◎自分が残っている定という体験
以下は、ふとした拍子に意識レベルが低下し、自分が残っている定に入り、愛と歓喜に満ちた深い体験をしたもの。
ヨーガ・スートラで言えば有尋定。原始仏教の分類でいえば、初禅あるいは二禅。
この体験は天国的ではある。
さらに言えば、この後50年を経て、この深い愛と歓喜と光の体験は、戻ってしまって、思い出になっている。
天国を求めるということに関して、考える材料として取り上げてみた。
なお、この本の著者のエベン・アレグザンダーも天国体験者だが、全然見ている自分が残っている。
『それは数秒のことだったろう。船室に光が満ち溢れた。眩しさに目がくらんでなにも見えなくなったので、そうとしか表現しようがない。愛に満ちた、力強く輝かしい何者かの意図に包み込まれた感覚を覚えた。あのときほど謙虚な気持ちにさせられたことはない。また、 あのときほど心が舞い上がって感じられたこともなかった。じつに奇妙な、圧倒されるような感覚に打たれ、全身に歓喜が溢れて、人類は安泰なのだという思いに満たされた。それにしても、ことばのなんと貧しいことか。安泰などというのは、哀れなほどに貧しいではないか。人間は一人残らず栄えある輝かしい存在であって、最終的には至福の中へと帰っていく のだ。美と、音楽と、喜びと、無尽蔵の愛と、言語に絶する栄光、それらを受け継いでいる存在なのだ。全員がそれらの継承者なのだ。
それを体験して五〇年以上が過ぎたいまでも、頭上のガス灯がうす暗い光を投げていた、 薄汚れた三等船室の片隅にいた自分がありありと目に浮かぶ・・・・・・荘厳なそのひとときはしばらくして消え去り、えも言われぬ感覚だけがあとに残された。 いまとなっては馬鹿げた響きに、こうして書いていながら赤面を禁じ得ないが、そのときの私は同室の全員に愛を感じ、だれであれ、その人のために命を投げ出しても惜しくない気持ちでいたに違いない。
*アリスター・ハーディ著、 The Spiritual Nature of Man53ページ 宗教経験研究センター (Religious Experience Research Centre) 事例番号000385*』
(マップ・オブ・ヘヴン/エベン・アレグザンダー/早川書房P33から引用)