長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

混沌に七竅を穿ったようなおはなし ~映画『ボーはおそれている』~

2024年02月23日 23時54分27秒 | ふつうじゃない映画
 わおわお~! みなさまどもどもこんばんは! そうだいでございます~。
 2024年も始まってしばらく経ちましたが、みなさま息災でお過ごしでしょうか。今年はほんとにお正月から天変地異が相次いでねぇ。正直、いいことなんかあったかなと思ってしまうような1、2月なのですが、それでもとりわけ悪いことも起きていない我が身のしあわせを、ありがたく思わなければなりませんね。先月の健康診断、結果悪かったけどね! ことあるごとに野菜ジュース飲んでます……無駄なあがき!!

 さてさて、前々からだいぶ働き方を楽にさせてもらっていると申してはおるのですが、それでもやっぱり私の職種は、年明けから年度末まで下っ端の私までもがあくせく働かねばならない忙しい習性がありまして、ろくに映画館に行くこともできないまま時ばかりが過ぎております。昨年は意識して映画をバンバン観ていたので、年明けからいろいろ観ていたのですが、今年は1月まるまるなんにも観てなかったんですよね。そして、2月に入って満を持して観た今年最初の映画も『鬼滅の刃 絆の奇跡、そして柱稽古へ』というぐうたらっぷり……いや、作品自体はいつもの ufotableクオリティで充分に面白かったのですが、なんてったって作者さんがその後の怒涛のラストスパートに向けて意図して作った「間奏」みたいな部分なので、前作、前々作のような大興奮は望むべくもありませんよね。あらためて、鬼いちゃんは相当がんばってたんだな……

 そんでもって本日、やっと人前で「映画観てきたよ~」と言えそうな作品を観てきたので、今回はその感想記をつづりたいと思います。なんてったって約3時間なんだぜ!? ボリューミ~。


映画『ボーはおそれている』(2023年4月公開 日本公開は2024年2月 179分 アメリカ)


 いや~、おなかいっぱいです。でも、そんなに長くは感じなかったかな。退屈はしなかったような気がしますね。これはたぶん、作品の内容とか面白さというよりも、監督のアリ=アスターさんが若干30代なかばということで、作品づくりのテンポというかリズム感覚が現代的だからなのではないでしょうか。巨匠監督の3時間とは違うんですよね、いい意味でも、悪い意味でも。
 それで早速、私がこの作品を観た率直な感想ですが、

かなりライトで見やすい……むしろ、物足りない!? 思ってたんと違う!

 こういう感じになりました。勝手に私の中の期待値が上がり過ぎていたのであろうか。

 アリ=アスター監督と言えば、私にとってはなんと言っても前作『ミッドサマー』(2019年、日本公開は2020年)……というか実は私、ちまたの批評でよく今回のボーちゃんとテーマが似ていると言われるアスター監督の長編第1作『ヘレディタリー 継承』(2018年)を、まだ観てないんですよね。ヒエ~、ホラー映画好きを標榜していながらこの不勉強ぶり、許してちょーだい!

 いや~、『ミッドサマー』にはビックラこいたんですよ。それについての雑感は我が『長岡京エイリアン』でもべらべらとくっちゃべったわけなのですが、今振り返ってみると、私はあの作品における「色彩のジェットコースター感」に参ってしまったのだと思います。
 いかにも北欧スウェーデンといった感じのパステルな淡さと、人間の無惨に損壊した肉体からしたたり落ちる血のドロッとした原色。いつまでも変わらないような暖かみを持つ牧歌的な共同生活村と、そこで繰り広げられる凄惨きわまりない儀式。人の心の弱さを無条件にゆるす村人たちの寛容さと、自分たちの村に来た以上たとえ部外者であろうとも自分たちのルールには死んでも従ってもらうという狂信的な厳しさ!!
 ここらへんの、自分の身の回りの空気が氷のように冷たいものにガラリと変わったことに気づき「ヒエッ……」と心臓が縮み上がる感覚。いつでも帰られると思っていた楽しい遊園地の門がいつの間にか閉まっていて、もはや後戻りできない状況にあることを知った時の恐怖! ここを見事に映像化しおおせていたのが、『ミッドサマー』の真価だと感じたのでした。わざと解像度と遠近感を狂わせたような CGの使い方も、実に挑戦的ですばらしかったですよね。ま、それだけにソフト商品を買ってまで何度も観たいとは思わないんですが……気持ち悪すぎ!!

