ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「平成最後の桜」〜江田島・第一術科学校春季広報行事 観桜会

2019-04-10 | 自衛隊

さて、江田島の第一術科学校で行われた春季広報行事としての観桜会、
招待客のほとんどが参加した校内見学ツァーを終え、グループごとに
会場となる食堂まで到着しました。

江田島市長明岳氏が続いてご挨拶。

呉でも思いますが、それ以上に江田島という土地は、自衛隊、というか
第一術科学校と幹部候補生学校と地元との関係が良いと感じます。

それは生徒が下宿で民間の家にお世話になるときに決して不義理をしない、
一度何か災害が起これば生徒が救援や支援に身を惜しまず出動する、
といったことで醸成されてきた海軍兵学校以来の強い信頼関係が
10年の空白期間を経て今もなお受け継がれていることを意味します。

これも中畑学校長の挨拶によると、学校長は江田島を去る少し前に

週一度の習慣となっている古鷹山登山を最後に行いました。

そして頂上から下を見て第一術科学校の広さをあらためて確認すると同時に、
海軍がこれだけの土地を獲得することができたのも、100年前移転を余儀なくされた
従来の住人たちの協力のおかげであると思わずにいられなかったと語りました。

もちろん当時は江田島も今のように人がたくさん住んでいたわけではなく、
基本用地となったのは、主に人の住んでいない広大な海沿いの部分だったのですが、
それでも何軒かの民家や、出来たばかりの神社もこのため移転しています。

昨年夏、水害に遭った一軒の民家に候補生らが災害支援に駆けつけた時、
その家は江田島に兵学校が出来たときに立ち退きをしていたことがわかった、
という学校長から聞いた話をここに書いたことがありますが、このとき
学校長はもう一度その話をされました。

その際実際に学校長が遭遇した話のように書いてしまいましたが、聞き間違いで、

「あの時の恩返しが出来た」

という言葉もご本人に告げたのではなく、学校長を始めそれを知った人たちの中で
密かにそう思った、というのが正確なところのようです。

昨夕の呉地方総監部観桜会でもご挨拶された寺田稔先生。

 

続いて今日の観桜会の料理を作った給養の方々が紹介されました。

「得意料理は筑前煮です」

「今日のカレーはわたしが作りました」

などの一言を皆が付け加えての自己紹介です。

学校長、政治家などの皆さんによる鏡割りが行われました。

樽の「同期の桜」というお酒は江田島銘醸株式会社という地元の酒造会社のお酒で、
同社のブランドにはラベルに赤煉瓦の生徒館が描かれた「江田島」
そしてその名も「古鷹」、焼酎には「ヨーソロ」という商品があるそうです。

こんな時のために用意された「第一術科学校」とプリントされた法被を着て。
阪神基地隊の、餅つきの時にもこういうのを着ますが、
これって洋服が汚れないためのものなんですね。

巻き寿司もおいなりさんも手作り。
焼きそばパンという食べ物を自衛隊の宴会で見たのは初めてですが、
食べてみたTOによるとなかなか美味しかったそうです。

一術校カレーなるオリジナルカレーの屋台には始まるやいなや列ができていました。

なんと、

大豆・オリーブ(の実?)牡蠣・チリメンジャコ

が入っているカレーということでした。
牡蠣らしい内容物は残念ながら入っていませんでしたが、
昨日の呉地方総監部カレーと比べても少々甘口に感じたのは
オリーブの実が入っていたせいでしょうか。

わたしが思うに一番味に特異性を与えていたのはチリメンジャコ。
カレーのトッピングとしてこれはありだなと感心しました。

会場となっている食堂にはこのような号鐘が置かれていて、
観桜会の開始時にカンカーンと鳴らされました。

まず号鐘の説明として

「鑑定において、時刻や火災などの緊急事態の発生を知らせる場合や、
錨泊中など濃霧の場合に他船に存在を知らせ、
高校の安全をはかるために使用する鐘」

「コンピュータ制御で最新の警報装置を備えた現在でも、
電源遮絶に備え、法律で設置が義務付けられている」

とありました。
どんな艦船にも鐘があるのは飾りやシンボルという意味ではなく、
電源喪失の場合を想定してのことだったんですね。

そしてこの号鐘は、「練習船12号」に備えられていたものです。
昭和57年に防衛庁技術研究本部が、

強化プラスチック(FRP)の掃海艇への適用を調べるための

実験艇として就役しましたが、役目を終えて
(結局機関から水中への放射雑音レベルが高く、掃海艇に使用されず)
その後、練習船として第一術科学校で運用され、平成28年に除籍となるまで、
延べ2万9千人の学生の航海訓練を行いました。

会場の一角では、説明がなかったので術科学校生か職員かわかりませんが、
軽音楽部として地元のイベントでも演奏を提供しているという軽音バンドが

「Feel Like Makin' Love」

などのポピュラーを中心に、BGMを演奏して楽しませてくれました。

一術校の幹部でギターを弾く「偉い人」に

「今日は演奏なさらないんですか」

と(冗談のつもりで)聞くと、

「今日立場上遠慮しました」

 本来は一緒に演奏をしていたのか・・・・。

会場の窓からはこんな角度で教育参考館が見えます。
手前の桜が満開になれば、ここからの眺めは最高のものになるでしょう。

宴会が半ばまで過ぎた頃、ケーキのお披露目がありました。
この日のために特別に作られたその名も

「平成最後の桜」

というケーキがカットされ皆に配られることになったのです。

ケーキにちりばめられたチョコレートは、おそらく
桜の木の枝と幹を表しているのだと思われます。

先ほど紹介された給養員の方々の紅一点がこのケーキの担当です。
ケーキが配られ、皆は早速列を作りました。

わたしもいただいてみました。
スポンジは固めで、どうもポピーシードが入っているようです。
フルーツ入りのクリームが挟んであり、お花はバタークリーム製。

昔誕生日会のために母親が家で焼いてくれたケーキのような
素朴で、しかし心がこもった味がしました。

終わりになって幹部学校長南海将補がご挨拶を。
やはり話の中心は明日を限りに転勤になる一術校長のことになります。

特に耳に留まったのは、両校の関係が大変上手くいっていたという意味の

互いに相思相愛といってもいいくらいです」

という言葉でした。
うーむ、それほどまでに・・・・。

挨拶を聴く一術校長、江田島市長、そして手前の米陸軍軍人は
東広島にある弾薬廠を管理している

米陸軍第83兵器大隊(83rd Ordnance Battalion)

の司令官だろうと思われます。

閉会が告げられると、わたしたちは即座に外に出ました。
この後、TOが広島から新幹線で仕事に向かう予定があり、
フェリーに乗る予定をしていたからです。

駐車場までは、ツァーで説明をしてくれた自衛官がわざわざ
送ってくれ、話をしながら構内を歩きました。

ここは赤煉瓦の影になるせいかほとんど花が咲いていませんが、
これを見ながらおっしゃるには、

「昨日、学生たちが桜の木に向かってみんなで
『咲け〜!咲け〜!』と声をかけていたんですよ」

「そういえば昨日は呉で『江田島はもっと咲いていない』と聴きました」

「それで『咲け』か・・・『酒〜!』かと思った(笑)」

この日一部の桜が花開いていたのはそのおかげだったようです。

ここを通るとき、いつも「号令を聞いて育つためまっすぐ伸びる松」
の話を聞くのですが、帰り道には

「号令が聴こえるところにある桜は、あまり大きく育たないんです」

という衝撃的な話を聞いてしまいました。

大講堂の横の桜はそれなりに大きいですが、この道を挟んで
向かい側に並んでいる桜はなぜかあまり高く伸びず小ぶりなままなのだとか。

「松はまっすぐ伸びますが、桜は萎縮しているんじゃないかと言われてます」

それはあまりにも面白すぎる。
しかし、こうとも考えられませんでしょうか。

「あまり花をたくさんつけると花びら掃除が大変だから、桜は
候補生に気を遣って大きくならないようにしているのかもしれませんよ?」

 

