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長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

むりやりアイドル対決!! 『数学女子学園』 VS 『スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ』  前口上

2012年04月03日 14時18分31秒 | ふつうじゃない映画
 どうもこんにちは~、そうだいでございます。
 いやぁ、つい何日か前に「風が強くてこまったこまった」って言ってたばかりなのに、どうやら今日は、私の住んでいる関東地方は夕方以降にそれを大きく上回る暴風が吹き荒れるのだとか!? 空はすでに今からそうとうあやしげな雰囲気になっていますし、時折きこえてくる「びよおおおぉ……」といった風のとどろきもなかなかいい感じに不安な気分にさせてくれます。
 そういえば、こういう怖い天気の日は、私も小学生だったころはテンションあがってましたねぇ! 意味もなく。台風とか雷雨とか、無責任なことに直接の被害者にならないかぎりは大好物だったものです。今日も、これから巻き起こるであろう荒天の被害者にならないように祈りながら、そのあとにやってくる春の陽気を待つことにいたしましょう。もうすぐそこまで来てます!

 っていうか、昨日なんかは天気もよくて春そのものでしたねぇ。
 そういえば、夕べにお風呂からあがったら思いのほかあったかくて、着替えても汗がとまらなかったので、押入れから扇子を引っぱりだしたんですよ。秋から冬にかけてはまったく必要なくて片づけていたので、今年はじめての登板ですね。
 んで、私の押入れには何本かの扇子や扇がほっぽり入れてあるんですけど、その中から無造作に選んだ赤い扇子をパラパラと広げてみたらあ~らビックリ。

 小早川秀秋が使用していた紋様として有名な「違い鎌」がドンと印刷されてある扇子だったんですよ。

 すっかり忘れてた……こんなの買ってたわぁ、何年か前に! どっかの歴史グッズ店で。
 この『長岡京エイリアン』でつい最近に小早川秀秋のことを扱ってたばっかりだったもんで、「これも縁なのかしら……」と、しみじみ感じ入ってしまいました。いや、それを買ったのも私だし、忘れてたのも私なんですけどね。

 この、「鋭利に研ぎ澄まされた2本の鎌が交差している」紋様の「違い鎌」は、小早川秀秋が愛用していたという陣羽織「猩々緋羅紗地違い鎌模様陣羽織(しょうじょうひ・らしゃじ・ちがいがまもよう・じんばおり 現在は東京国立博物館所蔵)にでかでかとあしらわれていることでつとに有名で、非常にヴィヴィッドな真紅の布地とあいまって鮮烈な印象を残すデザインになっています。
 やっぱり、こんなものを戦場で着込んでいた武将が「ヘタレ」なわけないって! 意外にまっとうだった領主としての側面もあわせて、小早川秀秋像のプラス面への修正を切に願いたいものです。

 ちなみに、この「秀秋=違い鎌」のイメージが強烈すぎるために、今に至るまで小早川秀秋の「家紋」が「違い鎌」だと勘違いしておられる方が多いようなのですが、この「違い鎌」は「敵をなぎ払う」という意味をこめたエンブレムとして秀秋が陣羽織に採用したというだけであって、彼が「家紋」として常用していたわけではありません。秀秋が当主となった小早川家の家紋はきわめてクラシックな「右頭三つ巴(みぎがしらみつどもえ 三つ巴が右に回転している形)」ですし、秀秋本人は豊臣家が朝廷から使用を認められた有名な「五七桐(ごしちのきり)」か、実家・木下家の家紋である「木下沢潟(きのしたおもだか)」を使用することがほとんどだったようです。


 さてさて、こういった戦国ロマンのなんたらかんたらとはまぁ~ったく!! 関係のない話題を今回はやってみたいと思います。「ロマン」という点では通じるものがあるのかもしれませんが、小早川秀秋の「違い鎌」の直後にこんなお題にシフトすることができる個人ブログをやっている、この身に余るしあわせ……それを読んでくださるあなたがそこにいらっしゃるマキシマム・ハピネス!! イィイ~ッヒッヒッヒ。


 先週の水曜日深夜に、今年の1月から放送されていたモーニング娘。を筆頭とするハロー!プロジェクトのアイドルグループがほぼ総出演する夢の連続コメディドラマ『数学♥女子学園』が無事、最終回を迎えました。

 1エピソード30分で全12話。放送途中の段階で、2月の『長岡京エイリアン』でもいちど扱ったのですが、内容はこういったものでした。

『数学♥女子学園』 .... 脚本・山浦 雅大、演出・河合 勇人
 主演 .... 田中 れいな(モーニング娘。)、道重 さゆみ(モーニング娘。)、桜田 通

《あらすじ》
 手続き上のミスで「私立町田数学専門高等学校」に転校してきてしまった、数学が大の苦手な男子生徒・佐藤一樹(桜田通)。
 しかしこの学園は、数学に関しては天才的なセンスを発揮するが自由奔放・天真爛漫な性格で破天荒な行動が目立つ博多弁の女子生徒・町田ニーナ(田中れいな)や、2人のクラスメイトで自意識過剰な性格の立川さゆり(道重さゆみ)らが、「数学番長」の称号を目指して日々ハイレベルな数学バトルを繰り広げる恐怖の地だった....

第1話メインゲスト …… 道重さゆみ(そのままレギュラー入り)
第2話メインゲスト …… ℃-ute(キュート)のリーダー・矢島舞美(そのままレギュラー入り)とモーニング娘。第10期メンバー4名
第3話メインゲスト …… Berryz工房の須藤茉麻とモーニング娘。第9期メンバー(他の役で準レギュラー出演している鞘師里保以外の3名)
第4話メインゲスト …… 吉川友とBerryz工房の清水佐紀(キャプテン)と徳永千奈美
第5話メインゲスト …… ℃-uteの鈴木愛理
第6話メインゲスト …… Berryz工房の嗣永桃子
第7話メインゲスト …… 田辺奈菜美らハロプロ研修生(旧・ハロプロエッグ)3名
第8話メインゲスト …… ℃-uteの中島早貴・岡井千聖・萩原舞
第9話メインゲスト …… 俳優の牧田哲也(唯一、女性でないゲスト)
第10話メインゲスト …… 真野恵里菜とハロプロ研修生の宮本佳林
第11話メインゲスト …… ドリームモーニング娘。の飯田圭織と保田圭
最終話メインゲスト …… ドリームモーニング娘。の石川梨華

※全話にわたり、ストーリーにまったく関係のない「赤塚不二夫作品のうなぎいぬ」のようなポジションでスマイレージのメンバー3名(リーダー和田彩花・福田花音・田村芽実)が出演している


 こういった陣容でお送りしていたわけなんですが、なんといってもモーニング娘。を含めたハロー!プロジェクトのアイドル「モベキマス」がほぼ全員登場しているというポイントが最も大きかったものの、私がこのドラマで一番好きだったのは、そこに安住しない「数学バラエティ」としての側面もちゃんと別に用意していた「二段構え」の魅力をかねそなえていた部分だったのです。ただアイドルが集まってワーキャーやってるばっかじゃないってことなんですね。


 ……と、2ヶ月前に第6話までを観た時点で私は語っておったんですけれども、ね……


 なかなか難しいものであります。3ヶ月にわたる放送の中で、全話を楽しむというわけには、正直なところいかなかったのよねェ~!

 簡単にかいつまんで言いますと、私がこの『数学♥女子学園』にたいして不遜ながら申し上げさせていただきたい苦言は2点ありました。


苦言その1、「数学バラエティ」の側面が弱いエピソードが後半になるにつれて増えた

 何度も言いますが、このドラマがかわいいアイドル総出演で魅せてくれることは大前提にあるとして、私はそこだけに頼らない「攻め」の姿勢を観るのが大好きだったわけで、数学にまったく明るくない私でもいい感じに「あぁ~、そういう解き方があるんだ!」とスッキリさせてくれる問題が毎週出てくるのがたまらなかったんです。

 ところが! 私の個人的な観点から判断させていただきますと、そういう「数学バラエティ」方面で楽しめたエピソードは「12話中、6話」でした。最後は第8話の「道重さんがいる部屋を当てる問題」! それ以降、最終話にいたるまでの4話ぶんはすべて、あんまり数学的には楽しめないエピソードになっていたような気がするのです。
 もちろん、数学要素がまったくないエピソードばかりということではなかったのですが、第11話のように「視聴者が考える時間が用意されていない」演出だったり、最終話のように「問題が難しすぎて説明が省略されている」扱いになっていたため、大すじのストーリーの進行にほとんど影響がない程度に存在が縮小されていたエピソードが多かったのは非常に残念でした。第11話の中盤の問題は、「数学」っていうよりも「暗号なぞなぞ」だったし……最終話で黒板に「Q.E.D.(証明終了)」とでかでかと板書されていたのはちょっとよかったです。オマージュ?
 すべてのエピソードで数学的な問題をミステリー小説のように物語の根幹に取り入れる一貫性があったら、もっとおもしろかったのにナ~!! と感じたんでございますよ。
 だって、「閉鎖された学園」なんて、物語のシチュエーションとしては最高じゃないですかぁ! あそこはふつうの通学制でしたけど。

 ところで、これは苦言ではないのですが、第5話と8話に共通して見られた「確率を上げること=自分の思いのままに事象をコントロールすること」って、私は個人的にはけっこう興味深い問題でした。あぁ、そういう考え方もあるんだぁ、みたいな。
 確率の「80% 」と「100% 」って、似てはいても「イコール」では決してないですよね? ただし、「80% 」は「30% 」にくらべたら「100% 」に格段に近いわけです。
 つまり、第5話と8話の展開は出題者側も解答者側も仲良くいっしょに「あっれぇえ~!?」とズッコケる失敗パターンの可能性もゼロではなかったわけで、ストーリー的にはそうなっちゃいけないんですけど、そこらへんを妄想して数学の奥深さを感じるいいきっかけになりました。それはとってもよかったですね。


苦言その2、終盤のゲストキャスティングで「ハロプロ総出演!」という色合いがぼやけてしまった

 これは「その1」にもまして非常に気になった点で、なんといっても全12話に共通して語られる「物語最大の謎」となっていた「主人公・町田ニーナの姉のゆくえ」の真相がついに明らかとなる最終話まわりの2話ぶんに、満を持して登場したゲストがそろって「ハロプロの人じゃなかった」!! ここにつきます。

 『数学♥女子学園』に出演していた、名前のある役を持った女性アイドルは全員アップフロントエージェンシーに所属しており、そのほとんどが現在のハロー!プロジェクトを構成している方々だったわけです。
 つまり、逆に言うとすでにドラマの中で、「正確に言うとハロプロではない」第4話ゲストの吉川さんや第7・10話ゲストのハロプロ研修生のみなさんといった面々は出演していた前例はあったわけなんですが、それにしても! 終盤に「ハロプロだった、しかもモーニング娘。メンバーだった」お3方がズラズラと登場したのは非常によろしくなかったのではないかと。

 だってなんか、「ハロプロよりも重要な位置にドリームモーニング娘。がいる」みたいな構図になっちゃったじゃないですか……

 いや、そりゃあキャリアでいったらそうなのかもしれませんけど、せっかく「モベキマス中心でお送りするファン待望の連続ドラマ!」って銘打ってあるんですから。せめてこの12話ぶんくらいは「お姉さんがたのお世話にはならない新しいハロー!プロジェクト」っていうカラーを強調してもよかったのではないかと!

