ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

海上自衛隊資料館〜厚木航空基地見学記

2017-03-12 | 自衛隊

在日米軍基地見学記、最終回です。

在日米海軍基地見学は午前中で終わり、基地内で昼食後は
海上自衛隊のターミナルにある資料館を見学させていただきました。

 

資料館に入ると、大きな当基地の俯瞰模型がまず現れます。
赤いプレートの部分が海自の建物で、先ほどエプロンに出たのは
この写真でいうと赤い印より下の建物からです。

案内の人は、これを見ながらまず基地の全容について説明をしてくれました。

赤い線で囲まれたところが基地の敷地となります。
この基地は大和市と綾瀬市にまたがっており、その名の厚木市とは
全く接していないので、なぜこうなったかにも諸説あるのですが、
案内の自衛官(喋るのが得意でこの仕事一筋みたいな人)によると、

完成当時、飛行場は

「高座郡大和村・綾瀬村・渋谷村」

の境にあったが、「大和」「綾瀬」「渋谷」どれを取っても
他に「本場」が存在する地名だったため、いっそどれでもなく
他に有名な地名と重ならないのが無難だということになって

厚木村の厚木が採用された、ということでした。

ところで、この日のアレンジをしてくれた防衛省の方が、

「あくまでも都市伝説ですが」

と断った上で、厚木基地の地下には坑道と地下工廠がかなりの規模であって、
どこか遠くまでつながっているということをおっしゃっていました。

その「どこか」については諸説あり、横須賀だったり皇居だったり。
(ちょっとそれは遠すぎるだろうという気もしますが)
実際に地下に通路があったのだけは間違いないようです。 

厚木航空基地は昭和17年に海軍が建設した飛行基地です。
昭和19年に第302海軍航空部隊が横須賀から移転してきて、
「本土防衛における日本最強の戦闘部隊」と言われていました。


第302空は、首都圏を主に夜間爆撃に来る爆撃機に挑み、
各地に隊員の派遣も行なっていました。

本土を防衛する主力である陸軍にも、第302空ほどの戦力、
そして威力を発揮した部隊はなく、最後まで戦意は衰えることはありませんでした。

しかしながら、南方から物量に任せて次々と飛来し、
1万mの高高度から爆撃を繰り返す米軍の前に、
自らの操縦技術だけで立ち向かわなければいけなかった彼らは
重責に苦しみながら終戦を迎えることになりました。

彼らの後ろにいるのは、雷電21型であろうかと思われます。

その雷電のモデルがガラスケースの中にあったのですが、どうもこれ、戦時中のものみたいです。
説明がないので由来はわかりませんでした。 

第302空の零戦隊長、森岡寛(ゆたか)大尉についての記事。
森岡大尉については「わたしたちは負けていない」という題で
左手の義手でスロットルを握るその姿を絵に描いて記事にしたことがあります。

第302航空隊の夜間戦闘機隊「月光」隊。

ご存知(ご存知ですよね?)小園安名中佐が発案した「斜め銃」
搭載の夜間戦闘機、「月光」を乗機とする夜戦部隊で、
高高度の敵には苦戦しましたが、ルメイが照準爆撃のために低空で
Bー29を飛行させるようになってからは、
この斜め銃によってかなりの戦果を上げることができました。 

現存している「月光」は案の定日本ではなくスミソニアンにあるそうですが、
ここに部品だけが残されて展示してあります。 

前縁(ぜんえん)スラットと言われましてもどこのことかよくわからんですが、

主翼の前縁に張り出しを設け、キャンバーを大きくして揚力を確保する一方、
翼との隙間(スロット)によって大迎え角時の失速を防ぐもの。(航空辞典)

だそうです。
つまり主翼の前縁の張り出し、ってことだと思います(いい加減) 

写真展示の下にはガラスケースがあり、パラシュートや物入れが納めてあります。

スチール製の行李のような作り。
金属部品を入れていたのでしょうか。 

プロペラのマークが入っているので、航空部品が入っていたのだと思いますが、
その名も「火星内部用具」。

「火星」って、なんか他に意味ありましたっけ。 

パラシュートの横の木には墨でなにやら書かれていますが、
経年劣化と写真のピンボケのせいで()「第八分隊」がかろうじて読めるだけです。 

金属の腐食が進んでいる爆弾。
こちら側の航空機の写真は紛失しました(´・ω・`) 

第302空は何人もの伝説のパイロットを生みました。
遠藤幸雄大尉は「月光」で一晩に5機のB29を撃墜したこともありました。

迎撃待機中の第302航空隊。雷電みたいですね。

そして終戦。
この厚木に降りて来る瞬間の自分の姿を、マッカーサーは
計算しつくしていたと言います。

ところが、こんな有名なシーンなのに、ここが実際にどこだったのか、
今の基地のどこに当たるのかははっきりとしていないのだそうです。 

敗戦となり、全て処分された海軍基地の飛行機。
「零戦燃ゆ」という映画を思い出しますね。 

そして海上自衛隊が生まれ、自衛隊旗が採用された時の写真。
この写真は有名ですが、この人物が誰かがわかりません。

彼の足元(靴を脱いでいる)には、「防衛大學校」「防衛廳」と
いずれも旧字体で書かれた紙があり、これらは
それぞれの門に掲げる表札のための書ではないかと思われます。 

ここから先は、自衛隊の活動についての写真が掲示されていましたが、
見学時間のほとんどを入ったところの説明で終わってしまい、
あとは急いで行くつか写真を撮るだけに留まったのは残念でした。

これは南鳥島のヤシの実。

南鳥島は戦前からアメリカと領有を巡って事件があったりしましたが、
戦時中は何度も空襲を受け、戦後はアメリカの軍政下にあり、
その後返還されて、現在は 飛行場施設を管理する海上自衛隊硫黄島航空基地隊の
南鳥島航空派遣隊や気象庁(南鳥島気象観測所)、
関東地方整備局(南鳥島港湾保全管理所)の職員が交代で常駐しています。

最近は高濃度のレアアースが発見されたことでもニュースになりましたね。 

海自の救命装備品。

包帯、ガーゼや止血帯はもちろん、右側の緑のものは航空機用の救命糧食5食分、
その左の銀色パックのものは一食分ずつの救命糧食です。
カロリーメイトみたいなものでしょうか。 

展示場には大きなパネルを引き出すようになっていて、そこに海上自衛隊の
各制服が一体ずつ展示されていました。

制服の展示というと、マネキンを置くしか見たことがありませんが、
これなら場所を取らずに全ての制服を見ることができます。 

やっぱり夏の水兵さんの制服はいいですねえ。
デザインとして完成されきっているという感があります。

ところで、冒頭の写真は、この坂井三郎氏の揮毫した書が米海軍から
海上自衛隊に寄贈された時のものです。

零戦パイロットとして戦後日米に有名だった坂井三郎氏が、
2000年に米軍に訪れた時に寄贈した「努力は勝利なり」の書を、

「我々が持っているよりも多くの日本人に見てもらうべきである」

と考えた前基地司令パーカー大佐が、海自に書を譲渡しました。

坂井氏はこの書を寄贈した米軍主催の夕食会の直後、体調に異変を感じ、
運ばれた病院先で死亡しているので、おそらくは氏がこの世で書いた
最後の文字ではないかと言われています。
 

 

かと思えばこのカオスなポスターも健在。
サンダーバードと自衛隊のコラボシリーズ。

サンダーバードが戦っていたのは災害というよりは地球の敵、
地球外生物のミステロンだったんすけどね。 

というわけで、全ての行程を終えて海自を後にしました。

左は米軍との連絡係をしているという1等海尉、右側は
自他共に認める「しゃべくりのうまい」資料館で解説してくれた海曹。

お二人のおかげで、大変楽しく充実した見学をすることができました。
ありがとうございます。

 

米軍基地シリーズ終わり 

 


米海軍基地で昼食を〜在日米海軍基地見学記

2017-03-11 | アメリカ

在日米海軍基地見学記、続きです。

滑走路で航空機を見学し終わり、「エア・ターミナル」と名付けられた棟を
司令官の敬礼に送られて後にしたわたしたちは、車で基地内を移動しました。

明かり取りの三角屋根がついたこの建物が、基地のレストランです。

広い基地なのでレストランはいくつかあるのだと思われますが、
ここは隣にゴルフコースがあるので、クラブハウスのように使われているようです。

大きな岩には字だけでなく基地のマークまで彫り込まれております。 

最近できたように真新しい感じのするスチール製のベンチにもマーク。
富士山に鳥居、そして航空隊を表す翼が盛り込まれたデザインです。

この基地は、かつて帝国海軍が、主に帝都防衛の拠点として1938年に着工、
1942年に完成したものです。

完成が戦時中であったとはいえ、石灯籠があり松の木を築山に植えた
池を作る余裕はあったのに違いありません。 
しかし、この松の剪定方法は、いわゆる普通の日本庭園にある松とは
シェイプが微妙に違うという気がしないでもありません。

そういえば、カリフォルニアの富豪の造った庭の木が、
こんな感じに刈り込まれていたような記憶があります。

 

戦時中、ここは東京に最も近い海軍の航空拠点となっていました。
厚木海軍航空隊、大東亜戦争後期には防空隊である302空が開隊し、
このブログで一度取り上げたこともある森岡寛大尉がF6Fとの戦いを行い、
終戦時には有名な小園少佐の「厚木事件」が起こったところでもあります。 

まるでゴルフコース付きのホテルのショップみたい。

わたしは全くゴルフには不案内なので通り過ぎただけでしたが、
お店に入り、基地のオリジナルデザインのティーやゴルフボールを
たくさん買い込んでいた同行の方もおられました。

支払いはドルでなければカード、日本円はお釣りが出せない(ので使うな)
ということでした。 

レストランの入り口には今月のメニューが掲示されています。

フランクとは牛のわき腹から切り取った切り身のこと。

その下のソールズベリーステーキとは、我々日本人が「ハンバーグ」と呼ぶ
ひき肉を寄せて焼くあの料理とほとんど同じようなものです。
発祥がはっきりしていて、ソールズベリー博士という医師が、
炭水化物をカットするダイエットのために考案したとかなんとか。

「adobo」も「caldereta」もタガログ語で、アドボはマリネした肉を焼いたもの、
 カルデレータはルソン島の料理で、フィリピン風のビーフシチューといったところ。

アメリカにはフィリピン人の労働者がヒスパニックほどではありませんが多く、
ここのキッチンにもフィリピンからの労働者が多く働いているのでしょう。
そういえば山口の海兵隊基地のレストランのウェイトレスもフィリピーナでした。

英語が喋れる彼らにとって、在日米軍基地は魅力的な職場なのでしょう。 

食堂の一番奥には会席用の別室があり、わたしたちはそこに通されました。
白地に赤いランナー、青いナプキンで星条旗カラーの食卓が用意されています。

ここでランチをいただくんですね。 

いくつかみたことのある自衛隊基地とは装飾の点で段違いにお金がかかっていて
かつ飾っているものも一味違っているといいますか。

この大きな額にはアイヌの民族衣装(年代物)がプレスされて入っています。
「アットゥシ」 と説明がありますが、これはアイヌ語で

オヒョウニレ(att)の木の皮(rusi)

という意味だそうです。
北海道のアイヌが作っていた樹の皮でできた衣です。

ちなみにアイヌは部族によってはサケなどの魚皮をなめしたものも
衣服にして着ていたそうです。

窓の外はまさにゴルフコース。
ここが軍基地であることが信じられない眺めです。

グーグルアースの基地をこうやって見てみると、飛行場に沿って
住宅地と基地を隔てるようにゴルフコースが作られています。

結構広大なコースで、昔は森林であったところを切り開いて
全てゴルフ場にしてしまったらしいことがわかるのですが、在日米海軍としても、
異国で暮らす在留軍人の気晴らしのために必要な施設だと考えてのことだったのかも。 

