ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

平成26年入間航空祭~ブルーインパルス

2014-11-11 | 自衛隊

今年の入間航空祭でのブルーインパルスです。

ちょっと待て、今年の入間には行かなかったんじゃないのか、

と思った方、あなたは正しい。

わたしは確かにその直前の(つっても約1週間前ですが)航空観閲式で
空自的イベント参加に必要な気力とエネルギーをごっそり消耗してしまい、
その日は朝からぼーっと空を眺めて、

「お天気がよくて航空祭日和だな~」

などと他人事モードで一日を過ごしたのですが、後から
読者の佳太郎さんが参戦していたことが分かりました。

コメント欄で写真を見せて下さいとお願いしたところ、
2~3枚くらいという予想に反して大量の写真が送られてきました。
これはぜひ皆様と共に見せて戴こうとお許しを得て、

今回のエントリ作成と相成ったわけです。



最初にこういう写真をタイトル的にくれるなんて嬉しいですね。

このマークは自衛隊60周年記念のために製作されたのでしょうか。
やはり空自のシンボルはブルーインパルスです。



通路で隊員がずらりと並んでお出迎え。
子供を中心に、皆とハイタッチしています。

しかしこれを見ても思うのですが、今年は通路に余裕があるなあ・・。

去年はね、この3倍くらいの人口密度だったんですよ。
格納庫の間の通路を、お弁当等を買う人たちが行き来するときには
隣の人とびったり身体を密着させ、満員電車の中のような状態で
すり足をしながら自分の行きたい方向に進むしかなかったのです。

”テレビ番組「空飛ぶ広報室」の影響で初めて来てみました!”
な人が多くて、ブルーインパルスの演技中は興奮した女子が

「あぎゃあああすごーーい」
「むきゃああああ」

と叫びまくって周りの失笑を誘っていたり、人大杉で
これから先どうなってしまうのかと不安になった去年の入間。
こんなだったから、今年はあまり行く気になれなかったんですよ実は。

しかし、空自も対策を講じてシート禁止にしたりしていたようですし、
渦中だった去年とは違いブームが沈静化していたようで何よりです。




テイクオフ前のアプローチ。



ぎゅいーんと空を切る一機。
少し観客の頭が写っているのがいいですね。



スモークの陰影がきれいです。



この写真のスモークを見て上空は風が強かったのかな、
とふと思いました。



コークスクリュー。

これを見てあらためて気づいたのですが、コークスクリューのとき
直線に飛ぶ飛行機は背面飛行するものだったんですね。



青空の一日だと思っていましたが、こうして写真に撮ると

けっこう雲も多かったようです。

6番機は5番機を中心に三回の「バレルロール」を行います。 





この写真はバックが真っ青でとても綺麗。
ローリング・コンバット・ピッチかな。


F-86F・T-2時代から継続されている課目で、1番機から4番機までが
会場左側からエシュロン隊形で進入
、緩やかに上昇した後に、
1番機から順に250度の右ロールを行う技です。





バーティカル・クライム・ロールで垂直上昇し

その後頂上で折り返したところかと思われます。

最大高度に達するときには飛行機は失速寸前になっているとか。



わたしはこういうときどうしても機体にズームしてしまうのですが、
こういう風に引いてスモークを主役にした構図はいいですね。

ファインダーのフレームから外れる失敗もなさそうだし。


次からの参考にさせていただきます。"φ(・ェ・o)



ワイド・トゥ・デルタループ。

1番機から4番機と6番機が会場の右からデルタ隊形で進入し、
そのままループに入っていきます。
写真は上昇しながらにデルタの間隔を縮めていっているところ。

進入時にはデルタの1辺は230mくらいですが、
ループの頂点では40mにまで縮めていくそうです。



頂いた写真の中でわたしが一番好きなのがこれ。



単機の演技ですね。
逆タカ落とし?(そんなのないって)



このあいだ航空祭で最初にF−15がやった慰霊のための
ミッシングマン・フォーメーションに似ていますが・・。

行かれた方、ミッシングマンという説明はされていました?



この後6番機が移動してバックトゥバックになるのかな?



トレール・トゥ・ダイヤモンド・ロール。

この構図もいいですね。

青空に雲一つないし、壁紙になりそうです。






そういえば、ニコンのカメラ教室「航空祭を撮る」というのがあって、
先生にレクチャーを受けてから皆で入間に行く企画だったのですが、
実は参加することをわたし真剣に検討しましたよ。

いつまでも自己流なので一度こういうので習っておくのもいいかもと思って。
でも、どうも一眼レフ持ちが対象ではないかと思われたので諦めました。

これに申し込んでいたら航空祭の後でも行っていたと思います。



会場の様子。
去年より余裕があるように見えます。
やっぱり行けば良かったな・・。




さてここからは・・、



皆さんお待ちかね、「キューピッド」が始まりました。
「キューピッド」と一口に行っても、垂直にハートを描く

「ヴァーティカル・キューピッド」

斜め旋回する

「スラント・キューピッド」

水平にハートを描く

「オリジナルレベル・キューピッド」

と、ハートの角度によって三種類あるのです。



わたしが入間で前回見たのはヴァーティカルだと思うのですが、
今回はどうも「スラント」ではないかと思われます。
ハートの角度が斜めですから。
ハートの角度は、おそらく当日の風によって決められるのでしょう。

水平に描かれる場合、4番機の「矢」は参加しません。



この日、ヴァーティカルではなくスラントになった理由は、
おそらく風が強かったからではないかと思います。
角度が直立しているほど、ハートが早く見えなくなってしまうからです。

この写真を見ても分かるように、まだ最後まで描ききっていないのに、
ハートの始まり部分がもう消えてしまっています。



4番機の矢が飛んできましたが、すでにシェイプが怪しい・・。
ヴァーティカルよりハートが大きいんですね。



これでは、一旦スモークを切ってからハートを射抜いたように
再びスモークを吐くという演出はなかったのではないでしょうか。

(目撃者の情報求む)

それでも佳太郎さんの報告によれば、この日ブルーは
全てのプログラムを無事に行ったということです。

50周年記念のために開発された、全機が小さい円を描く
「サクラ」という課目があったと思いますが、
今年60周年記念に特別に行われた演技はあったのかな。



これは皆が座っているので始まる前かな。
写っている飛行機はここの所属のフライトチェッカー、
飛行点検隊のYS−11。

「点検」→「チェック」→「チェッカー」ヾ( ̄∇ ̄ )ノ バンザーイ
という流れで尾翼にチェッカーの模様を配しています。
このチェッカーフラッグはもともとFIAの決めた自動車競技用の旗。



検索して過去の自分のブログから拾ってきた(笑)写真。
左側の部隊章はチェスの駒のナイトを中心にしたモチーフで、
これもチェスの「王様を取ること」のチェックをかけています。




入間の航空祭は基本的に皆同じ入り口から同じように入場し、
ごくわずかの関係者が建物の二階などで見学することが出来ます。

先日の航空観閲式もそうでしたが、航空祭の場合は

「観覧場所に見え方の上下なし」

なので、無理して自衛隊のつてを頼る必要はないんですが、
まあこういうところに通されれば椅子に座ったまま鑑賞できる、
というのがお得な点でしょうか。

で、佳太郎さんがなぜこの写真を送って下さったかと言うと、
わたしがここにいるかもしれないと思ったから、だそうで。

というわけでわたしはいませんが、実はここには雷蔵さんがいたのです。
どっとはらい。



おまけ:

模型ショーのときに作っていただくことをお約束したブラックバードの
たまごヒコーキバージョン、なんとお父さんを連れてきました!

この写真もうちに来る前に製作した方が撮って下さったものです。
資材納入の模型メーカーハセガワ様共々、この場をお借りして
厚く御礼申し上げる次第です。

ところで、ブラックバードがうちに来たその夜、「ファントム無頼」の
続きを読んだら、その最初が、

”本土上空に現れたSR−71を、主人公の
「神・栗コンビ」が
ちょっとずつ右と左の翼を撃って百里に誘導する”


『黒いクリスマスツリー』というエピソードでした(笑) 


こんな偶然もあるのかとちょっとびっくりしたのでご報告。



佳太郎さん、黒鳥関係者の皆さん、ありがとうございました。 






栄光無き天才飛行家 リンカーン・ビーチェイとその時代

2014-11-10 | 飛行家列伝

ヒラー航空博物館の展示を元にお送りしている、

「飛行機黎明期の華麗なる飛行馬鹿たち」

ですが、その無謀なお馬鹿さんたちの中でも彼、
リンカーン・ビーチェイは
最も当時成功をおさめ、
センセーショナルな話題を集めた人物でした。

ここで、ざっと彼の業績を挙げておきましょう。

●ストール(失速)からの回復方法を偶然編み出す

●逆さま飛行した最初の人物

●ビルディングの中を飛んだ最初の人物

●落ちているハンカチを翼端で拾い上げた

●宙返りを最初にした

●テールをスライドさせた最初の人物(故意だといわれている)

●「木の葉落とし」といわれるマニューバを最初にした

●というか、アクロバット飛行そのものを発明した人間

●垂直降下を最初にした

●ナイアガラの滝の上を飛行し、

 「世界の8番目の奇跡」と讃えられる

●カーティス、ライト兄弟、エジソンに
 「世界最高のパイロット」と言われる


●米国史上最も多くの観客を集める


飛行機がまだ動力を得たか得ないかのころ、写真のような原始的な飛行機で
これらのスタントをやってのけたというだけで十分彼の偉業は伝わります。

1911年と言えば、前回お話ししたグライダー発明家のモントゴメリー教授が、
自作の「エバーグリーン」で飛行中墜落して死んでいる年でもあります。

いかに彼の技術が傑出していたかということであるのですが、
加えてかれは、冒頭写真でも十分伝わるように、まだ20代の、
しかもとびきり魅力的な美青年で、そういったエンターテイメント的要素もあって
絶大な支持を得たのでしょう。

さて、ビーチェイの話の前に、またいつものように寄り道になりますが、
ここヒラー博物館に展示されていた航空黎明期の乗り物に付いて、
もう一つだけお話ししておきます。



飛行機じゃないだろ?船だろ?
と皆が思うこの機械。

昔はこれを飛ぶと信じて真面目に作った人がいたということらしいです。
というか、どうやって飛ばすのか想像すらつかないんだが。 




向こう側に見えている、もしこれが赤ければ、マン・レイの
「恋人たちの時間」の唇みたいな物体は、
フレデリック・マリオットというイギリスの発明家が飛ばした

Hermes Avitor Jr.です。

マリオット


ちなみにこの日本人が「エルメス」と読んでいるところのHermesですが、
アメリカでは「エルメ」と言わなくては通じません。
なぜかと言うと、本場フランスの発音に準じて、同じだからですね。
フランス語では語頭の「H」、語尾の「S」はいずれも発音しません。
日本では語尾はともかく「S」を発音することに誰かがしたらしく、
世界のどこにも無い「エルメス」というブランド名で呼んでおります。

それはともかく、この場合はイギリス人の命名なので
「ハーメス」と読むのが正しいでしょう。
ヘルメスはローマ神話の「神のメッセンジャー」です。




1868年に飛ばされたこの飛行体は無人で、つまりこれをもってハーメスは

「アメリカで飛ばされた最初の無人飛行体」 

という称号を得ました。
 


ハーメス模型。
エンジンは1馬力の蒸気です。
内部は水素が充填されました。

 





このときの実験の写真が連続で残されています。
いい大人が何やってんだ、ってかんじですが、何しろこれが
アメリカ発の無人飛行隊初飛行。歴史の一瞬でもあったのです。



この実験の成功に刺激され、空を飛ぶことを志した人物の中には
他ならぬモントゴメリー教授もいました。





さて、リンカーン・ビーチェイの話に戻りましょう。

この、カーティス・プッシャーに乗って、超人的な飛行技術で有名になり、
名声とともに大変な富を得たのが、ビーチェイでした。

彼は1887年、サンフランシスコに生まれました。
幼少の頃は、彼が後年スターパイロットになることなど想像もできなうような
ぽっちゃりした無口な少年だったそうですが、実はこのころから
その大胆でスリルを不適にも楽しむような資質は備わっていたと見えます。

