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即応体制〜自衛隊大宮駐屯地中央特殊武器防護隊

2017-08-09 | 自衛隊

大宮駐屯地における防衛研修会、原発事故災害に派遣された部隊長のレク、
戸外に出て、その時実際に投入された機器やそれを搭載する車両の見学、
そして、NBC災害の時に投入する車両やヘリの除染訓練を行う場所の見学、
と見学過程が終わりました。

続いてわたしたち一行が案内されたのは駐屯地内にある資料館でした。

大宮駐屯地には、陸軍が光学レンズなどを製造・組み立てしていた
陸軍造兵廠大宮製作所がありました。

戦後進駐軍の接収を経て1957年(昭和32年)、化学学校の駐屯に伴い、
大宮駐屯地がここに新設されることになります。

1999年(平成11年)、第32普通科連隊が市ヶ谷駐屯地から移駐してきました。
この木製の看板は、それまで市ヶ谷に置かれていたものだと思われます。

以前陸自のレンジャー過程に入る不良青年を描いた映画「激闘の地平線」について

ここでお話ししたことがありますが、あの時に映画に登場していた
朝霞駐屯地の映像で不思議に思ったのが、表札にも

「駐とん地」

とひらがな混じりで表記されていたことでした。
当時は「屯」という字が当用漢字ではなくなって使えなくなり、
陸自も不承不承「駐とん地」と表記していたのでしょうか。

この新聞記事は、進駐軍から変換された陸軍造兵廠跡に
大宮駐屯地が晴れて新設されるということを報じたものです。

今では考えにくいですが、駐屯地司令の顔写真などを新聞に載せていたんですね。

初代駐屯地司令の外山一佐は陸軍士官学校43期、陸大55期卒ですが、
今でも幕僚にいそうな典型的な陸自タイプです(個人的感想)

警察予備隊駐屯時には、陸軍から存続していた「武器補給処」がまだ残っていました。
これが廃止されたのは1995年と言いますから、割と最近のことです。

ここに展示してある制服は、そういえば「激闘の地平線」でも見たような・・・。
帽子の形が独特ですね。

隊友会は自衛隊退職者を中心に1960年に結成された協力団体です。
防衛庁所管の社団法人として発足し、現在は公益社団法人となっています。

上は自衛隊となってからのものだと思いますが、下二枚は
造兵廠の頃ここで撮られた記念写真のようです。

硫黄島から収集してきた遺品のコーナーもありました。

遺骨収集団が現地で採取してきた壕内の土や水筒、ヘルメット、珊瑚など。

陸軍の制服、マント、ゲートル、カバンに略帽、ラッパ。

左下の表彰状は、中国戦線で17年に敵線を突破した
牧野曹長率いる鈴木隊と牧野小隊の戦功に対して出されたものです。

明治時代の儀礼服が大変良い保存状態で軍刀とともに展示されていました。

出征に際して寄せ書き(全員が男性)された日の丸。
「なにくそ」「ちえすと」などの激励の言葉に混じって、「祝健康」もあります。

 

余談ですが、アメリカには結構あちこちにこのような日の丸の寄せ書きが展示されています。
これは、アメリカ人の「記念品好き」のさせる技で、海軍でも特攻機が激突した後、
パイロットのマフラーや時計を皆が奪い合うように取っていたそうですし、
日本兵の屍体から何か記念になるものはないかと漁ることもしょっちゅう行われました。

ベトナムではアメリカ人のその習性(?)を利用して、屍体の周りに地雷などを仕掛け、
トラップにかかって死ぬ米兵が続出したため、上層部からは

「屍体のお土産あさり禁止令」

が出たとかなんとか。

この資料館になっていた建物は、昔進駐軍が駐留していた時に教会でした。
この鐘は「ドル支弁財産」といってドル建てで製作され、進駐解除になった後は
敷地内の土中に埋まっていたということです。

平成2年、掘り起こされ、元の場所である資料館に戻ることになりました。

化学隊がある関係で、世界の防護装備の展示もあったりします。
にしても、もう少しちゃんと展示してあげて!と思うのはわたしだけ?