在日米軍内にはレストラン、バー、ショッピングセンターはもちろんのこと、
映画館、ボウリング場などの遊技場を備えているのが普通です。
その気になれば基地を一歩も出なくてもすむのです。 

テーブルセッティングはされているものの、食事はみなさんと同じようにバッフェ式で
自分の好きなものを好きなだけとることになっていました。

前述のメニュー表によると、この日のメインはレモンチキンステーキと例の
ソールズベリーステーキとなっていましたが、あくまでもそれは「メイン」で、
肉と言ってもビーフ、チキン、ポークと選択肢があります。 

 

ランチバッフェは大人が8ドル95セント、子供が4ドル25セント。
食べ放題でスープ、サラダ、デザートも種類がふんだんにあるランチが
1000円くらいで毎日食べられるのだからなかなかリーズナブルです。 

個室の外側もインテリアは普通のレストランと全く変わりません
いくつか見たことがある自衛隊の隊員食堂とは随分趣が違います。

敷地内はどの施設も利用可らしく、海自の自衛官がご飯を食べに来ていました。 

アメリカの街角にある、コインを入れるとドアが開けられる仕組みの
ニュースペーパースタンドの中にはスターズアンドストライプスが。

どちらもここでは無料となっています。

昼ごはんを食べたら移動です。
次の予定は、海上自衛隊の資料室を見学させてもらうことになっています。

歩いて行く途中に黄緑色の消防車が停まっていました。
アメリカでは消防車は絶対に赤でなくてはいけないというわけではないようです。
大抵は赤ですが、都市によって赤以外の色を採用する消防署もあり、
特に空港では夜間でも目立つ蛍光ライムグリーンの車体を使うこともあります。 

ここには普通に赤い消防車とライムグリーンがどちらもあります。

米軍施設内には当然のように結構な規模の消防署があります。
下総の海自航空隊基地には海自組織の一つである消防部門がありました。

ここに勤務する消防士たちの身分は海軍の軍属ということになるのでしょうか。
それとも自衛隊のように海軍軍人?

 

海上自衛隊のビルディングも「エアターミナル」でした。

この入り口で案内をしてくれる自衛官が出迎えてくれました。
全般的な案内は米軍との連絡係をしているという士官で、
内部についての歴史を含めた説明をしてくれたのが年配の自衛官です。

同友会というのは自衛隊協力会の一つだったと記憶します。
その会長が作ったという戦艦「三笠」のフルハルモデル。

自衛隊資料館はこのターミナル内にあり、大変充実したものでした。
あの「ポセイドンの涙」、そして「永遠の0」 のポスターがあります。

ポスターがあるということは、自衛隊が撮影協力をしたのでしょうか。

ちなみに、テレビ版の「永遠の0」撮影には、水交会を通じて
実際に零戦に乗っていた搭乗員が取材協力を行なったそうです。

ターミナルの二階はガラス窓を通して滑走路がよく見えました。

面白かったのは、米軍側にいた時には、

「ここから自衛隊機は撮らないでください。米軍機なら構いません」

だったのに、自衛隊側に来ると、

「ここから米軍機を撮らないでください。自衛隊機なら構いません」

と言われたことです。
誰かがそれを指摘すると、

「そこは大人の事情で・・・」

ということでした。
どっちもダメってことなのか、どっちもいいってことなのか・・・

大人って、難しい(笑)

 

続く。

 

 


スーパーキングエア(LR-2)に搭乗〜在日米海軍基地見学記

2017-03-10 | アメリカ

在日米海軍基地見学記の続きです。

本日の防衛団体による見学は、コースでいうと松竹梅の松コースで、
航空機見学だけではなく実際に機体の中を見せてもらえ、
基地内のレストランでお食事を楽しんでいただけます、というものでした。

どの飛行機に乗せてもらえるのかな?
まさか・・・ホークアイ。、E2-C(早期警戒機)ではないとは思いますが。

ところでご覧のように、このプロペラの羽は8枚あります。
プロペラは2枚より4枚、4枚より6枚と数が増えるほど
その速度に安定性が出てくるのは素人でもわかりますが、
8枚になればこれはもう最強というべきパフォーマンスだそうです。

これをニュープロペラと称し、羽が増えるほど速くなるだけでなく
燃費が向上し、騒音も減るので利点だらけなのですが、
自衛隊のE-2Cは4枚羽のままです。

実は羽を製造しているハミルトン社での4枚羽の製造は終了していて、
アメリカでは民間機ですら6枚羽を調達しているという関係上、
米海軍は空母艦載機であるホークアイに8枚羽を導入しているのです。

自衛隊は導入機数が少ないのでまだ4枚羽のままですが、
何れにしても羽そのものが生産中止になっているので、そのうち
8枚羽のホークアイが日本にも登場すると思われます。 

 

その辺に売るほどいるこれに乗せてもらいたいものですが。

ところで、この列線に並んでいる飛行機を指して、わたしはとりあえず

「これは・・・スーパーホーネットでしょうか」

と案内の方に聞いてみたところ、言下にそうだとおっしゃったのですが、
「NF」のテールコードをつけたこの「スーパーホーネット」の機体を仔細に見ると、

VAQ-141

と書かれているのです。 
つまりこれは第141電子攻撃飛行隊 の『シャドウホークス Shadowhawks』
使用機であるEA-18G「グラウラー」

「スーパーホーネット」ではないということに写真を見て気づいたのでした。

グラウラーはここの読者にもそういう名前の人がいますが、
電子戦機「プラウラー」(うろうろする人)EA-6B の後継として
複座型の「スーパーホーネット」をベースに開発されたものです。

見かけは全くホーネットと同じなので解説の方も間違えてしまったのでしょう。

電子戦機は非常に高度な電子情報技術の集積が必要なため、
先進国の軍隊しか所有することはできません。

米日英露中伊仏独以外ではイスラエルと台湾。
電子戦機を所有しているのは現在世界でこれら10カ国だけです。 

ビーチクラフトのスーパーキングエアと並んでいた陸軍所有の
セスナC-35サイテーションがタキシングを始めました。

先ほど男女二人の陸軍軍人が乗り込んでいくのを目撃しましたが、
彼らはどちらもパイロットで、これから離陸するようです。 

わたしたちはハンガーに案内されました。

給油用の移動式タンク。

格納庫の中は一機を残して全て稼働中。
残っているのはこれから見せてもらうスーパーキングエアです。 

中身を公開してくれるスーパーキングエア。
ビーチクラフト社の名作で、その高品質と信頼度はもはやこのジャンルの
「デファクトスタンダード」(結果として事実上標準化した基準)
とも言われており、日本でも陸自がLR-2として人員輸送用に使っています。

実はわたくし、昨年、航空機整備会社としてはトップ企業であるJ社で
工場見学をしたのですが、自衛隊機などの整備などを手がける同社工場は
当然のことながら写真の類は一切禁止、写真を出さずとも下手な記事を書いて
ご迷惑をかけない自信が全くなかったので、ここではご報告を断念しました。

今にして思えば、そのJ社工場の整備中の機体の一つに陸自のこれ、
LR−2がありまして、案内してくださった社員の方が

「このビーチクラフトの飛行機は本当に優秀なんですよ」

とおっしゃっていました。

この機体のパイロットがエンジン部分を開けて公開してくれました。

「え、まさか写真撮ってもいいんですか?」

「どうぞどうぞ」

おおー、アメリカ海軍太っ腹ー。
まあ、人員輸送機のエンジンくらい見せてもなんてことないでしょうし、
そもそもこの機体を採用している国は世界でも50カ国以上に上り、
先進国どころか後進国でも軍用機としてほとんどが持っている状態です。 

それではお言葉に甘えまして。

エンジンはプラット・アンド・ホイットニー・カナダ社製で、

最大速度:584 km/h=M0.48(高高度)
巡航速度:558 km/h=M0.46(高度24,000 ft)
実用上昇限度:10,670 m以上
航続距離:3,672 km

となっております。


 いよいよ中を見せてもらうことになりました。
パイロットが一番先に乗り込んで、会長が真っ先に。
わたしはその場にいたので三番目に乗り込みました。

「中は狭いので一人ずつ乗り込んでください」

下で案内しているのは航空隊司令だったりします。
米軍さんって気さくー。 

パイロットが席についているところを先に乗った人が撮っています。
機内は立って歩くことはできませんが、座席に座ってしまえば
セダンの車なんかよりずっと快適に過ごせそうな広さです。

ちなみに定員は16名。
サッカーチーム(レギュラーのみ)なら余裕で運べます。

機体後方もちゃんと写しておきました。
荷物格納室などないので、後方に押し込んでネットをかけるだけ。
16人分の荷物くらいなら余裕で運べそうです。 

パイロットが操縦席に座っていいよ、と言い出しました。
おそらく最初からそういう風に上から言われていたのでしょう。

見ていると、彼はシートの間の計器の部分に
後ろから板をはねあげて足場を作ってくれるようです。

彼の腕には袖のところにまで刺青が入っているのにご注目。

アメリカ人は男女を問わずファッション感覚で刺青を入れます。
テレビでは「インク・マスター」という彫り師を追った
シリーズドキュメンタリー番組があるくらいです。

しかし、彼のこの袖からチラッと見える刺青は、どう見ても
日本の「和彫」ではないかという気が・・。

わたしが前に乗り込むと、案内してくれていた女性の広報官が
お撮りしましょうと言ってくれたので素直に?カメラを渡しました。

席に乗りうつる時、いつもの癖で?

「 Hello! Nice to meet you! 」

というと、

「Nice to meet you too!  What your name?」

と返って来て、ああ、アメリカ人だなあと思いながら
自分の名前を言うと同時に相手にも訪ね(これをしないと失礼)たところ、
返って来た答えは 

「トリスティン」

おお、それで君のイゾルデはもう見つかったのかね、
と思わず聞きそうになりましたが、多分彼は今までの人生で
50回くらいは同じことを聞かれて来たに違いないと思い直し、

「いい名前ですね」

と言うに留めました。
それにしてもトリスティンくん、ものすごく若くないか? 

こちらは思った通りそのまま聞いて見たら答えはなんと

二十歳。

なんでも彼は17歳から入隊してパイロット一筋なんだそうです。
アメリカという国は、日本みたいに誰でも当たり前のように大学に行き、
大学を出るときに自分が何をするか決める人が多い社会ではなく、
自分の進路をかなり若い時から決める人たちも結構な数いて、
その結果トリスティン君のような若いプロフェッショナルが生まれます。

自衛隊だと、航空学生出身者の場合、概ね22~23歳(一曹~曹長)
で実戦部隊に配備されるということですから、やはり米軍とは少し違います。

空母の操舵室にいる乗員の平均年齢も10代だと聞いて驚いたことがありますが、
これもリクルートの形態の違いによるものかもしれません。  

グラウラーのパイロットらしき二人がお昼ご飯のために
飛行機から降りて来ました。 

この機体はエプロンを牽引されていたものですが、
操縦席に人が乗っていたので撮ってみました。

機体に「マコーリッフェ」という字が見えますが、日本ではここには
機付長といって整備責任者の名前がくるものです。
しかし、パイロットの名前を書くことになっているらしいです。

そもそもこれがパイロットなのか整備員なのかがわからないので、
彼がマコーリッフェさんかどうかもわかりませんが。

滑走路と航空機見学はこれにて終了です。
最後にエプロンと滑走路を写真に撮りました。

ちょうどタッチアンドゴーを繰り返していたE-2Cが着地しています。

 

滑走路の向こうには格納庫がありますが、この格納庫、名前が

WARLORDS

と書かれています。 
これは「否定的な意を持った軍事的指導者、指導者、将軍」の意味で、
特に中央政府が弱い場合に、誰に対しても説明責任がなく、
一つの地域で内政権力を行使する軍事上の最高指導者であり、
軽蔑的な意味で使われることが多い言葉なのですが、
格納庫がこの複数形であるという意味が日本人のわたしにはどうもわかりません。

どなたか解読できる方おられますか? 