 そういう前作を観た当時は、ちょっと予想よりも過激すぎたことへの拒否反応もあって「いや、アスター監督、もういい……」と引きまくっていたのですが、あれから数年経ち、あのホアキン=フェニックスを主演にすえたアスター監督最新作がいよいよ日本に上陸ということで結局、怖いもの見たさで本作を観に行ったわけなのでありました。昨年の年明けにも『マッドゴッド』なんて観てたし、歳をとるとお金を払ってでも刺激のあるものが欲しくなるもんなんですかね……3時間の映画なんて、もはや山伏の荒行レベルよ!?

 それで、とくに膀胱が破裂することもなく無事に観終えたわけだったのですが、あくまで私の印象のみで言わせていただきますと、今作は非常にサラッとした内容になっていて、『ミッドサマー』にあったような「見ろ!見ろ!おら見ろ!!」みたいな暴力的な鑑賞体験は全くと言っていいほど無かったような気がしました。
 いや、もちろん(?)主人公は最終的にひどい目に遭います。遭うんですが、具体的に観客の身に迫るようなエグい肉体損壊の描写などありませんし、本作が R-15指定になっているのは残酷描写が理由でないことは明らかでした。物語の行きがかり上ちょっとお色気シーンがあるからって感じですよね。ま、それもナイスミドル同士のアレなんで、そんなに観たいってわけでも、ね……

 本作は、宣伝では「オデッセイ・スリラー」と銘打たれているようなのですが、ジャンルとしてはブラックコメディ以外の何者でもないと思います。ただ、コメディだとすれば最後に来るオチが最重要ポイントになるわけなのですが、そのオチが「どこかで見たよーな」ものになっているので、そのオチで一応のまとまりはつくものの、かなりの物足りなさが残るものになってしまうと感じました。
 言ってしまえば「どんでん返し」オチなわけなのですが、こういう種類のフィクション作品の常として、生まれて最初に観た「それ系オチ」の作品がこの『ボーはおそれている』だったのならば宣伝文句通りに「永遠に忘れられないラスト」として記憶に残るのでしょうが、すでに過去の何かでそのオチを経験している人が観た場合は……「あぁ、それね。」どまりになってしまいますよね。まさに私がそうだったんです。

 う~ん……ホアキンさん演じるボーが車に轢かれるまでの「第1部」は、すっごく好きだったんですけどね。あそこはまさに映像のテンポからして笑いを取りにきてるアグレッシブさがビンビン伝わってきて実にステキでした。よくよく考えてみるとこの部分、一人称の視点の主であるボーが薬で虚実ないまぜ状態という「信頼できない語り手」になっている点や、何と言っても主人公を演じているのがホアキンさんその人という点で、どこからどう見てもあの『ジョーカー』(2019年)の本歌取りのような相似に気づかされます。そうなのですが、ボーの住む町に巣食うホームレスや犯罪者の集団が、まるで赤塚不二夫か高橋留美子の世界から召喚されたかのような陽気さに満ちているところや、ボーを演じるホアキンさんの、同じ病的でも『ジョーカー』の主人公とは人間性と育った環境が全く違うということを秒で伝えてくる稀代の演技力によって、退屈さを全く感じさせない時間にしてくれていると感じました。ところどころ、「これ『 Mr.ビーン』かな?」と見間違えてしまうかのような笑いどころがちりばめられていましたよね。

 ただ、私としては、なのですが、だいたい4部構成になっている本作の中で面白いなと感じたのはこの第1部だけでありまして、残りの3つのパートは、決定的につまらなくもないのですが、どこも「どこかで見たような展開」のきれいなトレースといった感じで、それほどアスター監督のオリジナリティを感じるような部分は無かったように感じたんですよね。つまらなくはないんですけど……