チェコスロバキアやロシアのガスマスク。

左からチェコ、アメリカ、ドイツ、イギリス(砂漠迷彩)フランス、
各国の防護衣ファッションショー。

ドイツのものは「サラトガスーツ」といって、毒ガスや細菌、放射性物質から
兵士を守るための個人用NBC防護服です。

上下ツーピースに分かれており、グローブ、ブーツ、ガスマスクとあわせて全身をカバーし、
長時間着用しても疲れにくいよう工夫されているそうです。

こちらは旧軍の化学隊(といったかどうかは知りませんが)コーナー。

上段の察しは「防毒耐水具取り扱い」「手投げ火炎瓶取り扱い書」など、
まあつまり取説と、「航空兵瓦斯防護教程」などという教科書。

下段の「津森大尉の雨下教育」は調べましたがわかりませんでした。

化学兵器の写真集というのには、全員ガスマスクをした記念写真がありますが、
これ、わざわざ記念写真を撮る意味があったのかと・・・・。

後から見ても誰が誰だかわからないよね。

左から、青酸、一酸化炭素、ypérite、ルイサイトの標本。

 

欧州大戦というのは、当時そう呼んでいなかった第一次世界大戦のことです。
よく考えたら、いやよく考えずとも、第二次世界大戦が起こるまで、というか戦後まで
第一次世界大戦というものは存在しなかったんだなあと気づきました。

それはともかくその欧州大戦で使用された毒物の標本。

第一次世界大戦というと、ガスマスクの兵士を想像してしまうくらいで、
つまり毒ガス兵器のデビュー戦だったわけですね。

軍用犬や馬用のガスマスクも生まれました。

 

青酸は例えば列車の消毒でナンキン虫を殺す、などと、
本来の目的と使用法についても写真付きで解説してあります。

旧軍の使用していたガスマスクセット。
下の波状の表面の缶は酸素発生缶でしょうか。

毒ガス兵器の登場とともに欧州戦線ではマスクも普及したため、
兵器としての効果はこれで激減したということです。

むっちゃ重たそう。旧軍の防護衣です。

どちらもゴム引きのマントとスーツ。
わたしマントを見てユパ様を思い出してしまいましたわ。

ラジオゾンデとは、地上から上空の気温、湿度、気圧を随時観測するために、
主にゴム気球で飛ばされる無線機付き気象観測機器のことです。

ラジオは英語で無線電波、ゾンデはドイツ語やフランス語で探針のことであり、
「ラジオゾンデ」は情報を電波で伝送する計測システムの一部分を称します。

箱の蓋には「毒ガス性状一覧表」とあるのですが、この
6本セット豪華木箱入りがガスなのかどうかがよくわかりません。

見たところ、まだ液体が充填されているようですが、もしこれが
液化ガスなどの場合、こんなところにぞんざいにおいても大丈夫なんでしょうか。
(一応心配しておきます)

なぜか広島と長崎に落とされた原子爆弾のジオラマがありました。
化学学校で当初教材として作られたものだったかもしれません。

あまりにも壮大すぎて思いが至りませんが、原子爆弾というのは
最大の化学兵器であり、当部隊に深く関係があるわけです。

それにしても、こうして見ると、地形的にアメリカがなぜ
広島と長崎に原爆を落としたのか、理由は歴然としてきますね。
山に囲まれ、効果が集中しやすく、事後の研究対象としてもデータが得やすいというわけです。

当初原爆投下計画が四方を山に囲まれた京都となっていたことも思い出します。

左の熱戦によってできた影の写真は初めて見ました。
はしごの下にもこれもう一人影がありませんか?

現在陸自で使用されている防護衣各種。

左は東日本大震災でもうすっかりおなじみの放射線用。
左から三体は化学防護用、一番右は戦闘用個人防護衣。

サリン事件の時に出動したのも大宮駐屯地の化学部隊でした。

陸上自衛隊では、警察に強制捜査用の化学防護服や機材を提供していた関係上、
初期報道の段階でオウムによるサリン攻撃であると直ちに判断。

事件発生29分後には自衛隊中央病院などの関係部署に出動待機命令が発令され、
化学科職種である第101化学防護隊、第1・第12師団司令部付隊(化学防護小隊)
及び陸上自衛隊化学学校から教官数人が専門職として初めて実働派遣されました。

除染を行う範囲が広範囲であったため、第32普通科連隊を中心とし、
各化学科部隊を加えた臨時のサリン除染部隊が編成され、実際の除染活動を行いました。

また、自衛隊では警察庁の要請を受けて、自衛隊中央病院及び衛生学校から
医官及び看護官が、東京警察病院・聖路加国際病院等の8病院に派遣され、
硫酸アトロピンやPAMの投与や、二次被曝を抑制する除染といったプロセスを指示する
『対化学兵器治療マニュアル』に基づいて、治療の助言や指導を行いました。


