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詠里庵ぶろぐ

詠里庵

Carl Philipp Emanuel Bach

2007-05-02 07:36:48 | 日々のこと(音楽)
のフルート協奏曲ニ短調 Wq.22をさっき放送していました。いい曲ですね。NHKのバロックの森、選曲のセンスがとてもいいのと知らない曲が結構取り上げられるので、朝のひとときを楽しんでいます。この曲はなかなか情熱的。ホルンの使い方が面白く思われました。そのあとかかった「ラ・フォリアによる12の変奏曲Wq.118-9」もヴィルトゥオジックな佳曲でした。

今日の企画は大愛崇晴という人ですが、先日松村洋一郎氏が企画した「地中海地方の音楽」と題した回も大変面白かった。バロックというよりルネサンス以前の音楽で、そのころ地中海に面したヨーロッパはイスラム文化だったので、まるで中近東の音楽みたいでした。曲の面白さのみならず、失われた過去を垣間見る歴史ロマンまで感じました。
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ロストロポーヴィチ

2007-04-28 18:18:16 | 日々のこと(音楽)
が27日亡くなったそうですね。遂に彼の生演奏を聴かずじまいでした。実は一回ニアミスしています。ミュンヘンに二日ほどいたときたまたま小澤・サイトウキネンと来ていてドボコンをやるというので、チケット残っているはずもないのに一応会場に行きました。もちろん当日券は売り切れですごすごと帰ろうとしたとき、背後で誰かが叫んで、人山ができつつありました。ダフ屋だ!と思った瞬間私もサッと列に並びました。どんなに高くてもかまわない。高鳴る胸を押さえつつ待っていると、ああ、数人先で売り切れ・・・それでも未練がましく、買った人を捕まえて「いくらだったんですか?」と訊いてしまいました。訊かなければよかった。なんと、たった2割増しでした。クラシックコンサートのダフ屋って良心的なのかな、と思うより、千載一遇のチャンスを逃した未練が尾を引きました。

高校生のとき初めて買ったレコードが彼のドボコン。オケ・指揮はもちろんベルリン・フィルとカラヤン。その後全く同じ録音のCDまで買ったのに、いまだに持っています。大オーケストラと渡り合える、スケールの大きい演奏。ソルジェニーツィンをかくまった有名な話をはじめとして、人間的にも巨大な人でした。
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ショパン愛用のピアノ

2007-03-31 17:09:21 | 日々のこと(音楽)
が見つかったというこのニュース、見逃すわけには行きませんね。写真で見るこのプレイエル、C1からA7までの82鍵あります。この点、ピアノの音域の話「ショパンの場合」に書いたショパン最後のピアノと同じです。ロンドンの南西30kmほどのところにあるCobbe Collection Trustが19年前入手したピアノがそれであることがシリアルナンバーから判明したということです。ごく最近判明したということなんでしょうが、どんな文献もしくは売買契約書か何かにあったのでしょうか。シリアルナンバーというとソフトのバージョンアップ時に必要となる面倒なものという印象がありますが、歴史的製造物では重要となりますね。イギリスのNational Trustは政府機関でなく寄付で成り立っている歴史保存団体で、あちこちにこういう施設があります。まあ、日本でも歴史学の進展とともにどこぞのお寺で古文書発見ということがありますが、それと似たような感じでしょうか。
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捏造事件(3)

2007-03-03 00:17:41 | 日々のこと(音楽)
この記事によれば、ハットーCD捏造の件を当人(ハットーのダンナさん)が認めたようです。本人談要訳しますと「ハットーの演奏をカセットで販売していたが、CDが出現し、ハットーの演奏は売れなくなった。カセット録音をCDに焼き直しても評論家には無視され、CDのために最新録音する必要があった。そうして行った録音に次ぐ録音は不治の病にあったハットーの死期を早めただけだった。このまま彼女は不当に認められずに終わるのかと思っていたとき、EMIの録音でKirsten Flagstadが高音が出ない部分をシュワルツコップが補っていたのを思い出し、似たことができないかと考えた。それ以降は転落を辿った」