さて、この後が大変でした。
全く観桜会と関係ないですが、ちょっと聞いてください。

まず、TOがスマホで調べ、小用で乗るつもりをしていた船は高速艇で、
車を搭載できるフェリーではなかったことが港に着いてから判明。

「地道で行くしかないねえ」

と訪ねた人に言われたのを真に受けて、そうしようというのに対し、
わたしはきっぱりと、

「ちょっと待って!切串港から広島行きフェリーが出てない?」

路肩に車を停めてiPhoneで検索させると、なんと、
9分後に広島行きが出航するというではありませんか。

グーグルマップで調べると車での所要時間は11分。
わたしは
それを聞いた途端アクセル全開、切串までの道をかっ飛ばし、
海沿いのくねった道を華麗なハンドルさばきで切り抜けて、
ギリギリ最後の一台となってフェリーに滑り込んだのでした。

車を停めたその瞬間、フェリーは出航、二人は脱力感でしばらく絶句。
性能の良いプリウスを借りていて本当によかったと思った瞬間です。

 

広島駅の新幹線口でTOを降ろした後は、空港に到着し、
広島空港でいつも利用するメローブラウンカフェで時間を潰し、
予約していた便で無事帰宅することができました。

ところで、これが江田島構内で見た最後の桜となったわけですが、
翌週、呉地方総監部からこんなものがお礼状とともに送られてきました。

なんと、呉地方総監部に咲いた桜の花をパウチにしたものです。

呉での桜を楽しんで貰えなかったから、ということでしょうか。
観桜会場となったあそこの桜が満開になってからわざわざ花を集めて
加工したものをプレゼントしてくださったというわけです。

わたしはこのちょっと思いつかないような、粋で斬新なアイデアに
「さすがは海上自衛隊!」と唸りました。

そしてこの桜花パウチに書かれた「平成最後の桜」という言葉は、
奇しくも江田島で
皆に振る舞われた特製ケーキにも名付けられていたものです。


このような海上自衛隊の皆様の心のこもる温かいおもてなしのおかげで
今年の観桜会は桜を観るだけに優る印象深く楽しいひと時となりました。
皆様にこの場をお借りしてお礼申し上げます。

平成最後の桜の思い出を、ありがとうございました。

 

 

 


四月七日の父子桜〜第一術科学校春季広報行事 観桜会

2019-04-08 | 自衛隊

江田島・第一術科学校における観桜会のプレ・イベント、
校内見学が続いております。


幹部候補生にとってはいろんな意味で思い出深い(といわれる)
第3グラウンドを見ながら取り壊し予定の鉄筋コンクリ旧教官室と
教育参考館のビルの間の道を抜けてここまできました。

今日は時間がかかってしまうので教育参考館内の見学はありません。

今日は最初から最後まで建物を外から見学するツァーのようです。
ただし、一般には非公開となっているところも見せてしまおうという企画、
まずは教育参考館の山側にある水交館、旧海軍兵学校文庫館。

水交館はこの構内で最初となる1988年に建てられた最初の建物です。
赤煉瓦の生徒館や大講堂よりも古く、ここだけ建築様式が違い、
レンガの積み方が「フランス積み」(フランドル積みとも)となっています。

なんでも、学校とするべき敷地を養生している間、候補生はずっと
江田内に停泊した練習船「東京丸」で生活し訓練していたのですが、その間、
海軍将校たちが「陸」で暮らすためにここを作ったという話も聞きました。

大昔はここが「お車寄せ」として車が左から右に通過していたと思われます。

ファサード上部の丸い浮き輪のような彫刻が実におしゃれ。
内部は一階に応接室状の部屋が左右に分かれてあり、二階は
一昔前の奈良ホテルのような洋風の宿泊施設がやはり赤絨毯の廊下の
左右にいくつか(それぞれが独立してバストイレ付き)配置されています。

2年前の卒業式に彬子女王殿下がおいでになった際には、
ここで休憩をしていただいたということです。

宿泊施設なので、現在は将官が臨時官舎として利用することもあるようですが、
二階は一切非公開となっていて、一般人が見る機会はありません。

二本の木の左側に雨樋があるのがご覧になれますでしょうか。
この写真では分かりにくいですが、雨樋は赤煉瓦の部分壁に埋め込まれて
壁と面一(ツライチ)になっています。
上部にアーチを描く窓にも白いレンガを配してデザインポイントにしています。

この向こうは水交館の庭となっていて、洋風の建物の前に
灯篭を配した和風の庭の取り合わせが文明開化な感じです。
「坂の上の雲」で、秋山真之が結婚相手となる華族のお嬢さん(石原さとみ)
と初めて会う戦勝祝賀会のガーデンパーティのシーンで使われました。

そしてなんと、かつてはこの同じ場所で観桜会の祝宴も行われていたのだとか。

おそらくは水交館一階の奥にある広いキッチンがそのために使われ、
一階のフロアは公開されたこともあったのかもしれません。

「坂の上の雲」と同じ外での宴会、一度は出席してみたかったですが、
流石に最近は手狭となり室内で行うようになっているとのことでした。

かつては花見ゾーンであったところの芝生に、桜の苗木があるのに気がつきました。

「伊藤整一海軍大将手植えの桜」

と立て札があり、「第一術科学校長」と併記されています。

天一号作戦で戦艦「大和」に乗って特攻作戦に赴いた伊藤整一大将の
東京の家の庭に植わっていた桜、それはこの立て札にもあるように
かつて伊藤大将が自らの手で植えたものだったそうですが、
その桜が何年か前、有志の手によって江田島に移植されました。

教育参考館前にある桜には「父子桜(おやこざくら)」という名前が付けられており、
天一号作戦で出撃した伊藤中将(作戦時)と、出撃の際零戦で父の部隊を掩護した
長男の叡(あきら)中尉(兵学校72期卒)がいずれも学んだ海軍兵学校の庭に
この父子を偲ぶよすがとして植えられたものです。

それはともかく、父子桜は教育参考館の前のものだけと思っていたら
水交館の前庭にも植えられていたことにこの時初めて気がつきました。

 しかも気づくともう一本それらしい桜が・・・。
説明はないけどこれはまさに第三の父子桜。

昔ここに書くために一度調べたところによると、この桜は
杉並区にあった伊藤家の庭にあった樹齢80年になる桜の枝を
伊藤整一の故郷である福岡県みやま市の有志が苗木になるまで育て、
第一術科学校に寄贈したものです。

水交館からさらに坂道を上っていきます。
この左側の道を行ったところには、第一術科学校長の官舎があります。

そこはいかなるツァーでも基本民間人に公開されることはありません。

この桜が咲けばさぞ美しいでしょう。
この上には高松宮邸があり、かつては宮様が週末をそこで過ごすため
テニスコートが設えられていて、宮様は斜面に作られた階段を
コートまで降りてきていたという話を聞きました。

水交館の上には賜餐館(しさんかん)があります。
わたしがかつて国会図書館まで行って調べたところによると、
賜餐館は昭和11年、昭和天皇のご行啓のために建設されました。

天皇陛下は昭和11年10月27日、お召し艦「愛宕」でご行啓遊ばされ、
その際海軍兵学校で視察をされ、ここで休憩賜ったのです。

教育参考館の前に立たれる天皇陛下。
こんなに小さな写真でもどれが陛下かすぐにわかってしまうという。

こちらは呉ご到着の際民に向かって帽子をお振りになる陛下。

こちらは陛下を一目見ようと集まってきた呉の国民と海軍軍人たち。
女性もほとんどが黒の紋付を着て正装しているのがわかります。
時間かのご休憩のために賜餐館のような建物を建ててしまうくらいですから、
このご行啓のために、今では考えられないくらいの用意がなされたのでしょう。

