げんきんとか。

2006-03-05 18:57:23 | memo。
邪教の結婚式に出席するために千葉市へ行ってまいりました。幸せならそれでいいのよという気持ちと居すわった生理感覚のはざまで、例えばセイシュシキで銘々に配られるブドウシュなどは、以前読んだおどろおどろしいイメージが蘇り、ただわたくしひとりが無下にすることで幸せを邪魔してもならないわけで、口はつけられなんだとはいえ押し戴いて掲げるぐらいのことはいたしました。

世界平和のために宗教が手をつなぎ合おうという国際式典を主宰し喝采を浴び世界を誘導するかのような夫婦のビデオを見せられ、その活動の意義深さよりも、その資金は誰から搾取したのかという怒り、なおかつ神事に託して信者獲得活動を行う浅ましさばかりを思ってしまう、家族と血を謳う式は、ささやかながら和やかに笑顔あふれる数時間でありました。


もしかすると、たとえ信じられない活動でも、月1,000円程度の献金で済み、個人の貯蓄を気にしない宗教なら、こんな怒りはないのかもしれません。まったくもってげんきんな感覚なのかもしれません。


あのひとってげんきんねえというときのげんきんを漢字にすると現金だと知ったときに、なるほどというのとは遠い感覚だった、というのさえ遠い昔の話で、いまどきならなおさら、生活費という言葉も含めて現金の感覚というのはどれほどの人にどれほどあるだろうかと思ったりします。

現金が現金としてというのは、数字の多寡を超えた肉体的な感覚というのは的確な表現ではなさそうですけれど、お金は働いて得るもの──自己実現という話を別とすれば、やはり庶民としては働くというのは生活費とか遊興費とか現金感覚に直結するもののように思うので、働けない人が増えているということに関しては、そんな感覚を呼び起こすことあるいは似た何かを提示できるといいのになってはなしは、性の話でもそんなことがよく言われるわけでむづかしい御時世ではありましょう。

ライブドア問題はいろいろな問題での日本の間抜けさを露呈させてくれたのではなかろうかと思いますが、その演者たちに演じたという自覚がないらしいところに、もはややれやれと肩を落とす下層庶民というのは、いくら同じ舞台にいるんだよと言われたところでどうにもあかん例えば永田メール騒動が、本当は知らなければならない案件たちをことこと静かに着実に運ぶベルトコンベアーを隠してるんだろうなと思いながら、このシートはおしりが痛いと言うばかりのとりあえずとりあえず。

確定申告の期限が15日に迫りました。税務のはしっこに携わる知人はサラリーマンは勝手にどんどんとられているのに年末調整でこんなに戻ったって喜んでるけど単に払い過ぎてるだけなんだよと言いますが一部が痛みを唱えても届かぬ程度に税の適度な痛みも与えぬ制度がすごいのかやはり日本人は感じないのか、お金のことがよくわかっていないのは私一人ではないようです。
コメント
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