・教会で袋のネズミになっているアシェンデンと将軍の苦境も知らず、その頃エルサはホテルでプレイボーイのマーヴィンに言い寄られていた……という展開は皮肉が効いているのだが、アシェンデンとエルサをすぐ別行動にしてしまったことで、「かりそめ夫婦」というおいしいにも程のある設定を早々に放り投げてしまっている感がある。もったいな!
・教会で危機一髪か……と思ったら、特になんの説明もなく夜には無事ホテルに帰ってくるアシェンデンと将軍。大丈夫だったんかーい! ま、相手はただの村人だしね。
・教会で殺されたエージェントが持っていた、ドイツのスパイの遺留品と思われるスーツのカフスボタンの主が、見つけたその日の夜に分かってしまうのも、なんだか展開が急すぎてピンとこない。早すぎて伏線にならないでしょ……あと、「温厚そうな紳士が、実は」っていう流れも前作『三十九夜』のまんまなので、新鮮味のかけらもないという。
・ドイツのスパイの疑惑が濃厚なイギリス人紳士ケイパーを引っかけるために一計を案じ、ケンカの芝居を演じるアシェンデンと将軍。この、正真正銘正統派名優のギールグッドと無国籍怪優ローレとのかけ合いが非常に面白い。ほぼ同年代なのにキャラがこんなに違うのかっていう、マンガみたいな凸凹感が素晴らしいですね。
・エルサを過剰に突き放すのは、殺人という非道に彼女を導きたくないというアシェンデンの紳士らしい思いやりからきている判断であることはよくわかるのだが、それだと無理やり夫婦としてくっつけさせられているという設定が活きてこないような気がするんだよなぁ。う~む。
・プロの殺し屋であるのにも関わらず、プライベートでは子どもを犬の鳴きマネでおびえさせるような稚気もある将軍が実に個性的で、今日びの映画なら「おサイコで魅力的な犯罪者」としてもっとクローズアップされそうなキャラクターなのだが、いかんせん1930年代の映画なので単なる変わり者くらいで描写が終わっているのが実に惜しい。一瞬の出演だが、演技じゃなく本気でローレにおびえている子役の女の子がかわいい。
・ケイパーを殺すために登山の罠にはめているアシェンデン達と、ホテルでのんきにドイツ語の練習をしているエルサ達とを交互に描写して緊張と緩和を演出するというヒッチコックのテクニックはわかるのだが、双方のパートが有機的にからんでおらず無関係なので、これが逆に観客の集中を散漫にしてしまう。エルサも何かスパイとしての活動をしていれば良いのだが、ケイパー夫人の話し相手をしてるだけだし。
・ドイツ語の練習をしながらエルサにアタックするマーヴィンと、ドイツ語の練習をしながらマーヴィンをフるエルサの応酬が実に洒落ていて面白い。そこに主人公がいないのが残念。アシェンデン硬いからなぁ!
・殺人のタイミングが近づくにつれて息が荒くなり逡巡しだすアシェンデンと、殺すことに何の躊躇もなく殺す当人に冗談を言う余裕さえある将軍とで、暗に「踏んできた場数」の差を如実に示す演出が、さすがヒッチコックといったところ。ちょっと遠回しすぎるのだが、一方のホテルで急に騒ぎ始めるケイパーの飼い犬の様子を見て顔面蒼白になるエルサという描写にも苦心のほどが見られる。エルサ、ビクビクしすぎ!
・ケイパー殺害の瞬間を直接描かないという演出はよくあるとしても、そこに「アシェンデンが遠くから望遠鏡で見届ける」という新鮮な構図を取り入れるのが、いかにもヒッチコックらしい「のぞき趣味」満点な倒錯したチョイスである。こう観てみると、やっぱりヒッチコックは日本の江戸川乱歩とセンスがかなり通じるものがある。「実は勢い勝負がほとんどで論理だてたミステリーが苦手」っていうところもね……
・お国のためといえども、本当にケイパーを手にかけてしまったことに精神的にかなりダメージを受けて意気消沈するエルサとアシェンデンなのだが、よくよく考えてみると、実際の殺人という最もダーティな部分を将軍に丸投げしておいて、なに聖人君子を気取ってるんだというツッコミも入れたくなる。いや、確かに人殺しはよくないことだけど、あんたがたもけしかけてたでしょ!? 悲しいけど、これ、戦争なのよね!
・本作の主役アシェンデンは、いかにも主人公らしく品行方正で時として冷徹な判断も下す頼もしいヒーロー然とした英国紳士なのだが、異常性格すぎる将軍と、いきがっていながらも心根は非常に繊細なエルサに囲まれて、キャラクターがかなり中途半端で淡白な存在感になってしまっている。ここが、本作最大のウィークポイントなのではないだろうか。後輩の007ほどのスーパーマンでもないし。
・さすがに、アシェンデン達の狙い通りにケイパーがドイツのスパイでした、チャンチャン……となるわけがなく、他に本当のスパイがいるということで物語は続くのだが、ここまでで映画が半分以上の45分を費やしてしまっているのが、いかにも悠長すぎるような気がする。なんか、いろいろと見どころはあるのだけれど全体的にテンポが遅いような気がするんだよなぁ。
