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「ほどほど海軍人生」〜華族軍人・松平保男海軍少将

2018-02-25 | 海軍人物伝

少し前のエントリで、大尉時代の児玉源太郎と陸軍の同僚だったという
我が家の祖先の話をしたことがありますが、その後少し調べてみました。

児玉源太郎の大尉時代というとだいたい明治7(1874)年〜です。
まだそのころは「鎮台」であったのちの師団で同じ階級であったことになります。

この頃の軍人というのは軍制により士族しかなることはできませんでした。
児玉が徳山藩士の家の出であったように、祖先も土佐藩士です。

彼らが大阪鎮台にいた頃は、大村益次郎が提唱し、大村暗殺後は
山縣有朋が継承した
徴兵制による国民皆兵が始まったばかりでした。
ご存知とは思いますが、大村を暗殺したのはこの軍制改革(廃刀含む)
に不満を持つ士族の一派だったと言われています。


明治維新によって元皇族、公家、大名、明治維新時の勲功者、そして
「功をあげた軍人」にも爵位が与えられることになったため、
日清・日露戦争で功をあげたことによって叙爵された軍人が華族となりますが、
その対象はあくまでも士族の出自に限られていました。

例えば東郷平八郎海軍大将の家族東郷家、乃木希典大将の乃木家には
伯爵位が叙爵され、児玉源太郎は子爵となっています。

日清・日露戦争で華族となった陸海軍軍人は115名におよびました。

 

ところである日、明治維新当時の華族について
写真を紹介しているyoutubeを見つけました。

Last Samurai Lords and Japanese Peerage, 1860's- 大名・華族

この映像の最初のタイトルの一番左側が、今日冒頭に画像をあげた
会津松平家の12代当主松平保男(もりお)の海軍大尉時代です。

このyoutube、アニメ「エルフェンリート」のテーマソング「Lilium」が
かつて日本に存在した華族階級の映像と不思議な融合を見せ、
思わず惹きこまれて見てしまいました。

(ちなみに『リリウム』はラテン語の経文がそのまま使われているため、
アニメの内容()をおそらく全く知らない外国の教会などで
聖歌として昨今非常によく歌われていると知ってちょっと驚きました)

映像には当時の丸の内や東京駅を上空から見た写真などがあり、
大変興味深いものでしたが、それより華族の団体写真の中に軍服姿が多いのに
興味を惹かれ、「武功」が大きくモノを言ったという華族制度を
今一度調べて見る気になりました。

その何人かの軍人の中でも一際目を引いた美男の松平保男をサンプルに
今回お話ししてみようと思います。



会津松平家は江戸時代に陸奥国会津を収めた松平士の支系です。
徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩を「親藩」と言いますが、
(いわゆる『御三家』も親藩からなる)松平家はその一つで、
徳川秀忠の四男が家祖となって作った家系です。

松平家はは廃藩置県になった時に子爵を叙爵され、これをもって
華族に列せられることになりました。

松平家12代当主である松平保男は1878年に生まれ、1900年(明治33年)、
海軍兵学校28期を卒業しています。

この年の兵学校卒業者は総員104名。
首席はのちに工学博士になった波多野貞夫、次席が海軍大将永野修身です。
クラスは52名ずつ二グループに分かれ、波多野候補生組(厳島)と
永野修身組(橋立)に乗り組んで練習航海を行っています。

松平の成績は86番と後ろから数えたほうが早かったのですが、最終的に
予備役入りとほぼ同時とはいえ、少将(今の海将補)にまで出世しています。

これは彼が少佐の時に家督を継ぎ、松平家の当主となると同時に
子爵となっていたことと大いに関係があると思われます。

基本優秀であれば平民でも出世できたのが海軍という組織ですが、
建軍当初の士官が全て士族であったこともあり、実際には
家柄というのが出世の大きなファクターであったのも事実なのでしょう。


さて、それでは海軍での松平保男の経歴についてです。

1902(明治35)年 24歳  海軍少尉任官

  横須賀水雷団第一水雷艇付

1905(明治38)年 27歳 海軍大尉

  日露戦争に「鎮遠」分隊長として参加

  防護巡洋艦「明石」砲術長

  戦艦「河内」砲術長心得

1910年(明治43年)34歳  海軍少佐

1916年(大正5年)40歳 海軍中佐

   戦艦「山城」副長

1920年(大正9年)44歳 海軍大佐

   戦艦「伊吹」艦長、「摂津」艦長」
   
   呉鎮守府付(簡易点呼執行官)

     横須賀海兵団長  

1925年 (大正14年12月1日)49歳 海軍少将

    (大正14年12月15日)予備役編入

 