フィルモアストリートというのはサンフランシスコの、
ゴールデンゲートブリッジのあるサンフランシスコ湾から市内に向かって
縦にたくさん伸びている通りの一つですが、
(最近はお洒落なブティックやカフェが集中するにぎやかな通りでもある)
この辺りの道に例外無く、常にアップダウンが激しい部分があり、
場所にもよりますが、車で降りるのも怖いような坂です。

この坂を子供の頃の彼はこの通りを、
ブレーキも付いていない自転車で下ったそうです。



長じてかれは飛行機整備士としての職を得ました。
後に彼は自分が乗るために飛行機の設計もしていますから、
おそらく整備士としても優秀だったのだとは思いますが、
実は自分が操縦するチャンスを狙っていたのです。

1911年、彼が24歳のときにそのチャンスは訪れました。
彼が整備していたロスアンジェルスの航空ショーのスターパイロットが怪我をし、
そのピンチヒッターとしてかれが操縦を任されることになったのです。

その飛行で、彼の操縦する機がまっすぐ上昇して3000フィートの上空に達したとき、
機はいきなりストール(失速)し、落下しながらスピンを始めました。
一度こうなったらこの体勢から生きて帰ってきたパイロットはいません。

ところが彼は今までのパイロットが誰もやったことのないことをやってのけました。
機をコントロールすることでスピンから機を立て直し、無事に着地させたのです。

それからというものビーチェイはスーパースターへの道をまっしぐらに歩みました。
僅か4年の、しかしどんな王侯貴族も得られはしないだろうと思える栄光と名声の日々を。



その人気は留まることを知らず、全米の人口が9千万だったころ、1700万人が
わずか一年の活動期間の間に飛行演技を見たと言われています。



ナイアガラの滝を飛んだのも、その名声を確固たるものにしました。
アメリカーカナダカーニバルの主催は、ナイアガラの滝上空を飛んだものに
1000ドルを懸賞金として出すという広報を出しました。
滝の上空を飛ぶなぞ、いまや観光でもやっているくらいですが、
当時の影響を受けやすい飛行機では、
そのこと事自体危険極まりないチャレンジでした。

このとき、ビーチェイはカーティスの複葉機で15万人の観客の見守る中、
しかも小雨の降る天候を押してこの飛行に挑戦、みごと成功させました。
滝の上を何度も旋回し、水面の6メートル手前まで急降下で近づき、
そのあとは近くの橋の下をくぐるというサービスぶりに聴衆は湧きました。



その他、走っている列車の屋根にタッチさせたり、ハンカチを拾わせたり。
先日お話ししたざーますマダムのブランシュ・スコットの所属していた
カーティスの飛行チームと行ったフライトでは、
優男のビーチェイは女装し、スコット嬢のふりをして
墜落しそうな体勢からリカバーする演技までやっています。


最初にも書いたように、彼は 飛行アクロバットの
技を編み出した最初の人間でした。
その名声と栄光を見て同じ技に挑戦したパイロットはたくさんいましたが、
当時の飛行機でそのようなことができたのは結果的に彼だけでした。
つまり、彼の真似をしようとしたパイロットは全て失敗して死んでしまったのです。

第二のビーチェイを夢見てあまりに多くのパイロットが事故死したため、
ついには彼に飛行させることを禁止すべきだという世論までが出たといいます。
死亡したパイロットの中にはかれの親友もいました。
このことはビーチェイにとって非常なショックだったらしく、
この事件をきっかけに彼は一度は引退を決意します。

彼はその活動期間の4年の間に三回「引退」しているそうです。



このころ、彼の名声は留まることなく、その飛行は芸術であるとされ、
ライト兄弟の弟、オーヴィルやエジソンが、飛行機開発者、
そして科学者の立場からも否定しようがないその飛行技術を
手放しで称えたといわれます。

彼自身は一時引退中の身で全米を講演して回り、
自分の飛行技術の解説をしたり、

「いつの日か我々は誰もが飛行機に乗ることができるようになる」
「今は無理だが、そのうち大西洋も横断できるようになる。
誰もやらなければわたしがやる」

「飛ぶことはすべての人々にとって普通の出来事になる」
「戦争においても空が中心となるだろう」

このような予言をして人々を驚かせていました。

彼の言ったことは今日すべてその通りになっています。
彼の予知能力が優れていたのではなく、これは航空界に身を置く彼、
音をたてんばかりに発展していく科学技術の進歩を肌で知っている彼にとっての
「常識」とでもいうべきことで、彼のようなスーパースターが口にしたからこそ、
初めてその言葉に世間の人は耳を傾けたということにすぎません。


そのころ彼は、アメリカ合衆国にもっと航空への投資を増やすように働きかけ、
政府に見せるための個人的なデモンストレーションを企画しますが、
彼の招待に対し、内閣からエキジビジョンを見に来たのはたった二人でした。

普通のやり方ではダメだと悟ったビーチェイは荒っぽい手に出ます。
これはほとんど「伝説」の類だそうですが、そのまま記します。


ある日、ホワイトハウスの執務室にいたウィルソン大統領は、
遠くから彼の居室めがけて徐々に近づく飛行体に驚きます。
それは轟音と共にまっすぐこちらに向かって向かってくる飛行機でした。
驚きと恐怖で見開かれた大統領の目と、飛行機を操縦していたパイロットの目が
お互いをしっかり認識したと思った瞬間、飛行機は操舵を上昇に転じ、
大統領はその翼に書かれた「BEACHEY」という文字をいやでも認識しました。

ホワイトハウス上空を蹂躙するように彼の飛行機は町一帯を縦横に駆け、
ワシントンの記念塔から、地面に向かってほぼ垂直にダイブしました。
まるで、翼に書かれた彼の名前を大統領に読んでくださいといわんばかりに
そちらに向けながら・・・。

そして空を見上げている議員たちに翼を振って挨拶しました。
(つまりかれは飛行機の意思表示である『バンク』を最初にした人物です)
そして、エンジンが止まったようになった飛行機はまっすぐ墜落していきました。

「大変だ!リンカーン・ビーチェイが事故死したぞ!」

大慌てで陸軍病院から救急車が事故現場に駆けつけました。
しかし、そこには手も足もピンピンしたビーチェイが

「事故?事故ってなんだ?わたしはいつもこうやって着陸してるんだが」

とニヤニヤしながら立っていたのでした。
そして、

「今の飛行でわたしが爆弾を落としていたら
はたしてワシントンはどうなったかな?

さあ、よくわかっただろう。
軍に航空機を導入する時がやってきたってことを」


とダメ押しの一言。
航空機の発展を推進していた各関係者は彼の行為を絶賛し、
多くの議員は、空軍力の必要性を認識させてくれた彼に感謝し、
航空に関する政府のポストを彼に用意することを提案したのですが、
そのときすでに世界の博覧会などでの出演が決まっていた彼は
それに就くことを断りました。

それまで彼の飛行パフォーマンスを「クレイジー」「危険すぎる」
などと非難していた層は、例外なく政府が彼のことをこうやって認めた途端、
その口をつぐむことになります。
国内の有名飛行士はこぞってビーチ-の強力なリーダーシップを支持し、
新聞はかれを「マスター・オブ・ジ・エアー」と称えました。



こんな彼にはたったひとつ、十分予想されることですが欠点がありました。
「女性」です。

若くてハンサム、比類なきスーパースターであるパイロット。
今や名声も富も、そして世間の尊敬も20代にして手にした男に、
女性が群がってこない方がおかしいというものですが、案の定
このミラクルなタフガイには、女性が熱狂的にすり寄ってきました。

「港港に女あり」ではありませんが、彼は各飛行場、
というか各主要都市ごとにそういう関係の女性がいたといわれます。
今と違って、1900年初頭のアメリカでは、深い関係になるためには、
まず男性から「結婚の申し込み」をしなくてはなりませんでした。
ビーチェイはそのためにベストのポケットに

いつも求婚用のダイヤの指輪を忍ばせていた

と言われます。
つまり、いい女!と思ったら、ダイヤをポンと渡して「メリーミー」。
これで即女性ゲット、みたいなことをあちらこちらでやらかしており(笑)
自分はあのリンカーンの婚約者だと自称する女性が
ネイションワイドに存在していたということらしいです。

これ・・・どうするつもりだったんでしょう。

いつも命ギリギリで生きている人間の刹那的な熱情であったと解釈すれば、
この多情と性急さは、肯定はしませんが決して理解できないことではありませんし、
最終的には「本当に結婚するつもりで婚約した」相手も
いたにはいたらしいのですが。

ともあれ彼は若くして独身のまま死んでしまったことで誰も不幸にせず、
誰も争わず、ただ全米の「婚約者」たちが偽りの未来の夫を失っただけだった、
という意味では本人にとっても不幸中の幸いだったと言えるのかもしれません。



さて、そのリンカーン・ビーチェイの死はあっけなくやってきました。
その実にお粗末な事故は、生前の彼の最大にして最後の失策と言ってもよく、
この死に様があまりにあっけなかったせいで、生前の栄光がほとんど
帳消しになってしまった感さえあります。

1915年、ビーチェイの故郷であるサンフランシスコで展覧会が行われました。
彼はそのために自作の新しい単葉機で臨んだのですが、
いつもの背面での宙返りの際、彼は突如自分のミスに気が付きました。
高度がたった2000フィート(600メートル)しかなく、
それをするには高度不足であったことに。



しかし、彼がそれを悟った時には彼の機はまっすぐサフランシスコ湾に突入し、
衝撃で彼の単葉機の両翼は飛ばされていました。

海面に突入した機体は、最終的に約9メートルの海底に、
彼の体もろとも突き刺さり、そのまま浮かんでくることはありませんでした。

彼を救出するために戦艦オレゴンから16名のダイバーが派遣されました。
皮肉とでもいうのか、彼はかつてオレゴンを模した模型の船に
航空爆撃のシミュレーションを行ったことがありました。

捜索開始三時間後引き上げられた機体からは、
彼の体がシートに座ったままで発見されました。
遺体には抜け出そうともがいた痕跡があり、彼が墜落によってではなく、
溺死したことが倍検によって明らかになりました。


全米はその死を悼み、大統領は弔電を打ち、陸軍のハップ・アーノルド中佐
(あれ?この人、確かナンシー・ラブの大西洋横断移送を邪魔した人ですよね)
葬儀の司会をし、ある飛行家は彼の好きだったピンクのバラを事故海域に投下し、
・・つまり人々は一時、大々的にセンチメンタリズムに浸りました。


その後、全米を大恐慌が襲い、次いで第一次世界大戦が起こります。
そこではビーチェイの言葉通り航空機が投入され、
人類は史上初めて航空戦を行うことになるのですが、人々はもはや、
それを最初に予見した人物の名前をこの戦争の影で思い出すこともなかったのです。

そして、それから12年後の1927年、リンドバーグが大西洋横断に成功し、
空が新たなヒーローを迎えて人々が熱狂するころには、
この黎明期の天才の名は、人々の記憶から完全に失われていたのでした。

リンカーン・J・ビーチェイ
1945年3月14日 サンフランシスコ湾にて墜落死
享年28歳と11日


合掌。
 







Loop The Loops~リンカーン・ビーチェイとモントゴメリー教授

2014-11-08 | 飛行家列伝

金髪にハンチングを被った若いハンサムなこの青年は、まるで
「華麗なるギャツビー」を思わせる雰囲気に満ちています。

飛行家、リンカーン・J・ビーチェイ

日本人である我々には殆ど馴染みのない名前ですが、

飛行機操縦の歴史における先駆者として当時大変な名声を獲得した人物です。

映画「頭上の敵機」では米陸軍の実機が数多く登場しましたが、
このとき、降着装置を出せずに強行着陸するシーンのために操縦した
有名なスタントパイロット、ポール・マンツは、1915年、12歳のときに
このビーチェイが初めて単葉機を飛行させるのを見てパイロットを志しました。

 
この名前が日本ではwikiにも見当たらないくらい無名なのは
不思議というしかありません。(ポール・マンツはあるのに・・)
しかし、皆さんも、彼の偉業を端的に表すこのタイトルを見れば
彼が航空界の偉人であるということに同意下さるでしょうか。

「人類で初めて飛行機で宙に弧を描いた(Loop the loops)男 ”




サンフランシスコ空港から南に車で10分ほど国道を下ったところに、
このヒラー航空博物館はあります。
いつぞや、この名前の元となったヘリコプター開発の早熟の天才ヒラーについて、
その業績をお話ししたことがあるのですが、この博物館のすごいところは、
このような航空黎明期の「人力」「風力」飛行機も展示されていて、
一通り見終われば1800年代からの航空史を立体的にも学ぶことができることです。

飛行機の時間(フライトの待ち時間と興味の両方)があるなら、
ぜひ一度訪れてみてください。


今回シリーズは、ビーチェイについてお話しする前に、かれが発明した
「スタント飛行」以前の、つまり人類に於ける直立歩行以前の飛行機について、
ここの展示をもとにご紹介します。



羽につけられた一本の横木にまたがり、自分の脚で滑走して、やはり脚で着地する。
これってハングライダーそのものですよね。

 

なぜネクタイをしているのかと言う気もしますが、それはともかく、
この飛行機の仕組み・・・。

 

木の棒にまたがってるだけって・・・。
魔女の帚じゃあるまいし、こんなものでもし地面に激突したらどうなるのか。
何かあればすぐに体は機体から放り出されるわけだけど、それで命の危険は?