・ケイパーをスパイだと勘違いするきっかけとなったスーツのカフスボタンの幻影がエルサの脳裏に無数に現れるあたりで、ヒッチコックお好みの表現主義的オーバーラップが使われるのだが、そこにスイスの民族楽器らしい、陶器の器に鈴かなんかを入れて転がし「しゃらしゃら……」と音を立てるやつのイメージが重なるのがおもしろい。あれ、なんて名前!?
・夜のボート上での会話で、アシェンデンが直接ケイパーを殺したと思い込んでいるエルサが一方的にアシェンデンに別れを告げたのに、アシェンデンが手をかけたわけではないと聞いたとたんに「じゃあいいや♡」と前言撤回してキスするという展開が、なんかエルサの軽さしか感じられず引っかかってしまう。将軍がこのやり取りを聞いてたら、2人もぶっ殺されちゃうぞ……
・よりが戻りすぎて、かりそめでなく本気の相思相愛夫婦になってしまったアシェンデンとエルサは、スパイ任務を辞退するという旨の R宛ての手紙を書くのだが、そんな、第一次世界大戦中の国際的謀略戦の最前線にいるスパイって、バイト感覚で辞められるもんなのか? まっとうな常識人のようでいて、任務を失敗しておきながらそんな言い分が通じると思っているアシェンデンの感覚もそうとうヤバい。
・くどき相手のエルサの電話口にアシェンデンがいるのにも気づかず、連綿と恥ずかしすぎる恋のアッピールを続けるマーヴィン。なんだよ、この緊張感の無いくだり!? 意味もなく殺されたケイパーのみたまが浮かばれぬ……
・スパイを辞めると言うアシェンデンを口説き落として再び任務に引き込んだ時に、絶望的な表情になるエルサを見つめる将軍の目に、完全に恋人を取り返した勝利のまなざしが浮かんでいるのが、単なる色モノキャラにとどまらないローレの面目躍如たる無言の名演である。そうそう、ここ、完全な三角関係なのよね。そこらへんのジェンダーフリーな浮遊感もまた、将軍の得体の知れなさを象徴している。
・ドイツ側のスパイの情報交換所となっている場所が実はチョコレート工場だったという展開につながる伏線が、実はすでに前半でさりげなくほのめかされているという丁寧さがいい感じである。あぁ、だからか!みたいな。でも、将軍がタバコをぷかぷか吸いながらチョコレートの製造ラインを見学をしていても誰もなんにも言わないのは、衛生的にどうなんだろう!?
・特にたいした変装もせず見学者として工場に入ったアシェンデンと将軍を見て、当然ながらドイツ側のエージェントたちは結託しているスイス警察に通報し、2人を一網打尽にしようとする。でも、この第2のピンチの時も、エルサはアシェンデンのそばにいないのよね! もったいなさすぎ!!
・将軍にチョコレート工場とドイツ側スパイとの関係をリークした娘リリーの彼氏カール君は、チョコレート工場に勤務していながらも反ドイツ側の人間なのだが、助けようと思ってアシェンデン達に駆け寄ったのに問答無用で将軍に殴られてしまう扱いが実に哀しい。ま、イケメンだからしょうがねっか。
・カール君からの情報で、ドイツの本当のスパイが誰なのか正体がついに明らかになるのだが、登場しているキャラたちの顔ぶれを見れば、たぶんこいつなんだろうなと容易に察しがついてしまうのが非常に残念である。意外性もへったくれもないんですよね……
・「危うし、ヒロインが悪役の手中に!」というクライマックスの展開は洋の東西を問わず定番のものなのだが、悪役が積極的にヒロインをさらうのではなく、主人公に別れを告げたヒロインから悪役にゴリ押しでせがんで転がり込むという流れがかなり新鮮で面白い。しかもマーヴィン、若干ひいてるし! さらには、エルサがマーヴィンについて行ったと聞いてエルサが真相に気づいたと勘違いしてぬか喜びするアシェンデン達も実に滑稽である。こういう各人各様のすれ違いを描かせたら、イギリス人は天下一品ですよね! 『ロミオとジュリエット』とか。
・Rさん、サウナ室でふかす葉巻はおいしいですか? しけってそう(小並感)。
・映画の残り10分での、ドイツ帝国の同盟国オスマン=トルコ帝国の首都コンスタンティノープルに逃れんとするマーヴィンとアシェンデン達との追跡戦は、さすが筋金入りの鉄ヲタともいえるヒッチコックの独擅場である。ところどころ、スキさえあれば列車のミニチュア特撮を多用するのもうれしい。おまけには、鉄道とイギリス空軍戦闘機との機銃戦まで! 大盤振る舞いですね~。
・最後にアシェンデンとエルサの笑顔で終わるハッピーエンドはけっこうなのだが、やはり「直接殺したんじゃないから許す」というエルサの判断基準は、な~んか都合がよすぎるような気がしないでもない。いや、そりゃ殺人は大罪なんだけど、同じ穴のむじななんじゃないの……?