 この『数学♥女子学園』を第10話まで観て、「やっぱり昔のメンツのほうがよかったなぁ~。」などと感じる不逞者はそんなにいなかったはずですよ!? そもそも、そういった比較の対象からいい加減に脱け出すためにつくられるべき創世記になるはずだったのです、この『数学♥女子学園』は。

 ドリームモーニング娘。のお3方をさして非難するつもりは一切ないのですが、ついに登場した第10話のラスボス感満点の真野さんをさっさと退場させてしまったスタッフさんの采配には強い疑念をいだかずにいられませんでした。もったいねぇ~!! エピソード自体の数学テイストも極薄だったし。

 あと、非常に心残りだったのが、結局「ハロプロ全員出演」がかなわなかったことね。これは残念ですよ。

 Berryz工房の残り3名が出演していなかったのは残念……というか激しく「?」でした。
 そりゃああなた、スケジュールの問題が大きかったのでしょうが、せっかくなんですから、ねぇ!?
 特に個人的には、先月にリリースされた新曲の『Be 元気・成せば成るっ!』でも大いにその存在感をアピールしている「ミス・絶妙すぎる角度の眉」菅谷梨沙子さんの演技が観られなかったのは実に無念。
 スマイレージの3名も、たった半年前の2011年10月に正式メンバーに昇格したばかりという事情とはいえ、同じキャリアの田村さんがレギュラー出演しているしねぇ。
 だいいち、モーニング娘。の光井愛佳さんだって、怪我の療養という事情はあったとはいえ、ちょっと顔だけでも出してくれなかったもんかしらと。

 スケジュールの問題はわかります! わかりますけれども、ここはなんとしても「全員集合」という記録と気合いを世間に打ち出す姿勢が必要だったのではないでしょうか!? いろいろある昨今のアイドル業界の中で「モベキマスここにあり」という乾坤一擲の大攻勢をかける旗頭にしなければならなかったんですよ、この『数学♥女子学園』はァ!! おうっ、け、血圧が。

 ともあれ、モベキマスを前面に出していく上で「最もその距離に細心の注意を払わなければならなかった」ドリームモーニング娘。の面々を、おそらくは「絵的に豪華だから。」という理由だけで無造作に、しかもよりにもよって最終エピソード付近にゲストに招いてしまったキャスティングは、私としては「それまでの努力がほぼまるごと台無し!」という結果しか残さなかったのではないかと考えています。
 「ニーナのお姉さん」とは言っても、そんなに「年上感」を出す必要もなかったんじゃなかろうかと。


 まぁそのぉ~、ねぇ! いろいろ言わせていただきましたけど、ともかく以上の2点をのぞきましては、私はこの『数学♥女子学園』を大いに楽しませていただきました。

 はい? 演技力? そんなもの、ど~でもいいっすよ! とにかく、それぞれの見せる表情やしぐさの端っこにチラッとでも「そのアイドルが現時点で到達している生きざま」の輝きが見られる瞬間があったらそれで充分なのでございますよ。もともと土台が女優さんじゃないんですから。

 そういった点から観ると、やっぱり最初っから最後まで堂々と「主人公らしい疾走感」を持続させていた主演の田中さんはご苦労様でしたね。「奇行の天才」というキャラクターに思いのほか相性が良かったのが非常に新鮮でした。グループの中では常に中心にいる「まっとうな元気者」という印象があったので、個人的には彼女の新境地を見た気がします。

 あとはやっぱり、そんな主人公にぴったり寄り添っていた道重さんと桜田さんのペアね!
 桜田さんがただの「イケメン要員」じゃなくて、物語の中で貴重な「ツッコミ役」の重責をしっかりと担っていたのが実に心強かったです。この人のセリフのテンポのおかげでシーンがタルくならずに済んでいるっていう局面、けっこうありました。

 道重さんは……やっぱりこの方、頭がいいっていうか、「現場の適応スピード」がものすごく早いんじゃなかろうかと。
 序盤は演じている役の性格を説明することで精一杯だったみたいなんですけど、回をおうごとに演技に余裕が出てきていろんな魅力や人間らしい弱さをあらわしていく手数がどんどん増えていったのには驚きました。こんなこと言ったってしょうがないんですけど、この『数学♥女子学園』が終わったあとにすぐ別のドラマの撮影に入って、それが終わったらまたすぐあとに次のドラマ、っていう手法を繰り返したら、最終的にはすごい女優さんになりますよ、この人!? とにかくポテンシャルが他の方々とケタ違い。

 道重さんが最終回のあるシーンで言いはなった「パンダじゃなくなっちゃったぁ……」というセリフには、現時点での彼女の全身全霊、全経験を振りしぼりきった演技と魅力がこめられていました。道重さゆみさんにとっての『数学♥女子学園』とは、まさにこの一言を発するための作品だったといっても過言ではないでしょう。オンリーワン、代替不能の言いまわし。


 さてさて! こうやって『数学♥女子学園』は12話を無事完走しきったわけだったのですが、このドラマを通じて、私はいろんな「アイドルの出ているドラマ」的なものの味わいを感じることとなりました。女優さんの闘い方とはまるで違う部分からくるアイドルの演技の魅力とかもそうだったんですけど、出演者に起因するものの他に、もしかしたらもっと大きな影響を作品全体にあたえているかもしれない「スタッフ側の事情」に起因している「アイドル出演作品ならではのつくり方」のようなものがちらほら垣間見えるような気がしたのです。

 たとえばわかりやすい点でいいますと、『数学♥女子学園』はシーンによって、会話している集団全体がカメラの中におさまるショットが使われていなくて、「しゃべる人」の顔カットだけがポンポンと多用されているために誰が誰と会話しているのか、誰が誰の発言にこたえているのかがわかりづらく、そこに流れる時間がなんとなく遅く感じられてしまうカメラワークがよくありました。

 実は『数学♥女子学園』を見始めた当初は私も「あれっ、な~んか変だなぁ。ここ、ワンカットでやりとりを撮るだけでいいんじゃないの?」みたいな違和感だけしかなくて、その作り方にする理由なんかはさっぱりわからなかったんですけど、先日に同じく『数学♥女子学園』を楽しんでいたさるお方と話をしていたときに、それは解明されました。


さる方 「あれ、同じ場面でも『別撮り』になってるシーンが多いからだよ。お互いの顔のカットの切り返しだけで進むから変な感じなんじゃない?」


 あぁ~!! そういう事情があったからなんだ。しゃべる相手がその視線の先にいないっていうのはよくあるって聞いたことはありましたけど、スケジュールの都合で「そのシーンにいるはずの人がそろってない」ってこともあるってことなのねぇ、特にアイドルの集合する現場は。
 なるほど。アイドルの出るドラマの時間の流れ方が遅いっていうのは、出演者の演技の問題のほかにもそういう特有の事情があるからなんですねぇ。


 そこまで思い至ったとき、私の脳裏には『数学♥女子学園』をさかのぼること6年のむかし、同じ「ハロプロ勢が制服を着て出演していた学園もの」でありながらも、今年の町田数学専門高等学校でのあれこれとはまるで温度の違う地獄絵図のような物語を現出せしめていた、「偉大なる先輩」たるある映画のことが浮かびあがりました。

「じゃあ、あれもたぶん、現場は大変なことになっていたんだろうなぁ……アイドルが出ているからこその苦難があったからああいう作品になっていたのに違いない。」


 言うまでもなく、2006年9月に公開された、当時一世を風靡していたトップアイドル・松浦亜弥の主演によるアクションサスペンス映画『スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ』(監督・深作健太 脚本・丸山昇一)のことです。

 ちょっと今回は字数がかさんできたので、毎度おなじみのパターンで続きはまた次回にしたいのですが、この『スケバン刑事』もまた、松浦さんの渾身の熱演を筆頭とする絶賛すべきポイントは多々あったものの、演者とは関係のあまりない「作品のリズム」の点でどうしようもない致命的な欠陥をかかえた作品でありました。
 作品を観てもらえればおわかりのように、製作当初から深作監督は「これはアイドル映画ではない。」という点を強くアピールしていたわけだったのですが……

 映画『スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ』における作品テイストと「アイドルが出ている」ことによる問題との熾烈な闘争。その結果や、果たしていかに!?

 そして、『スケバン刑事』と『数学♥女子学園』のどちらにもかなりおいしい役で出演したチャーミー石川さんは、次なる衝撃作『篤姫ナンバー1』で、いったいどの地平へ飛び立とうとしているのだろうか!? これも、気が向いたら気にしてみよう。


 ぜんぜん関係ないんですけど、私は個人的には、『数学♥女子学園』で鞘師里保さんが演じていた「数学バトルジャッジ役」の何代かまえの先輩には、間違いなく松浦さんがいたと確信しています。

 あの動きのキレは絶対にそうだよ、うん。
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夢みる子どもじゃいられない!?  映画『戦火の馬』

2012年03月14日 15時10分33秒 | ふつうじゃない映画
 人はなぜ、わたぼこりなしでは生きていけないのだろうか……

 どうもこんにちは、久しぶりの部屋大掃除で、想像を絶する量のほこりごみの発覚に唖然としているそうだいです。すごいもんですねぇ~。よくもまぁ、知らんぷりして生活してこられてたな、わたくし。

 でも、そういった掃除も苦にならないようないいお天気が続いてるんですよねぇ、ここ数日。ありがたいことですよぉ。
 まして、去年の3月にくらべたら、なんとこの日常の幸せなことか。まだ苦労している地域も多いだろうし、問題も山積のまま1年がたってしまっているわけなのですが、それでも普通に24時間電気が通っている私の町のありがたみに大いに感謝したいことです。


 さて先日! ついに「最後の桜木町散歩」に行ってまいりました。もう、いい加減におしまい!!
 当初は「知らないがゆえに道に迷うことが多く、なんとなく苦手な街」になってしまっていた横浜・桜木町界隈を克服するために、周囲半径20キロほどの地点から散歩して桜木町に向かい、そこにあるシネコン「ブルク13」でジェラートを食べながら映画を観て帰るという気ままなそぞろ歩きだったのですが、最初こそ新鮮な感覚はあったものの、1年くらい続けたらだいたい道すじが把握できるようになり、そもそもよく考えてみたら、千葉からわざわざ東京を通り越して神奈川に向かう電車賃がバカにならないということで、いよいよこの放蕩も今回がラストということになったのであります。次からは、近場の千葉か東京に行って映画を楽しむことにしよう。

 今回の記事は、「ブルク13」でいちおう最後に観ることとなった映画の感想を中心にしたいので、ちょっとそこはおいときまして、先にこっちも最後になった散歩のほうをしたためておきたいと思います。

 今まではだいたい、昼間に桜木町周辺のどこかの駅で下車してから歩いていき、浅い夜に桜木町に到着して映画鑑賞、そして終電近くの千葉行きに乗って帰るという進行になっていたのですが、今回はちょっと、日中に部屋を掃除するための備品を買うという予定があったため、いささか順番が変わって夕方に出発して桜木町までズドバビューンと直行し、そこで映画を観たあとに桜木町周辺の駅まで歩いていってそこから千葉に帰るというあべこべのスケジュールとあいなりました。なにやってんでしょうか。もはや目的も手段もあったもんじゃありません。