こういうのを見ると、つくづく人間と言う動物は命を失う危険を冒してまでも
何としてでも空を飛びたかったのだとあらためて呆れるというか感心すると言うか。
しかしながらこの無茶を顧みず探求する情熱あらばこそ、
百年後には人類は宇宙に行くことをも可能にしたのであり、
つまりスペースシャトルもステルスも、
この無謀なる飛行機馬鹿たちの死屍累々の上にあるのだと言わざるを得ません。

死屍累々といえば、先ほど紹介したポール・マンツも、
本日の主人公ビーチェイも、飛行中の事故で亡くなっています。


この飛行機は、1858年にジョン・ジョセフ・モントゴメリーという、
アメリカにおける
正真正銘航空の先駆者によって開発されました。





見物に25セント(子供1セント)徴収することが書かれていたり 

「翼のある人間が空を一掃する!」
「鳥にレッスン受けました」

こんなことが書かれたポスターを見ると、どう見てもサーカスとか見せ物の類いですが、
当時の飛行機と言うものはそもそも「乗るもの」ではなく文字通りの
「見せ物」でしたからそれも致し方ないことかと思います。

しかしモントゴメリー自身は決して怪しい人物ではなく、
それどころかサンタクララ・カレッジで航空工学の研究をしていた人物、
自作のこの飛行機で、アメリカ航空史上初めてグライダー飛行を行なった、
というまごうかたなき先駆者、パイオニアです。


さらにポスターを見て下さい。



飛行機の下に胃のような形の巨大な袋がありますが、
これはこの興行のとき、熱気球で上昇したのち気球を切り離し、
約900メートルの高さからグライダーを操縦して着陸する、
ということを行なったことを示しています。



この状態で上昇していき、高度が上がったところで気球を切り、
あとはグライダーで地上へ・・・・。

そんな無謀な、と思われた方、あなたは正しい。




真ん中がモントゴメリー教授で、この写真は彼の勤務先である
サンタクララ・カレッジの近くで撮られたものだそうですが、
教授の右側のタイツ男にご注目。



このグライダー飛行によるショーを行ったダニエル・J・マロニー(Daniel J. Maloney )。
元々こちらは正真正銘のサーカス芸人で、パラシュート降下を見せ物にしていました。
博士は自分のグライダーの興行のために彼を雇い、グライダーの訓練をさせました。

1905年のことです。



動画もありましたが、これがいつ撮られたものかまではわかりませんでした。
よ!ってかんじで手を上げて、なかなかなごやかな雰囲気ではあります。

初回は3月、このときは18分間の飛行に成功しました。
二回目の実験は4月で、このときはさらに高度を1200メートルに上げることに成功。



こんな原始的なもので高度1000以上から飛ぶなんて、
考えただけでお尻がぞわぞわしますね。
今の感覚で見るとその無謀さに、もしかしたら馬鹿?とすら思ってしまうのですが、
実際飛行機馬鹿なんですからしかたありません。

ライト兄弟だって、初代飛行機馬鹿オットー・リリエンタール
自作のグライダーで墜落して死亡したからこそ、動力飛行機の研究を始めたのです。


このグライダーは翼を見てもお分かりのように「サンタクララ」と名付けられました。

そして皆さんの嫌な予感はやっぱりあたり、三回目の飛行となる7月に、
マロニーはこのサンタクララで墜落し、死亡してしまいます。

合掌。

モントゴメリーはこれに懲りず(?)あちこちの航空顧問などを務め、
このグライダーを改良した飛行機を開発します。



1000メートルの高度から降下するのに人間の脚ではやはり無理がある、
とどうやら博士はマロニーの事故で悟ったようですね。
着陸を4輪で受け止め、さらに操舵できるようにしたもので、これを
エバーグリーン号、と名付けました。




その初飛行の写真が残されています。
まあ、高度もこれくらいならせいぜい脚の骨を折るくらいですむかもしれません。



カリフォルニアというのはこういう丘陵地形のなだらかな場所が多くあり、
高い木や森も沿岸地域には無いことが多いので、こういった実験には
もってこいの地域だと思われます。
アメリカの航空機や飛行士が殆ど最初はサンフランシスコを中心とした
地域の誕生であることはこの辺からきているようです。



操縦しているのもモントゴメリー本人。
地面に線路のようなものがあるような気がするのですが・・・。



写真でもそうですが、モントゴメリー教授、こんな格好で実験していたんですね。
落ちたら危ないちゅうに。

などと言っていたら、案の定教授はマロニー死亡事故から6年後、1911年に、
このエバーグリーン号で飛行中、墜落して死亡してしまいました。

合掌。

この頃にはすでに



この、カーティス・ブラックダイヤモンドなどという飛行機も登場していますし、
ライト兄弟はこの何年も前に動力飛行機の飛行を成功させていますから、
はっきりいってモントゴメリーの「エバーグリーン」での死は、
自分の過去の栄光に拘って最新科学を無視した末の無謀が招いたものであった、
というのはいささか先駆者に対し厳し過ぎるでしょうか。

マロニーに死をもたらしたのと同じ理由でエバーグリーンと彼の身に
遅かれ早かれ事故が起こることを、彼は予測できなかった・・・・・、
というかそのころは「アメリカ航空界の重鎮」となっていて、
新しい技術を認めたくなかったのかもしれません。 



せめてこのタイプなら・・・・。
ソリのような先端がまだしも事故を防ぐかもしれません。
(1910年ごろのグライダー)

ところで、ここにある最古の飛行体は、モントゴメリーのグライダーではありません。



現在、これが空を飛ぶとは何人たりとも思わないと思うのですが、
当時はどうもこれが垂直に飛び上がることを期待して作ったようです。
この滑車でうちわをぐるぐる回すことによって方向を制御し、
あわよくばまっすぐ飛翔していく飛行体を。

考えついても実際に作ってしまうというのが信じられませんが。
これは「Platens」と名付けられたエアロサイクロイドです。



パイロットがレバーを操作することによって上部の「プレート」が傾き、
(あ、それでPlatensっていうのか)それによってサイクロイドは
前、あるいは後ろに動きます。

こんなもの、飛んだのか?いやその前に動いたのか?と思われるでしょう。
このエアロサイクロイド、7馬力のバイク用エンジンを積んでいたんですね。



発明者のJ・C・アーバイン博士
この人もサンフランシスコの大学教授です。



せっかくなので顔のアップ。目がありません。こわい。



ついでにモントゴメリーのグライダーにまたがっている人アップ。
もみ上げが情熱的なラテンの雰囲気を醸し出しています。



きっと女性の弟子がヒゲをつけてコスプレしているに違いない。
アーバイン博士の助手。
こんなもの飛ぶわけないじゃない、って顔をしています。

そしてこの助手の懸念は大当たり。
7馬力のパワーではこの巨大なものを垂直に持ち上げるには十分ではなく、
この「クラフト」はびくともしませんでした。

しかし、これと全く同じ機械を、第二次世界大戦中にドイツの科学者が
もっと大きなパワーのエンジンを使って上昇させることに成功しているそうです。

「リミテッドサクセス」

という説明しか無いので、どの程度の成功だったかは分かりませんでしたが。
アーバイン博士は勿論、ドイツの科学者たちも、こんなものを飛ばせて
一体何の役に立てるつもりだったのか・・・・・。

ヘリコブターの原型みたいなものとはいえ、謎は深まるばかりです。



ともあれ、冒頭のビーチェイが自作の飛行機「リトル・ルーパー」
人類初の曲芸飛行を行なったのは、このときからわずか6年後のことでした。



(続く)




 


大和ミュージアム・進水式展~「筑波」の進水式失敗

2014-11-07 | 海軍

大和ミュージアムで偶然遭遇した「進水式展」。
限られた時間の中では写真を撮って来るのが精一杯でしたが、
こうやって後から画像を見ると、新たに知ることも多く、
全部語り終えた頃にはきっと「進水式博士」になっているのではないか、
というくらい充実したものであるのに驚いています。

しかも、写真撮影が自由!

この大和ミュージアムの太っ腹な計らいのおかげで、
こうしてここで説明をしつつ自分自身も知識の拡充ができるというわけ。

いやー、正直なところ、博物館や展覧会会場で見て終わるのと、
こうやって細部を点検して後からそれについて調べるのでは、
得るものに全く大きな違いがあるものです。



の重巡洋艦「筑波」についても興味深いことが分かりました。
前回、

「進水式で沈没するなんて中国ぐらいのものだろう」

みたいなことを書いたのですが、なんと我が海軍軍艦にも、
進水式の事故がないわけではなかったのですね。

その一つがこの「筑波」の事故。

戦艦に準ずる戦闘力を持つ巡洋艦として、計画後急造され、
わずか1年で進水式に漕ぎ着けたまでは良かったのですが、
進水時に船体が滑り落ちる進水台のうちの一つ、
海中に設置されていた台の錘が作業中に落ちてしまい、
進水式当日、台が水中に浮き上がってしまったのです。

それが分かった時点で、造船部長はすぐさま進退伺いを提出しましたが、
工廠長はそれを許さず(そらそうだ)、進水式の中止を決定しました。

うーん。
これが中国だったら気づかないか、気づいていても適当に台を沈めて
無理矢理進水させて事故を起こすかでしょうが、さすがは日本。

しかし、この進水式にはよりによって皇太子殿下(後の大正天皇)
のご臨席を仰ぐという事態になっていたのですから、
関係者の心痛はいかばかりであったかと慮られます。

その後、報知新聞にこのような記事が掲載されました。

筑波艦進水式
  故障の為め失敗

進水式の責任者

去る12日をもって呉軍港に挙行せらるる可き筈なりし
筑波艦の進水式が、不時の天災の為に失敗に了りたるは、
公然の事実なり。

不時の天災とあらばやむを得ずとは云ふものの、
東宮殿下の御臨場を仰ぐまでその故障を発せず、
愈々臨御の後ちに於いて、始めてこれを発見したりと云ふに至りては、
実に恐懼に絶へざる次第なるが、此の失態に対しては、
誰が果たして其の責めに任ずるものぞ。

山田呉海軍工廠長は勿論、現場に臨める山本海軍大臣も、
断じて其責を辞すること能はずと、某貴族院議員は語れり。


まあ要するに、殿下には大変申し訳ないことをしたけど、
事故なら仕方ないよね、といっておるわけですね。
某貴族院議員が本当にいたのかどうか、もしこれが現代の新聞なら
大変疑わしいところですが、此の時代ですのでおそらく
新聞記者もそんな飛ばし記事は書かないと思われます。(勿論皮肉です)


何と言っても不具合を発見した段階で中止したという英断によって、
事故を未然に防いだのですから、非難のしようがありません。

今のマスコミならおそらく責任の所在をあげつらって

「永田町の周辺からは、今回の事故についての防衛省の
管理責任について見直しを問う
厳しい声も聞かれる」


なんてやっちゃうところでしょう。ああ目に見えるようだ(笑)