ところでこの度の平成から令和への御代がわりにおける皇室行事を
質素に、という話がなんと当の皇室の方々から出てきている、
と聞いたのですが、いくらこのご行啓の頃と時代が違うからといって、
国の象徴である皇室の行事を節約するべきではないとわたしは思います。

必要以上に華美にする必要はありませんが、伝統に則って
それ相応の格式を備えた国柄にふさわしい儀式であるべきでしょう。

賜餐館の前からさらに上に上っていく石段、これは

高松宮記念館

に続いています。
賜餐館ができた時には当然ここより上に何もありませんでした。

ここ江田島の旧海軍兵学校でたった一つの和式建築、それが
当時兵学校に在学しておられた天皇陛下の弟宮であられる
高松宮殿下が週末の下宿としてご使用遊ばされたところの
高松宮記念館です。(もちろん当時はこう呼ばれてはいない)

皆さんは正面で説明を受けておられましたが、わたしは前回の見学で見られなかった
裏庭の写真をこっそり撮りに行きました。

昔は裏庭に池があったんですね。

見学ツァーはここまでで、グループはこの後山を降り、
教育参考館の道を隔てて反対側にある食堂に移動しました。

先日の幹部学校卒業式の午餐会が行われたのと同じ場所です。

会場に入る前に、二本の「父子桜」の横を通り過ぎることになります。
水交館の前の桜は一輪も咲いていませんでしたが、こちらは花をつけています。

関西から来られた「江田島初体験」の女性と案内係の自衛官に、
「父子桜」の由来を僭越ながら説明させていただいたところ、
感動した、というお言葉をいただきました。

ちなみにこれはわたしが海軍兵学校の同窓会に同行した平成26年の写真です。
今と違って周りは養生のために囲いで覆われており、幹も細いですね。

五年間で桜の苗木は色も濃く、「幹」と呼んでいい太さに育だったのがわかります。

 

第一術科学校に伊藤家の桜が贈られるきっかけになったのは
ノンフィクション作家中田整一氏の著書、

四月七日の桜 戦艦大和と伊藤整一の最後

という著書のなかで、中田氏が伊藤整一手植えの桜を
「父子桜」と呼んだことから始まっているらしいのですが、
わたしはこの日の花を付けていない「父子桜」を見て、
同著に書かれていたという、

「父子桜はいつも4月7日に花を咲かせている」

という言葉を思い出さずにはいられませんでした。

そして、咲いている場所によって花をつける時期が少しずつ違う
ここ江田島の桜の木の中で、やはり父子桜だけは
伊藤整一が「大和」艦長として出撃し、彼の息子が
それを掩護機から見送った4月7日に花をつけるのではないだろうか、
と思ったのですが、江田島のみなさん、今「父子桜」は満開ですか?

会場には卒業式の午餐会の時とは反対側の入り口から入って行きました。

観桜会が「春季広報行事」という説明付きであることを初めて知りました。

入ったところには今日が最後の任務となる第一術科学校長、
幹部学校長夫妻など学校側の偉い人たちが並んでお迎え。
その横にこのカラフルな手作りケーキも一緒にお迎えしてくれました。

「『平成最後の桜』という名前のケーキです」

いよいよ観桜会祝宴が始まりました。

 


まず最初に第一術科学校校長、中畑海将補がご挨拶。
壇上に上った途端、大きく両手を広げて元気いっぱい、

「みなさん、今日は!」

観桜会には少し桜の咲き具合が十分でないことを謝りつつも、
その分話に花を咲かせてください、とスピーチされました。

 

中畑海将補は3月31日をもって術科学校長を退職し、
4月1日から海将に昇任、同時に統合幕僚監部で運用部長の職に就かれました。

ご自身でおっしゃっていたことなのでここで書いても構わないと思うのですが、
統合幕僚監部の運用部長というのは、自衛官ならおそらくご存知のように、
とにかく大変な激務となること確定の配置なのだそうです。
その大変な任務に海将補は自ら手を挙げたということもこのとき伺いました。


ところで、統幕という言葉に馴染みのない方のために簡単に説明しておくと、
防衛大臣を補佐する制服組の組織であり、また文字通り陸海空の統合運用を行います。
その部署で任務を行う者を幕僚といい、旧陸海軍でいうところの「参謀」です。

その中で中畑海将が長を務める運用部というのは、文字通り陸海空自衛隊の運用に関すること、
その訓練の調整などを行うところですが、

運用第一課(防衛警備・防諜担当)
     カウンターインテリジェンス室
運用第二課(部隊運用・災害派遣担当)
運用第三課(統合訓練担当)

というこの隷下の組織を見てもお分かりのように、例えば大災害発生時、
自衛隊の部隊を派遣する中心となるのはこの部門です。


中畑校長はこの翌日離任され、江田島を去ることにになっていました。
この日、最後のお見送りをしたいという観桜会会場での声が多数あったためか、
帰りにはどこそこで朝早く離任式が行われる、というお知らせが
急遽印刷されて会場出口に置かれ、その人望の厚さを窺わせました。

わたしも飛行機が変更できるものならば、もう一日江田島にいて、帽振れで
新しい任地へと船出していく
海将補を見送らせていただきたかったです。



続く。




同期の桜と「もう一つの同期の桜」〜第一術科学校観桜会

2019-04-07 | 自衛隊

呉地方総監部で行われた観桜会に参加した次の日は、
江田島の幹部学校での観桜会に参加しました。

呉から江田島まで地道を通っていくと1時間はかかりますが、
ちょうど良いフェリーの時間があればそれに乗ればあっという間です。

指定された時間にちょうど良いタイミングで便があり、
見ていると乗り込んでいくのはほとんどが観桜会の客のようでした。
わたしたちの前にいる車にも、見たことがある人が乗っています。

車に乗ったまま過ごせるフェリーは本当に楽です。
出航してしばらくすると車窓を通して自衛艦が見えました。
すぐさまカメラを掴んで外に飛び出すわたし(笑)

艦番号233は「あぶくま」型護衛艦のネームシップ「あぶくま」です。
特徴的なのは後部甲板のハープーンSSMミサイル。

出航したばかりで甲板にはたくさん乗員の姿が見えます。

出航してすぐ、右側に小さな、しかし何かいわくありげな島が見えてきます。
これ「大麗女島」といいまして、現在は海自の弾薬庫となっています。

海軍時代からこの島は燃料備蓄庫として使われていました。

レンガの建物もトンネルも旧海軍時代からの建造物です。
終戦間際には、ここで特殊潜航艇「咬龍」を地下で建造していたそうです。

手前の白い建物や構造物は海自が作ったものでしょう。
赤煉瓦の建物の後ろにちょっと見えている民家が興味を引きます。

小用港に上陸すれば、第一術科学校までは5分くらいで到着します。
前の車に続いて招待状をフロントガラス越しにヒラヒラ振りながら入っていくと、
車は何と大講堂の御車寄(画面右の建物前のスロープ)に誘導されました。

御車寄にはずらりとお迎えの方が並び、TOはその中を降りていきます。
わたしはTOを下ろすと、そのまま御車寄を通り抜けるように指示されました。

せっかく初めて車で御車寄に来れたというのに、運転しているがために
そこに颯爽と降り立つということができなかったのです。
江田島での、特に海軍軍人たちの「追体験」のようなことができるのが
何よりの楽しみだったわたしにとって、これはわずかに残念なことでした。

指定された場所に車を停めて御車寄まで一人で歩いていくと、
先日大講堂の見学をした時に見せていただいた二階の来賓室に通され、
お茶とともに本日の行程表を配られました。