 ……ざっと、本作を観た雑感については以上でございます。

 この映画、当然ながらめきめきと実力をつけている成長期のヒッチコック作品なものですから、当然『下宿人』(1927年)『ゆすり』(1929年)のような初期作品に比べれば別次元の見やすさと面白さが保障されています。
 そうではあるのですが、上に挙げたように前作『三十九夜』(1935年)や前々作『暗殺者の家』(1934年)に比べると「う~ん?」と首をかしげてしまうテンポのまだるっこしさと、「実行犯じゃなきゃいいのか?」という釈然としない消化不良感が残ってしまう問題があるような気がするのです。
 いや、主人公たちがチョコレート工場に潜入するあたりから終幕までの30分間くらいは全然いいのですが、そこにいくまでの流れがかったるく感じてしまうのよねぇ。

 具体的にどこがどうということはすでに言ったので繰り返しませんが、やっぱりこの原因は、主人公のアシェンデンが非常にお堅いまっとうな紳士であることによる不自由さと、そうであるがゆえにお転婆なヒロインのエルサを遠ざけてしまう相性の悪さが大きいのではないでしょうか。
 前作『三十九夜』の主人公が、やや性格が破綻しているような自己中心的な冒険者だったことによる反動でそうなったのでしょうが、なんせ今作だって十分すぎる程のアドベンチャー映画なので、主人公はそのくらいおかしな奴であるべきだったのではないかなぁ。アシェンデンはいかにも、おとなしすぎですよね。
 残念ながら今回はサマセット=モームの原作小説を読んでいないので、そこらへん映画化にあたってどういったアレンジがあったのかはわからないのですが、せっかくの国際的スパイなのに妙に地味なんですよね、映画のアシェンデンって。いや、たぶん本物のスパイは絶対に地味で目立たない方がいいに決まってるんでしょうけど!