 

というわけで、司令官に敬礼で送られて航空部門の見学終了。
この写真を見てここが「エアターミナル」であることに初めて気づきました。

さて、この後はお待ちかね、レストランに移動して昼食をいただきます。

 

続く。

 


主力戦闘機「F/A-18」の稼働率?〜在日米海軍基地見学記

2017-03-08 | アメリカ

さて、在日米海軍基地の見学ツァー、ブリーフィングが終わりました。
いよいよ、滑走路に出て飛行エリアを見学です。

ところで、基地見学にあたってはわたしたちはくどいくらいに

「写真を撮ってはいけないところは前もって言ってくれ」

と米軍側に念を押してありました。
ところが、蓋を開けてみれば航空機の写真も滑走路もOK、
航空機のコクピットもOKならわざわざ蓋を開けてエンジンを見せてくれ、
それを撮るのもOKといった具合で全く拍子抜けしてしまいました。

まあ、ロナルドレーガンにどれくらい航空機が勤務しているかなんて 
隠していることでもないし、基地公開の時には航空機の写真も許されるし。
意外だったのは自衛隊機の駐機している部分を撮らないように、
といわれたことだったでしょうか。
同行した防衛省関係者によると

「自衛隊の方がそういうことに関しては色々と厳しいです」 

ということでした。

そういえば今日までの間に、ホーネットに関してはこんなニュースもありました。


厚木のFA18、6割飛べず? 在日米軍、東京新聞の「憶測」記事に遺憾表明

東京新聞は2月17日付朝刊で
「厚木の米軍機FA18 6割飛べず? 部品なし修理不能 米専門紙惨状掲載」
と題する記事を掲載した。
これに対し、在日米海軍司令部(神奈川県横須賀市)は23日、
「記事には多くの憶測が含まれており、日本国民の皆様の誤解を招き、
誤った情報を与える恐れがある」として見解を発表。

艦載機が厚木航空基地に配備されている第5空母航空団は
「常に日本を防衛する即応態勢にある」と説明し、
「米海軍に事実やコメントを求めることなく
東京新聞がこのような憶測を掲載されたことは残念」
と遺憾を表明した。

同司令部の広報部長も日本報道検証機構の取材に応じ、
厚木に配備されたFA18戦闘攻撃機のうち約30機が稼働できないという憶測は
「誤りです」(false)と明言した。

記事の後半では、この問題が在日米軍に与える影響について
「62%が稼働不能という数字を神奈川県の横須賀基地を事実上の母港とする
原子力空母『ロナルド・レーガン』の艦載機が配備された厚木基地にあてはめると、
FA18は約五十機のうち約三十機が稼働できないということになる。
圧倒的な航空攻撃力を誇る空母機能の半減を意味し、
日本防衛に資するはずの米軍の戦力に疑問符がつく。
飛行時間の不足は事故に直結するおそれもある」
と記していた。

記事には、米海軍や専門家に取材した形跡はなかった。
ただ、市民団体が昨年11月から今年1月までFA18の飛行状況を調べた結果から
「稼働する機体が少ないことを裏付ける結果になっている」
と自らの推測の妥当性を印象づけていた。

 

おいおい、つまり東京新聞は市民団体に基地周辺で監視させて、飛行が少ないとか言ってるわけかい。
この季節、アメリカ人はクリスマス休暇というものがあってだな(略) 

 

在日米軍はこの憶測で書かれた悪意の記事に反論し、

「第5空母航空団が完全に任務遂行可能であり続け、空母ロナルド・レーガンの艦上から展開し、
地域に安全と安定を提供し、常に日本を防衛する即応態勢にある」

と強調したということです。

というわけで、我々はちゃんとホーネットが滑走路に並んで、
即応体制にあるということを確認してまいりましたので、ここで写真をあげることも
おそらく向こうの望むことであろうと思い、取り上げることにしました。

もし米軍からのクレームが来たらこの日のエントリは取り下げますので、
突然消えたらそうだったんだなとご理解ください。

(と、いつも見切り発車するわたしであった) 

 

 

 

滑走路始め航空機を見学するために、車で別棟に移動すると、
そこには海上迷彩服の偉い人(飛行隊の司令)が説明とエスコートのために待っていました。 

移動中に通り過ぎたコーナーには空港にあるような金属探知ゲートが。
横には手荷物をチェックする台があり、全く空港の待合室と同じです。

直接アメリカと航空機が行き来しているってことですか?
それともハワイ経由かな?

パスポートのチェックはどこで誰がするんだろうとか、
それは日本側の入国管理なんだろうとか、考え出したら疑問だらけです。

障子をあしらった日本情緒あふれる部屋に通されました。
ここから一歩外に出ればそこはエプロンです。

例えばアメリカ本国や日本の要人が基地に来て見学する時には、
この待合室で待機して基地司令の説明を受けるそうです。

開設以来ここで撮られた白黒写真が飾ってありました。
調理人二人が持っているのはわかりにくいですが

「基地開設一周年」

と書かれ、基地のマークをあしらったケーキです。
ということは1946年に撮られたものということでしょうか。

それにしても、こんなに立てても下に落ちないケーキって一体。 

 

'DISTINGUISHED' という言葉を使うからには、
待合室といっても特別な、そう、「貴賓室」という位置付けです。

「ほー、ということはわたしたち特別扱いってことですか」

と同行の誰かがいうと、打てば響くように米軍の偉い人、

「もちろんです。我々はみなさんを特別に歓迎しておりますから」

「お・も・て・な・し」の心は在日米軍にもすっかり浸透しております。

国旗以外はなんだか全くわかりませんでした。
アメリカ海軍と基地のフラッグかと思われます。 

外に出るとそこにはホーネットの列線が!

尾翼にはテールコードの「NF」が書かれています。
テールコードとは 2つのアルファベットからなり、機が所属する基地と、
部隊マークからなる所属部隊を表す形で構成されています。

「NF」で第5空母航空団を意味します。
なぜNFなのか、 NFが何を意味するのかはわかりませんでした。 
これもアメリカの国認識番号『N』と関係あるのかな? 

空軍のエドワーズ基地は「ED 」とかわかりやすいんですけどね。

このブログでもお話ししたことがありますが、わたしは
岩国の海兵隊基地でレガシー
ホーネットを見せてもらったことがあります。
あのとき案内してくれたドライバーのブラッド(仮名)はもう帰国したかな。

日米通じてわたしが今までお近づきになった唯一の戦闘機パイロットが
このブラッドだったわけですが、彼はとにかく知的でクールで爽やかで、
人当たりも良く社交的でジェントルマン、おまけにイケメンという
ありえないくらいの高スペック・ガイでした。

おかげで以降戦闘機パイロットはみんなこのレベルの人なんだろうと
無条件で思うようになってしまったというくらいです。

ここのドライバーたちも、イケメンかどうかはともかく、技量的には
本国でも高い技術を持った生え抜きばかりだと聞いています。

まだ午前中だったので、飛行訓練が行われているようでした。
こちらのCH-130は何度もタッチアンドゴーを繰返していました。

 

向こうにビーチクラフトのスーパーキングエア
こちらはセスナC-35サイテーション

サイテーションには星のマークが付いていますが、
ちょうど陸軍軍人の男女が歩いていくのを見てもおわかりのように 
当基地で唯一の陸軍が運用する航空機です。

下で見たのはこれだけで、わたしたちは別の入り口から建物に入りました。
立ち止まる雰囲気ではなかったのでこれがなんなのかわからず。

建物の中にはなぜか螺旋階段がありまして、そこを登っていくと
滑走路が一望できる展望フロアがありました。

エプロンに立った時特有の航空燃料の匂いもしてきます。
待合室でわたしたちは一人一組ずつ大型の耳栓を渡され、
建物の外に出る前にこれを装着しました。

そういえば昨年末、当基地の騒音被害を訴え、飛行差し止め並びに
損害賠償を求めた第4次訴訟の上告判決で住民側が逆転敗訴し、
のみならず

「同小法廷は騒音被害による将来分の損害賠償も容認した
2審判決を破棄し、将来分の請求を退けた。」(産経) 

ということです。
米軍艦載機は岩国に移駐するという話もありますが、
それもこの判決に影響しているのでしょうか。 

上から眺めていると牽引車に引っ張られているライノくんが。
こんなお宝シーンが見られるのも基地見学ならではです。

翼が片方だけ立ててありますね。

こちら機体の上で整備中。

 

海上迷彩を着用しているこのメカニックは日本人です。
(もしかしたらアジア系アメリカ人かもしれませんが)

騒音をカバーするためのヘッドホンとゴーグルをつけています。

移動するホーネットには前後左右に一人ずつ人が付いて歩いています。
なんで左だけ翼が立っているのか気にかかる・・。

 

もしかしたらこれ燃料補給中ですかね。

この日はまさかここまで撮らせてもらえるとは思っていなかったので
デジカメだけしか持ってきませんでした。
こちらのシーホークも演習中。

牽引されていたホーネットが定位置についてパイロットが見えました。

機体整備中。
一応のことを考えて、内部にブラーをかけておきました。

他の航空機と比べてグラウンドセーフティピンのついた赤いフラッグ、
「REMOVE BEFORE FLIGHT」 が大きくて長いような気がします。

このフラッグ類は、ドラッグシュート(着陸時のブレーキになるパラシュート)が
開かないようにするためとか、ピトー管や、AOAトランスミッターなどの突起系、
射出座席、爆弾やミサイルなどに付けられています。

これらはプリフライトチェック(飛行点検)の時に整備員が外し、
引き抜いたピンは操縦席の搭乗員に見せるため高く掲げられます。
一旦操縦席に乗ってしまったら外が見えないので、
確実に外したことをこうやって確認するのです。 

翼の上の二人の整備員もお仕事中。
なにやらボトルの類がたくさん置いてありますね。

さて、同行の防衛省の方は、当然ですが基地事情だけでなく
武器航空機に大変詳しい方で、いろいろと説明をしてくださっていましたが、
それに対し合いの手を打つようにいちいち返答を返していたら、

「もう立派なオタクですね」

とひとこと言い放たれ、わたしは狼狽しました。

いかーんっ!

実は昨年の音楽まつりのとき隣に座った男女のうち女性の方が、いわゆる

「自衛隊オタクひけらかし系」

だったのです。
この女性、開場前に並んでいるうちから大きな声で防衛費がどうしたこうした、
と演説を打つがごとき勢いでアピールする人だったのですが、席についても
その勢い一向に衰えず、そのオタク知識(武装系ではなく自衛隊トリビア系)
を相変わらず大きな声でしゃべりまくり。

それはあたかも、若い美人を連れて歩いている不釣り合いなおっさんとか、
ブランド品をこれ見よがしに持つ女性と同類でした。
(その心は、本人が得意なわりに誰も羨ましがったり感心していない)

のみならず、これははっきりいってかなりみっともないというか、
周辺の人に不快感を与える振る舞いだと認識し、

人のふり見て我がふり直せという賢人の言葉をかみしめたばかりなのです。

こんなブログであれこれ書いているわりに、わたしは現実社会では
なにも知らないというふりをしてきました。(実際知らないのも事実だし)
んが、こんな宝の山みたいなシーンに遭遇して、つい舞い上がり、
興奮して必要以上に反応してしまったのでした。

「立派なオタク」

この一言ですっかり我に返ったわたしはその後極力おとなしく、
質問だけをしておりましたとさ。



続く。 

 


日本に民主主義をもたらしたのは誰か〜米海軍基地見学記

2017-03-07 | アメリカ

在日米海軍基地の見学記、ブリーフィングが続いています。

                                                                         

さて、地域との交流を通じて日米の友好を促進し、
両国民の相互理解を深めるのも在日米軍の大事な任務です。

いざ日本が災害に見舞われたときを想定して、在日米軍は
いつも自衛隊を始め近隣都市自治体、消防、医療、警察と連携を取り、
航空事故などを想定した訓練や会議を密に行っています。