 で、私が選んだ最後の桜木町周辺の駅というのが、「東急東横線 反町(たんまち)駅」(横浜市神奈川区上反町)。

 桜木町駅からはだいたい5キロくらいの距離にあるのですが、今回観た映画の上映終了時刻が「23時ちょうど」で、ケータイのアプリで調べてみたら、反町駅から出る千葉行き最後の電車が「23時35分」ということでね。
 余裕があるように見えながら、実際に歩いてみたら意外とぎりぎりだったりしてねぇ~。走った走った。

 そして、道に迷って、「23時35分」発の電車、とりのがしたね……笑ってくれよ。

 いや、途中までは順調に反町に向かっているはずだったんですけど、終盤になっていきなり人通りの少ない標高100メートルくらいの高台にあれよあれよという間に登っていっちゃって! なんか頂上にあった数棟のマンションがまるで山城の天守閣みたいな威容をほこるいい場所でしたね。
 「こんなところに駅があったら、ふもとの横浜駅まで登山列車みたいな角度になっちゃうなぁ。」とハッと気がついて振り向いたら、また、そこから見おろす夜の横浜のビル街と、そこのてっぺんに並ぶように顔を出しているまるいお月様がとにかく絶景で!! ほんとに息を呑むような美しさだったんですよ。

 高台から見下ろす大都市の夜景とくると、私はいやおうなしにあの『攻殻機動隊』の印象的なラストシーンを連想してしまいます。

「ネットは広大だわ……」

 じゃねぇ!! 早く下山しないと始発まで秋葉原か津田沼の道端でガタガタ震えることになるぞ!
 と、急いだわけなのですが時すでに遅し。例の「23時35分」発の電車は反町駅を出たあと。私が乗ったのはその次の電車でした。投了です。

 んだが、しかし!! 天は我を見捨ててはおられなかった。
 なんと、秋葉原で走って乗り換えたら、千葉行きの各駅停車最終に間に合うことができたのです。や、やった!? 奇跡?

 おそらくケータイのあのアプリは、「急いで移動しないと間に合わない乗り継ぎ」はあえて掲示していなかったのでしょう。
 ともあれ、どこかの途中の駅で下車して始発を待つ、あるいは津田沼くらいだったら歩いて帰宅できないこともないから、重い足をひきずって真夜中をさまようという末路を覚悟していた私にとってはまさしく、

「た、助かった。おれは生き残ったんだ……家が、(誰もいないけど)あたたかい家が待っている。」

 という感慨に浸る幸せをもたらしてくれる天佑となった、その日の千葉行き最終電車だったのでした。


 あ、あれ? この「生き残った……」という感覚、さっき観た映画でも主人公が味わってたぞ。
 なんということでしょう。私の最後の桜木町散歩は、私に映画の主人公の心境を身をもって追体験させるという、「いき」というよりは限りなく「ドS」に近いはからいを贈ってくれたのです。心臓に悪い。

 桜木町。今まで本当にありがとう。しばらくはもう行かねぇよ、コノヤロー!!


 と、いうことでありまして、今回、私が観た「ブルク13」最後(?)の映画は、これでした~。


『戦火の馬』(2011年 監督・スティーヴン=スピルバーグ、主演・ジェレミー=アーヴァイン)

 
 久しぶりの王道エンタテインメントの選択となりましたね~。

 ただし、この作品は「スピルバーグ監督にしては」規模の小さい制作費7千万ドルでつくられており(たとえば、2008年に監督した『インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国』は制作費約1億9千万ドル!!)、今月始まった日本上映も、興行収入ランキングでは『ヒューゴの不思議な発明』や『シャーロック・ホームズ シャドウゲーム』におさえられてちょっとパッとしない印象になってしまっているようです。確かに、私も『ヒューゴ』と『ホームズ』は観たい!
 『戦火の馬』は先日の「第84回アカデミー賞」でも作品賞、撮影賞などの6部門にノミネートされたのですが、惜しくも受賞は逃がしてしまいました。

 実際、この作品は「CG 技術フル活用!」や「超有名豪華スターたちの競演!」といったケレン味は意図的にかなり抑えられたシックなつくりになっており、第一次世界大戦という大変な規模の戦争を舞台にした物語でありながらもスペクタクルシーンはきめどころの数箇所だけに集中されていて、主要な出演者もイギリス、ドイツ、フランスといった「現地」の俳優さんがたで固められていて地味めな顔ぶれになっています。

 まぁ、全体的にシブい出来なんですよね。まさしく、他ならぬスピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』や彼の製作した『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』(言わずと知れたクリント=イーストウッド監督)など、名作や名戦闘シーンが目白押しの「第二次世界大戦もの」にたいして、あまりにも地味な「第一次世界大戦もの」にふさわしい雰囲気になっているわけなんです。

 この『戦火の馬』は、なんとスピルバーグ監督がよわい65歳にして初めて手がけた「第一次世界大戦もの」だったのです。
 そうだったんだ……「第二次世界大戦もの」は1979年の『1941』以来6作も監督しているお方だったので、もうやったことあったのかと思ってたんですけど、意外でしたねぇ。

 映画の原作は、1982年にイギリスの作家マイケル=モーパーゴが発表した児童向け小説で、これが2007年に舞台化されてロンドンの演劇界で評判になっていたところを、スピルバーグ側が映画化権取得に乗り出したのだそうです。

 物語の筋はまさに子ども向けらしいシンプルなもので、イギリスで生まれたサラブレッドの名馬「ジョーイ」がひょんなことから貧しい小作農民の家にひき取られ、なぜか農耕馬として育てられながらも、おりしもヨーロッパ大陸で勃発してしまった「第一次世界大戦」のために軍馬として徴用され、非情な運命に翻弄されて戦場のイギリス人、フランス人、そして敵側のドイツ人と、さまざまな人の手にわたっていくという激動の半生を丁寧にえがく流れになっています。
 こういった感じなので、この映画の主人公はまごうかたなく「名馬ジョーイ」なんですけど、人間側の主人公は最初にジョーイを育てた農家の1人息子「アルバート」(演・ジェレミー=アーヴァイン)ということになっていまして、生まれた瞬間からジョーイに惚れこんでいたアルバートは命を賭ける情熱でジョーイの教育にあたり、ジョーイが軍馬に徴用されたあとはなんと自ら従軍を志願して、ドンパチのあいまをぬってジョーイを捜し求めるというド根性を見せてくれます。見た目はいかにも純朴そうな青年なのに、なかなかクレイジーな道を選択してくれますね。

 ここまで来てしまったら、もうこの映画のクライマックスは「涙、涙の再会!!」ということで決まりですよねぇ。

 そうなんです。この『戦火の馬』は、枝葉がいかにアレンジされていたとしても、「世界的な規模の大戦争に消えていった馬と、それを捜しに戦場に飛び込んでいった青年とが再び出逢う」といった「児童向け小説ならではの奇跡としか言いようのない奇跡」がガッチーンと結末に用意されているのです。これ、ネタばれにはなってませんよね!? そこをゴリ押しに押してる感動ものなんですから。

 つまり、最悪の場合「そんなのありえな~い!」とシラけられかねない展開が最後にひかえている以上、そこにいくまでの雰囲気づくりというか、道すじづくりといったものには細心の注意を払わなければいけないはずなのです。

 で、今回の場合、私が最後の感動のクライマックスを前にしてどういった感情にひたることになったのかと言いますと……


シラけちゃった~!! 私、見方がスレているんでしょうか? もう夢みる子どもじゃいられないんでしょうか!?


 なんといいますか、最後の最後に来て展開されたクライマックスの「ジョーイとアルバートの再会」のシーンと、そこまでに展開された第一次世界大戦の「屍山血河」「阿鼻叫喚」の惨状とで、な~んかつながりようのない温度差が生じてしまっているような気がして、

「え、ええ~……あんなに何千何万何十万という人や馬が無駄死にしていったシーンを撮っておいて、ジョーイとアルバートだけにこういう奇跡が起こるんだ。重要な脇役もけっこうバタバタ死んでるのにねぇ……」

 という違和感が先に立っちゃってたんですね、私。

 いや、そりゃあ奇跡は起きていいですよ!? ましてや子どもに夢をあたえるお話なんですから、主人公ペアが無事に戦場から生還してきても一向にかまわないんです。ハッピーエンド最高じゃないですかぁ。

 じゃあ私は何が不満なのかといいますと、やっぱりそれは、原作『戦火の馬』という食材と、それを調理するスピルバーグ監督の「作り方」とに大きな齟齬が生じていたのではないかと思うんですね。松阪牛で牛丼を作るみたいな。そりゃおいしいだろうけど!

 極端な話、『戦火の馬』でジョーイとアルバートがおもむいた戦場は、そこに奇跡が起こるという条件が満たされているのであれば「遠くの地で始まったいくさ」という童話的なくくりで充分だったはずです。そこで、味方のイギリス軍、現地のフランス人、敵方のドイツ軍といった各地を転々として、それぞれの場で人々に愛されながら最終的にアルバートと再会するジョーイという、「まんが日本昔話」にも匹敵するような「ありえなさ」を堂々とさらけ出して話を進めたほうが、観ている側もつられて牧歌的な気分になって「い~い話だねぇ~。」としみじみ感じ入ってしまう童話性にひたることができていたはずなのです。

 なのですが……はっきり言って、スピルバーグ監督の視線は実際に歴史上に展開された「第一次世界大戦」というものの再現にとらわれすぎたきらいがあるんじゃあなかろうかと。自分が序盤と終盤とで丁寧にお膳立てしたジョーイとアルバートの物語を、中盤の戦争描写でみずから星一徹のごとくにドンガラガッシャ~ンと盛大にひっくり返す様相を呈していたんじゃないでしょうか。

 戦争を徹底的にリアルに、無益に、汚く描く。それがスピルバーグの性(さが)!! ♪わぁかっちゃい~るけ~ど、やぁ~めらぁれな~い


 1914年7月~18年11月という、実に「4年強」の長きにわたって繰り広げられた人類史上初の世界大戦「第一次世界大戦」のうち、『戦火の馬』が特にクローズアップしたのはジョーイが参戦した「イギリス軍騎兵隊130騎 VS ドイツ軍の機関銃部隊」と、大戦中最大規模の長期戦闘と言われた「ソンム河畔の会戦」です。

 ソンム河畔の会戦。世界史でも有名な戦闘ですが、1916年7~11月にフランス北部で繰り広げられたここだけでもイギリス・フランス連合軍約70万、ドイツ軍約40万の戦死者が出たという酸鼻を極めた戦場で、過酷な塹壕戦や悪魔の毒ガス戦が展開された恐怖の地でもありました。

 ここを『プライベート・ライアン』のスピルバーグ監督が描写してるんですから、もう……人がバタバタ、何の意味もなく死んでいく死んでいく。「軍人の美学」などといったものはそこにはなく、つい最近まで普通の一般市民だった青年たちが次々と無慈悲に、平等に命を奪われていくのです。
 もちろん、こういったところに顕著に現れるスピルバーグ監督の「戦争批判」は大いに賛成なのですが、その姿勢が今回の『戦火の馬』のストーリーテリングにプラスに働いていたのかというと……どうもそうじゃないような。

 また、もうひとつ言っておかなければならないのは、ここでのスピルバーグ監督の手腕も、「『戦火の馬』に観客年齢制限をかけないために血がいっさい流れない不思議な演出」になっているために実に違和感たっぷりでヘンな出来になっていることです。まぁ、これはディズニー配給の映画ですからねぇ……
 ガタガタ震える兵士や汚れきった軍服などはリアルなのですが、どうも中途半端。か~なり目立たない感じで画面のすみっこに人の首が1コだけころがっていたのがなんかおかしかったです。『ウォーリーをさがせ』か!