この後、筑波の進水式は2週間後に改めて無事に行われました。
造船部長、辞めてる場合じゃなかったってことですね。



進水式そのものとは全く関係ないような気もするけど、

展覧会ならではの特大模型もこれ見よがしに展示されていました。

余りにも大きいので、5mくらい離れないと全部写りません。
これは戦艦「伊勢」。



せっかくですので進水記念はがきをもう一度。
左の進水記念の図柄ですが、カモメを三羽手前に描いて
肝心の伊勢は一番奥に小さくいるあたりにセンスを感じます。

近年この手の意匠は、全て細密部までわかる写真に代わり、
それが当たり前となっていますが、ここにある葉書の
それぞれ創意工夫を凝らした図柄を見ていると、写真だけというのも
少し味気ないような気がしてくるのは、わたしだけでしょうか。



こちらは長門。

建造された1920年(大正9)当時の世界最新型でした。
のみならず数ある海軍艦の中で、ある意味最も国民に親しまれた、
海軍軍艦といってもいいかもしれません。

今は戦艦といえば「大和」ですが、なんといっても大和型は
国民に情報が秘匿されていたため、親しみも何も其の存在すら
知られていませんでした。

そして、長門は海軍の戦艦の中で可動可能な状態で生き残った
たった一つのフネとなり、その数奇な生涯は

「戦艦長門の生涯」

という著書にまでなっています。


東日本大震災における自衛隊の目覚ましい活躍は
まだ記憶に新しいところですが、戦後の自衛隊が「国民の為に」
を何よりも第一義に掲げているのに対し、戦前戦中の軍隊は
まるで国民に対して強圧的で威張り散らしていたような、
そんなイメージを持っている方はおられませんでしょうか。

それは全く戦後のイメージ操作によって齎された間違いで、
戦前の軍隊もまた、「天皇」という首長を象徴とする
「国民」のためにあろうとしていたのに違いはないのです。

あの関東大震災が起こったとき、長門は、そのとき行われていた
演習を中止し、最大速度で救援物資を積み被災地に向かいました。
当時長門の最大速度は機密のため低めに公表されており、
それを無視して最大速度を出すというのは長門幹部たちにとって
処分覚悟の英断であったそうです。

国民は長門の勇姿に熱狂し、それ以来一層長門は陸奥と共に
「国民のアイドル」となったのでした。



この「ネガポジ旭日旗」の正体がすぐ分かる方はおられますか?
これは、戦艦「長門」の先任旗です。
先任旗とは、同港内に2艘以上の軍艦が碇泊し、司令長官又は司令官が不在のときに、
先任艦長が後檣頂に掲げる旗です。(檣=しょう・ほばしら)
先任旗は代将旗の紅白を交換した配色になっています。


この旗を当ミュージアムに寄贈したのは俳優の石坂浩二氏。

戦後、戦艦「長門」を接収した米軍人がこの旗を持ち帰ったのですが、
石坂氏が司会をされているテレビ番組「開運!なんでも鑑定団」に、
同じく持ち帰っていた戦艦「長門」の「軍艦旗」と「少将旗」とともに
3点が鑑定に出されました。

 
それを石坂氏が個人で購入し、「軍艦旗」と「少将旗」の2点については、
すでに平成18年に大和ミュージアムへ贈呈していたのですが、
平成26年7月9日、講演のため来呉していた氏がこれも贈呈したのです。

氏の贈呈した軍艦旗は、現在大和の10分の1モデルの横で展示されています。 



伊号72潜の進水式で配られた記念の置物。

潜水艦のモデルというのは、水面から上だけのものが多いですが、
右上はさらにそれが波を受けて走行している様子を表現しています。

裏側には、昭和10年12月15日に、三菱重工業の神戸造船所で
この伊潜が進水式をしたことが刻印されています。



以前お話ししたことのある戦時徴用船、「あるぜんちな丸」。

徴用されて改装を施され、昭和18年航空母艦「海鷹」になりました。

船団護衛任務でサイパンやフィリピンなどに出撃していますが、
そのときは全く無事で、終戦の年に呉港で爆弾を受け、
その後触雷し、終戦直前に直撃弾を受けるなどの被害により、
放置された末、戦後3年経って解体されました。

しかし、なぜここに「海鷹」の写真があったのかわかりませんでした。

進水式に関して言えば、「あるぜんちな丸」のときには行ったでしょうが、
「海鷹」のときにはすでに海に浮かぶことは実証済みだし、どうしたのでしょうか。



1/100スケールの空母「瑞鶴」。


わたしがこれを観ていると、近くにいた母娘が説明を観て

「これなんて読むんだっけ」「えーと、これは確か・・・・」

と悩んでいたので、差し出がましいかと思いましたが

「ずいかくです」

と教えて差し上げました。
最近はこういった層もこのような展示に興味を持つのか、
と感心したのですが、その母娘は、娘が大学生くらい、母親は大変若くて、
ちょっと見お姉さんかな?というくらい歳が近く見えました。



甲板の上もこのリアリティ。
甲板脇にネットが張られていますが、これは何の為でしょうか。
こんなもので飛行機を受け止めることなどできないと思うのですが。



飛行隊の離艦を帽振れで見送る甲板整備員たち。

たった一人だけ、帽振れをしていない飛行服の人物がいますが、
飛行隊長でしょうか。

上部にラインのある旭日旗は中将旗。
将旗は、指揮権を帯びた将官が乗艦した際揚げます。

昭和19年10月のレイテ沖海戦の際、瑞鶴は小沢治三郎中将が指揮する
第一機動艦隊の旗艦として出撃、同25日に戦没しました。



Wikipediaより。
総員発着甲板の命令が下り、降旗する軍艦旗に敬礼する瑞鶴乗組員達。
この直後、総員で万歳をする写真も残されています。




たった今気づいたのですが、瑞鶴の沈んだ10月25日は息子の誕生日です。

それだけなら別に何でもないのですが、息子の名前には
瑞鶴の「瑞」の字が含まれるので、ちょっとした縁を感じます。



一等巡洋艦「利根」士官室の鏡。

もうこの辺りになって来ると、進水式のことは
あまり関係のない展示が増えてきます。

「利根」はレイテ沖を生き残り、江田島の海軍兵学校で
練習艦となっていましたが、昭和20年終戦2週間前の空襲で大破着底。

その際、 士官次室にあったこの鏡を、ガンルームの住人であった
海軍少尉が、沈み往く船体から持ちだしました。 

海軍軍人は身だしなみにいつも気を遣うことを旨としており、
少尉・中尉など若手士官の居住室であったガンルームの入り口の鏡は、
部屋を出入りするたびにそれを見て身なりをチェックしたものでした。




本品ハ重巡利根備品ナリシモ
昭和二十年七月二十八日本艦沈没ニ際シ取出セリ

落合國雄

本時 海軍少尉 二十二才
 
「魂」「重」 

この余白に不規則な向きで書かれた魂と重という文字は、
いかなる意味が込められたものでしょうか。


続きます。




 


海軍兵学校同期会@江田島~「古鷹山下水清く」

2014-11-06 | 海軍

ふとしたきっかけから海軍に興味を持って4年半。

不詳エリス中尉、自分が海軍軍人とともに「同期の桜」を歌いながら

感極まって涙ぐむというようなことが起こるとは、4年半前まで
夢にも思っていませんでしたが、人生、何が起こるか分からないものです。

兵学校在学中に終戦を迎えた、この学年の最後の同期会に
縁あってご一緒し、懇親会で感動の宵を過ごした次の日のこと。



泊まったホテルは真ん前に広島城がありました。
一日目も二日目も呉での予定だったのにもかかわらず、
宿泊地が広島だったのは、これだけの大人数を収容できる
ホテルが呉になかったからだと思われました。



朝ご飯を昨日の宴会場で頂いた後、ロビーに集合し、
割り当てられたバス6台に分乗して江田島まで行きます。
この江田島行きだけに参加する人もいたとのことで、
総員は200人くらいになりました。



途中広島市役所の前を通ったのですが、その敷地に
何やら遺跡のようなものを発見。
これは被曝した当時の市役所庁舎で、地下室への入り口であり、
そこは今でも保存されて、資料展示室となっているそうです。



今まで広島から江田島までは呉まで電車で行き、
大和ミュージアムの横の港から船に乗って行ったのですが、
宇品港からバスごとフェリー船に乗り込みました。
さすがに年配の方が殆どのツァーなので、極力脚を使わせません。



出発の時間までターミナルに行ってみました。
ロビーにはドイツ人らしき団体観光客がたむろしていました。
平和記念公園を見学し、この後、松山で温泉というコースでしょうか。



彼らが眺めている綺麗な形の山は、
宇品の前にある似島の「安芸小富士」です。

「コフジというのはクライン・フジ・バーグという意味である」

なんてガイドから聴かされたかもしれません。



通勤用のフェリーが到着しましたが、接岸と同時に係員が
外に飛び出してきて舫をかけ、次の瞬間にはもう車が
次々と艀を渡り始めたのには驚きました。

日常の移動手段というか、電車やバスのような感覚で
フェリーはこの辺りの人々の生活に溶け込んでいるようです。



我々の乗ったバスがフェリーに乗り込んでいます。
前に3台、さらにその前の2台のバスは全て兵学校ご一行様のもの。



ほんの20分くらいの航行中、車内で過ごしてもいいと言われましたが、
フェリーでは車から降りるものと思っていたので、これも驚きです。
エンジンをかけてクーラーを入れなくても中で過ごせる季節なので、
歩行や階段の上り下りが億劫な方は、車内に残っていたようでした。




フェリー後部から広島方面を臨む。



似島の近くにある峠島という無人の島の横を通り過ぎます。
明らかに廃墟となった建物と、なぜか鳥居がありました。



車内に残る人もいましたが、殆どの方達はバスから降りて
船内で立ったまま、
写真を撮ったり談笑して過ごしていました。
とても80歳半ばの人たちの集団とは思えません。

こういう人たちだからこそ、今まで元気で来られたということなのかも。 

その後バスは江田島の切串港に到着しました。 
切串は、呉からフェリーの到着する小用港とは別のところにあり、
上陸したバスは今まで見たことのない道を走って行きます。

これは元兵学校生徒たちにとっても同じだったらしく、

「なんか見たことのない道だねえ」

と彼らの一人がつぶやいていました。
兵学校生徒たちは、必ず小用から江田島に出入りしてきたため、
他に港があることを知らない人もいるのかと思われます。 



そして海上自衛隊第一術科学校、旧海軍兵学校跡に到着。

思えば江田島には過去三回()来ているわけですが、そのいずれも
一般見学者としてであったので、受付を経ず、しかも車のままで
こんな内部まで入ってこられたのは初めてです。

一般見学者が待機する建物の向かいにあるこの古い校舎。
建物上部に、当時使われていたらしいスピーカーが今も残ります。



この建物の由来についてはわかりませんでしたが、
戦前からの建物であることは間違いなさそうです。
ただし台湾の成功大学にある日本統治時代の建物などと違い、
手入れが行き届いて、どこもかしこも清潔にしてあるので、
実際の経年数よりは新しく見えるのだと思われました。



一行がここにまず案内されたのは、簡単な歓迎レセプションのためです。
テーブルにはペットボトルのお茶と江田島の案内パンフが用意され、
わざわざ歓迎の大きな横断幕が掛けられていました。

 

ここが普段何に使われているスペースなのかはわかりませんが、
部屋の隅には記念絵皿やスポーツ大会の楯を納めたガラスケース。
右の皿は「さみだれ」と「きりしま」の銘入りです。



一行は大人数のため、一旦ここからツァーを始めるのですが、
二手に分かれ、午前と午後で見学場所を交代する仕組みです。
ここでは設えの割に実に簡単に、案内の自衛官がツァーの説明を
するだけでした。
旗を持っている海曹は、

「グループはさらにバスごとにFまで別れるので、
グループごとに旗についてきて下さーい」

などと説明しています。



一般ツァーでは入り口から最後まで歩きっぱなしですが、
このツァーは高齢者が多いので、そんなことは断じてさせません。
敷地内の移動はすべてマイクロバスで行います。

まずグループAの人たちから立ち上がって、出発です。



我々のグループは午前中は教育参考館の見学です。
いつ見ても立派で壮麗な教育参考館のエントランス。

石段を上って行ったブロンズの扉の後ろに、東郷元帥のご遺髪が
納められた部屋がありますが、一般には公開されていません。

説明の自衛官は

「よっぽど特別な人でない限り見学はできない」

と言っていました。
実は今回、見られるかと少し期待していたのですが、
兵学校の卒業生でもだめだったようです。
というか、誰なら見られるんだろう。



扉の左手にはドアがあり、
そこは特別展示室につながっていて、
ご遺髪は、
分厚い金属の球体の中に納められているそうです。





昼ご飯をいただいた向かいの建物二階から見た教育参考館。

館内では、僭越ながらTOの音声ガイドを務めさせてもらいました。
何度目かの訪問ですが、行くたびに新しい知識が増えているため、
前回には目にも留まらなかった展示に新たに気づかされます。

どんなことでもそうなのですが、いくら色々とわかったつもりでも、
この世界、知らないことばかりだといつも思い知らされるのです。



一階を右に行った部分に、全卒業生の卒業写真が見られるようになっている
コーナーがあるのをご存知でしょうか。
この学年は卒業していないので、在学中に撮られたものになりますが、
ちゃんとこうやって全員の写真が残されています。

ここに来た人たちは皆、自分の身内の若き日の姿を探し求め、
あったあった、と普通にカメラや携帯に納めています。
教育参考館の中では写真撮影禁止、と建前上はなっているのですが、
ここだけは治外法権のようになっていました(笑)

わたしがこの写真を撮ったのは知人の義父上が写っている、

と聞いたからですが、どういうわけか改めて探しても
相当する名前の生徒は見つかりませんでした。



手前は「三景艦砲弾」

みなさん、三景艦って聴いたことあります?
艦これ関係のかたは「三景艦娘」なんてのをご存知と思いますが、
聴いたことないという方、それでは日本三景ってどこだか覚えてます?