例えば大災害が起こったとき。
米軍が艦艇で運んできた物資は、オスプレイなどの大型輸送ヘリで
海軍基地に送られてきます。

ここから横田ベース、座間キャンプ、木更津にある陸自基地、そして
成田・羽田空港まで輸送してそこから空輸することもできます。

陸自の木更津飛行場がここに書かれているのは、 同飛行場は現在も
日米安保条約に基づく米軍提供施設であるからです。

wikiからの要約によると、

1968年基地返還が検討されたが、米軍が

「不可欠の任務のため当施設を継続的に使用する権利を有する」

ことになり、現在まで全面返還していない。
1975年に米海軍の部隊が横須賀海軍施設に移転したのちは、
米軍の使用実態はほとんど無いものの、

現在も日米地域協定では米軍管理・自衛隊共同使用施設・
区域という位置づけとなっている。

そして、この説明でも米海軍は木更津飛行場を

「Kisarazu ALF(Auxiliary Landing Fieldの略)」

と呼称していることがわかります。
朝日新聞が2014年に

「米軍機が2014年度ここに1113回着陸していたことがわかった。
訓練などが目的とみられる。」

という実に非難がましい記事を書いているようですが、
米軍にすれば別に返還していないのだし、訓練や
輸送の中継地とするのに問題ないと双方でしているようですね。 

2014年に着陸したからといって、今更ケチをつけている朝日新聞界隈ですが、
実際にはトモダチ作戦のとき、アメリカ軍はここを経由地として活用し、
参加部隊11によるこの基地からの飛行回数は377回に上りました。

災害発生とほとんど同時に基地内の公共施設には、寄付のための
大きなダンボールが置かれ、瞬く間にそれは物資で埋まっていったといいます。

その後地元自治体、企業から基地に寄付された物資は、トモダチ作戦によって
被災地に運ばれていったというのはみなさまご存知の通り。 

基地ぐるみでの地元との交流も積極的に行われています。

写真上は、小学校の英語の授業に迷彩服で先生を務める基地の軍人さん。
この他、基地を開放しての春祭りや盆踊りも行われていますし、
地元の盆踊りには自衛隊と合同で参加しているのだとか。

うちのTOが、どこかのお祭りで異様にキビキビした団体が来たと思ったら
地方の自衛隊からの参加だった、と話していたことがありますが、
さぞ日米合同の「Operation Bon-odori」は目立ったことでしょう。

女性陣もお揃いの浴衣をきて、楽しそうです。 

春祭りでお茶のお点前を披露する軍人の奥さん(か軍人本人)。
お着物は自前かしら。 

当基地は海上自衛隊との共同運用でもあるので、何かと連携があります。
一緒に餅つきをするのは恒例行事みたいですね。 

今にして思えばGHQ司令官としてダグラス・マッカーサーが
降り立ったのは、ここだったのです。

この銅像はパンフにも書いてあるように、

「日本に民主主義をもたらしたマッカーサーを讃えるため」

地元市民が贈ったというのです。
・・・・ここで、口の悪いわたしが何かをいうのを
読者に期待されている気もするのですが、今は控えます。

ただ、この銅像寄贈が、毎日元帥の元にファンレターが届き、
「マッカーサー神社」を建てるとかいった声があがったという占領中の
「マッカーサーフィーバー」 に日本人が浮かされていた頃ではなく、
1995年の出来事だった、というのに思わずわたしは

「うーん・・・・・」

と首をひねってしまいました。
マッカーサーが日本に民主主義をもたらしたと本気で信じている人というのは、
とりもなおさず占領政策によるWGPの洗脳を受けた人と同義であるとしか
わたしには思えないのですが、そんな人たちが現在の米軍基地に
友好的であるというのも、なんだか矛盾するような気がしただけです。 

これを贈った人々の立ち位置が是非知りたいものです。

 

 

当基地の司令官、ジョン・ブッシー大佐の下は、この時
基地を案内してくださった広報の方。

肩書きは

「ホスト・ネイション・リレーションズ・オフィサー」 

受け入れ国連絡官という感じでしょうか。

というあたりでブリーフィングは終了しました。
会議室を出たところの床には基地のマーク。 

やっぱり鳥居。
なんかアメリカ人って鳥居好きだよね。
ちなみにNAFとはNaval Air Facilityのことです。

トモダチ作戦に参加した当基地への被災者からの感謝をあらわす千羽鶴。

わたしは日頃、被災地に千羽鶴を送ることは一種のテロ行為であるとみなすものですが、
このお礼に贈られた千羽鶴は本当に良いものだと思いました。

グラデーションの鶴の美しさもさることながら、添えられたメッセージの
いくつかは、米軍軍人に見てもらうために英語で書かれています。

「Thank you very much! We are helped.」

「Thank you for your warm support.」

「How do you do? Thank you for your support.」

簡単な英語ですが、一生懸命お礼を言おうとした心が伝わってきます。 
米軍の方もわざわざこれを飾るためのガラスケースを特注したんですね。

千羽鶴の飾ってあった一階のコーナーに、
福利厚生コーナー?みたいなのがあり、このあたりに
たくさんのパンフレットが積んであったので、
カウンターの人に断ってめぼしいのをもらって帰りました。 

 

「遅くなる前に」

みたいな水兵さんのパンフレットは、 NFAAS、

「Navy Family Accountability and Assessment」 

海軍家族責任&評価システム?
たとえば日本にいる時に地震などの災害が起こったとき、
赴任している家族の安全確認や連絡 、避難指示などを行う組織です。

特に日本に赴任することに不安を持つ家族のニーズに応えたものです。

こちらは「Sexual Assault Prevention 」
性的犯罪防止のパンフレットです。

「性犯罪は防げる!」として、「何ができるか」は
性犯罪を誘発する行為として、

「不適切な接触」「挑発的な態度」「境界をわきまえない」

「不適切な親密さ」「特定の人物と二人きりになる」

「お酒を強要する」「暴力的な態度」

などを注意していおります。
また、そういう場面を目撃した時のガイドラインや、
性的犯罪の被害者になってしまった時のサポートをする
連絡先が最後に細かくジャンル分けされて記されています。 

赴任地にペットを同伴することも、サポート体制がしっかりとあります。
輸送の仕方や、予防注射の受け方などが書かれたパンフレット。 

スターズアンドストライプスもあったのでもらってきました。 

ニュージーランドの地震で被害を受けたカイコウラに、
海軍がまずP3-Cを飛ばして被害状況を確認し、
USS「サンプソン」が救助活動のため向かったというような話です。

2015年12月13日、横田基地で「オペレーション・クリスマス・ドロップ」
(というプレゼント投下作戦?)に参加していた22歳のハワイ出身兵士が
機内で「ハートフェイリア」、つまり心不全で亡くなったという記事。

亡くなる前に「変な臭いがする」と言っていたという証言があるものの、
事故ではないので不思議だねー、という記事。 

こちら三沢エアベースのメアリー・ザンダー大尉。
迷彩服を着ているものの、医療隊の心理療法士です。
彼女の任務に対する取り組みを紹介するとともに、
三沢ベースのメンタルヘルスの診療時間などが書かれています。 

スターズアンドストライプスの日本版。
つまり在日米軍の軍人さん達のためのS&S紙です。

「ロストイン新宿」というのは新宿のホテルが舞台だったあの映画
「ロストイントランスレーション」のもじりだと思われます。

このほかにも「日本のお漬物研究」なんていう記事もありました。 

敷地内で見かけた築年数の古そうな建物は、思った通り昔
武道場だったのを教会にしているのだそうです。

「アメリカ人って建物を絶対に壊して建て替えないんですよ。
外を補修し、中の壁を塗り替えて使い続けます」

ええよく知ってますとも。

「幾つかの建物はシロアリにやられてしまって、さすがの彼らも
壊すことにしたみたいですけど」

それにしても、聖母マリアの立像を立てるコーナーを併設した
元武道館、教会と言われればそういう雰囲気に見えてきますね。

 

続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「日本勤務はエリート搭乗員の証」〜在日米軍基地見学記

2017-03-05 | アメリカ

地球防衛協会(仮名)で米軍基地内の見学をしました。

お話をいただいたとき、わたしは勝手に「沖縄の」だと思い込んで、
あの”どじん”と図星を指された連中のどじんぶりを実際に見られるのかと
思わず血湧き肉躍ったものですが、よく考えたら、
そんなややこしいところに今どき日本人の見学を入れるわけないですよね。

見学者のふりをして中で暴れる輩がでてくるかもしれないし。

というわけで、沖縄ではなく、神奈川県綾瀬市と大和市にまたがる
米軍と自衛隊が共同運用している航空基地に行ってまいりました。

訪問団は10人ほどの集団。
まず、藤沢駅(だったかな)の前で待ち合わせです。
乗り換えた町田の駅の大きなのにはびっくりしましたが、そこから
数駅行った藤沢はご覧の通りの駅舎で、駅前ものんびりした佇まい。

ここに迎えの車がやってくるのでそれで基地まで行きます。

最寄りの駅というからすぐだと思ったら、結構遠いのに驚きました。

参加を決めたとき、パスポート通りの氏名住所の提出が要求され、
当日はパスポートを持ってくるようにとくどいほど念を押されていたのですが、
ゲートではそれらは一切チェックされることはありませんでした。

あとで現地の広報の方に

「チェックなかったですね。いつもこんなものですか」 

と尋ねると、いつもそうではなく、チェックをすることももちろんあって、
パスポートを忘れた団体の一人だけが入れず、
外で待っていなければいけなかったこともあった、とおっしゃっていました。

団体の身元がしっかりしているため、信用されたのかもしれません。

ゲートをくぐるととたんに見えてきたスプリットベーン付きの飛行機。
米軍ではすでに退役したF-4、ファントムIIです。

車から降りることがなかったのでこの角度からしか撮れませんでしたが、
尾翼の色から、第5空母航空団の第27攻撃隊所属ではなかったかと思われます。

アメリカではホーネットと置き換えられていったので海軍では86年、
海兵隊でも92年、空軍では96年に全て退役した機体ですが、
これらをライセンス生産したこともあって自衛隊では未だに現役です。

F-35が運用になるまでですから、あと少しは日本の空を飛ぶのを
見ることができるというわけです。

アメリカの軍人さんが日本に来てF-4が元気に(アップデートしてますが)
飛んでいるのを見たら、結構嬉しかったりするんだろうな。

基地敷地内にはいたるところに航空機が展示してあります。

別に柵で仕切っている様子もありませんし、のどかなものです、
夜にはライトアップするみたいですね。

こちらもF-4。
緑の機体は、第195戦闘攻撃飛行隊のマーク。
機体には

"CHIPPY HO!"

と書いてあります。
編隊のコールサインみたいですね。

チッピーは多分自分たちのことで、「チッピースパロウ」(雀)の
愛称、「ホー」は呼びかけ。
おそらく「雀ちゃんたち、いくぜい!」みたいなノリかと思われます。

内部見学はそれほど頻繁に行われるわけではないそうです。
防衛省の見学にも事前の登録と当日の身分証明が必要ですが、
それでも中国人観光客が「見せろ」といって押しかけてきている現場を
わたしは目撃していますし、ここでも内部を公開することは非常に慎重です。

しかし、内部見学には一定のパターンがあるようでした。
まず、見学者は司令塔のある建物に案内され、そこで
基地についてのブリーフィングを受けることが決まっています。

ブリーフィングの行われた会議室がずらりと並ぶフロアには、
日米国旗、アメリカ海軍旗と各部隊の旗が整然とならべてありました。

全部調べたわけではありませんが、ここには海上自衛隊旗はなかったと思います。

マホガニー調の壁にフカフカの絨毯。
自衛隊の施設にはちょっとありえないくらい豪華な内調の
会議室に、我々は案内されて目を見張りました。

「はえ〜」

冒頭に貼った木彫の基地章を中心に、幾つかの写真が飾ってあります。
ホーネットに手を振る女子たち。
もしかしたら、外地から帰ってきたパイロットを迎える家族でしょうか。

 

一部しか写っていませんが、このローターでわかるオスプレイ。
反対派の標的となって久しいオスプレイですが、地元住民には
ホーネットほどの騒音は感じられないと言われています。(当然)

厚木基地で騒音を理由に反対運動してた連中が気付かぬうちに
背後でオスプレイが離着陸していたとか、オスプレイに気付かず、
後から来たチヌークやブラックホークに向かって叫んでいたとかいう
ほっこりする話もあるようですね。

重厚なテーブルに革張りの椅子。
座ってみたらとんでもない座り心地良さでした。

正面に大小3つ(!)設置されたモニターには

「ようこそ米軍基地へ」

我々もしかしてすごく歓迎されてるー? 