 あとさぁ、私も前回言ったとおりにけっこう期待していたんですけど、「ソンム河畔の会戦」で1916年9月に世界で初めて実戦投入された戦車「大英帝国マークⅠ戦車」ね! その装備や動きのよさから見ても、どうやら登場したのは最初の「マークⅠ」ではなくて、それが改良された「マークⅣ」か「マークⅤ」だったみたいですけど。
 これが『戦火の馬』にちゃんと駆動したかたちで登場すると聞いてものすんごく楽しみにしていたのですが、まぁ~出る意味なかったなかった。あんなの、ただの「友情出演」じゃないの! あんなおためごかしの扱いだったら、むしろ出さないでほしかった……複雑な戦車ファンの心情です。

 まさか、ね……だって、『プライベート・ライアン』でドイツ軍のティーガー戦車をあれほどまでに恐ろしげに描ききった監督がよ? そのご先祖様をあんなにお粗末に遇するとは。非常に残念なひとこまでした。


 いろいろ言ってきましたが、原作者のモーバーゴの研究によりますと、第一次世界大戦ではイギリス側だけで実に100万頭の馬が軍馬として徴用されたとされておりまして、そのうち終戦後に母国に帰ってきたのはわずか6万頭! この惨状は人間も同じようなもので、イギリスの男性は約89万人が戦死し、これは戦争に行ったうちの8人に1人、国全体の人口の2%に当たるのだといいます。もうなんと言いますか……さだまさしの『防人の歌』しか頭に浮かんできません。

 このへんの現実を、どのくらいフィクションの『戦火の馬』に組み入れるのかというところで、スピルバーグ監督は多少見誤ったところがあったのではないかと思うのですが……どうでしょうか。でも、監督がおのれの哲学に忠実になりすぎた結果というのならばそれはそれで天晴れだったのですが、それにしても中途半端な出来になっちゃったし。むずかしいもんですね。

 ただ、そういったストーリーそっちのけでも、全編にわたる撮影監督ヤヌス=カミンスキーの手腕は「美麗!」の一言に尽きておりまして、イギリスやフランスの自然やジョーイの筋肉美を眺めるだけで、上映時間の146分はあっという間に過ぎ去っていきました。まったく退屈しなかったことも確かなので、そういった画面の美しさを楽しむだけでも、大スクリーンで観る価値は十二分にあったと思います。

 中盤の「騎兵隊 VS 機関銃部隊」の大迫力の決戦シーンは黒澤明監督の『影武者』を意識してましたねぇ~!! ただ、そこに漂うのがリスペクトだけで、先人を超えようという気概のようなものがさほど感じられなかったのが気になりました。天才も老いたり?


 それにしても、『戦火の馬』を観てしみじみ思ったんですけど、「良き俳優」って、なんなんでしょうかねぇ。

 この作品に出演した俳優たちは、そろって天下のスピルバーグ監督の目に留まった名優ばかりで、それぞれ「貧しい農民の青年」や「誇り高い将校」や「戦争を憎む老人」といった役どころを100点の演技でになっているのですが、「この俳優さんの出演作をこれからもチェックしていきた~い!」と、思わず両目に「♡」が浮かんでしまうような方はついにお1人もおられなかったのです。
 教科書どおりの雑味のない演技。若者は若者らしい演技、悪人は悪人らしい演技、ねぇ……なぁにがおもしろいんだか。

 ただちょっとだけ不思議なことがありまして、序盤で1カットだけ、アルバートをいじめる地主のボンクラ息子(演・ロバート=エムズ)の演技で、彼の眼に「あれっ、もしかしたらこの人、重要な役なのかな?」とにおわせる確かな光があったのですが、結局は最後までスネ夫くんな役回りで終わってしまいました。
 あれ~? と思いながら家に帰って、この記事のために『戦火の馬』のあれこれを調べてみたところ、なんとボンクラ息子役のロバートさんは、ロンドンで上演された舞台版『戦火の馬』で他ならぬ主人公アルバート役を演じた俳優さんだったのだそうです。

 久しぶりに自分の目が確かだったことに感心してしまいました。はいはい、えらいえらい。


 あと、これは私が観た映画館の中での出来事だったのですが、私の隣の席にすわっていたのがゴキゲンに酔っ払ったおじさんとおばさんとのご夫婦らしいカップルだったんですが。
 映画が始まって、劇中で農民の青年アルバートの両親の会話があり、みずからの失敗で家の破産の危機をまねいてしまいすっかり打ちひしがれた親父が、がっくりとうなだれながら「おれはもうだめだ……今度こそお前も失望しただろう? おれへの愛もすっかりなくなっちまっただろうな……」と話しかけたところ、それを受けて妻が「憎しみがいくら増えたって、愛は減りゃしないわよ。」と親父にお茶をさし出すというなかなかのシーンがあった時に、観客のほうのおじさんがガクンガクンと首を上下させてはげしくうなずき、隣の奥方に向かって、

おじさん 「聞いた? 聞いた?」
奥方   「ちょっと、しずかにしてよ……」

 というやりとりをやっているのを見たのには、映画本編以上に深く感じ入ってしまいました。もう、この体験だけでわざわざ桜木町にまで来て『戦火の馬』を観た意義はありあまるほどにありましたね。グッジョブ!


 最後にじぇんじぇん『戦火の馬』とは関係がないのですが、今回、この作品のオーディションで人間の主人公アルバート役をみごと獲得したイギリスの舞台俳優ジェレミー=アーヴァインくんは1990年生まれの21歳だそうです。

 なぬ? イギリスの俳優で「ジェレミー」とは。
 さては、ジェレミーくんのご両親は「ジェレミー=ブレット」からご子息の名前を頂戴したのではなかろうか。なんかそんな気がする!
 これは要するに、日本に置き換えていえば、「ユウサク」という名前の20代の俳優が今ブレイクするようなものなのではなかろうかと……ちょっとちがう?

 まぁ、言うまでもなく、これは100% 根拠の無い極東のいち変人の妄想なのですが、これで今回の『戦火の馬』、感想を総括する言葉は決まりました。


「はやく『シャーロック・ホームズ シャドウゲーム』がみたい。」


 ズコー!!!! ってコケてくれたら、うれしいです、ハイ……


 桜木町! ブルク13さん! 今までどうもありがとう。そしてこれからも、よろしくね~!!
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2012年最初の映画はあえてこれだ  『源氏物語 千年の謎』 ぞ之帖

2012年01月07日 15時25分19秒 | ふつうじゃない映画
 わお~、今日も乾燥してるぜぇ~!! どうもこんにちは、そうだいでっす。
 ホンットに毎日毎日、判で押したように青空に寒風が吹きわたる好天が続いてねぇ。悪いことじゃないんですけど、くれぐれも火の元と流行り病には気をつけましょう。


 さてさて前回は、私が2012年お初の映画鑑賞に選んだ『源氏物語 千年の謎』(原作・高山由紀子 監督・鶴橋康夫)についてのあれこれを語っていたのですが、特に「不満」の部分が爆発しかけたところで文量が尽きてしまいました。まぁ、前半で関係のない「初もうでサプライズ」を長くやってしまったせいなんですけど。今年もいい年になりそうだわ!

 すでにふれたのは、この『千年の謎』が平安時代の古典文学『源氏物語』をそのまま映像化したというものなのではなく、そこと、その『源氏物語』を執筆する宮廷女官・紫式部のいる現実の世界とが並行して展開されていく、作者の高山由紀子さんオリジナルの作品なのだということでした。そして、本来は1人の小説家の創作したキャラクターにすぎなかったはずの「光源氏」や「おんなたち」が、誰もが予想だにしなかった絶大な影響力をもって現実の世界に浸出していく流れがこの作品の真骨頂であるはずだったのです。

 ところが! この映画はそのへんの「2つの世界」をちゃんと描きわけていないんです。そのせいで、それらが融合しかねない状態になることの恐ろしさからくるスリルがきいてこないのよねェ。 もったいない!

 で、その責任はやはりなんといっても、映画の製作スタッフの「平安時代を2時間ちょい再現させることで手一杯で、作品のおもしろさを尊重して2つの世界を描き分けるまでの余裕がまったくなかった。」という部分が大きいんじゃないかと思うんですけど、それと同じかそれ以上に、

「『源氏物語』の世界の登場人物と、現実の世界の登場人物との違いがまったくわからないキャスティング&演出」

 という問題も実にデカかったんじゃないかと思うんだなぁ、あたしゃ!
 つまり、作品を作る以前での役者さんがたの人選の段階でも、製作中の演技指導でも、「架空」と「現実」の違いを楽しむという冒険がまったくなされていなかったというところこそが、『源氏物語 千年の謎』がいまいち脚本の良さを活かせていない最大の原因だったんじゃないかと。

 ただし、私はこの『千年の謎』に出演した役者さん全員をいちがいにけなすつもりは1ミクロンもありません。むしろ、「素晴らしい!!」とおしみない賞賛を与えたい女優さんもいらっしゃったのです。

 まずはちょっと、この作品に登場した「架空」と「現実」の両面での登場人物と俳優陣をご覧いただきましょう。
 例によって、すてきなレディのみなさんのご年齢をあけすけに記載してしまうことをご容赦ください。
 あと、一覧のうち、左側にあげた平安時代の人物の年齢は「数え年」で、右側にあげた現在ご活躍の俳優陣の年齢は「満年齢」になっています。つまり、両者で「1歳ほどの年齢差(数え年のほうが多い)」があることもご容赦ください。歴史上の人物は誕生日がはっきりしていない方々が多いんです……


『源氏物語』の世界での登場人物

光源氏(17~25歳)             …… 生田 斗真(27歳)
 ※光源氏は50代中盤で天寿を全うする
桐壺更衣(光源氏の生母)          …… 真木 よう子(29歳)
 ※桐壺更衣は光源氏が3歳の時に早世している
藤壺中宮(光源氏のあこがれのひと)    …… 真木 よう子(二役)
 ※光源氏の5歳年上で、義母にあたる
六条御息所(光源氏の愛人)         …… 田中 麗奈(31歳)
 ※光源氏の7歳か17歳年上で、義理の姉にあたる?
葵の上(光源氏の正妻)            …… 多部 未華子(22歳)
 ※のちに光源氏のライヴァルとなる頭中将(とうのちゅうじょう)の妹
夕顔のきみ(光源氏の愛人)          …… 芦名 星(28歳)
 ※光源氏より年上で、頭中将の側室でもある
桐壺の帝(光源氏の父)            …… 榎木 孝明(55歳)
 ※実在した醍醐天皇(だいごてんのう 885~930年)がモデルだと言われる
頭中将(光源氏の義兄)            …… 二世 尾上 松也(26歳)
 ※『源氏物語』の中での藤原家の貴公子
左大臣(光源氏のしゅうと)           …… 竹嶋 康成(43歳)
 ※『源氏物語』の中での藤原家の当主
惟光(これみつ 光源氏の乳兄弟で腹心)  …… 若葉 竜也(22歳)
 ※光源氏とほぼ同年代
弘徽殿女御(こきでんのにょうご 光源氏の義母)…… 室井 滋(53歳)
 ※光源氏の最大の政敵
王命婦(おうみょうぶ 藤壺中宮の侍女)    …… 佐久間 良子(72歳)
 ※光源氏と藤壺中宮との密会をとりついでしまう