これによると、本日は観桜会に先立って行われる構内の特別公開に
AからEまでのグループに分かれて案内されるのだそうです。

分厚い紙の束になっているのは、観桜会宴席での席順までちゃんと
印刷されているからです。

一つのグループはきっちり10人ずつとなっていて、
待っている間に皆が名刺交換大会となりました。

ツァーが始まり、大講堂の来賓室を出るとき、一人の自衛官が
紙に焼いた卒業式の写真を手渡してくれました。

二階のバルコニーから撮った写真で、確かにこの中にわたしもいます。
わざわざプリントしてくださるなんてありがたいことです。

さて、案内されて外に出ますと、大講堂脇の桜が何とか
7部咲きくらいに頑張って咲いていました。

実は前日の呉地方総監部の観桜会では、江田島から来られた方々に

「江田島は呉より桜がないんですよ」

と悲しい予告をいただいていたので、
こちらに関しては全く期待せずにやってきたのですが。

しかしこの大講堂脇の大木の桜は、候補生たちにとって
「恨みの桜」となってしまうんですね。

わたしたちの案内をしてくださったのは幹部候補生学校の
第2・3学生隊長(と言っても学生ではなく先生の立場)だったのですが、
構内ツァーの案内者が必ずここに来ていう、

「ここは学生が毎朝清掃し目立てをする場所なのですが、
桜の季節は落ちている花びらを一枚ずつ拾うところでもあります」

というお決まりのセリフがやっぱり出ました。
観桜会に招待されるような人々なら当然知っているだろうと思いきや、
中には陸自の総務課長、などという方もおられ、

「ほおお〜」

という驚きの声が上がっていました。

わたしはこの3月だけで3回目ですが、いつ聞いても何度聞いても、
この江田島の地にいることそのものが嬉しくて仕方がないので、
その都度初めて聴いたようなリアクションをすることにしています(笑)

戦後の十年間を除いて100年以上、毎朝この赤煉瓦前では
総員起こしに続く号令調整や体操、清掃などのために号令が響き渡ってきました。

わたしも江田島の一角で朝を迎えた日、遠くから風に乗って聞こえる
これらの秩序ある喧騒をしかとこの耳で捉え、「追体験」しました。

号令を毎日聞いているから松がまっすぐ伸びる、という解説もいつも通り。

今回の見学コースは、例えば3月初旬に体験したものを
「フルバージョン」、卒業式の時のを「ハーフバージョン」だとすると、
「ミニバージョン」となります。
大講堂は来賓室には行きましたが、正面扉は開いておらず、
内部の見学はありませんでした。

ちなみに各グループを案内し説明を行なったのは、

幹部候補生学校学生隊長、幹候機関科長、
第一術科学校学生隊長、幹部候補生学校機関科長、
砲術科長、航空用兵科長、通信科長、掃海機雷科長

つまり術科学校の先生たちです。

各先生たちは案内説明用のアンチョコ?を持って、
グループを率いて構内を回っておられましたが、如何せん
今まであまりやったことがない専門外のお仕事なので、先日の
術科学校長の説明というわけにはいかなかったかもしれません。

学生がつけた目立てもまだ消えていません。
候補生たちはまだ入校したところで、今日は下宿探し?に
出ているということを聞いたような気がします。

ツァーの中の候補生経験者が

「僕たちの時入校してから1ヶ月は外に出られんかったよ」

と言いだし一同はざわめきました。

赤煉瓦前ではもう先発のグループのツァーが到着しています。

同じツァーに大阪の防衛団体所属で顔見知りの女性がいました。
実はこの日、横須賀、舞鶴、そして江田島と観桜会が同時開催となり、
彼女の防衛団体で「偉い人」がそちらに行ってしまったので、
彼女は代表して江田島に来ることになったということでしたが、
とにかく緊張して来られたのだそうです。

で、わたしにいうには

「だからブログ前もって読んできたんやけど」

ブログってこのブログのことですか。

「なんでわざわざ(あんなの)読んでくるんですか」

「何にも知らんから勉強しよ思って」

うーん、で結局なんか役に立ちましたかね。

しかし、案内係の自衛官の方も、さりげに当ブログ主がわたしだと
確認もせずに決めつけて(ってその通りなんですけど)その前提で
フツーに会話をして来られたし、なんでみんなわかるんだろう。

ふ・し・ぎ〜(棒)

桜に錨の金のマークの下部の木造部分のペンキが剥げている事に気づきました。
確かにここは傷みやすい割に補修が大変そうだ。

幹部候補生学校の門標は、今年90歳になられる
最後の海軍兵学校生、七十七期に在籍された久邇国昭(くに・くにあき)氏が
昨年揮毫した文字を使って作られました。

入り口では当直士官が敬礼でお迎えしてくれます。

本日はホール両脇には行けないようになっていました。
ここを「モッくんロード」というとかなんとかの話は出ませんでしたが、
それはここで撮影が行われもっくんが歩いたからそう名付けられたわけです。

「坂の上の雲」では候補生時代のモッくん、じゃなくて秋山真之が
ここを歩いている事になっていましたが、実際秋山と広瀬らが候補生時代、
まだこの赤煉瓦の校舎はできておらず、それどころか養生中で、
当時の兵学校学生は「東京丸」という学習船で起居していたのです。

このとき聞いた説明も周知のこと(昔からのガラスとか金剛の床とか)
でしたが、ホール階段下から二階の校長室などの上に掛けられた
東郷平八郎の「制機先」(機先を制す)が踊り場の鏡に映って
このように見えることには今まで気がつきませんでした。

初めて来た人は、鏡があまりにも綺麗なので、鏡に思えず、
てっきり向こうに部屋があるように思った、と驚いています。

赤煉瓦のホールを通り抜けると、左側に「同期の桜」があります。
満開とはいきませんが、それでも美しく咲いた桜と赤煉瓦の組み合わせ、
夢にまで見た光景をわたしはこの日初めて目にすることができたのです。

しかもこの角度から写すと電気室が映り込まず、絵的にも最高です。

今や通り抜けるだけになった赤煉瓦後ろの教官室となっていた校舎。
昔ここで候補生が起居していた時代もあったそうですが、近々取り壊されます。

昭和16年ならではの木の扉など、それなりに価値があると思うのですが。
アメリカなら築100年くらいなら普通に壁を塗り直して使うレベルなんだけどな。

扉の前にあった謎の足跡。

教官室のあった校舎を通り抜けると、右側に

「もう一つの同期の桜」

があります。
前回も前々回もこちらの説明はなかったのですが、今回聞いたところ、
「同期の桜」に樹勢が似ているので「もう一つの」と言っているようです。

むしろこちらの桜の方が枝ぶりが堂々と立派で、しかもこの咲きぶり、
地面に着くほど垂れ下がった枝の先まで花が開いて見事です。

「同期の桜」と「もう一つの同期の桜」が咲いていたことで
今回ここにやってきた意味があったというものです。

 

続く。



呉地方総監部観桜会〜呉地方総監の喇叭譜「君が代」

2019-04-06 | 自衛隊

週末、呉地方総監部で行われた「平成最後の観桜会」、
残念ながら桜はほとんど楽しむことはできませんでしたが、
代わりといってはお釣りの来そうなサプライズが待ち受けていました。

現在海上自衛隊が使用しているため、文化遺産指定はされていないものの、
(もしそうなったら改装も一切許可を得なければならなくなる)
呉のランドマークとなっている旧鎮守府庁舎、現在の呉地方総監部庁舎が
日没直前の夕日に照らされて、レンガの色をさらに一層紅く染めました。

この日の日没時刻は0629。(マルロクフタキュウ)

(ちなみにこれを調べるために広島県の日没時刻を検索したら、
毎日ほぼ1分ずつ遅くなり、日の出は1分ずつ早くなっているのに気がつきました。
地球は実に正確に傾いていっております)