 前作『ミッドサマー』でもつくづく感じたのですが、アスター監督はほんとに過去の映画に博覧強記と言いますか、作品のところどころに過去の先達の名作の要素をたくみに取り込んだ部分がたくさんあって、観ているだけで観客の記憶に「あ、これ、どこかで……」みたいな既視感の刺激を与える体験も、アスター監督作品の楽しみ方のひとつなのではないかと思うんです。
 でも、今回は確かに長い長い旅を続けるボーという主人公の軸は一貫して作品に通ってはいるのですが、第2部以降にボーを取り巻く環境世界に、ボーの生命をおびやかす強烈さが無かったこと。これが本作の決定的な「緊迫感の無さ」につながっており、その原因こそが、第2部以降でアスター監督が選んだ「過去の先達」のチョイスの失敗だったのではなかろうかと私はふんでいるのです。

 そう。アスター監督は今回、決して相手にしてはいけない恐るべき大先輩を相手にしてしまったのだ。彼の作品には、順序も建前も秩序も、もはや哲学さえもが存在していないのかも知れない。栄光と狂気に満ちた飽食の国アメリカの生んだ大いなる暗闇、大いなる混沌。そう、彼の名は……

デイヴィッド=リンチ! デイヴィッド=リンチ!! デイヴィッド=リィインチ~!!! きゃ~。

 あかん! アスター監督、そらあきまへんて!! 相手にしたらあかんお方やでぇ。
 いや、こんなの裏付けもへったくれもない私の完全な思い込みでしかないのですが、第2部の作り笑いに満ちた医者一家のかりそめファミリーライフとか、第3部のボー爺さんのバカバカしいヴァーチャル人生劇場とか、第4部の若作りしまくり母ちゃんのいかにも人工的な豪邸とか、そこらへんの撮影手法の万華鏡のような転換っぷりが、どうしてもかのデイヴィッド=リンチ世界の自由奔放な視点の超越を意識している気がしたんですよね。

 デイヴィッド=リンチの、あんた長編映画作る気あんの? ひとつの作品にまとめる気あんの!? でもついつい2、3時間観ちゃったよ……みたいな独特の世界が正真正銘、天然由来の混沌であるのならば、今作のアスター監督はその混沌を観察して「スケッチした」だけなのであって、最後はああいった実に説明しやすいオチを持ってきちゃうし、混沌を正確にトレースすればするほど、その真面目さばかりが目立っちゃって、混沌とは程遠い「アスター監督、まじめか!!」みたいなこぢんまり感しかもたらさない結果になっていたと思うんですよ。

 ダメだ、アスター監督。その若さでリンチ世界に挑んでは。

 中国の古典『荘子』に、私がものすんごく大好きな故事があります。


南海の帝を「儵(しゅく)」となし、北海の帝を「忽(こつ)」となし、中央の帝を「渾沌(混沌)」となす。
儵と忽と、時に相ともに渾沌の地に会う。
渾沌これを待すること、はなはだ善し。
儵と忽と、渾沌の徳に報いんことをはかりて曰く、
「人みな七竅ありて、もって視聴食息す。
これ(渾沌)ひとり有ること無し。試みにこれを穿たん。」と。
日に一竅を穿ち、七日にして渾沌、死す。


 まさにこれですよ、『ボーはおそれている』は!
 『荘子』に現れる中央の帝「渾沌」は、目も鼻も口も耳もない姿をしていて、何の秩序も存在しない自然の象徴だとされているのですが、それを見た南北二人の帝は、善意で自分達人間と同じ目・鼻・口・耳の七つの穴を渾沌に空けて整然とした秩序をもたらそうとします。しかしそれがかえってあだとなり渾沌は死んでしまった、という故事です。

「若干30代なかば、長編映画監督3本目のきみがリンチ世界の自由奔放さを取り込もうなんて、おこがましいと思わんかね……」

 なんだか、鼻が異様にでかい老人の幻影がアスター監督の肩に手をやっているようなイメージが脳裏に浮かんでしまうのですが、この『ボーはおそれている』って、アスター監督が口をがばっと開けて大物を呑み込んだようでいて、結局そのためにお腹が破裂しちゃいましたっていうか、馬脚が見えちゃいましたっていう作品になってしまっているような気がするのです。