松島(宮城県)
厳島(広島県)
天橋立(京都府)

ここから名前を取った「 防護巡洋艦」、つまり

「松島」「厳島」「橋立」

これを「三景艦」と呼んだのです。
砲弾は共通だったということですね。

ちなみに3番艦の「橋立」は国産艦です。

向こうに見えるのは「大和」の


「九一式鉄甲弾」
言わずと知れた46サンチ砲の砲弾で、直系46cm、
艦載砲弾として現在でも世界最大のものです。

そのうしろにあるのが真珠湾攻撃に参加した
5隻の特殊潜航艇のうちの一隻です。



教育参考館の見学を終えた後、全員が参考館向かいの建物の

2階に案内されました。
要所要所には自衛官が立ち、案内と手助けなどをしています。
お手洗いには左の建物に行かねばならないため、そこにも
ちゃんと一人配備されています。



隊員の集合にも使われるらしい大変広い部屋に、一行

総員200名ほどが一時にお弁当を食べる用意がしてありました。
席は決まっていませんが、だいたいグループごとに座るので、
周りはほとんどバスの中で一緒だった顔ぶれです。



仕出しのお弁当は大変な量で、わたしは勿論のこと
周りのの誰一人として全部食べきった人はいませんでした。

ところで、わたしのお弁当の向こうに、前に座っていた方の
ベースボールキャップが見えていますが、わたしはせっかくなので
この方にも何か想い出をお聴きしようと思い、

「お話を伺ってもよろしいですか」

と断ってから、

「終戦の勅をお聴きになったときのことは覚えておられますか」

と質問してみました。
誰しもが昔の想い出、特に戦時中の体験を
人に聴いてもらいたがっているとは限らないので、
こういう席であっても、話しかけるには少し勇気がいるものです。
しかしこの方はどちらかというと話すのを歓迎しておられる風で、

「軍歌演習する練兵場で整列して聴いたけど、
そのときにはよくわからず、上級生が泣いているので、
どうやら負けたらしいと皆で言い合った」

などと話し出すと、周りの人々(元生徒の夫人や海機だった人)
は一斉に会話モードに(笑) 

「原爆投下のときのことは覚えておられますか?」

「8時に稼業が始まって化学の授業を受けていたら、
いきなりものすごい爆風が来た。
音は聴こえなかったので、しばらく何か全然分からなかった」

原爆投下の話を振ったのは、さっきこの会場に入る前、
古鷹山(冒頭写真)を2階の踊り場から撮りながら、TOと

「あれに登るってキツくないか?」

などと話をしていたら、後ろから来た元生徒さんが、

「あの山があったから、兵学校は無事だったんだよ」

と声をかけて来られ、山の向こう側は熱線で木が焼けていた、
という話を伺ったところだったからです。

わたしの前に座っていた生徒さんによると、

「その後広島駅に行ってみたら、駅舎だったところが全部
瓦礫の固まりになっていて、線路だけが残っていた。
服がそれしかないので、作業着を来て故郷に向かうんだが、
(その方は中部地方の出身)、復員は電車賃が要らないんだよ。
で、それをいいことにそのとき電車で全国を一周した奴がいたなあ」

「何のためですか」

「さあ・・・・このチャンスに旅行してみたかったんじゃないかな」


この元生徒さん、さぞ見聞が広がったことでしょう。
そんな話をしていたら、テーブルの少し向こう側から、

「古鷹山があったから、兵学校は無事だったんだ」

と、ついさっき聴いたばかりのことをおっしゃる方が。
と思ったらさっきの方でした(笑)

年配の方の想い出というのは、何十年も昔のことになると
そのとき強烈な印象を残し、戦後も何度となく人に話していたことだけが、
鮮やかに いつまでも
刻まれていて、周りの人たちには

「また始まった」

というくらい同じ話ばかりになってしまうものなのかもしれません。
わたしの前に座っておられた方も、しばらくしたら、

「広島駅に行ってみたら駅舎のあったところが瓦礫になっていて」

と全く同じ話を始められました。

そんなとき往々にして持つ、微笑ましいような、物悲しいような、
曖昧な感情とともに、そのときの情景がいかにこの元生徒の記憶に
強烈な印象を与えたかが窺えて、わたしはそのような意味でも、
繰り返される言葉をひどく貴重なものに感じていました。




続く。



 


海軍兵学校同期会@江田島~「同期の桜」

2014-11-05 | 海軍

先日、海軍兵学校同期会に出席した話に戻ります。


呉で行われた海軍兵学校在学者(卒業していないので)の同窓会。
初日の夜は懇親会が行われました。
来賓の自衛隊幹部学校長、第一術科学校長が帰ってからも、
会場ではあちらこちらに人が行き交い、互いに旧交を温めあったり
名刺交換をし合ったりの和気あいあいで、余興など全く必要ない盛り上がり。



わたしはその間も会場の様子を抜かりなく観察していました。
今回が最後の同期会ということですが、今まで1年に一度、
というペースで行われてきたせいか、久しぶりの再会に驚く、
という場面はあまりないように見受けられました。

平均年齢もあるのでしょうが、実に落ち着いた宴会です。



この宴会では、「元海軍軍人」との出会いもありました。

わたしの右側がその方ですが、どうですか皆さん。
顔をぼかしていても窺い知れるノーブルなお顔立ち、
御歳80半ばとは到底思えない姿勢の良さ、
この年代には珍しい長身、
そして一目で分かる上質のジャケットの粋な着こなし。
一言で言うとこのように美しく老いたいという見本のような老人です。


ただ者ではない!

実はわたくし、この日の前半、このスタイルに野球帽を被り、
白髪に髭の、まるで高級別荘の宣伝に出てきそうなこの元生徒を見るなり
こんな風に思っていたのです。


ところが何たるご縁、よりによってその方が知人の遠縁で、
(親戚同士が結婚していたため)ご紹介いただくことに。

この方は、父上が海軍中将(だから知人はわざわざ紹介してくれた)で、
大佐時代の1年間、「長門」の艦長も務めていたことがあります。
(戦艦の艦長はだいたい任期が1年単位で、大佐が務めます)

しかし、「長門」といえば陸奥と並んで「日本の護り」と言われた戦艦。
優秀な人物でなくてはとても艦長にはなれなかったでしょう。

その息子であるこの方が、他にも父親の乗ったフネは数あるのに、
わざわざ「長門に乗っていた」ことを初対面の我々におっしゃるというのも、
息子にとって「長門艦長だった父」は何よりも誇りだったからでしょうし、
そして父上も「長門」艦長を命じられることは
軍人人生において、最も高揚する任務だったのではなかったでしょうか。


ちなみに最後の戦艦「大和」艦長を命じられた有賀幸作は、
海兵団にいた息子への手紙の宛名に、軍極秘もガン無視で

「大和艦長 有賀幸作」

とデカデカと書いていたそうです。
よっぽど嬉しかったということです。


有賀が「大和特攻」を打診されたとき、軍人としての死処が「大和」であり、
「最後の大和艦長」として歴史に永劫残るということは
むしろ願ってもないと考えて、それを引き受けたことは想像に難くありません。

話がそれましたが、この方自身、戦後は東大に進み、
(ご本人は『旧制高校に入りなおした』とだけ言っていた)
卒業後は建築家として、受賞歴多数、数々の実績を上げて来られた大御所で、
後で検索したところ「無茶苦茶偉い人」であったことがわかりました。


いやー、何と言っても海軍兵学校ですから、皆さんさぞ戦後も
洋々たる人生を歩んで来られたに違いないとはいえ、
このクラスになると、分校含め生徒は何千人もいたわけで、
中には失礼ながら、それほど優秀でない人材も混じってたかも、
などという失礼な考えもあったのですが、それはここで吹っ飛びました。

テーブルをご一緒した方も、未だ現役のお医者様でした。
しかも

「僕は殿様分隊だったの」

つまり、同期だった賀陽宮と同じ分隊、ということは
学習院出身の、しかも成績優秀素行良好な生徒だったってことですし、
後日知人から添付にて送られてきた「江田島」という画集で
素人らしからぬ油絵を披露していた「元生徒」は、戦後京大工学部を出て
燃料学会と石油会社の取締役にもなった経済界の大物。

会場におられる方々を見回しても皆さん、いかにも社会の第一線で
バリバリと働いてきて今日がある、といった余裕のある風情です。

やっぱり海軍兵学校って何だかんだ言っても超エリート集団だった
んだ、
とわたしはあらためて確認しました。


 
ちなみに知人は、このイケメン建築家(なんと現役です)に

「こちらの方は大変旧海軍に興味をお持ちで・・」

とわたしを紹介して下さったのですが、そのときこの方は

「ほう、それは嬉しいですねえ」

と上品に微笑まれました。(くーっ、かっこいい!)


その後、一人の「元生徒の奥さん」という方 とも
お話をさせていただいたのですが、彼女によると、

「かつて兵学校で勉強していたり、軍人だったりした人たちが
戦後の日本をここまでの国にしたんだと思いますよ」

少し調べただけで、彼らがそうそうたる肩書きを持っており、
この言葉が決して誇張でも何でもないことがわかります。
彼女はそしてこのようにも言っていました。

「最近のことですが、若い人が海軍とか戦争のことを聞いてくるんですよ。
昔はそんなことに興味を持つ人なんていなかったものですが」


この学年の「元海軍軍人」も半数はもうこの世を去ってしまいましたが、
戦争を知っている人にその体験を聞くことは、
何年か後には完全に不可能となってしまいます。

今回この会合にお誘い下さった知人は、
義父上がこの学年であったのですが、その方も2年前に亡くなりました。
今まで会合に一度も参加したことがなく、義母と妻を見送るだけでしたが、 
今回わたしたちが参加することになったので

「興味がわいたので初めて来てみた」

のだそうです。
そして、わたしに向かってこういいました。

「義父が生きていたときに、もっと話を聞いておけば良かったです」


さて、宴たけなわとなったとき、またもや壇上に
司会進行役が上がりました。

「ただいまより軍歌演習を行う~!」

デタ━━☆゜・*:。.:(゜∀゜)゜・*:..:☆━━━!!


出たよ軍歌演習。

バスの中で軍歌が始まったので狂喜したわたしでしたが、
なぜか後が続かず
3曲で終わってしまって、残念に思っていたのです。



「我と思わんものは壇上に!」

何人かが上がったものの、この期に及んでマイクの押し付け合い(笑)
壇上の者が何か言う度に会場から

「聴こえん!」
「声が小さい!」

と叱責が上がります。
4号生徒のときに散々これで油を搾られて、俺も1号になったら、
と切歯扼腕していたのに、1号にならぬまま終戦を迎えた彼らは、
その点だけでもさぞ悔しい思いをしたことでしょう(笑)



実は卓上には人数分の軍歌帳が配られていました。




後から壇上に上がって来る人あり。
場内でポニーテールにしているのはこの週番生徒だけでした。

書道家とか陶芸家とか・・?