幸い、自衛隊中央病院から駆けつけた医官が、直前の幹部研修において
化学兵器対応の講習を受けたばかりで、現場派遣時とっさに講習資料を持ち出し、
到着した聖路加病院で講習で得た知識・資料と患者の様子から
化学兵器によるテロと判断し、PAMや硫酸アトロピンの使用を進言し、
このことも早期治療に繋がったということです。 

第101化学防護隊の看板がなぜここにあるかというと、現在は
中央特殊武器防護隊と編成替えされたからです。

当部隊は東日本大震災、地下鉄サリン事件のほか、東海村 JCO臨界事故の時にも
災害派遣要請を受けて出動しています。

この時はまだ第101化学防護隊という名称でした。

事故と同年の12月、自衛隊法は改正され、自衛隊の行動区分において
それまで一緒であった

「災害派遣」とは自然災害による派遣

と、自衛隊法第83条の3として設けられた

原子力事故に起因する災害派遣は「原子力災害派遣」

とは別個のものとして、対処されることとなりました。

 

レクチャー後の質疑応答で、北朝鮮の核弾頭ミサイルと、生物兵器の搭載の可能性について
増員などは視野に入れているのか、という質問があったのですが、
陸自としてはそういうことは考えていないという返事でした。

 

わたしたちは北朝鮮からのミサイル問題が「起きてから」
どうなっているのかと不安になるのですが、中央特殊武器防護隊を頂く
陸自化学部隊は、我々国民が平和のうちに安寧を貪っていた時も、即応体制のもと、
日本の安全のために研究と訓練をたゆみなく行なっているということでしょう。

自衛隊への感謝と尊敬を新たにした、大宮駐屯地研修会でした。

 

 

 



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6 Comments

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資料館 (Unknown)
2017-08-09 20:22:32
入隊した頃、終戦から40年近く経っていましたが、船にある小火器は拳銃、小銃に機関銃すべて「コンバット」に出て来るものと同じでした。

資料館みたいなものですが、大宮と違って使い込まれていて、日本人の血を吸ったのかなとか思いながら、そういうことは口にせず、淡々と整備していました。

学生の時に共産圏の制式小銃AK-47をやはり資料館で見せてもらいましたが、ベトナム戦争が終わってちょっとの頃だったので、いかにも持って帰りました感に溢れていて、持ったらなんか引き寄せそうで身震いしました。

資料館は何となく苦手です。
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陸奥の鉄? (佐久間)
2017-08-10 14:42:30
日本にマスコミは、いまだに「放射線被曝」と「放射能被曝」を、(わざと?)ごっちゃに使っていますね。

1999年9月30日の東海村JCO臨界事故では、事故被曝者は、壁を透してチェレンコフ光が見えたのですから、明らかな中性子線を主とする「放射線被曝」でした。3名の事故被爆者のうち、推定1~4.5シーベルトの被爆者を、骨髄移植により救命できたのは、放医研の快挙だと言わざるを得ません。しかし、推定16シーベルト以上の被爆者を、東大病院に転院させたのには、なにか政治的な意図があったとしか思えません。現在の放射線生物学では、絶対に救命できない高線量に曝されたのですから、どうして残された限られた時間を、家族らと共に、ご自由に過ごしていただけなかったのかと、残念です。いくら国策企業内での事故とは言え、あまりにも残酷な仕打ちだと思います。もし私が、テーマパークの社長なら、大量の中性子線を浴びられた方には、ご家族ともども、スイートルームの宿泊と、パーク内VIPパスなどを、進呈していたと思います。

逆に、先日の日本原子力研究開発機構「大洗研究開発センター」の作業員の体内被ばく事故は、入退院を繰り返させて、かなりみっともなかったようです。何度も、ホールボディー・カウンターで精査したと思いますので、いくら後で尿からプルトニウムが検出されても、重大な体内放射能被ばくは、まず無かったはずです。

ところで、中尉の自衛隊大宮駐屯地中央特殊武器防護隊のレポートには、ホールボディカウンターが出てきませんでしたが、どこにも設置されていなかったのでしょうか?それとも、中尉が公表を自主規制(?)されたのでしょうか?