 『ボーはおそれている』は179分ですよね。なんという偶然か、リンチ監督の現時点での最終長編映画である『インランド・エンパイア』(2006年)も、全く同じ179分なんですよ。
 同じ179分だったら、あなたはどっちがいいですか? 「どっちも嫌」っていう人が8割かとは思うのですが、私はだんっぜんリンチの方ですね。だって、わけわかんないんだもん! 『ボーはおそれている』は、一度観終わった後も「あぁ、あの描写はこういうことだったのか」っていう伏線の再確認を楽しむためにもう一回は観られると思うのですが、オチは変わんないのでそこまでじゃないですか。第3部の舞台演劇的な CGアニメーションも面白いかとは思うのですが、それにも限界はあるでしょう。
 『インランド・エンパイア』はすごいぞ……何回観ても意味わかんないんだから! 何十回観ても、オチてんのかどうかわかんないんだから!! でも、最後の『シナーマン』のエンドロールで、「たぶんオチたみたい……」的な空気にムリヤリ納得させられちゃうんだから!!!

 天然物の混沌と、人工のシュールものとの違いを知りたければ、リンチ監督の『ロスト・ハイウェイ』(1997年)か『マルホランド・ドライブ』(2001年)か『インランド・エンパイア』のいずれかと本作とを見比べてみることをおすすめいたします。いちばんいいのはなんてったってウサギ人間のホームドラマが超唐突に侵食してくるくだりなんか序の口の、「お話の長れなんかどうでもいいから、ちょっとこれ観てみてよ。今思いついたから。」みたいな狂気しかない『インランド・エンパイア』なのですが、これと『ボーはおそれている』を見比べることは6時間の浪費を意味しますので、これを拷問と言わずになんと言えましょうか。わたしのナタキンさまも、日本公開版では出番まるで無いしよう……

 話を元に戻しますが、この『ボーはおそれている』は、つまるところ主人公ボーに迫りくる試練というものが、苛烈のようでいてそんなにキツくはないように見えるのです。もちろん、本作におけるボーのおそれ(恐れにして畏れ)の対象は明らかにボーの母親で、第1部におけるその存在感の大きさは、電話口の声だけという制限があるだけに逆にリアルでかなりいい感じです。
 ところが、その母の存在は第1部の中で「死んじゃったらしい」という伝聞情報でいったんナシになり、ボーのおそれは「ママの葬式に行かなきゃ」という強迫観念に変容してしまうのです。これ、かなり大きなギアダウンなんじゃなかろうか。
 一応、ボーは相当重度の強迫性障害を患っている設定があるので、決めた以上は万障繰り合わせてでも実家に帰りたいという目的意識は一貫して持っているわけなのですが、作中で「葬式当日まであと〇日!」とかいう時間説明があえてぼかされているので、ボーの切迫感もふわっとしちゃっているし、それによって実家にやっとたどり着いた第4部の展開も、かなり意外なはずなのに現実感が無さすぎるので「はぁ、そうですか……ふ~ん。」みたいな白けムードになってしまうのです。現実感が無いというのは第1部からずっと続いている状態なのですが、それがうまく機能しているのは第1部のギャグパートだけで、それ以降は観客の没入感をそぐものにしかなっていないと思うんですよね。

 第1部のノリで最後までいったらよかったのに……良く言えば「めまぐるしく展開するイメージの奔流」なのでしょうが、今回の場合は「飽きっぽい映像作家のつぎはぎ作品集」にしかなっていないような気がするのね。あの名優ホアキンさんをほぼ出ずっぱりにしておいてこれなのですから、アスター監督自身が作ってる最中に「このままで大丈夫か?」と不安になって作風を変えてるような、若さゆえの焦りに見えちゃうんです。少しは高畑勲監督の不動心を見習……っちゃいけません。