現実の世界での登場人物

紫式部(『源氏物語』の作者、本名不明)     …… 中谷 美紀(35歳)
 ※藤原道長の長女・彰子(しょうし)の家庭教師
藤原 道長(左大臣、藤原家当主)        …… 東山 紀之(45歳)
 ※一条天皇の中宮・彰子の父
中宮彰子(一条天皇の正妻)           …… 蓮佛 美沙子(20歳)
 ※紫式部の直接の主人
一条天皇(時の帝、中宮彰子の夫)        …… 東儀 秀樹(52歳)
 ※「桐壺の帝」のモデルと言われる醍醐天皇のひ孫にあたる
藤原 行成(ゆきなり 参議)            …… 甲本 雅裕(46歳)
 ※道長の腹心で、一条天皇の信頼も得ている
安倍 晴明(いわずと知れた日本一の陰陽師)  …… 窪塚 洋介(32歳)
 ※道長の未来を予言したり怨霊を退散させたりする謎の男
晴明の式神(2人の美女の姿をした使い魔)    …… Mari & Eri (28歳 双子デュオ)
 ※宴席で晴明の客に酒をついだり「キャハ☆ キャハ☆」と笑ったりしてキャバ嬢の機能を果たす
藤原 伊周(これちか 准大臣、道長の最大の政敵)…… 佐藤 祐基(27歳)
 ※おどろおどろしい怨霊となって道長に襲いかかるが、実は!?


 まぁ~、こういった豪華なラインナップとなっているわけです。

 前にも触れたように、『源氏物語』のほうは長大な全編のうちのごくごく前半、主人公・光源氏の若き日々をたどるにとどまっているため、『源氏物語』最大のヒロインともいえる「紫の上」は登場すらしていません。

 おおむね『源氏物語』パートは、ストーリーラインも波瀾万丈だし、キャラクターもきわだった個性派ぞろいだったしで、非常におもしろかったです。というか、さすがにこっちの光源氏とそのおんなたちに魅力がなかったらイカンですよ。

 いや~、なんと言っても田中麗奈さんは素晴らしかったねェ~!

 最初、キャスティングを知った時に、

「えぇ~、童顔の麗奈さんが年上の愛人をやるの? しかも、あの六条御息所? 大丈夫かいな~。」

 といらぬ心配をいだいてしまったのですが、田中さん、たいっへんにご無礼いたしました!!
 確かにお顔こそ、若い頃からいささかも変わらず「むきたまご」のようにつるっとした田中さんなのですが、そこをおぎなってあまりありまくりの、その大人な演技!! 女優とはこのことだ。

 まさしく『源氏物語』前半の最重要ヒロインとも言える六条御息所を、この上ない気品と情念をもって演じきられていたと思います。田中さんの出ているシーンはすべて良かったですね。
 欲を言えば、「生き霊」となった六条御息所を描写する時の CG技術中心の VFXがちょっと邪魔だったということでしょうか。ああいった恐ろしさは田中さんのたたずまいと演技だけで充分。

 そんな感じで、私の中での『千年の謎』MVP はダントツで田中麗奈さんだったのですが、

「あぁ、わたくしはなんという不幸な運命のもとに生まれたのだ……」

 という、60億の生きとし生ける地球人全員が吉本新喜劇のようにズッコケる必殺ギャグを平然とのたまう光源氏役の斗真くんも素晴らしかったですね。色男の「愛すべきアホっぽさ」を見事に体現していたと思います。


 さて、と……『源氏物語』パートについてはここまでにしておきまして。

 問題は「現実の世界」パートなのよね。

 ちょっとですね、私が調べてみた下の情報をご覧いただきたい。


『源氏物語 千年の謎』の時代設定

紫式部の家庭教師着任(1005年1月?)から退任(1014年6月?)まで

この時期の各人物の年齢
 紫式部  …… 28?~45?歳
 藤原道長 …… 40~49歳
 中宮彰子 …… 18~27歳
 一条天皇 …… 26~32歳(1011年7月に崩御)
 藤原行成 …… 34~43歳
 安倍晴明 …… 85歳(1005年10月に死去)
 藤原伊周 …… 32~37歳(1010年2月に死去)


 ここで、なにはともあれ最初にまず注意しておきたいのは、上にあげた歴史上の実在人物たちのうち、紫式部だけが正確な生没年も、いちばん肝心な『源氏物語』の執筆時期も確定していない「?」だらけのままになっていることです。
 これはやはり、それ以外の人々が男女、政治家であるなしに関わらず、当時の公式資料に頻繁に取りあげられる国家にとっての最重要級人物であったのにたいして、「中宮彰子サロンの家来のひとり」に過ぎなかった紫式部が公的な場の主人公になることがまったくと言っていいほど無かったことが大きいのではないかと思います。
 そういうこともあるから、上の一覧もいちおう「10年間」という範囲を決めているのに、紫式部の年齢だけに大きなふれ幅があるんですね。

 とにかく、紫式部の生涯は具体的な時系列がはっきりしていない部分が多すぎて、生まれた年も亡くなった年も、彰子に仕えていた期間さえもボンヤリしているという現状。そんなことなので、ましてやあの大長編小説『源氏物語』を彼女が「いつごろから書きはじめて、どのくらいの時間をかけて完成させたのか」などという問題は、まったく新しい歴史的発見がないかぎりは薮の中という感じになっているのです。極端な話、「『源氏物語』の作者は紫式部ではない」っていう説も出ているくらいなんですからね!

 つまり、忘れてならないのは、この高山由紀子さんの作品『源氏物語 千年の謎』の中でいう「紫式部が中宮彰子の家庭教師をつとめていた時期に、藤原道長の命によって『源氏物語』を執筆した。」という設定が歴史的事実であるわけでは決してない、つまりは、高山さんの創作だということなのです。
 もちろん、将来に何かの史料の新発見によって否定されない限り「そうだった可能性」はあるのですが、現在主流となっている考え方では、少なくともこの『千年の謎』であつかわれているような『源氏物語』の前半部分は、彰子に仕える以前に書き上げられていたのではないかと予想されているようです。道長さんの命令じゃなかったのか。


 前置きはここまでにしておきまして、私がやっぱり触れずにおられないのは、この時間設定に間に合わせるために生きていたとしか思えない、かんなりギリギリな顔の見せ方をしているこのお方ね。

「安倍晴明、85歳!! しかも、紫式部の宮廷入りの年に死去!?」

 ここを映画で堂々と窪塚さんがやってるってことなのよ……あの若々しさで。

 これはダメだろう!!

 いやいや、なにも私は、映画が歴史的事実とかけ離れた演出をしている、ということに腹を立てているのではありません。
 そういったことを堂々とやっていても、黒澤明監督の時代劇のように「おもしろいから、いい!!」と感動してしまう作品はあるのです。映画はどうしたってフィクションですから。特にコスチューム・プレイなんてね。

 私が腹を立てているのは、「現実の世界らしさを強調したほうがいい陣営に、『源氏物語』以上に架空なやつがいる。」っていう、その作品の根幹部分のおもしろさを踏みにじったトチ狂い具合なんです。

 計算違いもはなはだしい!! 「話題的においしいから晴明をイケメンの窪塚くんにしよう。」っていう打算しか見えないんですよ。

 もう、どっちらけ。
 だって、現実の世界にいる晴明は、のっけから道長に襲いかかる政敵・伊周の怨念をわけのわかんない呪文で退散させちゃうんですからね。こいつ、なんでもアリか!?

 この、晴明の「なんでもアリ」っていうところをのっけから出オチでだしちゃったんだから目も当てられません。
 最終的に、晴明はこの『千年の謎』の後半部分で『源氏物語』の世界と現実の世界との「橋渡し」をするという驚きの役割を果たすのですが、最初っからスーパーマンなんですからじぇ~んじぇん驚けません。ダメだこりゃ!

 とどめに「ダメだこりゃ!」なのが、窪塚晴明の「お前が式神なんじゃないか? 早く本物出せ!」って言いたくなるくらいの棒読み演技ね。まぁ~魂ぬけまくり。

 私、思うんですけど、窪塚洋介という人はたぶん、自分にものすっごく正直な生き方をし続けることのできる希有な才能の持ち主なんですよ。並の人間だったらすぐに、自分が傷つきたくないがゆえに環境に慣れさせて、鈍感になって流してしまう部分を大切にしている人なんだと思う。それはおそらく「スター」や「天才」の証明でもあると感じますし、そう思わない人も多いかも知れませんが、少なくとも私は、スクリーンのどこかに窪塚さんがいると、どうしてもそっちに目がいって「何か」を期待してしまいます。

 つまり、『千年の謎』における窪塚晴明の救いようのないダメダメ感は、「窪塚洋介に火をつけられなかった現場」が悪い。
 私たちは、スクリーンの中にいる「窪塚洋介」という名の磨き上げられた「鏡」を通して、そこに映っている撮影現場のレベルを手に取るように観ることができるわけなのです。

 でもまぁ、映画を観ている最中に「あ~、この窪塚さんじゃダメだな。」ってわかっても、料金はもう払ったあとなんですけどね……アフター・ザ・フェスティボー。


 ほんとにまぁ、『源氏物語 千年の謎』における「窪塚晴明」の責任は甚大ですよ。他の役者さんがたの名演どころか、作品のおもしろささえをもかき消してしまうひどさです。
 しかも、本当にひどいのは、その責任が窪塚さんの演技がどうこういうレベルにとどまらずに、そういう造形とも言えない造形の安倍晴明を「GO」にしちゃった製作スタッフに帰結しちゃうってことなんですよね。それじゃあ致命的な欠陥になって当然です。

 まった、ミステリアスな白皙の美形貴族が妖しげな美女式神をしたがえているっていう、今さら腐女子のアンテナにもひっかからないような安倍晴明像の「手あか感」ね。ふりーんだよ!!

 実は私、今回この映画を観ていて、

「なんだよ、あの笑ってるだけの式神。やっすいホステスか!! 『晴明十二神将』の名が泣くわ!」

 などと、かなりひどい悪感情を式神役の2人にいだいていたのですが、今回この話題を『長岡京エイリアン』にのせるにあたって双子デュオであるお2人のブログをのぞいてみたら、誇張表現じゃなく涙が出るくらいにいい人たちであると感服してしまいましたので、怒りの矛先はお2人には向けないようにします。現役看護士でいらっしゃるとは……

 そうそう、怒りといえば、エンドロールを眺めていたら、こんなお名前が出てきてました。

「special thanks 夢枕獏」

 公認かよ!!