「鎮遠」はドイツ製で、日清戦争では「勇敢なる水兵」の乗っていた
「松島」に損害を与え、勇敢な水兵三浦虎次郎三等水兵は戦死したわけですが、
その後鹵獲されて戦利艦として海軍が使用していました。

鎮遠」が日本海海戦に参加したのは実は1904年なので、松平が大尉として
「鎮遠」に乗って参加したのは日本海海戦ではなかったはずです。

youtubeにはこの写真も出ていたのでご覧になったと思いますが、
真ん中が保男、左側が兄であり養父である?松平容大(かたはる)
右も兄の(のちに養子となって山田)英夫です。

兄、容大は11代会津松平家の当主、つまり保男の前の当主です。
保男と同じく容大は先代の側室の子供、英夫もおそらくそうでしょう。

側室が産んだ三兄弟が陸、陸、海の軍人となり、記念写真に収まっているという図です。

英夫は陸軍士官学校を出て歩兵少尉に任官後、日露戦争にも出征しており、
乃木大将の副官を務めたこともあります。
歩兵中佐で予備役に編入され、そのあとは貴族院の伯爵議員となりました。

ちなみに彼の息子も陸軍軍人になりましたが、インパール作戦で戦死しています。

 

長男の容大は少し複雑で、幼い時から御家再興の期待をかけられすぎたせいか、
これに反抗して大変な問題児になってしまいました。

校則違反で学習院を退学、同志社英学校に入るも、ここでも問題を起こし、
最終的に東京専門学校(今の早稲田)をようやく卒業する事ができました。

卒業した明治26年、志願兵として陸軍に入り、日清戦争に参加。
軍人が彼の水に合ったのか、その後大尉まで昇進してから予備役に入りました。

この写真が撮られたのは袖章から見て保男が中尉時代のことですが、
スタートラインがこのように遅かった兄容大は、9歳年下の弟と同じ
中尉であった可能性があります。


容大はこの6年後の1910年、予備役に編入され、貴族院議員を務めていた
40歳の時に(おそらく病気で)逝去してしまいますが、
彼に子供がなかったことから、
その子爵位を保男が継ぐことになりました。

ここで驚くのが、容大の死後、弟の保男は弟でありながら
容大の「養子」つまり息子になったということです。

これも当時の華族が家督を継ぐための手続きです。

保男の妻は沼津藩主水野家の娘です。
この時代の結婚は好きも嫌いもなく、家同士のものでした。

ところでこの写真、保男と女性が二人写っていますが、どういう関係だと思います?
妻とその姉妹?それとも子供の乳母かなんか?

驚くなかれこれ、どちらも「夫人」なんですよ。
どこにもそう書いていないけど、そう想像するしかないのです。

記録に残る保男の子供は全部で七人。
上から5番目までが全員女の子です。
そしてその下に次代当主である初めての男の子が生まれ、末の子も男。

両方の女性が「夫人」となっていることから考えて、
女の子が五人生まれたところで保男は世継ぎを得るために
側室を娶ったと考えるのが順当でしょう。

つまりこの写真は保男と正妻と側室共が、彼女らの子供を一人ずつ抱いて、
最初の男の子の誕生日に写したものではないかとわたしは思います。


側室制度というのは今現在女性蔑視、人権侵害ということになるわけですが、
当時は華族典範によって、

爵位は華族となった家の戸主、しかも男性のみが襲位する

と決められており、女系は認められていなかったため、
正妻との間に子供が生まれない、もしくは女の子しか生まれなければ、
華族男性は世継を産むための側室を持つか、養子を取るしかなかったのです。

 

しかし、この写真を見る限り、松平当主、実に慈愛深く?家族を、
というか正室側室二人の妻を見守っている感じですね。
どちらも妻として大事におもっているよ、みたいな・・・。

男前だからそんな風に見えてしまうってのもありかと思いますが。

もちろん女性二人の間には色々とあったのだと思いますが、
当時の華族に嫁入りした女性の、これも運命だと受け入れたのでしょう。

しかしこれって戦前の海軍には、側室を持つ軍人がいたってことなのか・・・。

 

しかもこれだけではありません。

保男には写真に写っていない松平恒雄という兄がいました。
その兄は彼とは母親の違う、つまり父親の別の側室の子供です。

保男は異母兄の長女と秩父宮雍仁親王との間に結婚の話が出た時、
平民である兄の家からは皇族に嫁入りすることは出来ないということで、
異母兄の娘を養女にし、
松平当主家の娘として皇室に嫁がせているのです。

いやー・・・。(絶句)

この時代ってほとんどウルトラCな操作で血筋を維持していたってことですよね。
養女はともかく側室が許されなくなった現代の世に、天皇家の存続の危機が
懸念され叫ばれるのも、こういうのを見ると当然のような気もします。