 伏線回収がすごいとかも言われてるようですが、それって、ほぼボーの実家にあった母親の会社のポスターとか母親の遺体の特徴とか、みみっちい細部に関することですよね。ボーの父親のこととか、ボーが医者一家の豪邸のテレビで観たものとかの説明は投げっぱなしでしょ。なんか消化不良になっちゃうんだよなぁ。
 ボーの父親と言えば、今作における CG技術の使い方は、ほんとに『ミッドサマー』と同じ監督なのかと疑いたくなるほどに下の下の策だったと思いますよ。いや、あれに CG使っちゃいけないだろう! それこそ、『ポゼッション』(1980年)みたいにぐちゃぐちゃドロドロな実際の造形物で出すべきじゃないの? 全然怖くないんだよなぁ。いや、あれはギャグであえて CGアニメチックにしているのか……でも、だとしても医者一家から追いかけてきた狂人ジーヴスの最期とともに、盛大にスベッてますよね。

 やっぱこの映画、最後までコメディで通すべきだったんですよ。だとしたら、あのオチを選択するべきではなかったと思うんだよな。
 あと、今作には母性がつきまとっていたためか、出る女優さんがのきなみ熟れたてフレッシュだったのも、『ミッドサマー』での不気味な村娘マヤ(演・イザベル=グリル)の魔性にやられてしまった私には、ちとレベルが高すぎたのかも知れません。いや、今作の韓流アイドルに首ったけの不良少女トニもいたにはいたけど、彼女に魅力を感じるお客さんは日本にどれくらいいますかね……

 前作『ミッドサマー』を観た直後、私は「次回作なんか誰が見るか!」と感じていたのですが、今現在、私はその次回作を観てしまいました。これはやっぱり、ツンデレではありませんが、強引で暴力的ながらも、それだけ惹きつけてしまう異形の魅力が『ミッドサマー』にあったからだと思うのです。
 そしていま、私は『ボーはおそれている』を観た直後に、3、4年前と同じように「次回作なんか、誰が見るか。」と思っているのですが……心の中の温度はだいぶ違うような気がするんですよね。
 なんか、勝手ながらもアスター監督の底が見えちゃったというか、「3時間つきあう程の人でも、ないかな。」みたいな荒涼とした風が吹いております。前回のグラグラと煮えたぎる嫌悪感なんか、きれいさ~っぱりありゃしませんやね。醒めたもんです。

 いろいろ、なんでこの作品にこれほどがっかりしているのかと自分なりに考えてみたのですが、やっぱり、描き方は多少アレンジしているにしても、オチを先行作品と同じものにしているという点に、私はどうやら納得がいっていないようです。それは、あの『ゴジラ -1.0』に私がいまひとつ良い印象を持てていないことと同じなんですよね。
 いや、それだったらオーソン=ウェルズ監督の『審判』(1963年)のほうが悲劇的で身に迫る不条理さがあったし、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(2001年)のほうが怪獣が4体も出てくるからおトクだし!!みたいな。

 あともうひとつ、今回の鑑賞がイマイチだった原因として、もしかしたらこっちの方が重大だったのかも知れませんが、『ボーはおそれている』を観たのはついさっきの夜だったのですが、実は本日わたくし、お休みだったのをいいことに家で朝から昼間にかけて黒澤明監督の『七人の侍』を観ちゃってたのよね……
 いや~、これはアスター監督に悪いことしちゃったなぁ! そりゃ勝てるわけねぇって!!
 『七人の侍』が天下御免の「207分」なので、ボーちゃんの3時間に向けて身体をならす算段で観たのですが、何度目かの鑑賞なのに、や~っぱりおもしろい! 日本人だからというひが目では決してないと思います。

 ということで本日私の言いたいことは、「映画を観る前に『七人の侍』を観てはいけない。」&「『ボー』はどうでもいいから『七人の侍』は絶対に観て!!」に、あいなり申した。アスター監督、ほんとにごめんなさい……


 本作のラストの展開なんか、ボーがどうなるかよりも、「俳優のリチャード=カインドさんのゲジゲジまゆ毛、昔どの作品で観たんだっけ?」で頭がいっぱいになっちゃってましたからね。答えはドラマ『ゴッサム』シリーズでのゴッサム市長だったのですが、思い出したころには映画はエンドロールに入っておりました。

 何を見ても、何かを思い出す……歳はとりたくねぇもんだなぁ、オイ!!

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