 夢枕先生は「映画などの他の媒体がどうあろうが、自分の小説がしっかりおもしろいのだったらいいじゃないか。」という寛大さと、小説家としての自分にたいする絶大な自信をもっておられるのかも知れませんが、さすがにあの安倍晴明をここまでおとしめている作品に名を連ねるのは……百害あって一利無しかと思いますよ。


 恨み節が長くなりましたけど、それくらいに惜しい「窪塚晴明采配」だったというわけなんですよ。

 これは私という完全なるしろうとの浅知恵なんですが、せっかくギリギリで史実の安倍晴明が亡くなっておられるんですから、こうすれば良かったんじゃない?


そうだい素案

・1005年に紫式部が中宮彰子の家庭教師に着任し、藤原道長の命を受けて『源氏物語』の執筆に取りかかる

・そのころ、おん年85歳でさすがに全身にもガタがきまくっていた老貴族の安倍晴明(演・大滝秀治)は、かつての神通力もすっかり衰え、過去の栄光を知る家来も少なくなっており、もっぱら息子たちを相手に「早くお迎えに来てほしい。」とグチの日々を送っていた

・がしかし、突如としてそんなジジイ晴明の眼に鋭い光がかえってくる! 中宮彰子のサロンに不吉な予兆が!?

・往年の元気を取り戻す晴明! 「博雅くん、事件だ……あれ、おらんの?」

・残念ながら、ワトスン役の源博雅は25年前の980年に冥界の人となっていた……口をあけてしばし虚空を見つめる晴明

・晴明の見立てによると、その凶兆の気は紫式部からはなたれていたのだが、すでに彼女は一条帝もハマる『源氏物語』の作者としてすっかり人気者となっていて、パトロンの道長も晴明の進言をまるで信じようとしない

・だが、晴明の予感は正しかった! 「六条御息所」というキャラクターの度を過ぎたこわさにドン引きする読者たち

・ついにわしの花道がやってきたか……晴明は老体にかすかに残った全呪力をふりしぼって現実の世界を飛び出し、紫式部の『源氏物語』の世界に潜入して六条御息所との最終決戦にいどまんとする

・「がんばれ晴明!! 負けるな晴明!!」という全宮廷の声援を受けて、50年前の若き姿(演・窪塚洋介)にもどったスーパー晴明が、何十年かぶりに召喚した十二神将たち(演・照英とか杏とか)を駆って六条御息所を一網打尽にする。大勝利だ!!

・「こっちのほうがいいわぁ。俺もう現実には戻りません。これからはフィクションの世界のカリスマにのぼりつめてくんで、よろ~。」晴明は若い姿のまま、人々のこころの世界のスーパーヒーローになったのでしたとさ。ちゃんちゃん。



 うん……私個人はだんぜんこっちのストーリーのほうが好きなんですけど、これもう、『源氏物語 千年の謎』じゃないよね。

 まぁとにかく、「安倍晴明」という歴史人物を使いこなすのは相当な慎重さが必要だってことなんですよ! 『千年の謎』はいろんなことをナメすぎ!!


 もうずいぶんと長くつづってきてしまったので、他のことは軽くふれるだけにしておきますが、『千年の謎』における「現実の世界」パートは、藤原道長が典型的な英雄になっていたり藤原行成が道長の単なる従順なロボットになっていたりと、本来もっと生々しくておもしろいはずの人間関係を『源氏物語』以上に単純化しているきらいがあります。

 いっぽうの世界で斗真くんがストレートな色男の光源氏を演じているのだったら、現実世界のヒガシ演じる道長はもっと人間的なあぶらぎった政治家の色を出しても良かったのではないかと思うのですが……
 これは人の資質の問題なので非常に難しいのですが、東山さんはいい意味でも悪い意味でも非常に「人間離れした清潔感と色気」のある方で、ちょっと今回のような「オヤジくささと汚さ」のある人物を演じるのは苦手だったのではないかと。窪塚晴明ほどじゃないですけど、ここでも「現実っぽさ」が希薄になっていたんです。

 あと、映画の中でかなり意図的に「過去の人」、とりようによっては「死んだ人」にも見えかねない偏った描かれ方をしていた道長の政敵の藤原伊周は、『千年の謎』の中でその怨念が道長と戦っていた時期(1008年9月の中宮彰子の第1子出産以前)にはちゃ~んと生きていておんなじ都に住んでいます!! なんだったら、その数時間前にあったという朝議(ちょうぎ 現在でいう内閣の閣議みたいなもの)で、ご本人が道長といっしょにいたかも知れないんですよ!? 別れた数時間後にあんな怨霊に化けて出るかね、しかし!? どんだけ道長に会いたいんだって話ですよ。

 歴史上の藤原伊周は、道長の孫にして一条天皇の皇子でもある男子を彰子が出産するという、道長陣営にとってのチェックメイトが決まるぎりぎりまで、道長がおびえる最大の脅威であり続けていたはずです。そんな存在がいたのに、道長が映画の中のヒガシのように堂々とした「唯我独尊感」をふりまいていたとは思えないんだなぁ。
 映画の流れをシンプルにするためとはいえ、歴史上の人物たちを出しているくせにさまざまな形でヘタなウソをつく態度がゆるしがたい。


 もう、きりがないんでいい加減にしめましょうか。

 いろいろうだうだ言ってきましたが、要約すれば、私の『源氏物語 千年の謎』を観た感想は以下の2つでした。


久しぶりに歴史ネタで体温をポッカポカさせることができました。本当にありがとう!!

 あ~んど、

俳優としての東儀秀樹、とりあげる価値すらなし。だぁ~いっきらい☆


 ……あー、すっきりした。みなさま、よい連休を~。
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2012年最初の映画はあえてこれだ  『源氏物語 千年の謎』 な之帖

2012年01月05日 14時19分23秒 | ふつうじゃない映画
 みなさんど~うもこんにちは。そうだいでございます~。今日も千葉はカラッとした晴天です。

 いや~、私の中では淡々と2012年の正月が過ぎてまいります……めでたいのはあやかりたいんですけど、新年を迎えた実感がわかねぇな~。

 初もうで? 行きました行きました、近所の稲荷神社。お堂がひとつだけの。でも鳥居がズラズラ~っとならんでる形式の。
 ここがなかなか雰囲気たっぷりの場所でしてね……「パワースポット」というよりはむしろ「心霊スポット」として有名らしいです。

 正月になってから1時間以内、午前1時になるまでのド深夜にササーッとおもむいてお参りするのがここ数年のパターンとなっているのですが、毎回毎回、みごとに参詣客がいません。ただ風がざざーっと吹きわたっているだけ。近くに松林があるので街灯のあかりもおよんできません。
 いいんですよね。黒地に多めの紺がまじっている無明の闇の中、ぼーっと朱色の空間が口をあけているんですねぇ。これは心が改まるわ。

 でね、今年も行って、例年通りにガラガラと鈴ひもをならしてお賽銭を投げることにしたんですよ。
 そしたら起きたねぇ~、ちょっとした「神のお怒り」が! 私そうだいの2012年の初笑いは稲荷神社のまっ暗な境内の中でした。ひでぇ年明け!

 毎年毎年、大晦日は判で押したようにサイフの中がスッカラカンだった私は、サイフを持ち歩く必要がなかったので5円玉だけをにぎって神社に向かっていたのですが、今年はい・く・ら・か! 余裕ができたので普通にサイフを持って初もうでに行きました。
 これがいけなかった……

 こちらとしては慣例として、サイフの中から5円玉だけを取り出し、鈴ひもをならして目の前の賽銭箱に投げ入れた。

 そ・し・た・ら!! 揺れた鈴ひもが私の投げた5円玉をはじきかえしたの!

 ちゃり~ん。掃き清められた参道わきの闇に消えていく5円玉。

 私だってね、揺れる鈴ひもの軌道をよまないで投げるほどぽけぽけぷうじゃありませんよ。ちゃんと鈴ひもの揺れがおさまるのを待って投げたつもりだったんです。
 それなのに、私は見た。鈴ひもがまるで生きているかのごとく「ぴよんっ」とはねて5円玉をはじきかえしたのを……

 ハッ!? その動き、まさにおキツネ様のおっぽのごとし。

 その瞬間、私は誰もいないはずの闇の境内の中で、「2匹ぶん」の強烈な視線を感じるようになりました。
 視線のあるじは言うまでもなく、おやしろの両脇にひかえておられるおキツネ様ペアの石像です。

右 「おめぇ、そのポケットに入ってるジャラジャラしてんのはなんだ……」
左 「そんなに持ってんのに、出すのは5円玉ぽっちってか。えらくなったもんだなぁオイ!」

 あはっ、あはははっ、そんなわけないじゃないですかぁ~!? 冗談に決まってますよ神さまぁ~!

 あらためて、私は地面にはいつくばって見つけたさっきの5円玉と(これが不思議と暗いのに見つかるのよ!)、サイフの中から出した小銭ありったけを賽銭箱の中につぎ込んだのでした。ていっても、小銭だから結局は総額5~600円くらいだったんですけど。
 この時もガラガラと鈴ひもをならしてから投げたんですが、こんどはとどこおりなく賽銭箱の中に吸い込まれていきました。良かった……これでダメだったら諭吉っつぁんにいくしかなかったからね。

 え~、今年もいいことありますように、っと。
 本年もご加護のほどをよろしくお願いいたします。ほんじゃ、失礼いたしました~っ!

 こんな感じで、新年あけて早々、数十分後に神様の存在に気づかされる奇跡を目の当たりにした私は、逃げるように無人の稲荷大明サマのおやしろをあとにしたのでした。
 まぁ、単に私が気持ち強めに鈴ひもをならしすぎたってだけだったんでしょうけど……いい体験をさせていただきました。来年はサイフは持っていかないことに……いえ、持っていきます。


 話が長くなってしまいましたが、まぁこんな2012年の幕あけだったわけでございますよ、わたくしは。祝福アレ~。

 さてさて、そうこうしつつも年末年始なにかと忙しかった私は、去年の12月に「桜木町ひとりツアー」ができなかったので、今年最初の丸1日休みとなった昨日に2012年最初の桜木町行きとしゃれこむこととなりました。
 もう、「恨み」もへったくれもありません……いい加減、出発地点に行ったり、桜木町から千葉に帰るまでの電車賃で往復2千円くらいかかってしまう、この正気をうたがう企画もおしまいにしたいと思っております。道もだいたいわかるようになってきちゃいましたし。「知らない街に来ちゃった~!」というアウェー感はさすがになくなりましたね。

 出発地点に選ぶ駅もだいぶゴールの JR桜木町駅に近づいてきてしまいまして、今回は「京浜急行神奈川新町駅」(横浜市神奈川区)! もう目と鼻の先です。6km もないかな? 時間も1時間かかりませんでしたね。

 そんなこんななので、JR桜木町駅に歩いて行くことを目的とする散歩は、あと2~3回で終わりにするつもりです。アホみたいな交通費の無駄遣いもこれでおっしま~い!

 ということで、桜木町駅近くのシネコン「ブルク13」に1人でおもむくのもあとわずかです。いい映画館なので、近いうちに「ふたり」で行きたいね~!! 誰と?

 んでもって余裕で到着して体力ありあまる中で観た、私そうだいの2012年、記念すべき鑑賞1発目の映画とは!?


『源氏物語 千年の謎』(角川映画 主演・生田斗真 監督・鶴橋康夫)


 う~ん、大丈夫か!? 大丈夫なのか、日本映画!?