最初の歌は、何と、またしても「如何に狂風」。

バスの中でも真っ先に出てきたし、大和の甲板でも
2000人が最後に一緒に歌ったのがこれだと言うし、
よっぽど海軍軍人のハートを掴んでいた曲には違いないのですが、
皆さん、前回わたしがアップしたYouTubeでこの曲を聴いて

「よく分からない曲だなあ」

と思った方はおられませんか?
ご安心下さい。本職のわたしもそう思います(笑)

楽曲形式が全く西洋音楽のそれを踏んでいないことや、
とりとめのないメロディ、しかも第5和音から開始するという
異色の導入部で、覚え難いこと甚だしい。

しかし、

「如何に敵艦多くとも 何恐れんや義勇の士
 大和魂充ち満てる 我らの眼中難事なし」

というこの歌詞こそが、当事者の魂に深く沁み入ったのでしょう。
大和の2000人が、最後の戦いに臨んで滂沱の涙を流しながら歌ったのが
この曲でなければならなかった、というのはよく分かります。




「次に!」

バスの中でも音頭をとっていた司会の方が声を張り上げ

「兵学校数え歌を歌う!」

ちょっとちょっと、おじいちゃん、それはさっき歌ったでしょ。
しかもさっきと全く同じところで歌詞を忘れてるし(笑)

でもきっとこの歌はこの元生徒の「テーマソング」みたいなもので、
この人は戦後も何かにつけ、一杯機嫌のときやお風呂の中や、
勿論宴会でも、この歌を必ず歌ってきたんだろうなあ。


そしてその次は。

「江田島健児の歌を歌う!」

ああついに「江田島健児の歌」。

本物の江田島健児によって歌われるこの「実質校歌」を聴く、

おそらく最初で最後の機会でしょう。
バスの中では歌われず残念に思っていたのですが・・・・。



この後ろ姿は「殿様分隊」だったお医者様でいらっしゃいますが、
右手に「軍歌帳」と書かれた紙を持ち、その場足踏みで歌っています。
壇上の一番左の方も同じように、このスタイルこそが軍歌演習そのまま。

冒頭写真の軍歌帳には、軍歌演習行進中の生徒の様子が印刷されていますが、

この写真は67期の生徒たちのものです。

「江田島健児の歌」に続いて、「海軍機関学校校歌」が歌われました。
機関学校に在学していた生徒もいるからですね。
ちょっと驚いたのですが、兵学校生徒たちも普通に一緒に歌っていました。

そして・・・。

「最後に全員で『同期の桜』を歌う!
 全員隣の者と肩を組め!」

おお、兵学校とは関係のないわたしたちもですか。

というわけで、わたしは左のTO、右の知人のご母堂、
即ちかつての海軍生徒の未亡人と肩を組み、
おそらく人生で最初で最後の「元海軍軍人たちと歌う同期の桜」を
声を張り上げて歌ったのでございます。

♪貴様と俺とは同期の桜・・・♪

こういう状況で歌う、三番の

「花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう」

この一節は、あまりにも感動的でした。

思わず胸にぐっと込み上げてくるものがあり、ことに

「やすくーにじーんーじゃー」
のくだりで鼻の奥がツーンとしてきたのですが、
組んでいた腕を下ろしたとたん、隣の未亡人が目頭をそっと
押さえているのが目に入りました。

わたしのとは全くその意味合いにおいて違う涙なのだとは思いますが。


歌い終わった後、全員に何とも言えない無言の時間が一瞬訪れ、
ほうっとため息が漏れた瞬間、一人の元海軍生徒が大声で

「もう一曲!最後に『軍艦』を歌う!」

海軍軍人的な軍歌「軍艦」とは、「仇なす国を攻めよかし」

で一節が終わった後、雅楽の東儀さんという方のご先祖の
東儀季芳が作曲した「海行かば」の部分もちゃんと歌うのです。

「海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍
 大君の辺にこそ死なめ 長閑(のど)には死なじ」 

最後の「かえりみはせじ」の部分を「長閑には死なじ」とするのは
属日本記にこのような記述もあるということからだそうです。


この部分も音楽的にはかなり無茶苦茶と言うか、「如何に狂風」とは
違った意味での歌いにくい部分なのですが、この後の展開で
建築家元生徒とお話ししていたところ、この方が

「あの部分を歌うとね、戦死した人たちのことが万感迫って
わたしは涙が出てくるんですよ」

とおっしゃったのです。

単なる話のネタとして、雅楽を西洋音楽にコラボしたこの曲の
音楽的な「無理筋」を、茶化して話題にしようとしていたわたしは、
このとき自分の愚かさに心から恥じ入りました。



この方の父上であった海軍中将は、終戦時には既に予備役だったのですが、
やはり兵学校を出て、零戦隊の飛行隊長をしていた兄上は、
終戦直前に九州で戦死しているのです。


 

さて、宴はお開きになり、皆三々五々部屋に引き揚げます。
明日はいよいよ本ツァーのメインイベントである

「江田島訪問」

が行われるのです。


続く。 

 


平成26年度航空観閲式@百里基地~首相体調不良『捏造』説

2014-11-04 | 自衛隊


平成26年度航空観閲式の式次第はブルーインパルスの演技で終了し、
観閲官安倍総理大臣が退席します。



ところで皆さん、先週、フライデーという老舗ゴシップ写真誌が
流し、各マスゴミがすぐさま追随したこの記事をご存知ですか?


「安倍首相」疲労困憊で体調不良?
自衛隊・航空観閲式で立っていられずしゃがみ込んだまま... 

SPに促されても座席にヘナヘナ...。
公邸には防衛医官が24時間待機 


閣僚たちの政治とカネの問題が続出するなか、
ここへきて安倍首相の体調不良情報が多くなってきている。
『フライデー』は10月26日に開催された航空観閲式で、
オープンカーに乗っていた安倍首相が突然しゃがみ込んでしまったと報じている。 


「本来ならば、安倍総理は立ったまま車上から自衛隊員を激励するはずなのに、
ヘナヘナと座席に座り込んでしまったんです。
SPから促されても、また立っていられなくなってしまう。
よほど体調が悪かったのでしょう。
この日はずっと顔色が悪く、訓示の声も張りがなかった」(防衛省担当記者)


自民党幹部もこう話す。
「最近の安倍さんの様子は明らかにおかしい。
(略)定期的に官邸で点滴を受けているという話もあります」


為政者の体調情報がこれほど出てくるのは、
単なる政局がらみではないのではないか。
安倍が倒れれば次は麻生だ、いや谷垣だと喧しいが、各誌の報道を見ていると、
安倍首相の病状は確実に悪化しているのではないかと見るがいかがだろう。


わたしはこの記事を読んで、わたしが先日見た観閲式のことかと、
思わず記事の日付を二度見してしまいましたよ。

この際はっきり書いておきますが、赤字で示した、


「立っていられなくてSPに促されてもへなへなと座り込んでしまう」

などということは全くありませんでした。
当日会場で車上の安倍首相から一瞬も目を離さず

見つめていたわたしや、この日の観衆全員が証人です。



ところで、先週の国会で民主党の枝野幸男議員が


「誹謗中傷合戦は『撃ち方やめ』だと側近にいったそうだが本当か」

と質問したところ、安倍首相は即座に

「そんなことは言っていない。朝日の捏造だ」

と答弁したということがありました。
これに対し、一体何処の国の新聞かと兼ねてから評判の朝日新聞は、


「NHKやネットで中継されている国会で、首相が 
特定の新聞社の報道を取り上げ、「捏造」だと決めつける。 
いったいどこの国の話かと思わせる答弁が続いている。」

と逆ギレしたわけですが、
言ってもいないことを裏を取らずに「言った」と、
しかも否定的に伝えることを「捏造」というのではないでしょうか。


朝日は自分の飛ばし記事が「捏造」と言われ、「反安倍は朝日の社是」が
国会の場で首相の口から明らかにされたことに明らかに逆上したようですが、
首相があえて「誤報」ではなく「捏造」という強い言い方をしたのは、
今回の報道に明らかな悪意が込められているのは、誰が見ても明白だったからです。


わたしはこれを聴いていておもったのですが、安倍首相は
インターネット世論に自分の「味方」の存在を確信し、
ここに至って、
朝日始め反自民報道機関と正面から戦うことにしたようですね。




マスコミは、政権交代前の時のように、漢字の読み間違いやバー通い、
カップラーメンでは、
民主党に懲りた国民を煽るのは不可能だと悟ったのか、
いつの頃からか、安倍首相本人の体調の不調をことさら報じ出しています。

そういえば就任当初、 新聞社などが

「お腹が痛くなって総理の責任を放棄したくせに」

という論調で、その辺のジャーナリスト()に薄っぺらい責任論をぶたせ、
総理大臣の資質を問うという形で叩かせていたのを思い出します。

今度も逃げる準備をしているのだろう、というのを落としどころに、
やたら体調不良説を言い立てるようになったとわたしは見ていたのですが、
そこに持ってきて今回の百里での「座り込んで立てない」です。


それを書いたのは、あのとき躍起になって安倍首相の写真を撮る場所取りをしていた
たくさんのマスコミ各社の中で、フライデーただ一社でした。
続々と出た「安倍首相不調説」はすべてフライデー記事を引用したものです。


それにしても皆さん、おかしいと思いませんか?
あのときに居並ぶメディアは、フライデー
が書いたような安倍首相の
目に見えるくらいの体調不良をなぜどこも報じなかったのか?


もしフライデー記事のような異常があれば、特に安倍の葬式はうちが出すと
豪語している新聞社であれば、愈々か!
と狂喜乱舞して、
その不調の様子を報じていそうなものですよね。


しかもですね。

あの!一流写真雑誌であるところのフライデーともあろうものが、

「激励するときに座り込んで立てずにSPに促される」

様子を記事にしておきながら「フォーカスできなかった」みたいなのです。
フライデーだからかな?
当たり前です。そんなことなかったんですから。

もうひとつ突っ込みどころは「SPに促されて立ち上がった」の部分です。

常識で考えてたとえば総理が車で座り込んでしまったと したら、SPの仕事は
「おらおらちゃんと立って挨拶しろよ」と総理に立つことを促すことではなく、

首相に何か異常があったと考え、注意警戒の態勢を取ることです。

YouTubeを見直してみましたが、安倍首相は車に乗り込んでから一旦腰掛け、
同乗の空将に「お立ち下さい」と言われたらしく1秒以内に立ち上がっています。

「SPに促され」というこの文で、すでにこの記者の嘘は露呈してるんですよ。


昔なら、

「顔色も悪く座り込んで促されても立てなかった」

と刊行物でまことしやかに書かれれば、実際にそこにいた者でもない限り
確かめようがないため、読んだものは「そうなのか」と思うところですが、
どっこい今日はYouTubeを皆が投稿していてそんな記事はすぐに検証され、
嘘を書いても瞬時にばれてしまいます。

よってマスコミの信用はずんずんと地に落ち、

「捏造」

とたとえ首相が国会で言っても誰も批難しないどころか、

「だってその通りじゃないか」

と納得してしまう世の中になってしまったのです。
自業自得って奴ですな。

朝日が今窮状に陥っているのを見ても明らかなように、
今や「マスコミの葬式は国民が出す」ことができるのですよ。




退場した安倍首相を乗せた車はそのままF−35のモックアップと

米海兵隊から来たオスプレイの前に向かいました。
これから関係者の説明を受けるものと思われます。

現場は立ち入り禁止のため、警備の隊員が2重に周囲をガードします。



ここでも安倍首相の写真を躍起になって撮るマスコミ。
その後何処を探してもこのときの、

「オスプレイと安倍」

という、一部の人々が発狂しそうな構図の写真が出て来なかったのは
何故なんでしょうか。 

そういえば、オスプレイ反対運動には、枝野議員が献金を受け取って、
「その結果警察の捜査に圧力を加えた」と安倍首相から指摘されていた
殺人集団(公安監視対象)革マル派も堂々と旗揚げて参加してますよね(棒)