 また、本作は後年になって振り返ってみると、第一次世界大戦よりも実は第二次世界大戦の方がめちゃくちゃ近かったというゾッとするような恐ろしさがある時期に制作された娯楽映画なのですが、「何千何万という未来の犠牲を避けるためならば殺人は許されるのか?」という、解決しようのない深すぎる問題を扱っている作品でもあります。お国のための犯罪ならおとがめなし、というのが本作で Rがアシェンデン達に保障したスパイの特権であったのですが、それでもまっとうな価値観を捨てることのできないエルサやアシェンデンは、ドイツのスパイとの対決をもって「間諜最後の日」として、悠々と退場してしまうわけです。
 これはもう、真剣に対峙したら映画中盤でのエルサのように頭がおかしくなってしまうことは必定な大問題なので、そこは娯楽映画らしく、「直接殺してないんならOK!」と割り切ってしまうエルサの選択も、ひとつの回答としてやむをえないことのような気もします。

 でも、そうなると全く浮かばれないのがプロの殺し屋である将軍の立場で、汚れ仕事の責任は全部おれにおっかぶせてお前らだけハッピーエンドかい!という怨嗟の声が聞こえてくるようです。ほんと、本作の将軍は悪役でもないのにいいとこなし!

 ただ、そんな大損こきまくりの将軍なのに、トータルで本作を観終えた後にその一挙手一投足が観客の印象に残っているのって、おそらく間違いなく、この将軍だけなんですよね。彼だけ他の登場人物たちと比べてキャラクターの深みが違うというか、解像度が段違いなような気がするのです。
 それはやっぱり、ヒッチコック監督の計算とか脚本とかがまるで感知していない部分、最終的に演じる俳優さんのその役に対する解釈と思い入れの深みが、将軍の場合はまるで違っていたのではないでしょうか。

 つまり、作中の将軍はただただ殺人を仕事の一環と受けとめて淡々とこなし、オフの時は身の回りにいるかわいこちゃんに見境なく色目を使いまくる異常な人物ではあるのですが、そういう自分が楽しく人生を生きられるのは「政府に殺人を公認されている」という、この戦時中というつかの間の異常な状況の中だけであることを、誰よりもドライに理解しているのです。だからこそ、将軍は今この瞬間の生を過剰なまでに謳歌しようとするし、同じスパイという日陰者の世界から一抜けしようとするアシェンデンを、あんなに寂しそうな目で見つめて必死に引き留めようとするのでしょう。単におかしなキャラと言うだけではない、異常者であるがゆえの哀しみと孤独をちゃんとにおわせているのが、ピーター=ローレのものすごいところなんですよね。

 だから、彼が最期に見せた不用心にも程のあるあの挙動も、ある意味では自分で死を選んだということだったのかも知れません。ドイツのスパイを始末しようがしまいが、その後にアシェンデン達が去ってしまうことは確実でしたからね。哀しいな……

 ちゃっちゃとまとめてしまいますが、本作『間諜最後の日』は、決して見て損をするというほどの失敗作でもないのですが、ヒッチコック作品にしては珍しく中盤過ぎまで退屈してしまう部分の多い作品です。ただ、コミカルながらも次第に心の闇をちらっちらっと垣間見せてくる将軍を演じるローレの目の演技と、クライマックスの鉄道と戦闘機とのミニチュア特撮のカット割りのキレには一見の価値があると思いますので、お暇な方はぜひともご覧になってみてください。ちょっと今回は停滞しましたが、ヒッチコックの映像センスが右肩上がりであることに違いはないし!

 今回は演出よりもローレさんの演技に軍配が上がってしまいましたが、次回も期待してますよ、かんとくぅ~!!
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