以前の勤務先に、ホールボディカウンターが納入された際に、忙しく働いておられた技師さんたちに「これにも戦艦陸奥の鉄が使われているのか?」との質問攻めにして、困らせてしまいました。最近の、ホールボディカウンターには、遮蔽物から生じるノイズをも代償する、特別なソフトが組み込まれているそうです。もう「陸奥の鉄」は、要らなくなったのかな~。少し寂しい感じもします。

さて、次のテーマを楽しみに致しております。
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みなさま (エリス中尉)
2017-08-11 11:55:57
unknownさん
われわれ一般人は見るだけですが、現役の方は実際にそれで訓練するわけですからね。
敏感な人ほど色々と感じてしまうものだと思われます。

佐久間さん
JCO東海の事故では一人助かっているんですね。
今その方は社会復帰できているのでしょうか。
手厚いバックアップがされていることを望みます。

ホールボディカウンター、きっとどこかにあったのだと思いますが見ませんでしたね。
部屋でモニターを見ながらのレク、そのあとは装備を外で見せていただき、
移動して洗浄訓練をする格納庫のようなところの見学、以上です。
移動中には撮影が禁止されていましたが、特に秘匿せねばならないような光景はなく、
体育館ような建物を通り過ぎる時、白に青テープのあの防護服の隊員の姿を
開いている扉越しにちらっと見ただけでした。
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「原子力災害」対応能力 (佐久間)
2017-08-12 12:52:34
以前の勤務先の、対原子力災害の設備について、記憶を便りに報告します。

1)いつでも持ち出せるように整然と保管された、各種の線量計:
・GMサーベイメーター(2桁台)
・シンチレーションサーベイメーター(2桁台)
・α線用シンチレーションサーベイメーター(2桁台)
・ポケット線量計(約百台)
・傷モニターγ線用、α・β線用(各1台)
・中性子サーベイメーター(1台)

2)放射能徐染設備:
・シャワー室(数室):被災者が歩行可能な場合は、シャワー室にて除染を行う。
・ウォーターバス(1台):被災者が歩行不能な場合はウォーターバスにて除染を行う。
・貯留槽と希釈槽(地下):除染の際に出る排水(汚染水)は通常の排水とは異なり、地下にある貯留槽と希釈槽に貯蔵する。

3)放射能測定装置類:
・ホールボディ・カウンター(1台)
・体表面汚染モニター(1台)
・甲状腺被曝外測定装置(1台)
・(ガンマ)線核種スペクトラム分析装置(1台)
・液体シンチレーションカウンタ(1台)

誠に不謹慎でしたが、稼働中のホールボディ・カウンターにお目にかかるのは、めったにないことと、設置後の稼働テストで忙しくされていたメーカーさんに、悪童連と共に、遮蔽壁をペタペタ(戦艦アイオワやマサチューセッツの装甲を叩いたノリ)触りながら「陸奥の鉄はどれじゃ?」と、困らせてしまいました。

陸上自衛隊大宮駐屯地中央特殊武器防護隊で、洗浄訓練をされていた格納庫の奥に、多分、放射能測定装置類が設置されていたものと想像しております。

陸上自衛隊では、私が居た民間施設とは異なり、原子力事故に起因する「原子力災害派遣」などは決して本業ではなく、戦うべき兵士を、化学兵器や核兵器などから護ることですから、その対応能力は極秘なのだと思います。

中尉のレポートで、阪神大震災の際に、まだサリン事件も明らかではなかった時期に、子供の小学校の校庭に、旭川第2師団の除染車が、2台ピッタリ揃えて待機していたのを思い出しました。きっと師団長は、震災後のもっと最悪の事態も想定されて、準備されていたのだと想像しております。
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禍福 (筆不精三等兵)
2017-09-26 16:42:43
先日とあるSNSで火炎放射機の実演展示の動画がアップされてました。
案の定、憲法9条を振りかざすご仁が「沖縄戦において一般人を殺傷した火炎放射機を、9条違反の自衛隊が装備するのは云々」と長文投稿されてましたが、「自衛隊では主に細菌・化学兵器の除染を目的として装備されてますけど」という返信が入った途端に投稿を削除するという一幕がありましたね。

福島原発はともかく、地方住みの私からすると地下鉄サリン事件なんて「大事が起きたなぁ」ぐらいにしか考えられませんでしたが、今回のエントリーによりとても恐ろしいことが起こっていたのだと認識を改めました。
元首相が「武装難民」に言及しただけで蜂の巣をつついたような騒ぎになっている日本において、ある意味ミサイルよりも手強い敵に備えられている各員に、誠心からの感謝を。
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連投失礼します (筆不精三等兵)
2017-09-26 16:51:04
佐久間さま。
東海村での被爆により亡くなられた方は、細胞崩壊が進んでいたそうです。
そういうおぞましい姿をご家族に見せることが、果たして家族愛に考慮した行動と言えるのでしょうか?
どちらにしても残酷な結末しか残されていないなら、綺麗なままの生前の姿を思い出として残してあげようとするのも、見方によっては優しさとなりませんか?
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