 2時間16分におよぶボリュームたっぷりの内容だったんですが、観終わったあとの私の感想は、簡単にまとめるならば以下のとおり。


『源氏物語 千年の謎』での紅白演技合戦は、「赤組」の圧勝!! っていうか、生田くん以外の「白組」は勝負になってない……


 いや~、圧倒的な力の差がありましたね。女優と男優とで。


 俳優のみなさんのことはちょっとおいておきまして、まずはこの作品の内容について。

 この作品は、日本が世界に誇る平安文学の大古典『源氏物語』をストレートに映画化したものではありません。
 その『源氏物語』をもとにして脚本家の高山由紀子さんが創作した小説『源氏物語 悲しみの皇子』(2010年)を映画化したものが今回の『千年の謎』なんです。

 私は最初に、この『千年の謎』にかんする「原作・脚本 高山由紀子」という情報を知った時、

「えっ、高山さんって、あの高山さん!? それじゃあ絶対に観に行かなきゃ!」

 と驚いてしまいました。

 そうなんです。特撮ファンを自称する私ならば、高山さんのお名前を聞いて動かないわけにはいきません。
 脚本家の高山由紀子さんは、あの「昭和ゴジラシリーズ」の荘厳なる最終作『メカゴジラの逆襲』(1975年)がデビュー作なんですねぇ。
 聞くところによると、当時若干30歳でシナリオスクールの学生だった高山さんは、先生でもあった本多猪四郎(いしろう 一般的には「いのしろう」)神監督がおこなった脚本コンペの中で、あの作品をものして大抜擢されたのだとか。

 興行成績が思わしくなかったということもあってか、結果的にはゴジラシリーズの最終作(当時)、しかも本多先生の監督最終作となってしまった『メカゴジラの逆襲』でしたが、日本特撮史上の原点ともいえる第1作『ゴジラ』(1954年)で組まれた黄金タッグ「監督・本多猪四郎&音楽・伊福部昭」が久々に復活したこの作品は、それ以上に、

「男と女、父と娘、人間と人間でないもの、それぞれの業としての愛」

 という、おめめがクリックリしてすっかりマイルドな子どものヒーローと化してしまった「怪獣王ゴジラ」が一瞬にして霞んでしまう、重厚すぎる高山脚本が実におごそかな味わいを残してくれる激シブの名作でした。作品のテイストにあわせて機体色がくすんだメタリックグレーになった「メカゴジラ・マーク2」も前作に増してカッコ良かったなぁ!

 ともかく、のっけのデビュー作からこういった「人間の業としての愛」を真正面から見据えていた高山さんが『源氏物語』に挑戦!ってんですからね……これは観ないわけにはいきません。

 高山さんの『千年の謎』は、「紫式部はなぜ『源氏物語』を執筆したのか?」といったあたりに主眼を置いた「半分史実、半分フィクション」といった物語となっており、時の権力者・藤原道長(「この世をば~」の人)の、

「時の帝さえもが夢中になってしまう『ものがたり』を書くのじゃ~!」

 という激ムズのミッションを引き受けてしまった、道長の娘「彰子(しょうし)」の家庭教師・紫式部の現実の世界での執筆風景と、彼女がつづった『源氏物語』の中での主人公「光源氏のきみ(光源氏というのはいわゆるニックネームで、姓が『源』というだけで本名は作中では明らかにされない)」の半生とが並行して展開されていくのがこの『千年の謎』のストーリーラインなのです。

 したがってこの作品自体は、『源氏物語』の宮廷での大ヒットをうまく操作して天下の権力をまんまと我がものにしてしまった道長の「かけたることもなし」がごとき絶頂期と、それを見届けていったん『源氏物語』の筆をおき、家庭教師の任を辞して宮廷を去っていく紫式部の旅立ちをもって完結しており、古典作品の『源氏物語』ぜんたいをダイジェスト的に映像化したものではないのです。

 そうなんですよ。2時間以上かけて繰り広げられたこの作品も、おおもとのネタとなった『源氏物語』全54帖(じょう 「巻」と同じ意味)のうちの、たった「10帖ぶん」(『賢木 さかき』まで)しかあつかっていないんですよ! うぬぬ……『源氏物語』は深すぎる。

 でも、私はこの「『源氏物語』の前半ちょっとだけと現実世界とをかーりぺったかーりぺった(『ドリフ大爆笑』より)でえがく。」という高山采配はそうとういいと感じました。
 だってね、『源氏物語』の濃厚すぎる世界はこのくらいの「つまみ方」で充分におなかいっぱいになっちゃうんですから。とってもいいあんばいなんです。

 しかも! この作品は話が進んでいくにつれてそんな「紫式部の現実世界」と「光源氏のフィクション世界」とかズルズルと接近していってしまい、最終的にはそのふたつが融合してしまうというアクロバティックなクライマックスを迎えてしまうのです!
 これ、な~んかおもしろくない? 自分でこの文章をうっていて私は思わず、

「ああ、この高山作品をデイヴィッド=リンチ監督が手がけていたならば、どんなことになっていたであろうか!?」

 と感じてしまいました。まぁ……完成しないでしょうね。


 作者・紫式部のえがく「光源氏」とは、現実世界でのカリスマ「藤原道長」の姿を大きく投影させた存在であり、そんな光源氏をとりまく正妻「葵の上」や愛人「夕顔のきみ」、そして彼が自分の亡き母「桐壺更衣(きりつぼのこうい)」の姿をかさねて恋い慕うあこがれのひと「藤壺中宮(ふじつぼのちゅうぐう)」といったさまざまな「おんな」たちは、全員どこかで紫式部のどこかの部分や願望を具現化した存在なのです。

 そして、愛憎なかばする紫式部と道長との関係の中でついに登場したのが、紫式部の「嫉妬」の部分を強く受けた光源氏の年上の愛人「六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ みんな、「みやすんどころ」の「ん」はちゃんと入れよう! そっちのほうがきれいだから!)」!! きたきた~。
 六条御息所は光源氏の他の愛人を生き霊(いきりょう)となって激しく呪い殺していき、ついには光源氏の待望の子をやどした正妻・葵の上までをも手にかけんとせまっていく。

 光源氏の愛したおんなたちは全員不幸になるしかないのか。そんな運命を背負った光源氏の行く末は? そして、みずからの「嫉妬」の感情を開放してしまった現実世界での紫式部と藤原道長との関係はどうなってしまうのか!?


 どうですか~、『源氏物語 千年の謎』。おもしろそう?

 まぁとにかく、この作品は「紫式部と藤原道長」という構図と「おんなたちと光源氏」という構図とが、あるポイントではそっくりになってあるポイントでは正反対となり、じょじょに接近していって融合しかねない危険性をはらんでいくという緊張感が重要な「きも」となっております。そここそが高山由紀子えがくところの『千年の謎』の真骨頂となっているわけなのですが。


 この映画はそういったおいしいストーリーをいぃ~っさい活かしてくれてない!! ムダにしすぎ!!


 はっきり言ってしまいますと、この映画『千年の謎』は、「現実世界」と「フィクション世界」の行き来にたいして映像の作り方がザツすぎるんです。その2つの世界が「相容れないものである」というところの前ふりがあまりにもなさすぎるので、最終的に「実在の人物が『源氏物語』の世界に現れて『源氏物語』の登場人物が現実の世界に現れる」というサプライズが全然サプライズになっとらんのですよ。もう、「ふ~ん。」みたいな受け入れ方になっちゃうの。もったいないったらありゃしねぇ~!!

 なんか、「どっちも平安時代のコスチューム・プレイです。」みたいにいっしょくたにしてるとしか思えない平板なシーン割りの連続で、どうしても、

「中谷美紀(紫式部)が出てるとこが現実世界で、斗真くんが出てるとこが『源氏物語』世界で~す。わかるよね?」

 という軽いノリしか伝わってこないんですよ~。凡百のTVドラマがごときこのぬるさ!


 そう。そして、この『源氏物語 千年の謎』の「2つの世界の語り方」に関するザツさは、冒頭に私が「女優大勝利!」と言った「キャスティング」でも巨大すぎるマイナスをつくっていたのであります。


 キーワードは、「安倍晴明役に窪塚洋介」。


 はぁああああ!!? おぬし、ちょっと待てぇェエ~ぃい!!

 ちきしょう、こうなったら……「次回に続く」だコンチキショウメーイ!!
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な~んか2011年っぽい映画『ミツコ感覚』を観て新年をむかえよう

2011年12月29日 15時25分37秒 | ふつうじゃない映画
 ど~ぉも、こんにちは~い。そうだいでございますよっと。
 今日もいいお天気! たいていの会社は昨日で御用納めということなんですかね。もちろん全部がそうなんじゃないでしょうけど、なんとなーく世間は年末年始モードに入っておりますね。

 いや~、そう。御用納めになっちゃってんのよねぇ。
 今日、パソコン会社さんに「古いデスクトップの処分」をお願いしたらさぁ……申し込みが受け付けられるのが来年の1月4日ですって。1週間後!?
 しかもですね、受け付けられるのが1週間後で「リサイクル処分費用の支払い伝票」が送られてくるのがそっから2週間後で、さらにコンビニとかでそのリサイクル料金を支払ったあと、その3週間後に郵便局用の「輸送伝票」が送られてきて、梱包したデスクトップにそれをはっつけて郵便局に渡して、晴れてパソコン回収完了とあいなるわけなのでございます。

 う~ん、軽く1ヶ月かかっちゃうネ! そうか、本当の別れは2012年2月のことになるんですか……

 しっかもさぁ! 聞いたところによりますと、2003年9月以降に生産されたパソコンは、機体のどこかに「PC リサイクルマーク」というシールがはってありまして、それがあったら、上の手続きの内の「リサイクル処分費用の支払い」の必要はまるまるナッシング! 受け付けから輸送伝票送付までの期間も2週間に短縮できるんだそうですよ? まぁ、パソコン会社さんによって多少の違いはあるんでしょうけど。

 私と長年連れ添ってきた「ウィンドウズMe 」搭載のデスクトップは、もちのろんで「2001年製」。おかねかかるよ~☆
 この「リサイクル処分費用」っつうのがね。バカになんないのよ~!! ちょっとしたセカンドバッグが買えるっつうの。

 いや、安心して私の愛したパソコンを送り出すことができるのならば、惜しみませんけどねぇ。
 去年の「12歳で大往生したテレビデオ」もそうでしたけど、やっぱり長年お世話になったものは、別れもそれなりに時間と手間が必要になっちゃうんでしょうか。
 いいよいいよ、今までさんざん厄介になったんですから、気長に、そして穏やかな心で送り出すことにいたしましょうよ。


 話は変わりますが、昨日は私の所属していた劇団「三条会」の千葉市アトリエでの年末公演『三条会の不思議なリーディング 三島由紀夫の「十日の菊」より』の初日を観てきました。

 「リーディング」っていうのは、「お芝居」よりも「朗読」に近い、役者さんが舞台で台本を読む上演形式であるわけですが……まぁ、そう簡単にいかないのが三条会さんなのであります。
 なんか、「あっ、これは年末の公演だ!」としみじみ感じてしまう場でしたね……女優さんのみ4人でのリーディングでほんわかした空気もありつつも、飛ばすところはまぁ~尋常じゃないスピード感で。
 三島由紀夫っていうお方は、つくづく日本人離れ、いやさヒューマン離れした存在だなぁとも思い。有名な小説を5~6コ読めばわかるってスケールじゃないわけですね。「あそこであんなに真面目に取り組んでたテーマを、ここでそんなに茶化すんですか!?」という、驚くほどのフットワークの軽快さがあるんですね。

 明日30日までの公演なんですけど、勝手な私個人の想像ですが、日によってぜんぜん違う印象の作品になっているかも知れない気がする。私が観たのは初日でしたが、できれば他の回も観たかったですな~。


 さてさて! 今回の本題はお芝居……じゃなくて、映画でございます。

 あの~、先日、雪のちらつく25日のクリスマスに新しいノートパソコンを購入したあと、いそいそと新宿の映画館「テアトル新宿」に行って観てきた映画のことなんですよ。
 え……独りでですけど、なにか。


『ミツコ感覚』(監督・山内ケンジ 主演・初音映莉子)


 全国順次公開なのですが、今月25日の段階ではテアトル新宿でのレイトショー上映のみでしたので、夜9時に新宿におもむくこととなりました。

 いやぁ~。なんか、ものすごく「2011年っぽい」映画だったような。ざくっと言ってしまえば、「みんなが必死に非日常を日常にしようとしている群像劇」、みたいな?