テーブルに謎の切れ目発見。
テーブルの下を覗いてみたら(覗くか?) 照明器具が収納してありました。 

各自の前には基地のパンフレットと友好バッジ?が。
男性の参加者の中にはその場でジャケットの襟に付けている人もいました。 

そして、ブリーフィング開始。
レクチャーしてくれるのは当基地勤務の広報担当の女性です。
彼女は民間人で基地には外から車で通勤してきているそうです。

最初はアメリカ軍の指揮系統図から。

在日米軍司令官の下に空港施設司令であるブッシー大佐が、
この基地の最高司令官となります。

基地全体の使用状況が一目でわかる色分け地図。
米軍単独使用の部分は案外少ないという印象です。

緑の共同部分はほとんどが滑走路。
海上自衛隊の単独使用部分はないみたいですね。

第51海洋攻撃ヘリコプター飛行隊のマークは、
ポセイドンの銛を持ったサムライです。 

関東ではここが唯一の米海軍基地なので、
ここが第5空母航空団などの任務を支援する根拠地となります。
西太平洋地域での兵站支援の一端を担っているのです。

米海軍第7艦隊所属の空母艦載機の修理、補修、偵察基地として
ここに航空基地が開設したのは1950年(昭和25年)のことです。 

第5空母航空団は、空母「ロナルド・レーガン」に艦載される
航空団のことで、地上基地をここに置いています。

4つの戦闘攻撃飛行隊、電子攻撃飛行隊、早期警戒飛行隊、
ヘリコプター部隊、後方支援飛行隊で構成されます。

画面に「ミスひとつが大惨事を招く」とありますが、そのため
空母の離着艦を行う第5空母航空団に所属するパイロットは
本国で厳しく選抜された特に技量の高い者ばかりだそうです。

この航空基地が住宅街の真ん中にあることも、彼らが
パイロットの技量を厳選する理由だそうで、米軍搭乗員の間では
第5艦隊勤務は「スーパーエリートの証」といわれているとか。

米軍と硫黄島の関わりについても説明がありました。
エリート航空隊に選ばれたパイロットといえど、このように

日本に来てからも着艦訓練を弛まず行っているのですが、
海上自衛隊はその訓練支援をしているという話です。

かつてこの島で血で血を争う戦いを行った両国海軍が・・。

右の写真を見ると、島の面積に比して滑走路が大きな部分を占めていますが、
これだけ大きければ、この地域で戦死した人たちのご遺骨など
滑走路建造時に考慮されることはなかったろうなと思われます。

「滑走路の下にまだご遺骨が」

という問題について聞いたとき、まさかこんな大きいとは思っていませんでした。
これを見る限り、コンクリートの下のご遺骨はかなりの数なのでは・・。



さて、あとで、この見学をお膳立てしてくださった防衛省の方から
かつて仕事で行ったという「硫黄島の想ひで」を伺う機会があったので、

「砂や小石でさえも持ち帰らないようにと言われるそうですね」

と水を向けてみると(笑)

「いや、それがですね。わたし恐ろしいものを持ち帰ってしまいまして」

「え・・・・っ」

「硫黄島から帰ってからアカアリが一匹見つかったんです」

「(なんだアリか)でも一匹でよかったですね」

「それが、退治したつもりだったのに、しばらくして魔法瓶の蓋を取ったら」

「蓋を取ったら?」

「口の周りに び っ し り とアカアリの集団が」

「いやああああ〜〜〜〜」

検閲を逃れたアリが暖かいところを求めて魔法瓶の口にたどり着き、
なんとそこで繁殖していたというお話。 

もしかしたらこちらの方がずっと怖いかもしれない。

ちなみにこの方によると、硫黄島には現在ヤギが生息しているそうです。

「ヤギなんてもともといたはずはないし、
海兵隊が持ち込んだとしか思えないんですよねー」

そうなのか海兵隊。


在日米軍見学記、続きます。

 


海上自衛隊 横須賀音楽隊 第51回定期演奏会 @ 横浜みなとみらいホール

2017-03-04 | 音楽

東京音楽隊、呉音楽隊と今シーズンの定期演奏会を立て続けに聴きましたが、
今回、怒涛の定演めぐりの最後となる横須賀音楽隊の定期演奏会に行って来ました。

横須賀音楽隊の春の定演はこれで51回目となります。
東京音楽隊が56回目、呉音楽隊が47回目と、微妙に
定演の回数が違っているのに気がつきましたが、 
海上警備隊時代にはすでに組織されていた音楽隊が前身である
東京音楽隊(発足は1951《昭和26》年)の回数が多いのは当然ですね。

ちなみに横須賀音楽隊の発足は1954年、舞鶴、佐世保音楽隊は55年、
 呉、大湊音楽隊は56年となります。

(それにしても、『呉音楽隊』で検索すると

『呉音楽隊 イケメン』

『佐世保音楽隊』で検索すると

『佐世保音楽隊 かわいい』

と出てくるのは一体なに?) 

昨年の第50回定演も聴かせていただき、チャレンジングなプログラムを
果敢に攻めるその音楽的姿勢に刮目しさらに相待せずにはいられない
注目の音楽隊、横須賀音楽隊ですが、昨年タクトを振った樋口隊長は
その後東京音楽隊長に就任され、新体制での定演を聞くのは初めてです。

昨年と同じく、今回も会場は横浜みなとみらいホール。
独立した建物ではなく、クィーンズのモールに組み込まれた形のホールなので、
ロビーなどが狭いのが少し難点ですが、便利です。

周りにずらりとどこかで見たことのある頭じゃなくてお顔が。
周りから聞こえてくる会話も「元中の人」多めと見た。

わたしの隣の席二つは、最初から最後まで空いたままでした。

 

会場に着くと、コントラバス奏者が出て来て、その後少し楽譜をさらっていました。

こちらの方も楽譜チェック。
何度乗っても本番前は緊張するものなのかもしれません。

みなとみらいホールは立派なパイプオルガンがあり、以前、
ワンコインランチコンサートと称して昼間にオルガン演奏が聴けましたが
今はどうなんでしょうか。

指揮者の譜面台のところにいるのはもしかして、まりちゃん?

 

言葉から音楽へ〜from Words to Music〜

さて、コンサート開始です。
前半と後半のテーマを分けて、指揮者も前半と後半で別という異例の(ですよね)
形態で行われました。

前半の指揮は森田信之2等海佐。
森田2佐は横須賀音楽隊副隊長です。


オーバチュア・ファイブ・リングス  三枝成彰
1985年度課題曲(A) Overture FIVE RINGS

「ファイブリングス」というからチューブラー・ベルズみたいな近未来ものかと思ったら、
「ファイブリングス」=「五輪」、つまり宮本武蔵の五輪書のことだそうです。

テレビドラマ「宮本武蔵」のタイトルのために作ったモチーフで構成された、
いかにもヒーローもののテーマらしい勇壮な曲で、
冒頭のピッコロは「お通のテーマ」、序奏の後に金管で演奏されるのが
「武蔵のテーマ」で、クラリネットの上下によるスケールで伴奏されます。

第一部のテーマは

「作曲家が詩や文学から触発された曲」

だそうですが、三枝氏は五輪書からインスパイアされたわけでもなく、
ただテレビドラマ「宮本武蔵」のタイトルのために原曲を書いたにすぎません。

曲そのものも一昔前の東映映画みたいというか、良くも悪くもテレビドラマのテーマ、
という感じで、個人的にはあまりこの曲そのものは評価できませんでしたが、
本日のテーマに観客を引き込むことはできたのではないでしょうか。
(わかりやすいし) 

ところで、この演奏中から右側ステージ寄りのファゴット奏者の動きが
大変目立つので、見ている側としては大変気になっていたのですが、
実はこの関水正智三曹がコンサートマスターであることが後でわかりました。

前回、「ブラスオーケストラのコンマスは通常クラリネット奏者である」
と書いたのですが、早速通常ではないケースです。

 

それから、前回の呉音楽隊の時にはエキストラとして、佐世保音楽隊から
何人かの奏者が乗っていましたが、今回はクラリネットに一人、
鍵盤と打楽器に一人ずつ、民間のトラが来ていて少し驚きました。

他の音楽隊から呼んでくるということはしないのかと思ったら、
何人かは東京音楽隊、大湊音楽隊からのトラだったようです。

 

交響的詩曲「蜘蛛の糸」 福島弘和

これはもうテーマそのものでしょうね。
ちなみに作曲者の福島氏は、

  • 交響的詩曲「走れメロス」
  • 交響的詩曲「蜘蛛の糸」
  • 交響的詩曲「羅城門」
  • 交響的詩曲「地獄変」
という芥川作品シリーズを作っています。
会場では、司会者が「蜘蛛の糸」のストーリーを
誰もが作品の中に入っていけるように紹介してから演奏が始まりました。
 
「お釈迦様があるく天国の様子」
 
「生前の極悪人たちが蠢く地獄の情景」
 
「カンダタの生前の唯一の善行」
 
「垂らされた一本の蜘蛛の糸」
 
「それに群がる地獄の人々、追い払おうとするカンダタ」
 
「ぷつりと糸が切れ、再び地獄に落ちるカンダタ」
 
 
こんな調子で大体ストーリーを追うことができる仕組みです。

平和で退屈な天国から地獄を見てふとした気まぐれから
蜘蛛の糸一本降ろして想像されうる大騒動を引き起こし、
地獄に落ちた者たちの感情を試し弄んだ末 、「ふっ」とため息を漏らす、

・・・・あんたいったいなに様?
 