感想を4つ。

したことは許されないことであることは当然として、また上の話を信ずると仮定して・・・ドラマを感じます。松本清張やコロンボシリーズのいくつかのように、悲しい人間の性が動機となっていて、不謹慎な言い方をすれば、小説化あるいは映画化したら高級なものになりそうな気がします。昨今の動機わけわからず事件と違う感じがします。

その二。こういうことは、最初に魔が差したときが肝心ですね。小さな一歩を踏み出したら、あとは他人から指摘を受けるまでエスカレートを止める理由がないのでしょうね。自分あるいは家族が不当に扱われたと思ったとき、このくらいの埋め合わせは許されるんだ、と感じたときこそ、本当に許されることなのか客観視することが重要なのですね。

その三。グラモフォンの記事を読むと、「事実を指摘したいだけで彼を訴える気はない」という録音会社関係者の話が目立ちます。うがった見方をすれば、上のEMIのようにある程度のデータ改ざんは行われていて、追及するといろんなことがずるずる出てくるのかもしれません。アナログ録音時代に聞いたのは、ミスタッチを別の録音のテープ切り貼りで直すという話でした。そんなことできるのかと私はオープンリールテープで試したことがありますが、素人には無理です。切り貼りしたところは聴けば必ずわかります。しかし録音会社ではやっているという噂が絶えませんでした。そうならアーティストは自分で検証すべきで、録音会社に任せてはいけませんね。

その四。検証はたとえば(1)デジタル録音ソフトのオシロスコープ機能による波形比較と(2)ミスタッチの完璧な一致の確認などでできます。しかしそうとわかってしまえば、第二のハットー事件を起こしたい人がいたとすれば対処は簡単でしょう。(1)は何らかの波形変換でできるような気がします。(2)は、古くはロールピアノでは簡単で、ミスタッチの穴をふさぎ、正しい音程(あるいはタイミングと強度情報の位置)に穴をあければよい、という話を聞いたことがあります。穴あけ紙テープ式オルゴールのようなものですね。デジタル技術になった今ミスタッチの修正は困難ではなくなったのかもしれません。逆に「ありもしないミスタッチをわざと入れる」という手の込んだことも考えられるかもしれません。技術が進むと見破るのは容易ではなくなる恐れを感じます。

さて、ジョイス・ハットー自身に非難の矛先を向ける人は皆無です。死後のことなので当然でしょう。マニアにハットー録音(本物も偽物も?)入手の動きも出ているようです。これでハットーが有名になったら、はからずもダンナさんの望みは-全く別の方向から-成功したことになるでしょう。人間ドラマとは不思議なものです。
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捏造事件(1)

2007-02-21 00:42:43 | 日々のこと(音楽)
 なんでも鑑定団はよく出来た番組だと思います。絵の値段はあってなきがごとしと言われるように、この番組の鑑定結果も絶対ということはないでしょう。でも背景説明にもしっかりお金と知恵をかけていることがわかるし、視聴者の我々も鑑定団の権威をとにかく認めて、番組に全面に乗っかって楽しもうとする、そんな番組です。

さてこの番組を見ていると、美術品に贋作はつきものということがわかります。贋作の意味はもちろん「巨匠に似せて作った人が(自分の作品としてでなく)巨匠の作品として売る」ことです。

ところがごく最近、贋作にもう一つのあり方があることがわかりました。それは「巨匠の作品を、自分の作品として発表する」ことです。そんなことが可能なのか? それが巨匠の作品であることを他の誰も知らないのでない限り、不可能と思われます。しかしクラシック音楽の演奏録音のようにブラインドテストで「あ、これは誰の何年の録音」と即座に峻別できるとは限らないものの場合、しかもそれをデジタル技術でいじくったりした場合、ある程度可能であるようです。

ことの発端はこの記事ですが、初めに断っておきますと、この記事の存在は「このブログ」を初めとするピアノサークルの人たち(みなサークルの後輩です)によって知らされました。この人達のアンテナの高さは世界のトップを行っていると言っても過言ではありません。

