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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

ヨブ記の読み方

2024-02-29 03:14:36 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-08-02

◎地獄も越えて-02

◎太古の科学作業

 

旧約聖書のヨブ記では、神がサタンの悪意の行使を認めたばっかりに、行ないの正しいヨブが、子供を殺され、財産を失い、不治の病いに苦しむことになる。

最後は、神が繁栄を復活させてくれるのだが、これはとって付けたような印象がある。というのは、ヨブは、いわば神の気まぐれで、散々に辛酸をなめさせられた後、再び世俗的な幸福を取り戻し、一見めでたしめでたしに見えるところが不自然だからである。

 

さて錬金術者はそうは読んでいない。

18世紀のアブラハム・エレアザルの論説(1760年出版の「太古の科学作業」)にはこんなところがある。

 

黒いシュラムの乙女の独白

『けれども私は翼をつけたヨナ[=鳩]にならなければならない。そして不純な水が流れ去った晩祷の刻限には、緑のオリーブの葉を口にくわえてやってきて自由の身となるだろう。

 

すると私の頭はこの上なく美しいアソフォル[=黄金]となり、私の髪は月のように縮れ輝く。

 

ヨブは私たちの地から血が流れ出すだろうと言っている(ヨブ記27-5)。というのもそれ[地]はすべてこれ[火]といってもよく、光輝く火と混じり合った光輝く赤いアダマ[adamah=赤い地、ラトンの同意語]であるからである。

 

私は外側は毒され、黒く、醜いが、しかし浄められたならば、私はサムソンによって裂き殺されたライオンからそのあと蜂蜜が流れ出たように英雄たちの食物となる。それゆえヨブ記27-2には、「その道を鳥も知らなかったし、禿鷹の目もそれを見なかった」Semitam non cognovitill (e) avis,neque aspicit eam oculus vulturis といわれているのだ。

 

なぜならこのラピスはただ神によって試され選ばれた者たちにのみふさわしいものなのだから。』(結合の神秘2/C.G.ユング/人文書院P219から引用)

 

ラピスは賢者の石。文中のヨブ記27章は、実は28章が該当するだろうと引用書の注にあります。

 

その身から不純を落とし、引き裂かれた獅子のように死ぬと、地であるムラダーラ・チャクラから火であるクンダリーニが上昇し、アートマ光の輪のように頭は黄金に輝く。

 

その私は、自分というものが問題となることのない、英雄たちの食物として、神の聖なるパーツの一つとなる、というところだろうか。

 

つまりヨブのように現実というものに徹底的に裏切られた者のみに対して与えられるのが、クンダリーニ・ヨーガ=錬金術の道による神秘の手法であるというもの。

 

ヨブの一生は悲惨そのものであった。生への呪い、神への怨みごとまで言う。そうした悲惨な生であっても、神秘主義に生きる道があるが、その道は鳥も知らず、禿鷹にも見つけられない大空への飛翔の道であるというところだろう。

 

とにかくその生は世間から見れば、恐ろしく悲惨だが、真に幸福に生きる隠された道があるという不可思議な錬金術者の見解がある。

 

荘子に身障者が多数登場するのもそういうことだろうか。ちょっと神経症なのが正常とされる現代。

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