あ、お釈迦様か。
 
 
曲は、天国の様子を表した後、エンディングとして「蜘蛛の糸が切れる」
様子をあえて一番最後に持って来たように聞こえました。

音楽的に「荒ぶる」部分が何度も出て来てどれが本当のクライマックスかわからないのですが、

これは作曲者に意図を聞いてみたいところです。
前半の感情表現は少し溜めて、後半のいよいよ、という時に
放出してもいいかもしれない、と感じました。
 
ふるさとの空『啄木によせて歌える』 越谷達之助

前回のアンコールで啄木の詩による「初恋」を
横須賀音楽隊歌手である中川麻梨子士長が歌い、満場にため息を吐かせたものですが、
今年は同じ歌集から、「ふるさとの空」が歌われました。
 
ふるさとの空遠みかも 高き屋に
ひとりのぼりて愁いて下る

相変わらず中川士長の声は人の心を惹きつける説得力があります。
微塵も不安定な要素のない、艶のある高音部。
低い音域もくぐもることのないクリアな発声。 
 
ステージングもすっかり堂にいって貫禄も出てきたように見えました。
 
からたちの花 山田耕筰
 
この後、中川士長の歌で続いてもう一曲、「からたちの花」が演奏されました。
 
ミュージカル 「レ・ミゼラブル」より  クロード−ミシェル・シェーンベルク 

 
個人的には去年の夏ブロードウェイでミュージカルを観て、
全曲詳しく知っていたということもあって、とても楽しめました。 

兼ねてから名前を見て気になっていたのですが、調べて見たら、やはり
大伯父(祖父の兄)はあの12音技法のアルノルト・シェーンベルグなんだそうです。


というわけで、小説、詩などを題材にした曲を集めた前半が終わりました。


Music to Heroes 〜英雄たちへの音楽〜

休憩を挟んで、後半のテーマです。
しかし、音楽まつりなどでも、自衛隊音楽隊の企画というのは
毎回よくこれだけいろんなことを考えるものだと感心させられます。

漫然といろんな曲をやるのではなく、必ず一貫したテーマのもとに
関連する音楽を集めて紹介するというのは、聴きにくる聴衆にも
理解しやすく、楽しむことを容易にする工夫と言えます。

後半はタイトルにもある通り、英雄たちへのオマージュがテーマとなっていて、
まずは大航海時代の世界一周のチャレンジャーマゼランに捧げる曲、

マゼランの未知なる大陸への挑戦

海上自衛隊東京音楽隊 Tokyo Band 
  

テーマがテーマなので、海上自衛隊がよく演奏する曲となっています。
youtubeは8年前の第49回定期演奏会で同曲を演奏する東京音楽隊。
隊長はもちろん、メンバーもかなり変わっているように見えますが、
8年も経っているのですから当然でしょうか。

後半からは横須賀音楽隊隊長である植田哲生三佐が指揮台に上がりました。
三佐ということは、大変若い隊長です。

アメリカの騎士より 選ばれしもの S・メリロ

 

開演前に、コントラバスの奏者がさらっていたのはもしかしてこの曲だったのかな?
オリジナル譜では、ベースはエレキベース指定らしいですね。
ドライブする16ビートが基本なので、エレベ指定で書かれたベースラインは
コンバスには実際なかなか大変だったのではないでしょうか。 

コンバスにとってのみならず、ブラスバンドオケにとって難曲であるので、
これにあえて挑戦し、普通に聴かせてしまっている横須賀音楽隊は
やはり実力があるのだと改めて思わされました。 

そしてこの場合の「英雄」とはなんとびっくり!宮本武蔵なんだそうです。

宮本武蔵はアメリカの騎士とちゃうでー。

と普通に思うのですが、武蔵はメリロにとっての「スーパーヒーロー」でもあったのでしょう。

アメリカ人にとって宮本武蔵は、日本におけるキングアーサー程度には有名です。
息子に買ってやった「ニンジャ」の本に『アナザー侍』として載っていましたっけ。

マン・オン・ザ・ムーン 清水大輔

この曲におけるヒーローとは、月面着陸を目指したアメリカ人たち。
・・・というか、「人類」でしょうか。 

4度〜4度で上昇するメロディ、要所要所で打ち込まれる鐘、
「タン・タタタ・タン・タタタ・タン・タタタ・タタタタタタ」という
おなじみの前進のリズム。

まさに宇宙飛行士たちを描いた映画「ライトスタッフ」のテーマのような要素ですが、
最初の部分は、

 JFKの演説、「困難だから挑むのです」

から始まります。
3分ほどのところには混沌とした部分がありますが、これは
ロケットの噴射、そして飛行、または飛行士たちの不安や
飛行中のアクシデントなどを表現しているということです。

管楽器のアンサンブルもよかったですが、何と言っても打楽器が大活躍の曲でした。
(打楽器奏者の一人はいくつかの楽器を掛け持ちで、
あちらこちらに移動していましたが、彼女に是非殊勲賞をと個人的に思う) 

そしてなんと、会場には作曲者の清水氏が来て紹介されました。

曲が終わった時、周りに座っていた誰か(きっと海自の元偉い人)が
一人は「うん!」とつぶやき、一人が「後半よかったね」と
隣の人に話しかけているのが聞こえて来ました。

初めての曲ばかりなのにこれだけ楽しめてしまうというのは
何と言っても企画の良さであり、難曲をこなす同音楽隊の実力の賜物でしょう。

そして極め付けにアンコールで登場した中川士長が

「或る晴れた日に」歌劇「蝶々夫人」より ジャコモ・プッチーニ

を見事に歌い上げました。
すごかったです。
この曲をこれだけ歌える歌手は、全自衛隊で彼女だけだとわたしは断言します。

 

すっかり引き込まれた後半の締めくくりとして彼女の歌が終わると、
エキストラの民間人が舞台の袖から出て行き、恒例の行進曲「軍艦」が始まりました。

拍手する人としない人は半数。
わたしは「しない派」ですが、周りの元海自さんたちも半々くらいです。

わたしの近くには元海将とその奥様が座っておられたのですが、
「軍艦」が始まってすぐ、元海将が右手でずっとタクトを降るように動かし、
時折左手で拳を握り、「ぐっ!」としているのにわたしは目が釘付け。

いつまでするのかなと思って見ていたら、最初から最後までずっとでした。
海上自衛隊入隊以来、何回も何回も何回も聴いて来て、さらに
退官してからも何回も何回も聴いて来た曲に対して、このアクション。

あまりの微笑ましさにわたしはもう少しで萌え死ぬかと思いました。

 

最後まで楽しんだ横須賀音楽隊の演奏が全て終わり、皆が会場を
外に出るのを、一列に並んで口々にありがとうございました、と
声をかけながら一人一人にお見送りのお辞儀をする隊員たち。

そう、これだからわたしは自衛隊を愛さずにはいられないの(笑)

 

今回の演奏会参加に際し、ご配慮いただきました全ての皆様、
植田隊長と横須賀音楽隊の皆様に心からお礼を申し上げます。

どうもありがとうございました。 

 

 

 

 


艤装中の「あさひ」甲板を歩く〜護衛艦「あきづき」体験航海

2017-03-03 | 自衛隊

佐世保から長崎までの護衛艦「あきづき」クルーズも、入港の瞬間を迎えました。
曳船が「あきづき」の向きを変え、徐々に着岸していきます。 

定位置についてからはさらに結索、防眩物の設置など
山ほどしなければならない作業があり、 待っている身には
結構な待ち時間となります。

わたしは入港作業を最初は左舷側から見ていました。 

朝は反対側のチャフフレアランチャーの写真を撮りましたが、
この筒一つ一つに番号が打ってあるのはこの時初めて気づきました。 

ところで、これなんですが。

ブリッジの下を通過して、造船所が見えてきたときに遠くから写真を撮りました。
艦番号、119。

「あきづき」型は118までですから、それよりも新しい護衛艦・・・・? 

そう、わかる方には瞬時にお分かりになったことでしょう。
なんとこれ、

「あ さ ひ」DD-119

だったんですよ。
去年の10月19日、ここで進水を行い、艤装中の最新鋭護衛艦、「あさひ」。

恥ずかしながら、わたしはここに「あさひ」がいることに思い及びませんでした。
え?いつ気づいたのかって?

それはあなた、下艦して岸壁に降り、振り向いてその艦尾に

「あさひ」

と書いてあるのを見たときですorz 

まあそれはよろしい。よくないけど。

着岸したあとの作業が行われている間というのは艦に動きが全くないので、
わたしと鉄火お嬢さんは一旦士官室に荷物を取りに戻りました。

鉄火お嬢さんがどうしてもキッチンを見たい、とその前から言っていて、
しかし食事中だったり人がいたりでなかなかチャンスがなかったのですが、
全員が着岸に気を取られている?この隙に、こっそり忍び込むことにしたのです。

というと人聞きが悪いですが、キッチンまで行ってその辺にいた自衛官に
中を見ていいかどうかちゃんと断りましたのよ。

「うわー、誰もいない!」

昼ごはんが終わり、食器も全部綺麗にしてしまったあとで、
無人のキッチンには「嵐の後」の静けさが漂っていました。

ざるには洗った生野菜がラップをかけられて置いてあります。
晩御飯用だな。 

この清潔さ、きちんと片付けられている様子をご覧ください。
食材用のポリバケツやざるはきっちりと積み重ねられ、
シンクの水分も一滴残らず拭き取られています。

炊飯器、調理器の上部には調理用具が頭の高さに掛けられて
大変使いやすそう。

ここから「あきづき」乗員約200名の旺盛な食欲を満たす
美味しい料理が毎日、毎回生み出されるのです。 

科員食堂にも誰もいません。
入港作業の時にすることがなく休憩したりする乗員はいないってことですね。

四人掛けのテーブルは作り付け、椅子はテーブルの天板の下に差し込んで収納。

食堂を出たところには各種お知らせのポスターなどがありました。
これはいわゆる一つの出会い系パーティー。

実は先日、所属防衛団体の偉い人から電話がかかってきて、

「あなた自衛官の婚活パーティみたいなことしてませんでした?」

「してませんが・・・・どうしてですか」

「いや、今度、うちの支部でもそういうことをするのでお知恵を拝借できればと」

お知恵も何も、それは誰か別の人と間違えているのではと。

それはともかく、自衛官の結婚問題については自衛隊全体の問題ともなっていて、
海曹会などが主催するパーティもあり、もちろんこの「ラ・ジバンシー」(仮名) 
のように民間の業者の主催もあるわけですが、所属する防衛団体主催でも
こういうことをやっているのを初めて知った次第です。 

さて、少し時間を巻き戻して、入港作業の様子を。
「あきづき」はじわりじわりと進んで、建造中の「あさひ」に近づいていきます。

ちなみにこれは「あきづき」側の上部構造物。

煙突側壁から二本突き出したホイップアンテナは、根元が赤いのが高圧用です。
その向こうの丸いアンテナは衛星通信用の USC-42だと思われます。

一番向こうはヘリ格納庫の上ということになりますが、 
この上にアンテナアレイ室を設け、FCS-3Aを装備しているのが
「あきづき」型の特徴の一つでもあります。

赤い籠状のものは何度もここで説明していますが、速力標。
上下の位置の組み合わせで現在の速力を僚艦に伝えることができます。 

近づくにつれ、隣の艦の何にもなさにびっくりしました。
主砲は梱包された状態で既に定位置に置かれており、その形から
「あきづき」型と同じ5インチ速射砲だろうと思われますが、
VLSのセル部分には周りにやぐらが建てられ、見えないようになっています。

体験搭乗者を乗せた「あきづき」が横付けするからというより、
武装の取り付けはこのようにして見えないように行うものなのでしょう。

アンテナ類はお皿のようなTACAN(戦術航法装置)、リングのような対空レーダー、
そしてCIWSみたいな形をしたヘリコプター用データリンク装置と、
おなじみのものがもう既にここからも確認できます。

ブルーシートのかかっている部分はちょうどFSC-3Aなどがつくはずですが、
工事中で艦橋そのものの部分を隠してあります。
 

ドアの内側とか、塗装がまだできていませんね。(もちろん床も)
ウィングの手すりもよく見たらまだ全くなく、仮設です。 

そしてこんなの初めて見た!何も乗っていない台座! 
ファランクスCIWS(高性能20ミリ多銃身機関砲)は一番最後に載せるのかしら。 

アメリカの中古車センターでよく道路沿いに踊っている「風船人形」
みたいな赤のチューブは、排気チューブであろうと思われます。 

ブルーシートのかかっていない上部構造物艦橋のさらに上部分。
航海艦橋の横に長い窓部分はこの下にあります。

さらにその上部分となるわけですが、ここは一体何?

さらに煙突と上部構造物中央部から後部にかけて。
これも随分従来の形とは違っているようですね。

覆いがかけられているのがすなわちどれも武器関係ってことでしょうか。
写真を撮られてネットに上げられても大丈夫なように。

しかしもし、この日のエントリが後日いきなり消えたとしたら、
それは自衛隊からクレームが来たときですので、その時には
これらの写真は公開してまずかったんだなと解釈してください。 

 

防眩物を挟んで、「あきづき」と「あさひ」がぴったり並びました。
こうしてみると、両艦の構造の違いがよくわかります。

んー、なんか煙突が小さくないですか? 