そろそろ自衛艦旗降下の時間だなと認識したとき、わたしの「鵜の目鷹の目」は
素早く目の端で呉地方総監が会場の上座から

喇叭を持って

移動する姿を捉えていました。

むむ、これはもしかしたら・・・・?
喇叭吹奏が行われそうな会場入り口付近にわたしは移動し、
ドキドキしながらその瞬間(とき)を待っていると・・・。

やっぱり。

なんと呉地方総監杉本海将、日没の自衛艦旗降下で
本日の喇叭手と共に「将官喇叭」を披露しようとしていました。

終始ポーカーフェイスだった当直士官と違い、ボスとの共演に
笑いが隠せない風の女性海曹、そしてそんな風景を見て

「何が始まるのかな?」

と注目を始めたばかりの周りの人たち。

地方総監、本番を待つ間もドキドキなのかつい時間を確認してしまい。

一般人が集うレセプションなどで自衛艦旗降下が行われる際、
紹介と諸注意をかねて必ず会場には予告のアナウンスが流れます。

今日の自衛艦旗降下のお知らせには、呉地方長官自らが
喇叭譜「君が代」を演奏することが付け加えられました。

異例のことになりますが、喇叭手が観客に向かってお辞儀。
この後、喇叭手二人はガッチリと堅く握手を交わしました。

自衛艦旗降下の際にはそこにいた人全員が旗に向かって立つことを
奨励されますが、わたしを始め、喇叭手の前に立っていた人たちが
全員が頭中で呉地方総監に注目していますと、総監は笑いながら

「どうか前を向いてください」

「じか〜ん!」

♪ドーソードードーミー ドーソードードーミー
ミーミーソー ミーミーソー ミードミソーソーミードドドー♪

 

自衛艦旗に正対せよと地方総監直々のご指示があったにも関わらず、
どうしても、わたしはこの演奏を写真に撮らずには要られませんでした。

今回だけは自衛艦旗への礼を失してしまったことをお許しください<(_ _)>

 ♪ソーソソソーソーミードーミードー ソーソソソーソーミードーミードー

ドーソードードーミー ドーソードードーミー
ミーミーソー ミーミーソー ミードミソーソーミードドドー♪

どういう経緯で総監が喇叭を吹くことになったのか、その経緯について
今回伺うことはできなかったのですが、確かなことは、この演奏が
人々にとって
印象的な「お披露目」となったということでしょう。

そして、海将が吹いている喇叭のおとを聴いて

「喇叭って簡単そうにみえるけど、こんなに難しいものだったのか!」

ときっとそこにいた全員が思ったに違いありません><

その意味でもこのチャレンジは大変な広報効果を生んだような気がします。

終わって思わず天を仰ぎ、全力で照れる呉地方総監。
これも異例となる自衛艦旗降下の後の喝采の大拍手が巻き起こりました。

終始真面目な顔をしていた後ろの当直士官の表情が心なしか緩んでいます。
当直士官の後の人は拝んでいるのではなく、拍手をしています。

「たはは・・・・・」 

もう一度一緒に吹奏してくれた海曹と握手。
ちなみに後ろの脚立に海将の正帽が置いてあります。

二人には惜しみない拍手が続いております。

画像がブレてしまうくらい高速お辞儀。(USOじゃなくてISOが低かっただけ)

前呉地方総監は「愚直たれ」や「恋ダンス」で人々の記憶に残る
名物総監となって退官されましたが、その後任である新総監も前任に続き
広報に体を張っていくスタイル、ということでよろしいでしょうか。

本日観桜会で素敵な音楽を提供していた「マリーンナイツ」が
森山直太朗の「さくら」を演奏し始めました。

「さくら さくら 今舞い上がる・・」

わたしは数ある桜を歌った歌の中でこの曲が何より好きです。
これを不肖宮嶋氏の「国防男子」にも登場していたトロンボーン奏者が
オリジナルキーで歌いました。

バンドの後ろには少しではありますが、桜が開花していました。

満開ならばこの斜面一面がピンクで刷毛を掃いたように染まっていたはずです。
その代わり呉港には相変わらず「ONE」のショッキングピンク船が鎮座していました。

会場で和やかに歓談する観桜会出席者。
男性の出席者は自衛官含めダークな色合いの服装に身を包んでいますが、
女性は意識して明るい色を身に着けている人が多いような気がします。

わたしはこの季節意識してピンクの服を選ぶようにしていて、
今回もベージュピンクのジャケットを着ていきました。

このスイカにカーヴィングする文字は、どうやって型取りするんでしょうか。

1、紙を貼り付けて掘る 2、レーザープリンター的なもの 3、その他

「一隅を照らす」とは。

この言葉は、天台宗を開いた伝教大師最澄が書いた
『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の冒頭にあります。

人はそれぞれの心の中に仏性(ぶっしょう)という仏の性質を持っているので、
一人ひとりに本来具わっている大切な宝物である仏性を引き出し、
磨き上げる行いが大切だという考え方から、その仏性たる

慈・悲・喜・捨の心(仏教では四無量心・しむりょうしん

で周囲に接すること、つまり自分の持てる能力を発揮して
一隅を照らす人になりましょう、という考え方です。

「何だろうね、この言葉」

「新呉地方総監の座右の銘とかじゃないの」

「あー、そうかも」

挨拶の時におっしゃった

「これからの残りの人生の使命は人を育てること」

という言葉にも繋がります。

メロンのカーヴィングは、とにかく繊細で爽やか。

寿司桶の上に展開するジオラマの小宇宙。

さて、というわけで呉地方隊の観桜会も終了しました。

カレーはTO(先日ある自衛官に、面と向かってこの『TO」の
意味と読み方を聞かれたので
改めて説明しておくと『ティーオー』です。
海軍隠語で奥さんのことを、かあちゃん→『KA』(ケーエー)
と言ったので、わたしも『父ちゃん』という意味でこれを使っています)
が取ってきてくれたのをいただきましたが、鳥皮煮込みは知りませんでした。

「鳥皮煮込みなんてあったんだ・・・ちょっと食べてみたかったな」

「今から走っていけば食べさせてくれるんじゃない?」

「ダメだよもう片付けちゃってるし」

駐車場に戻ってみると、黒のプリウスがポツンと一台だけ残っていて、
しかもヘッドライトが点いており、鍵もかかっていませんでした。

「何やってんのードア閉めないで」

「全然気がつかなかった(´・ω・`)」

うちの車はここ二代、車から降りるとドアハンドルの上部に触れるだけで
施錠してくれる超親切設計なので、レンタカーだとうっかり忘れてしまうのです。

駐車場で誘導のため立っていた自衛官が見守る中、
暗闇で煌々と光を放つ車に戻っていくのはかなり恥ずかしかったです。

「絶対あの自衛官呆れてるよね」

「バッテリー上がったりしてないの」

さすがはプリウス、2時間のライト付けっ放しではびくともしませんでした。


この日は呉市内のホテルに宿泊し、次の日は江田島で
第一術科学校の観桜会に出席することになっています。

 

続く。

 

 


海上自衛隊 呉地方総監部 平成最後の観桜会

2019-04-04 | 自衛隊

3月の最終には恒例の呉地方総監部観桜会が行われました。
ご招待頂いて行ってまいりましたので、ご報告します。

今年は例年より早めの桜開花となった関東ですが、出発当日は
どんよりした曇り空で、コートが手放せない肌寒さ。

2年前の呉では氷雨(一部雪)が降ったことを考えても、
この時期のお天気と桜の咲き具合は予想できないものです。

さて、今年はどんな観桜会となるのでしょうか。

今回は広島空港からレンタカーを借りて呉までやってきました。
地方総監部に向かう道の手前、少し前まで自衛隊が使用していた
旧呉海軍下士官休憩所(青山クラブ)の横を通り過ぎようとしたら!