どんな事件かは、発端より本題に早く入りたいので、ごく簡単に流しますと、数年前に亡くなったJoyce Hatto(ジョイス・ハットー)という女流ピアニストのCDのいくつか(数多くという説もあり検証中)は他人のCDから拝借、もしくはデジタル的に速度調整をしたものだということです。犯行は-これは商売をしているので犯行と言ってよいと思いますが-ハットーのつれあいである現在70才ほどの録音技師のようです。詳細は上記記事を見てください。で、このことを、私が尊敬する上記ピアノヲタク達が見抜けなかったというのです。それどころかプロの評論家達も長いこと見抜けず、最近ようやく見抜かれたというのです。(そもそもそんなことをする人がいるということが想像を絶しているので、彼らが気づかなかったのは当たり前。むしろよく気がついたというべき。また上記ピアノヲタク達もさすが、その後の検証の速さと緻密さはすごいものがあります。)

私は「ハットーのCD」を聴いたことがないので、演奏や録音そのものの検証は彼らに任せます。しかしこれはいろいろ考えさせられる事件です。その本題に入って行きたいのですが、既に長くなったので次回に回しましょう。
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昨日一昨日のNHK-BS

2006-12-30 01:07:49 | 日々のこと(音楽)
で見た音楽番組についてです。一昨日はNHK音楽祭よりファビオ・ルイージ指揮ウィーン交響楽団のモーツァルト作品集。「フィガロの結婚」序曲 K.492/ピアノ協奏曲 第22番 変ホ長調 K.482モーツァルト/交響曲 第40番 ト短調 K.550。これは良かった。一番好きだった演奏はピアノ協奏曲。ソリストの上原彩子は、2002年6月には第12回チャイコフスキー国際コンクール ピアノ部門で、日本人としてだけではなく女性で史上初めての第1位を獲得したことはご存じでしょう。この経歴から、清楚なモーツァルトになるの?と一瞬思いましたが、その不安は一瞬にして吹き飛ばされました。きれいな音。落ち着きと躍動感が交錯する、全編すばらしい演奏。続く40番は、遅めのテンポをとった大変味のある演奏。美味しい料理のようで、かつ品のある演奏でした。モーツァルトはまずはこのような演奏ですね。

昨日はNHK交響楽団演奏会からアシュケナージ指揮、エレーヌ・グリモーのピアノでブラームスのピアノ協奏曲第1番。ブラームスのピアノ協奏曲は第1、2番ともに大好きな曲です。両方ともピアノ付き交響曲とも言うべき雄大なところがいいのですが、第2番が複雑にして落ち着いた円熟の音楽であるのに対し、第1番は前途洋々な若者といった豪壮なところが魅力です。さてN響もアシュケナージもグリモーも私は好感を持っているのですが、そしてもちろん予想された通りの水準を保った演奏だったのですが、この三者ならどうしても非常に高いものを期待してしまうので、何か物足りなさを感じました。まずアシュケナージの指揮がーカラヤン(大好きなわけでもありませんが)などの隅々までクッキリさせる演奏の逆でー大味に感じられた点。またポーカーフェースのラヴェルのような理知的なグリモーの演奏が、私としてはブラームスの1番と合わないように思われるのです。
どんなもんでしょうね?
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吉田秀和

2006-11-04 07:37:29 | 日々のこと(音楽)
の「音楽展望」を久々に読みました。モーツァルトについてです。いろいろな解釈で演奏されるところに偉大さがあるという趣旨です。いろいろな演奏家が登場していますが、こんなモーツァルトはおかしい、というのでなく、それぞれに肯定的ながらこんなに違うタイプの演奏があるのだという例として挙げています。内田光子に20行ほど割いていますが、モーツァルトの特質である急な劇的変化をそのように聴かせ、無心の好きな日本人には珍しく自分の好きなように弾いている、としています。ファジル・サイについても「思い切ったモーツァルトをきかせる。『こんなのモーツァルトじゃない』という人もあるけど、じゃ、あなたはいつ本当のモーツァルトをきいたことがあるの?」

ほぼ半面の評論文。93才にしてこの活動は恐れ入ります。しかも言っていることが、こんな雲の上のような世代の人にしてこの柔軟性、と言ったら多分間違った認識でしょうね。逆に、ドビュッシーが活躍していたころマーラーと生まれ変わるように生まれ、日本における西洋クラシック音楽受容の経緯をほぼ見て来た人だからこそ、あのような評論ができるのでしょう。