因みに革マルのマルはマルクスのマルね。これ常識。



というわけで首相が会場を後にして警備が解かれると、

地上展示を見るためにエプロンに降りることが許され、
観客は航空機の前で写真などを撮っていました。



せっかくだからオライオンの写真を近くで撮っておこうっと。




うーん、いい角度だ。




青いタグを吊ったセーラー服の男の子。

お父さんは海上自衛官で護衛艦勤務に違いない。



振り向いて観覧席を撮ってみました。
怪しい雲が出ていますが、この1時間後、当地には大雨が降る予定。



何と言っても皆の興味はF−35とオスプレイに集中していました。

前に立つためにロープが張られて順番を待つようになっています。

ただし、遠くから見ていた限り、安倍首相はコクピットを見るために
階段を
上がった様子はありませんでした。


一瞬座っただけで「体調が悪い」とこじつけるより、

むしろここに上がらなかったという件を

「安倍首相は体調が悪く、コクピットに着けられた階段を上がれなかった」

とでも書いておけば、誰も検証できず嘘も露呈しなかったのではないでしょうか。
フライデーの記者さん、ぜひ今後のご参考になさって下さい。



F−35後ろから。

これを持ってくるところを見たかったなあ。
XC−2のお腹に入れてきたのだとわたしは思うのですがどうかしら。



岩国から飛んできた海兵隊のオスプレイ。

実はわたしは岩国基地に行ったときオスプレイを見たのですが、
そのときには同行者に言われたため写真は撮れませんでした。

ここなら堂々と撮れて嬉しい。
皆前から動かないので、後ろに回ってみたらこちらはガラガラでした。




尾翼に「竜」の文字が。



さて、わたしもそろそろバスに乗ることにしましょう。

というわけで、会場から駅までの直通バスに乗り込みました。
人の流れを、ずっと警戒車からにらんでいる隊員あり。

前席隊員の顔をアップしてみるとこちらを見ているのですが、
思わずごめんなさいしてしまうくらい目つきが鋭いマジ怖い。

警備隊の皆さん一日任務ご苦労様です。m(_ _;)m



バスに乗ってから基地を出るときに撮った写真。

これはF−104「栄光」というあれですか。

ここには「雄飛園」という歴代航空機を展示しているスペースがあり、
一般に公開されています。

ところで、この「栄光」の尾翼についているお花のマークは、
百里基地206飛行隊の部隊章です。



ところで実はあれから注文した「ファントム無頼」が届いたので、
エントリ作成の合間に12話まで読み進みました。

いやー、面白いです。
何が面白いって、ツッコミどころ大杉なところ。
「なわけないだろ!」なぶっ飛んだ話の数々。
主人公たちが乗りたいときにいつでも勝手に搭乗したり、
遊びにきた海兵隊のパイロットがハリアーで一般人を救出したり。
自分たちで行き先を決めたりシロートにバンバン操縦させたり。

日本国自衛隊の話とは断じて思えませんが、設定が自衛隊なので
航空隊が
百里基地であるということはしょっちゅう語られます。

あるエピソードで、百里にやってきた鬼教官が視力を失い、
基地を去ろうとしたところ、隊員たちが編隊で部隊章を空に描き、
見えない筈の教官はそれを音で聞き分けるというシーンがあったのですが、
そのときに描かれたのがこの花の形のマークでした。

これ、このあとどうなるんでしょう。
ワクワクしながら読んでおります。


というわけで、お伝えしてきた航空観閲式シリーズ。
来年は海自の順番が巡ってくるのでいよいよ観艦式が行われますが、
その報告をまたここでできることを祈りつつ、終わります。





 


平成26年度航空観閲式@百里基地~ブルーインパルス

2014-11-03 | 自衛隊

茨城県の百里基地で行われた平成26年度航空観閲式シリーズ、
続きです。

展示飛行が終わり、展示視閲のプログラム「緊急発進」、
即ちスクランブルが行われました。



観閲台に設えられた緊急発進を知らせるベルのスイッチを
観閲官である安倍総理がぽちっとします。
疑うわけではありませんがこのスイッチ、本物なんでしょうか。

とにかくそのとたんりりりり・・・と警告音が鳴り渡り、



何秒か後にはスクランブル発進されていました。
スクランブル発進のためにF−2、F−15は24時間態勢で待機しています。
実際のスクランブルは5分以内に発進すべしとなっているそうですが、
正確な時間は防衛機密上明らかにされません。

防空識別圏とは領空の周辺にあり、領空侵犯の恐れのある国籍不明機が
侵入したときにスクランブルは行われます。
スクランブル基地は全国に七カ所あり、ここ百里基地もその一つです。



スクランブル発進してからは、国籍不明機の真横を飛び、相手に
翼を振って「我に従え」と意思表示をしてのち先に立って誘導しますが、
その間相手から撃墜されるポジションを飛ぶことになります。
そこで後ろに僚機が追随し、ミサイルを発射可能にし、
国籍不明機がリーダー機に何かしたときに正当防衛する意志を示します。

つまり、リーダー機は常に被撃墜の危険を負っているのがスクランブルなのです。

勤務は24時間交代だそうですが、3回スクランブルを行ったら
体力に限界が来るので、24時間以内でも交代となります。

Gスーツを着用しているといえども9Gの重力を受けながら
死の危険と隣り合わせの任務。

統合幕僚監部が発表によると2013年度(2013年4月~2014年3月)の
航空自衛隊の緊急発進回数は、前年度と比べ243回増となる810回。
年間平均で一日に2~3回、日本のどこかで緊急発進が行われたということです。


これは1958年に航空自衛隊が対領空侵犯措置を開始して以来、
56年間で9番目に多い回数となったそうです。


推定を含む緊急発進回数の対象国・地域別の割合は、
中国機が約51%、ロシア機が約44%、北朝鮮機などその他が約5%でした。



概要でも写真を挙げた、F−15による「機動飛行」。


白煙を背負っているように見えますが、これは「ヴェイパー」
(vapor、蒸気という意味)といい、
戦闘機が運動するときに、機体の一部(
この場合主翼の付け根)からこぼれた空気が急減圧されることによって、
空気中に含まれる水分が凝結作用を起こし、発生する現象をいいます。



このヴェイパーは翼端から発生しています。

「空気中に含まれる水分が凝結」ということはですね、
空気中に水分が多い、つまり湿度の高いときにはヴェイパーは
発生しやすいのではないかと思うのですが、このときは
昼遅くに夕立のような雨が降ったくらいで、条件は整っていました。

この日は「ヴェイパー日和」だったのです。



特にこのF−15の機動のときにはヴェイパーが目立ちました。



下から見た写真には全く写っていませんが・・・、



表面はこの通り。
まるで綿布団でも背負っているように、翼全面に見えます。



プログラムには複座であるF−15DJの名前も書いてありましたが、
写っている写真は全てパイロットは一人でした。
ブルーインパルスもそうですが、複座戦闘機に
一人しか搭乗しないということはよく行われるのでしょうか。 



何かの拍子にヴェイパーが全くなくなった状態。



続いての展示視閲はRF−4E/EJによる航空偵察。
前回お話ししたファントムの偵察型です。



つづいてはF−2戦闘機による対地攻撃。




F−2のミサイル攻撃は富士総合火力演習で見たばかりです。
あれは戦車や火砲でどっかんどっかん撃ちまくってもいい山の中の
演習場だから見られるのだと思っていたのですが、
こんな飛行場の芝生部分に、それも何発も落とすとは思いませんでした。

その近くに航空機が並べてあり、次のプログラムで飛行をする
ブルーインパルスの6機がもうこのときには滑走路の端にいます。

手元が狂って1機120億円のF−2戦闘機を壊してしまうなどということが
絶対に起こらないとは、あの速さを考えると言い切れないと思うのですが。



というような心配をよそに、2機のF−2は恐ろしいくらいの正確さで
全く同じ地点に爆撃を加えました。



うーん。何か妙な既視感を感じる。
と思ったらこれどちらもC−1の形っぽいじゃないですか。 

展示視閲の「試験飛行・技術、実用試験」という演目?で、
このC−1がおめでたになったような体型の赤白輸送機は
C−X(Cは輸送機、cargoのC)のXC−2という次期輸送機。

「2」というのは第2次のC−Xという意味で、第1次C−Xは
1960年代に開発され、今C−1と呼ばれている、あれです。

前にも一度お話ししたことがありますが、C−1というのは開発の際、
左巻きの人たちがやいやいと口出しをしたため航続距離が短く、
それがここ最近に来て諸要件の変化に対応できなくなってきたので
後継機が開発されたのです。

臨月の妊婦さん状のお腹は、貨物室をできるだけ広く取るため
胴体側面及び底面の補強のための張り出しで、このために
空気抵抗が高そうに見えますが、主翼の形状の工夫と
大推力エンジン
(ゼネラル・エレクトリック、GEのCF6-80C2型エンジン)
を搭載することによって高速航行を可能にしました。


C−1の全長が29mで、これはなんと43.9m。
いかにこのXC−2の機体が大きいかおわかりですね?

左側で一緒に飛んでいるのは、試作機ではないかと思います。



これ思い出しました。




さて、いよいよブルーインパルスの演技が始まりました。

各国軍の飛行機乗りたちもこれを楽しみにしてたのではないかしら。

まず4機がテイクオフします。
これを「ダイヤモンドテイクオフ」といいます。



角度が全く同じ。

写真をアップすると、2番機のパイロットは前ではなく
右側の3番機だけを見ているのが分かります。



1番機だけが後席に一人乗せています。
後ろに乗っているのは「次世代ブルー」で、前席とは「師匠・弟子」の関係。
ブルーに選ばれたパイロットは、最初こうやって演技を後ろで「見学」し、
駆動を身体に叩き込むようです。



雲が多く、スモークが曇天に埋没してしまって

なかなかいい写真が撮れなかったのは残念でした。



ひねり込み?



ファン・ブレイク

1番機から4番機までのダイヤモンド隊形で、会場の左側から右側に、
60度から70度程度のバンク角で抜けていくフォーメーション。
機体同士の最短間隔は約1メートル。
走行中の車同士で1mの距離に接近することを考えても、
大変な技術であると思わずにいられません。

これは全課目の中でも最も密集する隊形なので、スモークは使用しません。



フォーポイントロールだったかと思います。

右ロールを90度ずつ4回に区切って繰り返して元に戻ります。



単機での技として、もう一つ代表的なものに、6番機が約10秒をかけて
ゆっくりと右ロールで1回転する「スローロール」がありますが、
一見容易そうで実はエレベーター・エルロン・ラダーの調整が難しく、
難易度の高い課目とされています。

ブルーインパルスの演技が始まってからは、会場に
ブルーのテンーマソングが流され、いやでも雰囲気は盛り上がります。



チェンジオーバーターンを正面から見たところだったかな?
左から2番目のブルーの角度が良くないような気が・・。



フォーシップ・インバートの最初の隊形。
滑走路端でまず4機のうち2機が背面飛行に入ります。



しかるのち残りの2機もターンし、全機が背面で通過。



ブルーインパルスの演技も観閲式では「展示飛行」となります。
「航空祭と違い派手なプログラムはなく、演目も半分なので面白くない」
とよく見聞きしましたが、そんなことはありませんでした。

航空祭は航空祭、観閲式はあくまでも公式行事で、観閲式でないと
見られない場面はあまりにもたくさんありますし。



全機が背面飛行に移った瞬間。
一番機の動きを見てからターンオーバーするので、
後ろに行くほど動きが遅れる模様。



コーク・スクリュー。
会場右前方からほとんどまっすぐ侵入してきたので、
生憎の雲もあって効果は少し残念なものでしたが、
これがプログラムのハイライトとなっていました。




演技を終えて離陸。タッチダウンの瞬間をズームしてみました。


そういえば、11月3日は入間で航空祭が行われますね。
この日曇りでブルーインパルスに限らずあまりいい写真が撮れなかったので、
リベンジに行くつもりをしていたのですが、予報ではこの日と同じような天気だとか。

(追記:現在11月3日朝ですが予報は外れました。今日は晴天です)