なんと、窓があったところに、おそらくは廃墟に入り込もうとする
不届き者対策だとは思いますが、ベニヤ板を貼る代わりに、
「この世界の片隅に」の登場人物が描かれているではありませんか。

観桜会が終わってから行きに撮り損ねた部分をなんとか撮影しました。
この絵をご覧になってお分かりだと思いますが、「この世界の〜」には、
下士官集会所とこの左側の鉄橋、美術館通りが登場します。

下士官集会所は1903(明治36)年に建設され、戦後もずっと
自衛隊が使用してきましたが、老朽化のため2017年に閉館しました。

江田島の昭和16年築の鉄筋校舎が「歴史的な意味はない」として
取り壊されるように、ここも解体が検討されていたのですが、
この映画がヒットしたことから、歴史的価値が見直され、
保存を求める署名が集められて市に提出され存続が決まりました。

おそらく耐震診断を済ませ、保存のための工事に入るまで
このような形で「予告」を行っていくのでしょう。

もし映画のヒットがなければ、ここは早々に取り壊され、
跡地は駐車場になっていたということです。
ちなみに横須賀の旧海軍下士官兵集会所は取り壊され、
その跡にメルキュールホテルやホールが入ったビルが建っています。

保存した建物は、呉の歴史や特産品のPRの場所となるようで、
それが観光のポイントになればいいなと思います。

1903年当時、これは超モダン建築だったと思われます。
この写真は写り込んでいる女性の服装を見ても、少なくとも
昭和になってから撮られたと思われますが。

復刻させるなら、当時と同じ壁の色にして欲しいなあ。

主人公のすずさん、白木リンさん、そしてすずのお舅さん、円太郎。

映画に不思議な色合いを与えていたすずの想像の産物?「ばけもん」、
そしてすずの夫周作の姉(顔がそっくり)径子とその娘晴美。

すずの姑、サン、幼馴染の水兵、水原哲、妹の浦野すみ。

水原哲はきっとこの建物の道の向かいにある呉海兵団
(現在の呉教育隊)で訓練を受けて水兵になったのでしょう。

映画でも、海軍の法務部に奉職しているすずさんの夫が、
一等兵曹になる前に海兵団で3ヶ月訓練を受ける、という台詞がありました。

 

沢村一樹さん主演の広告マンが主人公のテレビドラマで、
町おこしをするために映画の撮影を過疎化した街に呼ぶ、
という話がありましたが、「この世界の〜」は先に映画のヒットがあり、
すでに広島と呉にはこの映画の「聖地巡礼」に訪れるファンもいるとのこと。

映画の中で印象的だった下士官集会所がそのまま保存されれば、
「海軍の街」としての呉が次世代にかつての姿を伝えるために
大きな役割を果たすことになろうかと思われます。

会場時間少し過ぎてから呉地方総監部の「表玄関」たる海側に近い
通用門を、身分チェックを受けて通過し、坂を上っていくと

「黒のプリウス〇〇〇〇!」(今回はプリウス借りました)

という通信が下から上に伝達され、30m置きに立っている人に誘導されて
最終的には長官庁舎の高さにある駐車場まで案内されました。

 

受付を済ませると、案内の方が長官庁舎内の応接室に案内してくれました。
二階の部屋が待合室になっていたようですが、階段を上ろうとしたら
時間となって応接室で待っていた人たちが出てきてしまいました。

うーん、もう少し早く来ればよかった・・・・。

駐車場から受付に向かうまでの間、古い建物に異常な興味を持つわたし、
ここぞと赤煉瓦を写真に撮りまくります。

この建物もドアや窓を替えて呉地方警務隊の本部として使われています。
ドアのひさしにある赤いグローブランプがレトロな感じ。
このランプは現在も使われることがあるのでしょうか。

会場の手前では、呉地方総監が立って来客のお出迎えをしておられました。
ところで、この写真を見て何かに気づきませんか?

そう、桜が全くといっていいほど咲いていないのです。観桜会なのに。

この会場の様子を見ていただければお分かりのように、去年の観桜会では
満開となって目を楽しませてくれた桜が、今年は全く咲いておりません。

関東であれだけ咲いていたのだから、こちらはさぞかし、と
勝手に予想して楽しみにしていただけに残念です。

三年連続で呉の観桜会に参加してつくづく、満開の桜の日を
前もって予測するのは難しいことだと思い知りました。
自衛隊では例年各基地の観桜会は週で決まっているため、
当たり外れがあるわけで、逆にいうと毎年満開はありえないのです。

 テーブルに置かれた自分の名前を確認して、開演を待ちます。

同じテーブルには政治家や自衛官の他に、陸自の制服も。
先日ご挨拶に伺った駐屯地に置かれた第13旅団長たる陸将補殿です。
(ここはやっぱり陸自なので『殿』をつけるのがよろしいかと)

陸将補殿に伺ったところ、陸自は海自の「観桜会」的な花見はせず、
「桜祭り」とかいう名称で、駐屯地を一般公開し、その際
外部の業者が花火をあげたり屋台を並べたりするのだそうです。

「花見の会」というようなものは内輪でひっそり?するのだとか。

観桜会が始まりました。
まずは呉地方総監のご挨拶から。

4月1日に新元号が「令和」(まだ変換できない(´・ω・`))と発表されましたが、
このときに、総監はいきなり

「先ほど内々に新元号を聞きましたが」

といい、皆を驚かせてからそれが冗談であること、そして

「笑っていただいてありがとうございます」

と皆を和ませました。

「わたしもこの歳になり、自分の役目は何だろうと考えたとき、
やはりそれは後進の教育ではないかと思います」

という言葉が心に残る素晴らしい挨拶でした。

お馴染み寺田稔先生。
わたしと同じく本日の飛行機で羽田から来られたらしく、

「東京は結構咲いていたのですが・・・」

と桜の咲き具合に言及した後、またしても新元号について
知っておられたことを匂わせ、次の瞬間打ち消すというワザを・・・。

これって、国会議員の先生方はすでにご存知で、地方総監も
実は寺田議員からこっそり聞いて知っておられたのでは?
という意味だったのでは、とわたしは勘ぐっております。

まあ、前もって多少漏れたとしても、じきに何の問題もなくなるわけですし。

続いて呉市長新原よしあけ氏。

テーブルのお料理にあしらわれた造花の桜がせめても咲き誇って・・・。

いつも思いますが、素晴らしいといわれる海上自衛隊の料理でも、
「はしだて」は別格としても練習艦隊旗艦「かしま」と呉地方隊は
特にこの舟盛りが最高です。

刺身の種類もさることながら、このボリュームと飾り付けが素晴らしい。

これはすでに乾杯が行われた後ですが、ここは大阪ではないので、
料理にラップはかけられておらず、さらには人々が舟盛りに殺到、
というような現象は起こりません。

もちろん、海老の胴体の前に陣取って、直箸で中の身をせせって
食べ続けるような人もここにはおりません。

パーティというものは人と話をするための機会であり、
食べ物は目的ではない、むしろパーティでものを食べているようじゃダメ、
というビジネス界の鉄則を聞いたことがありますが、
自衛隊の宴会でも、このように地方総監の前に列ができるのが普通。

地方長官が交代して初めての観桜会となったこともあって、
この日は特に長蛇の列となっておりました。

わたしもここではできるだけ色んな方とお話しすることを心掛けましたが、
旧知の自衛官の何人かは、

「4月1日から新しい配置に行きます」

といい、新しい名刺を下さった方もおられました。

海上自衛隊の観桜会が桜の咲いている確率の高い4月始めではなく、
なぜ3月の終わりに行われるのか、わたしは初めてわかった気がしました。

転勤になる自衛官にとって、3月末の観桜会は旧任地最後の任務であり、
お別れ会をも兼ねることになるのです。
もっと実質的なことを言えば、年度末の打ち上げの意味もあるかもしれません。

呉地方隊でのイベントには、必ず呉音楽隊の精鋭メンバーが
『マリーン・ナイツ』というバンド名で演奏を聴かせてくれます。


彼らの後ろの桜の木を見ていただければ、今年の観桜会が
開花という一点ではかなり残念なものだったことがおわかりいただけるでしょう。

この日の夕日が呉港の水平線に落ちる時間が近づいてきました。
自衛隊的にはそろそろ海上自衛隊旗降下が行われるわけですが、
この日の観桜会の招待客には、あっと驚くサプライズ(重言(´・ω・`))
が用意されていたのでございます。