甲板の、上部構造物を出たすぐのところで溶接作業をしていた人。
火花が出ているところは撮りそこないました。
自分の体につけた命綱を手すりに掛けて作業しています。 

岸壁には参加者がチャーターしたタクシーの運転手や、自衛官らしき人が待っています。
わたしたちもタウシーを頼むかどうか聞かれたのですが、バスを選択しました。 

艦を降りると(降りる時の『はよ行かんね事件』については前回お話しした通り)
「ありあけ」がすぐそばにいました。

ちなみに「ありあけ」という字の右側に二つあるラッパみたいなのは、
デコイランチャーで、 ホーイング魚雷の攻撃を受けた場合、
艦艇の推進音に似た音源を発し、ホーミング誘導の感知するターゲットを
誤認させて魚雷の目標を欺き、攻撃をそらせるためのものです。

これを「曳航具4型」と呼ぶそうです。 


ここで初めてわたしたちは「あさひ」の文字を見てびっくり。

「あさひだったんだ・・・・」

といまさらのように感動したのでした。

入港したらそこが艤装中の「あさひ」の隣だったなんて、
ある意味、今回の航海でわたしが一番ワクワクしたことだったかもしれません。 

せっかくなので少し拡大してみるのだった。

ふむ、どうやら後部格納庫上の CIWSはもう設置されているようです。
改めて思うんだけど、もしかしたら、つまりわたしたちって、

「あさひ」の甲板を歩いた最初の民間人

(工事関係者以外で)だったのではないか?

 

 

ところで、「あさひ」が進水した時、中国はそのこと大々的に伝えました。
もし中国の中国版イージス艦052Dと戦ったら、「あさひ」など鎧袖一触、
必ず我が軍は勝つだろう、などと人民も盛り上がっていたようです。

「その前にそうりゅうに沈められるんですけどね」

「なんで1対1で戦わなきゃならんのだ」

「052Dの対艦ミサイルはこんごうが迎撃します 」

「中国の潜水艦はあさひに阻まれて日本艦隊に近づけません 」

「中国艦隊はそうりゅうに攻撃されて一方的な展開になります」

「なんで対空能力を強化したあきづきの後に 
対潜能力を強化したあさひを造ってるのか考えないのかね 」

「どう防御できるかが現代では重要だろ 
おまえら対艦ミサイルや潜水艦の攻撃防げるの」

などと日本側ではそれを受けてこちらのネットも盛り上がったようですが。

高いソナー精度でレーダーや電波発信源を全てカットでき静音性にも優れているので、
特に音に関してなんの配慮もしていない
中国海軍の空母や潜水艦にとっては
脅威だと感じているからこそ、人民も高い関心を持つのでしょう。

やっぱり武力装備は抑止力に通じるってことですよ。

岸壁からは門までなぜかエスコート役を行っていた給養長に連れて行ってもらいました。
(わたしは二人の後ろをついて行ったので話はしていません)

さすが船会社、「船装課」なんてのがあるんですね。
トラックに「動くぞ!!」と書いてあるのがじわじわ来ます。 

 出口近くに菊の御門のレリーフがありました。
これはもしかして創業時の・・・・? 

「明治7年創業同10年?功」
という文字、二つの菊の紋章と三菱。

この碑が建立されたのは昭和43年のことだそうですが、その際、明治年間に
この「立神ドック」に掲げられた菊の紋章や三菱を集めているのです。

三菱マークが取り付けられたのは明治28年だったそうです。 

そういえば戦艦「武蔵」もここで進水したんでしたっけ。
船台は計算を重ね、その結果武蔵の巨体が対岸にぶつかるギリギリにピタリと止まり、
関係者は胸をなでおろしたとかなんとか。

その話も実際に立神ドックを見れば納得です。

というわけで、三菱造船所の立神ドックの通用門を出ました。

バスの車窓から撮った写真。
行けども行けども三菱の関係の施設が続きます。 

というわけで、バスで長崎駅前までやって来ました。
さすがは長崎、こんな建物が・・・ってこれは何?
グラバー邸?(いきなりいい加減) 

鉄火お嬢さんと駅ビルのアフタヌーンティーのティールームに入り、
バスの時間までおしゃべりをしました。(いわゆる硬派なガールトーク)

アフタヌーンティーセットを一つ取り、仲良く半分こ。

鉄火お嬢さんはなぜか福岡空港、わたしは長崎空港へ。
長崎駅から空港までは小一時間くらいかかります。

空港のビル天井には長崎らしい龍のモチーフのステンドグラスが。

タイル絵の天草四郎時貞と島原の乱における一揆軍の行列。
カリスマ的人気で一揆軍の総大将になった天草四郎ですが、
当時まだ十代半ばで、神輿として担がれていたというのが実態だったとか。

それにしても、

幕府側には天草四郎の姿や容貌の情報が全く伝わっておらず、幕府軍の陣には
四郎と同じ年頃と見られる少年たちの首が次々に持ち込まれた(wiki)

って酷すぎない?


わたしにとって初めての長崎は造船所と駅と空港だけでしたが、
今度こういう歴史遺跡をめぐるために来てみたいものです。
もちろん軍艦島見学も! 

それでは、艦長からいただいたエスペランサ・キャットのメダルを自慢しながら
「あきづき」体験航海記を終わりたいと思います。 

体験航海にお誘いくださった鉄火お嬢さん、何かとお気遣いをいただきました石井艦長、
そして「あきづき」の乗員の皆様、本当にありがとうございました。

 心からお礼を申し上げます。


「あきづき」シリーズ終わり

 

 


造船所到着〜護衛艦「あきづき」体験航海

2017-03-02 | 自衛隊

観艦式と違い、佐世保から長崎への護衛艦クルーズは
あっという間に目的地に近づいて来たという感じがします。

前回最後にお話しした「恋する灯台N07」が見えます。

そしてあっという間に目的地である長崎の三菱造船所のガントリークレーンが見えて来ました。
何気なく使っているこの言葉ですが、ガントリー(gantry)とは、
複数の高脚の上部に水平な梁を備えた門型の構造物という意味があります。

 

三菱マークがクレーンのアーム中央にはっきりと。

入港作業を見るために、わたしたちはまた艦橋に登って行きました。
すると、出港時には被っていなかった黄色いヘルメットを全員が着用しています。
後ろから写しているので見えませんが、正面に海自のマーク入り。

副長の後ろ姿。

艦橋横右のウィングから甲板を望む。
潜水艦とすれ違った時のように、艦首舳先に数人が固まって立っています。
この頃にはすでに甲板には一般人の立ち入りを禁止されていました。

左の航海員が双眼鏡で監視を行い、右の乗員は通信中。
左にスイッチみたいなのを持っています。

今甲板の人たちは、これから橋梁の下をくぐるために
異常がないか艦体と進行方向の見張りをしているようです。

艦橋を横切るときに気づいてしまった黒板。
「ネザ」!「ミザ」!「コクザセリザチョリザヒリザ」! 

・・・・呪文かな?

基本的に昔から狭いスペースで生活するために敬礼の肘の角度や、
万歳のやり方をスペース省略して来た海軍は、その時代から
先任参謀を「セサ」と呼んだりして言葉も省略して来たのですが、
その結果がこれ。

「ネザ」=燃料在庫量

「ミザ」=真水在庫量

「コクザ」=航空燃料在庫量

「セリザ」=生糧品在庫量

「チョリザ」=貯糧品在庫量

「ヒリザ」=非常用糧食在庫量

こういうの、ちゃんと上の方が通達で決めてくるんですよー。
ちなみに昔「先任参謀」が「セサ」だったせいか、自衛隊になっても
「先任幕僚」のことは「セバ」とは言わず、「セサ」というらしいです。

したがって、例えば「運用幕僚」だと「ウヨサ」になります。
自衛隊になってからできたのではないかなと思う略語に

「サブサ」=潜水艦幕僚

「ロジサ」=広報幕僚

がありますが、海軍は基本英語オーケーだったのでどうだろう。

こういうのを見ていると面白くて時間が経つのを忘れてしまうのですが、
ちょっとウケたのが、

「トサカ」=統裁官

「ウシ」=運用士

「カバ」(カパじゃない)=甲板士官

「スシ」=水雷士

「ホシ」=砲術士

まあ面と向かってそう呼ばれるわけではないので牛でもカバでもいいんですが。 

こんなものの写真も撮ってしまうのだった。

「缶は洗って捨てろさぁ〜。」

長崎弁でしょうか。
それはともかくこんなところでどうやって缶を洗うのかと。 

ここには「カ」「フ」「コ」とか「ツシ」「セシ」などが働いているというわけ。

女性の「コ」。 

艦橋の窓から今からくぐるという橋が見えて来ました。
甲板の見張りはきっちりと等間隔で舳先に立っています。

長崎湾から三菱重工造船所のある浦上川の大きな河口に
入って行くとき、ボトルネックのような部分をつなぐ橋、

「女神大橋」(愛称ヴィーナスウィング)

です。 

女神橋は建設の際、造船所がこの中にあることや大型の客船が出入りすることを考慮して、
水面から非常に高い場所を人や車が通行する斜張橋(しゃちょうきょう)にしました。
斜張橋とは、塔から斜めに張ったケーブルを橋桁に直接つなぎ支える構造のものです。

 

それは、この写真を見てもお分かりいただけるかと思います。
護衛艦とはいえ、艦橋の高い部分にいても、これだけ上部に余裕があります。

 

かつて世界最大級の客船クィーン・メリー2などもこの下を通過したことがあるとか。

たった今橋の下を通過ー。
女神大橋は歩いて渡ることもでき、 長崎のランドマークとして
観光資源ともなっているそうです。

あっという間に橋の下を通過。
昔観艦式の時に「ひゅうが」で横浜のベイブリッジ下を通過した時、
最先端部と橋の下が7mあると聞きましたが、それでも下からはギリギリに見え、
皆が息を飲むようにして上を見ていたことを思うとあっさりしたものです。

双眼鏡のレバーに赤いリボンがつけられていますが、
これも体験航海乗客がぶつからないようにという気遣い。

こんなところ、ぶつかる方が悪くね?と思いますが、
自衛隊的にはそうはいかないのでしょう。

ブリッジ下を通過すると、両岸に造船所が見えてきました。

三菱造船所で建造中の船も色々と見えてきました。
なかなかの豪華客船、名前は

「AIDA Perla」 

調べたところドイツの「アイーダ・クルーズ」社の船で、
一番船の「アイーダ・プリマ」が引き渡されたのは最近。 

ただし、度重なる設計変更などで納期は1年遅れ、さらに3度の不審火に見舞われるなど
災難を経ての引き渡しだったそうです。

これは2番船で、全長約300メートル、12万5,000トン、
客室数1,643室で約3,300人を収容でき、プールやスケートリンク、カジノなど
豪華な設備を備え、さらに最先端の省エネ技術も採用しているとのこと。
ニュースによると、 

これら2隻の豪華客船建造がもたらす結果が、長崎市の基幹産業である
造船業の今後を占うといっても過言ではない。
三菱重工業は「工程の最適化と改善で建造を加速させる」とするが、
これ以上の遅延は許されない。わが国の造船技術の真価が試されている。

ということです。

こちらはアメリカのクルーズ船「クァンタム・オブ・ザ・シーズ」

今はアジアクルーズがメインなので、母港は上海だそうです。
つまりこの乗客のほとんどが中国人なわけか・・・・。 

漁船などが繋留する岸壁のようです。
ちなみに一番向こうの白い船は「やまと」だそうです。 

横浜で「鳥海」だか「金剛」を見たことがあるけど、
船の名前って言ったもん勝ちみたいなの? 

こちらはどうやら軍艦島見学ツァー。
「ブラックダイヤモンド」 という船は、乗艦料が3600円。(子供半額)
島に上陸するのには見学料が大人300円、子供150円必要です。

なんかこれ安くない?