 

晩年の松平保男の軍服姿。

この「ザ・権威」の塊のようなお姿をご覧ください。

その軍歴の中で、松平は

軍令部出仕兼軍事参議官・上村彦之丞附

皇族付武官(伏見宮博恭王付)兼軍令部出仕

という、華族ならではの後者の任務もこなしています。


一言で言って彼は、日清・日露戦争に尉官で参加し、無事に軍での任務をこなし、
予備役編入2週間前に海軍少将になるという順風満帆な軍人生活を遂げた、
良き時代の幸運な帝国海軍軍人だったという気がします。

言ってはなんですが、海軍兵学校時代のハンモックナンバーが
さほど優秀でなかったということもそれに寄与しました。

早めに予備役に入ったその後は定石通り貴族院子爵議員となり、
会津出身で構成される県人会、
「会津会」の総裁、同じく
会津の軍人で構成される「稚松会」の総裁を兼務、と
名誉職一筋。

同じ学年の永野修身が、これもこんな言い方をするとなんですが、
なまじどっぷりと優秀で、海軍大将にまでなったせいで
敗戦の責任を問われ、
極東軍事裁判にA級戦犯(国家指導者)
として出廷することになったのを考えると、
いかに松平の血筋を後ろ盾にした

「ほどほど海軍人生」

がある意味イージーモードであったかということです。
本人がそういう人生に満足していれば、さらにいうことはありません。

名誉職まみれの?晩年を過ごし、さらには壮健だった松平家12代当主、
子爵松平保男海軍少将が逝去したのは1944年1月19日のことでした。
発病してまもなくの、急逝とも言える最後だったそうです。

 

葬儀委員長は同期生の永野修身海軍大将、
やはり同期だった左近司政三中将が葬儀委員を務めました。

神道である松平保男の死後の霊号は「海誠霊神」

最後の最後まで彼の何が幸運だったといって、それは祖国と海軍の敗戦を
その目で見ることなくこの世を去ったことに尽きるのではないでしょうか。

 

 



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3 Comments

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五十番水増し (Unknown)
2018-02-25 11:17:58
クラスが約百人。今の某大とほぼ同じ頭数で、この経歴(四十で中佐、副長。四十四で大佐、艦長)で渡り歩こうと思ったら、序列(八十六番)は五十番くらい水増ししないとダメですね。まさに逃げ切り人生です(笑)
返信する
明治の正服 (お節介船屋)
2018-02-25 11:58:22
松平保男氏の一人での写真
英国ヴィクトリア朝中期の所産の折襟・ダブルボタンのフロッグコート型海軍士官服です。
ジェントルマンである海軍士官の勤務服として世界で着用されました。
日本海軍では明治20年「正服」、明治26年に改称「礼服」「軍服」として兼用しました。明治29年大礼服であった燕尾服を「正服」と称するので紛らわしかったようです。
ボタンは7個2列ですが襟の下に2個隠れています。当時は風を防ぐためボタンホールもあり、襟元までボタンが掛けられたようですがその後見せかけのボタンホールとなりました。
袖章は環形がついていますので兵科を表し、中尉の階級章です。
3人で写っている髭の保男氏が大尉です。
士官帽は明治20年「正帽」明治29年「軍服帽」と言われ、頭回りの金線を巻いたのは明治20年から37年までです。尉官は幅4分5厘1条でし。ちなみに佐官は4分を2条、将官は幅1寸を1条でした。
大尉の写真では金線がなくなっていおり
明治38年以降に撮った事が分ります。
参照並木書房柳生悦子著「日本海軍軍装図鑑」
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鎮遠 (お節介船屋)
2018-02-25 20:15:23
清国海軍が明治14年ドイツのフルカン社に発注し、翌年1882年完成した甲鉄砲塔艦(戦艦の前身)。同型「定遠」
明治19年日清友好のため長崎入港、泥酔した水兵と巡査、住民の間で鎮遠騒動と呼ばれる乱闘を起こす。
明治27年黄海海戦で旗艦「松島」に直激弾、大損害を与えた。この2艦は火災を生じながら主要部貫徹されず威海衛へ遁走、同年威海衛で座礁、28年我が海軍捕獲、日本軍艦「鎮遠」となり、二等戦艦その後海防艦、明治44年除籍。「定遠」は戦争終了時、自爆。
要目
7,220トン、水線部に10~14インチ甲鉄装着、6,200馬力、2軸、14.5kt、30.5cm砲連装2基、15.2cm単装砲4基、その他の大砲12門、35.6cm魚雷発射管3門、乗員407名
参照KKベストセラーズ刊「幕末・明治の日本海軍」、光人社福井静夫著「日本戦艦物語Ⅰ」
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