 

続く。

 

 

 


練習艦隊電飾と神戸山麓の電飾〜海上自衛隊平成31年近海練習艦隊

2019-04-04 | 自衛隊

神戸における練習艦隊プレゼンツ「かしま」レセプション、
日没時刻になり自衛艦旗降下が終了しました。

神戸港が薄暮から夕闇に沈んでいく瞬間、電飾の灯る「やまゆき」の向こうに
「KOBE」という文字が山麓に灯っているのが見えます。

この山麓電飾は20分おきに文字と帆掛船の形に変わるというもので、
この左側には昔ながらの神戸市章と錨のマークがあります。

映画「火垂るの墓」でもこの山麓電飾が描かれていましたが、これは
昭和8年から始まり、終戦前後の数年間を除きずっと神戸のシンボルとなっています。 

このがっつりと内容の充実したトレイは・・・・!
骨つき肉からデザートまでちゃんと盛り付けてあります。

わたしはなんとなく「かしま」と「いなづま」の間を行ったり来たり。
「いなづま」の刺身舟盛りは早くも全滅。

帰ってきたら「かしま」も見事に刺身のつまを残して消え失せていました。
サシミ・イズ・ゴーン。
どうでもいいけど、刺身のつまってみんな食べないんですね。

夕闇が濃くなってきました。
新幹部たちも招待客も、双方の艦を行き来して交流を楽しんでいます。

ちなみに去年は幹部たちもレセプション会場で食事をしていましたが、
今年は誰も食べ物に手をつけず接客に努めています。
幹部の一人に聴いてみると、食事は前もって済ませているということでした。

確かに幹部が艦上で食事をするとどうしても一般人と話すこともなくなり、
仲間内だけで固まってしまう傾向があったので、練習艦隊としても配慮したのでしょう。

ちなみに自衛隊のほとんどのレセプションでは、ご挨拶の列ができるような
偉い人たちは、事前に食事をしてから臨むことになっているようです。

まったり美味しい「かしま」カレーの屋台には長い列ができていましたが、
自衛隊パーティでのカレーは決して品切れにならないので、(断言)
行列が解消してから取りに行くと並ばずにすみます(提案)

この日「かしま」先任海曹とお話ししていたら頂いてしまいました。
知人の方がこれを貰っているところに居合わせ、

「あ、(・∀・)イイなあ」

と呟くと、もう一つ持っておられてさっとポケットから出して来られたのです。

裏面は

「Japan trainig squadoron」 (日本国練習艦隊)

と日本列島がと書かれた北斎の「神奈川沖浪裏」が。
これはあれですね、遠洋航海で外国に行ったときに、日本国練習艦隊として
こういうのをプレゼントすると喜ばれるということで用意されたんですね。

ならばそのようなものをわたくしごときが貰って良いものかどうか、
何だか申し訳ない気持ちになってしまったのですが、
頂いたからにはせいぜい人前で見せびらかして宣伝に努めます。

ちなみに、この扇子、退出時に練習艦隊司令のまえを
ひらひらと打ち振って司令に見せながら退出してみました。

司令「あっ」

わたし「先任伍長にいただきました〜!」

同じ先任伍長には、こちらも時間差で頂きました。

あらためて「かしま」のマークは

「鹿の角」「錨」「刀」

で構成されていることに気づきました。

錨の一部分、ポケットの上ふたのようになっているのは
何か練習艦隊を表しているのでしょうか。

荷物を預かるクロークルームになっていた上甲板階の艦室には、
歴代「かしま」の写真や絵が額に入れて飾ってありました。

こちらが初代の戦艦「鹿島」。
英国アームストロング社製。
遣欧艦隊で皇太子陛下のお召艦になったこともあります。

「鹿島立ち」という名前をもった「鹿島」は
そのような役目を負うことを使命として造られたのかもしれません。

「鹿島」という名前を引き継いだ船としては2隻目ですが、海軍ではこちらを
「初代鹿島」としているそうです。

練習艦として海軍最後の内地巡航練習航海を昭和15年に務め、
その後は第4艦隊に編入されて南方戦線に赴きました。

終戦の年の10月、海軍籍を抹消されて民間船となった「鹿島」は
その名前のまま1ヶ月半だけ復員船としてシンガポールからの復員輸送を行い、
翌年解体されました。

その後にできた三代目「かしま」が現在のこの練習艦です。
三代の「かしま」の間には17年、50年のブランク(鹿島が存在しなかった時期)があるんですね。

同じ部屋に掲げられた各司令官の指導方針。
海幕長の指導方針は海幕長ごとに変わりますし、艦長のそれも
艦長が変わるたびに書き換えられますが、「自衛官の心構え」と
練習艦隊としての指導方針が変更されることはありません。

ちなみに現艦長の指導方針は

「負けじ魂」

これは、

「スマートで、目先が利いて、几帳面、負けじ魂、これぞ船乗り」

海軍時代から変わらず受け継がれている伝統的標語の一部です。

 

艦内の時計は、宴会終了時刻の0730を指しています。

舷門に向かうと、立っている自衛官が必ず、一人一人に挨拶をしてくれます。

舷門では敬礼も。

「かしま」の階段は他の自衛艦の階段より木製で立派なものですが、
たくさんの人が同時に降りると大変揺れます。

階段を降りたところでは、足許の危ない人に必要とあらば
手を差し伸べるために自衛官が必ず一人配置されています。

岸壁には気をつけの姿勢で立ち続ける乗員の姿あり。

神戸空港に向かうほとんどの人々とは逆の電車に乗り込みました。
車内から、赤い鉄橋を渡る一瞬だけ、「かしま」と「いなづま」が見えます。

先ほど「KOBE」だった山麓電飾が帆掛船に変わっているのに注意。
この部分の電飾は20分ごとに3デザイン変わって点灯します。

練習艦隊はこの翌日、近くの阪神基地隊に寄港、その後

中城(沖縄)ー佐世保ー大湊ー舞鶴

と日本列島を大きく一周廻った後、点検補修のため呉に戻ってきます。
ある艦長にお聞きしたところ、ゴールデンウィークの10連休、
練習艦隊の皆さんは呉で過ごすのだそうです。

そして連休明けに横須賀入港と。

幹部になって最初の大型連休をどうやって過ごすか、
新幹部の皆さんはきっと今から楽しみにしているんでしょうね。

 

練習艦隊シリーズ、たぶん続く。

 


自衛艦旗降下 @ 神戸埠頭〜海上自衛隊 平成31年 近海練習航海

2019-04-02 | 自衛隊

大阪シェラトンホテルで行われた水交会主催による壮行会のあと、
同ホテルに宿泊して次の夕方、わたしは「かしま」艦上における
レセプション出席のために昨日練習艦隊をお迎えした神戸に向かいました。

レセプション終了後、1日二本しかない羽田行きの最終に乗るため、
先に神戸空港のコインロッカーにトランクを預けてきました。

ポートターミナル駅まで向かうポートライナーからは
沈んだばかりの夕日の残照が染める空に浮かぶ明石海峡大橋が見えます。

ポートライナーの車内から見た岸壁の「かしま」。
車内の仕事帰りらしい乗客の多くはポートターミナルの見慣れない船に
目を奪われているように見えました。

岸壁に降りてから、「かしま」の舳先へと歩いて行ってみました。
岸壁の橋の車は関係者のもののようです。

岸壁ギリギリに立ってようやく「かしま」の艦首がフレームに治りました。
「いなづま」はどうしても入りません。

ラッタルの下にはセーラー服の海士くんたちが堵列を作っており、
彼らに挨拶をしながら艦上に上って行くと、今度は舷門で
海曹と幹部が敬礼でお迎えしてくれます。

前を行く海軍の艦内帽の方は海自OBでしょうか。

「かしま」は構造上、舷側を歩いていくと途中からなだらかな坂になり、
坂を下っていくと甲板に到達する仕組みです。
航海中のランニングには、多少のアップダウンがあっていいのかもしれません。