あとは、船上から長崎市内に点在する世界遺産を見学するクルーズもあり。 

 

これも曳船でしょうか。

建造中の船体。
まだ上部構造物が全くない状態です。

もう一隻曳船が向かってくる方を見ると、艦番号176、
忘れもしないわたしが前回の観艦式本番で乗った「ちょうかい」が。

千葉県木更津港から乗艦し、駿河湾を一日クルーズした艦と
長崎で再会することになろうとは、なんとも不思議な感じです。

イージス艦である「ちょうかい」に乗ることが決まっていたのはいいけれど、
その直前に北の坊ちゃんのミサイル騒ぎで、

「何かあったら観艦式には出ませんからその時は諦めてください」

と言われていたんだったわ。
今調べたら「ちょうかい」は石川島播磨島の生まれ。
なのになぜ三菱でドック入りしているのかと言いますと、
「こんごう」型の姉三人を三菱に造らせたあと、石川島播磨にも
技術維持の機会を与えるために「ちょうかい」だけを造らせたのですが、
その後石川島播磨はIHIになり、「ちょうかい」の古巣東京工場が
閉鎖されてしまい、結果として彼女は現在のところ

唯一の非三菱ミサイル護衛艦

となってしまったのです。
というわけで、メンテもここで行っているんでしょう。

こちらには「ありあけ」さんがいます。
「むらさめ」型の9番艦なので、これも「あめ型」と呼ぶのかな。

旧軍では「春雨型駆逐艦有明」「初春型駆逐艦有明」、
そして自衛隊になってからは「ありあけ型護衛艦ありあけ」に続く4代目です。 

「ちょうかい」の真正面を通過した時を狙って一枚。
塗装をやっているらしく、CIWSや主砲、レーダーの類が全て覆われています。

「ちょうかい」の後ろは・・・・ええい、艦番号が見えーんっ!
どうも今乗っている「あきづき」と同じ形に見えるんだが。
もしかしたら「すずつき」かな? 

「あきづき」に先駆けて「すずつき」もドック入りしているのでしょうか。

「あきづき」の接岸作業はこのコンビが担当する模様。

そこでふと甲板の上を見ると、全ての乗員が右舷側に固まっているのに気づきました。

ところで、また作業艇を海面に下ろす用意をしていたので待っていたら、
ブリッジの下を通過しだしたのでそちらに気を取られているうちに
作業はあっという間に終わってしまい、降ろすのを見損ないました。 

「あきづき」はこれからこのドックに入渠する模様。

ふと気づくと、作業艇はいつの間にか着岸する予定らしい岸壁に近づいています。
遠くて見えなかったのですが、着岸するための何か準備を行ったようです。

曳船がお仕事を始めました。

こちらの名前は白鷹丸。

こちらは「鶴翔丸」なんですが、こちらから見ると・・・

「丸 ”翔鶴”・・・・・」

「これは、おそらく故意犯というやつですね」

わたしと鉄火お嬢さんは目を見合わせ、頷きあったのでした。

 

続く。


軍艦島〜護衛艦「あきづき」体験航海

2017-03-01 | 自衛隊

「あきづき」体験航海記に戻ります。

一般公開の日にはどこにでも潜り込む人間対策に、こんな風に立ち入り制限します。
確かに、これをしていなかったらわたしも入らずにいられたか自信ありません。 

「あきづき」型に乗るのは初めてなので、武装も紹介しておきましょう。
3連装短魚雷発射管です。 

国産の68式 HOS-301の改良型で、現地の説明にはMk.32と制式が書かれていました。

舷側はステルスシールドになっており、
使用時はこのシールドを開いて、発射管を斜め45度にして
あとは「テー!」とやります。(多分)

魚雷は精密機器なので、特製のキャニスターに収納されて保管されています。 

 

こちらはその近くにある自走式デコイ。
これは今まで見た護衛艦にはなかったような気がします。
(あったかもしれませんがわかりません)

4連装のランチャーが右舷側だけに一つ装備されています。
 

使用方法。
魚雷と一緒で、これも旋回させて「テー!」とやります。(多分)

「デコイ」と言っているのは、より接近した敵魚雷に対して使用され、
その際音響を発生させながら敵魚雷を欺瞞、誘引して、
自艦から離れたところまで誘導し、そこで誘爆させるからです。

頭いい〜!

溺者救助訓練用の人形もしっかりチェック。
他の艦に比べるととっても脚が長くてスタイル抜群、モデル体型です。 

画竜点睛と言いますが、溺者人形には何処の艦のものも必ず
油性マジックで顔が描き込まれます。
簡単なところではへのへのもへじの顔の時もあります。
そして必ず名前がついています。 

彼女(多分)の名前は近辺に隊員がいなかったので確認できませんでした。 

こちらVLS垂直発射機の発射装置。
ここには32セルがあります。

このタイプが今の海自の護衛艦の標準装備と言っていいでしょう。

セルのある台の側面にあった VLS弾庫。
とっての類が全くないのですが、どうやって開け閉めするんでしょう。 

回廊の一部で見つけた「海水吸入箱」のプレート。
海水吸入箱なんて初めて聞いた言葉です。

船舶は、主機関を初めとする各種搭載機器等の冷却に海水を使用するので、
船外の海水を船内に取り入れる海水吸入箱(シーチェスト)があります。

海水吸入箱は、船底外板あるいは喫水線下の船側、外板に接して設けられた
「箱」で、
船底外板、あるいは船側外板に開口する海水入口から
海水を導入して取り入れる役目をします。
そうして取り入れられた海水はポンプで冷却対象の機器に送給されるというわけ。

問題はこの写真のどこにも箱らしきものがなく、プレートがあるのが
船底でも喫水線下でもないことですが・・・。
 

 

さて、「あきづき」乗艦について艦長からお知らせいただいた情報に

「当日は艦上から軍艦島が見える航路を航行します」

とあり、今まで噂の軍艦島を見たことがなかったわたしは
当日軍艦島が見えてくるのを大変楽しみにしておりました。

速射砲の動的展示が終わった時、 VLSセルの写真を撮りましたところ、
(高いところにあるのでカメラを持ち上げて) 

んん?向こうに見える島影は・・・・?

見たことがないわたしでもわかる、これはあの軍艦島ではありませんか。
いやー、本当にコンパクトな島ですわ。
こんなところに人がひしめき合い学校や遊戯場まであったなんて信じられない。

「軍艦島ですよね、あれ」

もしかしたら艦内ではその旨放送があったのかもしれませんが、
わたしたちはずっと外にいたので、なんの心の準備もなくいきなり遭遇した形です。 

カメラを望遠レンズに取り替えて島を撮りました。

島の周囲を取り囲む防波堤が、一つの島をまるで軍艦のように見せています。
島の中央の小高いところには給水塔や灯台の形もまだはっきり確認できます。

近年世界遺産に指定され、長崎港からはいくつものクルーズが出ていますが、
2009年からは島への上陸が天候など条件付きで可能となりました。

アップした写真をさらに一部拡大してみます。
こりゃすごい。

廃墟や古い建物が大好きなわたしには垂涎の眺めです。
兼ねてからTOに行こうよと言われていたのですが、
これは是非一度上陸してみたくなりました。

ところで、端島が世界遺産に、というニュースは皆さんもお聞きになったと思いますが、
あれ、「軍艦島が世界遺産」というよりは

軍艦島を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」

が世界遺産に指定されたというのが正確なところです。

 

ところでその際、日本が脚光を浴びることが何であれ許せない隣の某国が、
これを国ぐるみで妨害してきました。

「日本の帝国支配に関連する世界文化遺産を登録する日本の試み」

を非難するとともにこれに異論を唱え、登録に反対してきたのです。
その後日本は韓国政府とバーター条件(日本も百済遺跡を世界遺産に推薦するという)
で合意するも、韓国側は翌日合意を破棄しなかったことにしてしまい、
日本側が煮え湯を飲まされるという経緯を経たことも、
今では多くの日本人の知るところとなっています。

韓国側の非難の論拠は、朝鮮人が強制連行され苦役についたということでした。
これは徴用と強制労働を意図的に曖昧にし、政治利用したと言わざるを得ません。

その宣伝も子供向けの絵本にまで及び、「恥ずかしい世界遺産」という本では
少年の労働者を長崎の爆心地で労働させ被曝させたと書かれているそうです。

まあしかし、慰安婦問題などを見ても、あれはそういう国だと思っているので
多くの日本人同様わたしにはなんの驚きもありません。

そして得てしてこういう情報を検証せず、彼らのいう通りに伝播するのが
彼らのいうところの「良心的日本人」であるということも。

 

今回、わたしと鉄火お嬢さんが艦上で知り合った参加者の一人がそれでした。
軍艦島の話になった時、 この人は

「上陸したら朝鮮人の墓があった」

「強制連行されてきた朝鮮人だった」

「来るのが嫌だから途中で海に飛び込んで死んだ」

ああ、これが無自覚のデマゴギーというやつだなと思いました。

まず、軍艦島には墓がないというのは有名な話です。
島で人が亡くなったら、上から三つめの写真にも写っている小さな島に
遺体を運び、荼毘に付してそこにある墓地に葬ったのです。

狭い島内に島民の遺体すら葬ることはしていなかったというのに、
朝鮮人の遺体を荼毘にも付さず島に埋めて墓を作ったというのでしょうか。 

そして「強制連行」というのを「徴用」と混同していること。
(韓国の意図的な誤用をこの人は信じているというわけです)
慰安婦の問題もそうですが、軍艦島の炭鉱労働者として、朝鮮人も給与を得ていたこと、
特に戦後は日本人と朝鮮人の子供が学校で机を並べていたことなども
実際の元島民が証言していることなのに・・・・。

そして最後ですが、これなんといっていいのやら。
連れてこられる途中で海に飛び込んだ人間の墓がどうしてここにあるのか?

時と場所と立場を考えなければ、これらを突っ込ませていただきたかったのですが、
その話を聞いていた周りの人間は、もちろん誰も相槌も打たず返事もしませんでした。 

わたしは、そのおじさんを一日エスコートして、何を聞かされても
ハイハイとお説を拝聴しなければいけない自衛官に心から同情した次第です。

ちなみに、このおじさん、下艦する時にわたしと鉄火お嬢さんを
前に行かせてくれたまでは良かったのですが、鉄火お嬢さんが
ラッタル途中で写真を撮っている間それを待って立ち止まると、
後ろから「早く行かんね」といって背中を強く押すということをしてくれました。

繰り返しますが、船から降りるラッタルの途中です。
わたしは旅行用の重いキャリーバッグを手に持っていました。

危ないだろうがあ!(激怒) 

軍艦島の近くにある島だと思うのですが、高島でしょうか。
高島には学校、スーパー、診療所、海水浴場があります。
 


 

最後にはブリッジの下を通過すると聞いていたので、これかと思ったら
右手に見たまま通り過ぎてしまいました。
これは伊王島と三菱重工のある香焼を結ぶ「伊王島大橋」。
橋長876mもあって、歩いて渡ることもできるとか。

調べていたら「恋する灯台No7」とあるので何かと思ったら、 
日本ロマンチスト協会と日本財団「海と日本」の共同企画で、

恋する灯台プロジェクト

灯台を「ふたりの未来を見つめる場所」として定義することで
「ロマンスの聖地」へと再価値化していきます。
日本全国の灯台から、ロマンスの聖地にふさわしい灯台を「恋する灯台」として、
灯台がある地域を「恋する灯台のまち」として認定し、
地域の観光資源としての灯台の価値を見直すことで、
灯台に訪れる老若男女を増やして海への関心を高めていくことを目的とします。

という灯台の7番目にこの伊王島の灯台が指定されているのだとか。
(それにしてもこのHPの文章はなんとかならんのか) 

ちなみにこれは「いおうじま」と読みます。

 

恋する灯台といえば()わたしたちは動的展示の後、
甲板から海を見ながらまったりしていたのですが、
例によって鉄火お嬢さんが甲板にいた隊員とその家族に話しかけ、
しばらく立ち話をしていたところ、(主にお母さんとお嬢が)

なんと!

お母さんによるとこの隊員さんの奥様は、テレビのお見合い番組で
ご縁があって結婚に至ったという方なんだとか。

もしかしたらテレビを見ていた人には覚えのある隊員さんだったのかも。


続く。