それに、招待制の観閲式でちょっと楽な観覧をしてしまうと、
去年のような殺人的な人ごみを体験してまで入間で見なくてもいいや、
という気持ちが芽生えてしまうというのは観閲式の意外な副作用?でした。


最終回に続く。



平成26年度練習艦隊帰国行事~最後の乗艦

2014-11-01 | 自衛隊

しばらく平成26年度航空観閲式のご報告を行っていましたが、
晴海埠頭に寄港した練習艦隊について、もう一度お話しします。

前回のご報告は、わたしがこの日是非この目で確かめたかった
ガダルカナルで収容された日本軍将兵のご遺骨の帰国、上陸、
そして引渡式についてまででしたが、それは今回、海軍の直系である
海自艦隊によってご遺骨が日本まで運ばれたという、意義深いできごとでした。

「何よりの士官教育になったと思う」

とある自衛隊幹部が述べたように、この任務は1957年から始まった
戦後練習艦隊の歴史の中でも特に重要な1ページとなった筈です。



遺骨が「かしま」から下ろされ、慰霊のための一連の行事が済んで、
ここで初めて、練習艦隊帰国行事が始まりました。

今回の遺骨返還事業に大きな役割を果たした国会議員、
宇土隆史氏の「練習艦隊への感謝の辞」に対し敬礼する湯浅司令。

元自衛官との間で、湯浅司令官の立ち居振る舞いは大変「カッコいい」
ということで二議一決したことがあります。


百里の航空観閲式で「空自の将官にはタイプがある」と書きましたが、
湯浅海将補の場合、この伝で言うとまさに「海自タイプ」だと思うわけで。

それでは「海自らしい」って何なんだろう、というと、陽焼けした肌とか、
極限まで整えられた身だしなみとか、きびきびした立ち居振る舞いとか、

まあそれはどの自衛隊にも共通したことではあるのですが、
敢えてその上で「海自らしさ」を言うならば「諧謔」に通じる闊達な、
フレキシビリティから生まれる一種自由な空気を纏っていること。

・・・と無理矢理言葉にするとこんなイメージです。




ところで、最近元海自の方と話していて大変印象的な話を聞きました。

海自艦艇で「いじめ」が多発するのは、組織としての
「淘汰」である、という説です。

フネは旧軍の昔から、たった一人のミスが原因で海に沈む
(あるいは敵にやられる)という運命共同体です。
勿論ミスが命に直結するというのは空自や陸自の飛行機も同じ。

しかし、航空機の操縦は「ダメな者」はそもそも携わることも出来ないし、

パイロットになった後もダメならすぐに切られてしまう。

ところがフネの場合、乗員の総数こそ艦の大きさによって差はあれど、
海上自衛官になれたという者が、
その能力の如何を問わず、
優秀な者からそうでない者まで一つの艦に混在することになります。


そして一人の失敗が最悪の場合に及ぼす被害は、あまりにも大きいのです。



空自は先ほども言ったように「飛行機」という特殊な兵器は

資格を持ち、さらに訓練を積んだ者だけがそれを繰ることが許され、
陸自にはそもそも「フネ」に相当する運命共同体的な職場がありません。
たとえ落ちこぼれる人間がいても、彼または彼女は去り往くのみであり、
そもそもその方によれば、陸自はそういった者に対しても
極力手を差し伸べて引き揚げようとする傾向のある組織だというのですね。

しかし、フネの場合はそうはいきません。
「下に合わせている」場合ではないのですから。

いじめの原因については、個々に理由は色々あるとしても、

少なくとも(これは想像ですが)能力があって仕事ができる者なら、
そもそも苛めの対象にならないのではという気がします。


「虐められる者にも原因がある」

などというと一般社会では語弊があるかもしれないけれど、
海上自衛隊のフネで発生するいじめは、危険となる要因を排除するという
運命共同体としての防衛本能なのではないだろうか。

まあ、ざっとまとめて、ついでにわたしなりに捕捉すると
こんなお話だったわけですが、妙に腑に落ちた気がしました。



「帰国行事」の段になって、海幕長の訓示が行われました。


「諸君の遠洋航海での行動は高く評価されている。
これは湯浅司令官の卓越した指揮統率のもと、全隊員が自己の使命を
よく自覚し、心を一つにして任務に邁進した賜物であり、
我が国と訪問国との友好親善に大きく貢献したものと確信する」



「また、先の大戦の激戦地であるソロモン諸島において
献花は遺骨引渡式を通じ、散華された英霊たちに想いを致し、
日本人としてのアイデンティティを再認識してくれたものと確信する」



出航行事のときと同じく、艦隊司令と各艦長に花束が贈呈されました。
贈呈者の顔ぶれも5ヶ月前と同じメンバーのようです。



公式の「帰国行事」はここまで。

遺骨引渡式に出席した招待者や国会議員などはここで解散し、
この場から離れてもいいというようなアナウンスがありました。




わたしはこの後何が行われるのか見届けるために、大半が席を立ち、

出口に向かう中、その場に留まることにしました。

東京音楽隊はこの後始まる行進のために待機しています。
彼らの後ろをバスが通過していますが、これは列席者の団体のため?



帰りの車に乗り込むために移動する議員たちの中から
周りに挨拶しながら歩く宇土議員をパチリ。

先日ある元陸幕長の職場を訪問し、お話させていただいたのですが、
この方は、宇土議員を後援しておられます。

実は、この方の紹介でわたしは「地球防衛協会」とはまた別の、
「某国協会」の末端にも名を連ねているのですが、
今度何か機会があれば、そのことをネタに接近してみます。
(実はちょっとファン)



招待者が引き揚げる中、練習艦隊の実習幹部の「かしま」への
「最後の乗艦」が始まりました。

しかし「最後の」ということを、わたしはこの少し後まで知りませんでした。
このときには、このあと「かしま」は実習幹部を乗せて出航するのだろうか、
なんてことを思っていたのです。




彼らがこの帰国行事を以て練習艦隊を終了し、
各自の任務地に向かうのだということを、
現場にいた自衛官に訊ねて初めて知りました。

彼らは一旦全員が「かしま」に乗り込み、その後「艦を降り」るのです。



乗り込んだ彼らは、一旦後甲板に整列します。
そして、「かしま」乗員と別れを交わしつつ下船します。



埠頭に整列していた乗員が乗り込んだ後で、艦長と湯浅司令は
来賓に求められて写真を撮ったり、このように父兄席の前に行き、
皆に挨拶をしたりしていました。

湯浅海将補の後ろに控えるのは阿川副官ですね。

そのお人柄がすっかり父兄を魅了しているらしい湯浅司令。
皆さんが司令官を見る親しみを込めた熱い眼差しをご覧ください。
敬愛を感じこそすれ、決して畏怖しているようには見えません。


こういうのが「海自的将器」というものでしょうか。



サイドパイプの中、最後に乗艦する湯浅司令。



実習幹部の関係者は、彼らが整列している後甲板付近に集まっています。
やはり妙齢の女性が多いような気がしました。



一番最後に儀仗隊が乗艦しました。



デッキで何人かの乗組員が自衛艦旗を持って待機しているのに気がつきました。



わたしはこのとき、柵の前にいた海曹に彼らが全員これから
船を降りるのだということを聴きました。

「降りて何処に行くんですか」
「各自の任務地に向かうんですよ」
「自宅に一旦帰らないんですか」
「この近くに住んでいる隊員なら一緒に帰るかもしれませんが、
 基本的にはまっすぐ任地に行きます。
 横須賀とかならいいんですけどね」
「ということはもしかしたら北海道とか沖縄とかも?」
「いるかもしれませんねー」



練習艦隊の乗員は舷側に全員が整列しています。
これから、5ヶ月間共に航海をし、その成長を見守り手助けし、
ときには叱咤した実習幹部を見送る儀式が始まります。

海幕長が彼ら艦隊の乗員にかけた労いの言葉とはこのようなものでした。

「練習艦隊の乗員諸君。
諸君が長期に亘る過酷な環境の中、任務達成に邁進したその姿は、
若き実習幹部たちの良き手本であった。
伝統ある遠洋練習艦隊は、彼ら実習幹部にとって海洋武人としての経歴を
踏み出す第一歩となるものである。
諸君がこの瞬間に携わったことを誇りとし、自信を持って
今後の任務に邁進することを期待して止まない」



旗旒信号はおなじみの国際信号旗、

「ご安航を祈る。I wish you a pleasant voyage.」

が揚げられました。
彼らは船を降り、各任務へと向かいます。
つまり、皆が船に乗るとは限りません。

しかし、海自ではその行く末を「ヴォワイヤージュ」と称するのです。
なぜなら、海上自衛隊において自衛官となった者は須く、
海幕長のいう、「海上武人」となるからです。



練習艦隊音楽隊が自衛艦旗の元に待機しています。
これから、下艦する幹部たちのために「軍艦」を演奏するのです。



儀式、という固さは見られず、リラックスした雰囲気で
見送りのときを待っている様子。



「軍艦」が始まりました。
2尉から順に、敬礼する乗員の前を通り過ぎて行きます。



見送りの乗員たちは皆作業着です。



気がつけばデッキの自衛艦旗が大きく振られていました。
自衛官によってこのように振られる旭日旗を見たのは初めてです。



敬礼しつつ皆整然と降りて行く・・・・筈なのですが(笑)
顔見知りや
お世話になった幹部には言葉を交わしたり礼を言うために
立ち止まってしまうらしく、列はすぐに動かなくなりました。



ところで、先ほどの「護衛艦の苛めは淘汰」説を伺った
元海上自衛官から、彼らについてのこんな話を聞きました。

晴海に入港する2~3日前、それは艦隊が沖縄付近を航行する頃だそうですが、
実習幹部たちは、初めて自分の配置を知らされるのだそうです。

つまり、希望した配置に配属されたかどうかによっては
内心狂喜乱舞、ガッツポーズの幹部もいれば、
がっくり肩を落とすことになった者もいたということなのです。

わたしは艦上で行われたレセプションで、一般大卒の女性幹部と話し、
回転翼のパイロット志望であるという話を聞いたのですが、
彼女は果たして希望通りになったでしょうか。

元から護衛艦を希望している者にとっては練習艦隊は「実戦即応」です。
しかし、航空や他の部署を希望する者にとっての「フネ」というのは
狭いし揺れるし閉塞感があるしその他色々な理由で

「練習艦隊でフネはもう最後にしたい」

くらいに思っていて・・・、つまり「嫌い」ってことなんですが、 
だからこそ他の部署に希望を出したのに、

よりによって嫌いな艦隊勤務になってしまってどよーん、
みたいな人も
中にはいたかもしれないってことなのです。


「そういえば」


そのことを元自衛官から聴いたとき、わたしは膝を叩きましたね。
(比喩的な意味で) 

「海幕長が訓示で『どこに配置されても海自の基本は海だから』
みたいなことを言っていたんですよねー。
それでなのか・・・・」 

正確に記載すると海幕長はこんなことを言っていました。
 

「諸君は本日から部隊勤務の第一歩を踏み出すことになる。
海上自衛隊の全ての発想の基本が海の上にある
ことを肝に銘じ、
この海上実習で得たものを忘れることなく、

いかなる配置にあろうとも、
いかなる配置にあろうとも、
いかなる配置にあろうとも、

海の上を基本としたものの見方、考え方を持ち続けてもらいたい」



大事なことなので三回書きましたが海幕長は一回しか言ってません。
念のため。




そういう悲喜こもごもも、こうやって見ている限りはわかりませんが。

そういえば、


「フネは大嫌いだった」

にもかかわらず艦乗りになって、それから数十年後、海上自衛隊の最高位に
上り詰めた方も、わたしの知る自衛官の中にはおられます。
たとえ希望通りにならなくても、その後の自衛官人生はその人次第ってことです。

遠洋練習航海は海上自衛官の原点なのです。

海上武人の心は常に海にあることを忘れず、頑張って頂きたいと念じ、
せめてものはなむけに代えさせていただきます。 



ところで、下艦がいつ終わるか見当もつかないのでわたしはこの辺で
失礼することにし、この横に停めていた車に乗り込んだところ、
自衛官が飛んできて

「お花を返却して下さい」

胸に着けていた招待客用のリボン、返すの忘れてた・・・orz
というか、こういうのは記念に持って帰るものじゃないのね。
(残念)



終わり