開場時間より早く着いたつもりだったのですが、乗艦してみると
すでにたくさんの人が乗艦しているのに驚きました。
今年は何と、チョコレートファウンテンが配備されています。
万が一転倒しても大惨事にならないようにアクリルのケースを付ける、
という気配りがされているのがさすが。

このチョコレートファウンテンは今年から導入された新兵器です。
ちなみにいくらぐらいで買えるのだろうと思って調べてみると、
家庭用は六千円から、業務用は何万もするようです。
何が違うのかわかりませんが、この装備、海外のレセプションで
さぞかし喜ばれることと思われます。

向こうの人、チョコレートファウンテン好きだからね。

今年一番驚いたのは、「かしま」にメザシされている隣の「いなづま」の甲板が
解放されて、レセプション会場が二倍になっていたことです。

しかも、もうすでにかなりの人で会場が埋まっているという・・。

去年の大阪港での艦上レセプションにお呼びいただきましたが、
とにかく「かしま」の甲板の大きさに対して来客が多すぎて、
大変な阿鼻叫喚(心象風景的に)となってしまっていたのを思い出します。

とにかく関西では「かしま」一艦だけでは無理!ということになったのでしょう。
他の寄港地でもこのめざし式にするのかどうか楽しみです。

両艦の間の通路も、一方通行となるようにラッタルを二基架けています。
ブリッジの真ん中から防舷物を挟んで並ぶ艦体を望む。

後ろに遠慮がちに?停泊している「やまゆき」。
「やまゆき」の甲板にはヘリコプターが搭載されているのでパーティには使えません。

「やまゆき」艦体の下から水が吹き出しています。
艦首の国籍旗は昨日入港の際掲揚されてそのままでしょうか。

会場に入ってすぐ、わたしはあることに気がつきました。
こんなにたくさん客が開場時間前に入っているのに、まだ誰も
料理を食べ始めていません。

普通そうだろう、食べ物に手をつけていいのは乾杯のあとだろう、
そう思ったあなた、あなたは大阪(関西か)を知らない。

去年も書いたのでご存知の方もおられるかもしれませんが、
関西におけるレセプションでは、どういうわけか、乾杯もすまないうちに
必ず誰かが食べ始め、そのうち我も我もと皆が食べ始めちゃうんですよ。

去年の大阪港で行われた艦上レセプションに、わたしは少し遅れて、
ちょうど艦隊司令の挨拶が終わったくらいに到着したのですが、
その時すでに皆食べ始めていたらしく(流石に挨拶中は食べずに聞いていたようです)
乾杯が始まった頃には雲丹などの高級食材が真っ先に食い尽くされ、
すぐにサシミ・イズ・ゴーン(なぜ英語)となって、こちらを驚嘆させたものです。

さすがに乾杯前に飲食が始まってしまうのは如何なものか、
と練習艦隊本部が本気で頭を悩ませた(のかどうか知りませんが)結果、
乾杯までラップで料理に蓋をすることで阻止する作戦に出たようで、
この日の神戸において、見事にその作戦は功を奏しておりました。

練習艦隊司令梶元大介海将補がまずご挨拶。
後ろの雷神風神の暖簾があり、この時は意味がわからなかったのですが、
後から「いなづま」から借りてきたものではないかと気づきました。

「かしま」艦長、「いなづま」艦長、そして「やまゆき」艦長。

今回は艦隊司令、全ての艦長にご挨拶することができました。
「やまゆき」艦長に

「いなづまの甲板を繋げてレセプション会場にするなんて、初めてですね」

というと、艦長は、練習艦隊に参加するのはご自身の遠洋航海以来初めてで、
それが珍しいことなのかどうかわからない、とおっしゃっていました。

「かしま」艦長に江田島出航における錨のアクシデントの話を伺ったのも
この艦上レセプション会場です。

そして「かしま」の鉄壁の守り、つまり料理にかけられたラップが
乾杯の発声と同時にはずされる瞬間がやってきました。

 

こちらに見えるのは海自のレセプションではもうすっかりおなじみになった
フルーツカーヴィング、つまり果物の飾り彫り。
今年はスイカを丸ごと使うのではなく、皮に彫刻を施しています。
はて、フルーツの中ににスイカは見えないようだが中身は何処に。

ラップをまとめる手がまだテーブルの上にあるうちに、
その脇から箸が伸びてきております。

わたしはそれらの賑わいをテーブルのこちらから見ながら、
手前にあるオードゥブルを食べ、(チェリー入りバターを塗ったフランスパン美味)
その後艦内回遊に突入したので、結局刺身は一切れも食べずじまいでした。

「練習艦隊」と書かれた舟盛りは「かしま」お得意の一品で、
魚が跳ねているように頭と尻尾をあしらい、さらには刺身に人参で
椿の花を作って飾りつけるという凝ったもの。

世界各地で「かしま」はその土地のVIPを招待するわけですが、
間違いなくこの舟盛りは彼らの見たことがないような「サシミ」となり、
海老や魚の頭を飾るというのもほとんどの外国人には驚きとなるでしょう。

日没時間が近づきました。

わたしは見通しのいい「いなづま」で自衛艦旗降下を見学することにしましたが、
もちろん甲板にテントを張った「かしま」でもそれは行われていたはずです。

自衛艦旗降下を行う「いなづま」の当直士官は女性自衛官でした。
彼女がオランダ坂の上に立ち、下の海曹海士による降下を見守ります。

告知があってから実際に降下を始めるまで、いつもかなり長時間待ちますが、
発動の何分前からこのようにして待機しているのでしょうか。

何れにしても10分くらい?の間、当直の3人は
手を後ろに回した姿勢で立って発動の時刻(とき)を待ちます。

海曹・海士の手が自衛艦旗の旗索にかけられました。

実はこのとき当直士官の周りには人が詰め寄せており、皆が
携帯を構えて旗掲揚の動画や写真を撮ろうと待ち構えています。

すると、一人の年配の方が当直士官と旗の間に身をを乗り出してきたので、
いくら直接的に邪魔にならなかったとしてもそれは宜しくないと思い、

「前に出られないほうがいいですよ」

とやんわり注意させていただきました。
まあ、こちらが思っているほど当の自衛官は気にもしておらず、
こんなものだと割り切っている可能性は高いですが、
一般人として艦にお邪魔している身なのだから、もう少し
自衛隊の儀礼に敬意を払いましょうってことで。
(あれ?最近同じようなことを書いたな)


ところで、この写真に写っている「やまゆき」の艦首にはまだ
艦首旗が揚がっていますが・・・・・・

「じかーん」

もうこの写真の「やまゆき」からは国籍旗が降ろされています。

士官が敬礼をし、ラッパ譜「君が代」の鳴り響く中、
ゆっくりした動作で二人が索を引いて旗を掲揚してゆきます。

呉の夕暮れクルーズで自衛艦旗降下を遊覧船から見たときには、
各艦船で吹鳴されるラッパ譜が揃っているようで微妙にずれていて、
それもまた軍港らしい風情があるなあと感動したものですが、このときは
思い出す限りラッパは一本の音しか聞こえてきませんでした。

「かしま」の喇叭手だけが君が代を吹奏したのかもしれません。

同時に電飾の灯りが点灯されました。

降下が終わると、途端にオランダ坂の上から人がいなくなりました。
竿から自衛艦旗を降ろした海曹と海士は、いつ見ても全く同じやり方で
自衛艦旗を畳んでいきます。

まず縦に半分に、そしてそれを二人が歩み寄って半分に。
おそらくこの所作も、海軍時代に制定されたものが今日もまた、
全く同じやりかたで粛々と繰り返されているのでしょう。

 

続く。