 「2011年っぽい」と言ってしまうと、どうしても3月の東日本大震災のあたりが作品のテーマに関わっているのかと思われるかも知れませんが、会話に「こないだの地震」という言葉が出てくる程度で、特に震災から直接的な影響を受けた物語は展開されません。

 直接の影響はないんですけれども、「日常だと思い込んでいる日々に異物が入ってきた時、人はどう反応して、その上で異物をどう呑み込んで新しい日常の一部としていくのか?」といったあたりを執念く(しゅうねく 私はこの日本語が大好き!)演じる役者の方々と、それを克明にカメラにおさめていく監督の「視点」が、まだまだ混乱のただ中にある、かと言って、いつまでも「えらいこっちゃえらいこっちゃ!」と慌てているわけにもいかない2011年の日本の空気にフィットしているような気がするんだよなぁ~。

 この映画の主人公は、閑静な住宅街にある瀟洒な邸宅に2人で暮らしている姉妹です。そして、この2人にじ~わじ~わと迫ってくる「非日常」がいろいろあるということで、大きいものは3つ。

「別居している親の都合で、姉妹が幼い頃から住んでいた邸宅が売りに出される」
「姉エミ(演・石橋けい)の不倫相手がいよいよ本妻との離婚を決心」
「妹ミツコ(演・初音映莉子)に怪しい男がつきまといはじめる」

 どうでしょうか。「殺人!」や「ド派手アクション!」がベタな見物となっている映画の世界ではびっくりするほどパッとしないトピックなのかも知れませんが、我が身のことと考えてみると、どれもどうしようもなくリアルな「非日常」だと思いませんか? 「はなばなしく死亡!」とか「ヒーローが解決!」とかがないフツーの日常だからこそ、ここらへんのニキビのようなモヤモヤ感がいちばん厄介なんじゃないでしょうかね。

 たいていのメディアでアナウンスされているように、この映画の主演は「妹」のほうの初音さんとなっているし、いちばん出番が多いのも確かに彼女なのですが、ちょっと映画を観ていただければわかる通り、むしろ映画全体の問題の発生源となっている存在は「姉」の石橋さんのほうです。私の観た印象では、キャラクターとしても俳優としても観ていていちばん面白かったのは石橋さんでしたね。

 具体的な内容はぜひともみなさま、各自そのおまなこで映画を観ていただくとして、2人暮らしをするにはちょっと広すぎる邸宅に住んでいるこの姉妹には、別の場所で健在の両親と同居するわけにはいかない感情の障壁があり、そんな親の都合で住み慣れた邸宅を売らざるを得なくなったという話に、特に妹の方はそうとうな不満を持っているようです。親とは口もききたくないといったかたくなな姿勢ですね。

 とはいっても、事情はなんであれ邸宅の法律上の持ち主は親であるわけですから、最終的にはその判断に従わざるを得ないわけで、やるせないストレスを常にためている妹さんは、大学もそろそろ卒業で将来のことを考えなければいけないし、できれば「フリーカメラマンになる」という夢をかなえたいんだけれども応募してもはかばかしい結果は帰ってこないし、最近好きだった彼氏とも音信不通になっちゃったし、そうこうしてるうちに自分に好意を寄せているらしい気持ち悪い男(演・三浦俊輔)につきまとわれるようになってきちゃったし……とにかく面白いように運気が下がりっぱなしなんです。

 さて、そんなどうしようもない状況のフラフラ妹を横目にして、中堅の商事会社に就職してOL となっている姉のほうはちったぁマシなのかといいますと、確かに働いて経済基盤を確保しているという点ではマシなのですが、勤め先の上司(演・古舘寛治)とのただれた不倫関係が公私ともに隠しようのない状況にまで悪化してしまっている、ある意味で妹以上に笑えないドン詰まりにおちいってしまっているのです。結果、姉は強引に言い寄り、上司に本妻との離婚を決意させることに成功します。

 まぁ~、それぞれの事情で、姉妹はどっちもキッツい非日常のフルコースにあえぐこととなってしまってるんですな。

 こういった言い方でズラズラと内容を説明してしまいますと、「なんだよ、ただの不幸博覧会じゃんか。」「そんなのをわざわざお金を払って映画館で観るなんて……やっぱりそうだいは変態ね。フケツ!」と思われる方もおられるかと思うのですが、この映画『ミツコ感覚』の真の価値は、それらの情景の全てが、


ほほえましく、時には大爆笑をさそう「血のかよった生のいとなみ」に見えてきてしまう。


 ということなんですねェ~!! ほんとにおもしろいんですよ。人のダメさがたまらなくいとおしい。

 さきほどにも言ったように、この映画のいちばんのトラブルメイカーは、これはもうどうしても、親のいない邸宅でいっぱしの社会人として、夢見がちな妹の教育者とならなければならないはずの姉です。
 ところが! そんなオトナであるはずの姉が、オトナはオトナでも夜のオトナ関係が高じてしまったために八方ふさがりになってるんだからどうしようもねぇ。潔癖性というわけではないのですが、そんな姉の姿に過去の嫌な記憶をダブらせてしまう妹は姉をひたすら嫌悪してしまいます。
 しかも、「不倫相手の離婚」という、ある意味での勝利を目前にした姉のほうも、「じゃあ上司と結婚するの?」「同棲するの?」「上司の本妻とは会ってけじめをつけるの?」「もう小学生になってる上司の子どもの将来はどうなるの?」といったもろもろの現実問題に直面してかなり顔色が悪くなっています。
 「いや、そこまで考えてたわけじゃないんだけど……」という本音をどこにも吐き出せない頭パンパン状態になっているんですね。マリッジブルーとはまるで重みが違うよ~。

 結果、妹以上に精神がフラフラになった姉は、妹につきまとう怪しい男を警察に突き出すという判断もできなくなり、「わたしの幼なじみかも知れないから、許してあげてよ!」とビックリするような主張を展開してしまうのです。

 私のまずい文章でどこまでわかっていただけるのかは不安なのですが、このへんの「非日常と日常とのまじりぐあい」「とんでもない不幸の連続のナチュラルな入りかた」が実にうまいんですね、『ミツコ感覚』は!
 も~う大爆笑なんですよ。「他人の不幸は蜜の味」なんていう下世話な笑いではないんです。「他人事」とは片づけられない、ちょっとしたボタンのかけ違いを気づかないままにしてしまったら、もしかしたら明日にでも自分自身の身に降りかかってしまいそうなリアリティがこもっている、本当に恐ろしい不幸の足音がスクリーンいっぱいに迫ってくるから笑うしかなくなってしまうんです。

 つまりこの『ミツコ感覚』の笑いは、あの世界ホラー映画界の最高峰とも言われる歴史的傑作『悪魔のいけにえ』(トビー=フーパー監督 1974年アメリカ)を目の当たりにしてしまったときの、

「ひ、ひえ~!! あ、あは、あはは……もうどうしようもねぇ~。」

 といった笑いと軌を一にしたものがあるのです。危険だ! あまりにも危険すぎるおかしさです。


 雑誌などでのさまざまな前情報をご覧になって、もしかしたら『ミツコ感覚』のことを「ぬるいニヤニヤを楽しむ映画なのかな?」と思ってしまう方も多いかも知れません。

 とォんでもない……非日常を自分自身の力だけでどうにか日常に消化しようとため込んでしまった姉妹、特に姉のほうは、最終的にはけっこう最悪な目にあってしまいます。その上で、いよいよ行き詰まってしまった姉妹ははじめてまともに対峙し、お互いのたまりにたまったフラストレーションのガチンコ対決としゃれこむのでありました。そんな極限のやり取りが用意されているはずなのに、それまでの道のりがどうにもおかしくていとおしい!

 映画『ミツコ感覚』は、とにかく笑える作品です。それはもう、姉妹を演じた石橋・初音ペア、姉妹につきまとう男どもを演じる古舘・三浦ペアのとてつもなくハイレベルな演技合戦のたまものでもあるのですが、そんなみなさんのやり取りの妙を楽しむだけでもいいですけど、もみあいながら一緒にドン底のドン底にまで堕ちきってしまった姉妹が、そのドン底でしゃがんでから「せーのっ。」でビヨーン! と上を目指してジャンプするその瞬間、2人の決意の表情をもって終わっている「再生の映画」であるという点でも、充分に完成されている作品なのです。

 おもしろいんだけど、それだけじゃない映画なんですね。強くおすすめします。

 ところで、私が観たクリスマスの回は、いかにも「通!」といった感じのシブいおっさんの1人客だけしか集まっていませんでした。ペアは1組もいませんでしたね、見事に。
 上映中も野太い「ガハハ!」という笑い声が聞こえてきたりして、ずいぶんオトナっぽい客層だなと思っちゃいましたね。

 いやいや。もっと多くの人が『ミツコ感覚』を観ればいいんですよ。珍味じゃないんですから。

 もっと多くの人に知っていただきたい。
 今、日本には「石橋けい」という、世界一「どうしよう……」という表情の似合う女優がいると!!

 ミス・困り顔・オブ・ザ・イヤー!! ゴッデス・オブ・苦笑!! もう、だいっすき。


 山内ケンジさんは長編映画としてはこの『ミツコ感覚』が初監督ということなのですが、次回作が大いに楽しみですねぇ~。
 山内さんが作・演出をつとめる演劇の公演も私は大好きでして。いつも大爆笑させていただいております。

 山内さんの演劇も『ミツコ感覚』に劣らず面白いのですが、「キャラクターのクローズアップ」ができるという映画の特性をフル活用した『ミツコ感覚』は、映画ならではの傑作になっていたと思います。


 いや~、どうしようもない不幸のオンパレードでしたが、ちゃんと救いも用意されているという、2011年の見納めに最もふさわしい作品でしたね。

 みなさんも、今年中に早く『ミツコ感覚』を観て、すっきりした新しい気分で新年を迎えましょう。

 君もあなたもアンタもボクも、いっしょにドン底を蹴って上がってこうぜぇ~! おっぺーい!!
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