今まで一番印象的だったのは、ホロヴィッツ(私はもちろんピアノファンには神様のような人です)の病み上がり直後の初来日の公演に対し突き出されるマイク群の前で「まあ、ヒビの入った骨董品だなぁ」と評したシーン、それを受けホロヴィッツ自身「日本で本当のことを言ったのはあの老人だけだ」と言っていたシーンです。

今後年4回のペースで書かれるということ、楽しみです。
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R.シュトラウスの続き

2006-10-06 23:44:11 | 日々のこと(音楽)
ですが、前にシュワルツコップについてブログで触れたこととも関係して、R.シュトラウスのナチス関与疑惑というのがあります。前に書いたように「現代の我々が当時の人のナチス関与を追及しようと思ったなら、当時自分がその状況にあるつもりほどの覚悟で考証に臨む必要があるのでは?」という感覚が私にはありますが、最近その感覚の網に引っかかった一冊の書物がありました。それは山田由美子著の「第三帝国のR.シュトラウス―音楽家の“喜劇的”闘争」という本です。

著者によるとこの本は「ユダヤ人台本家ツヴァイクとの共作喜劇オペラ『無口な女』を、当時ナチスの帝国音楽局総裁だったシュトラウスがなぜヒットラーとゲッベルスに逆らってまで上演強行したのか?そのリスクを冒すことにどんな意義があったというのか?」という疑問を解くために調査した結果をまとめたものだそうです。

本の結論を拙い文で数行で書いてしまうのはマナー違反のような気がするので、興味ある方はぜひ原本を読んでいただきたいのですが、と言いながら話を先に進める必要上多少書きますが、要するに「内なる欲球を抑えられるのは耐え難かった」ことと「ヒットラーも一目置くほどの名声と力がシュトラウスに備わっていた」ということが綿密な考証のもとに展開されています。その「内なる欲球」がどんなもので、どんな起源や意味があったのかなども論じてあります。

メインの推論については他の説も紐解く必要があるかと思いますが、考証の過程で示される資料は大変興味深いものでした。それによるとR.シュトラウスが単純な「人生の勝利者」ではなかったことがわかります。これは外面と内面の両方があります。外面的には、なまじ超有名実力者であることから仲間に引き込もうとするヴィルヘルム二世やヒットラーをかわすことに相当の精力を注ぎこまざるを得なかったこと。内面では、一般に外面的には黄金コンビと思われている相棒の脚本家ホフマンスタールとの芸術方向の違いという内なる軋轢があります。これらについて、本当の支持者であるがゆえの歯に衣を着せぬロマン・ロランのシュトラウス批評も頻繁に引用されています。

詳しくは本を読んでいただくとしましょう。いずれにせよR.シュトラウスの音楽とりわけ後半生のオペラ群を、知っているものは再度、知らないものも意欲的に鑑賞してみたいという気になりました。いつになるかわかりませんがまたその感想は書いてみたいと思います。
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ナイジェル・ケネディ

2006-09-30 07:33:41 | 日々のこと(音楽)
の最新消息を、今週まで私の研究室に滞在していたヨーロッパの研究者から聞きました。グダニスクの岩塩坑でコンサートをやったそうです。そういう所でコンサートをやるのは日本でもありますね。大谷石採掘場跡やカミオカンデなど。で、グダニスクで演奏されたヴィヴァルディはその年の最良演奏に選ばれたそうです(何の範囲の最良演奏かはわかりませんが)。容貌は相変わらずあのスタイルということです。

ナイジェル・ケネディ。見かけはロックンローラーかモヒカンかという髪型ですが実力はすごいヴァイオリニストです。15年ほど前イギリス暮らしをしていたころテレビによく出ているのを見ました。何を弾いても完璧ですが、ベルクのヴァイオリン協奏曲などは絶品でした。この、今となっては現代音楽というより近代音楽の叙情的無調音楽を、透き通る音色や暖かい音色を使い分け、水晶のように演奏していました。目をつむり指揮者を全く見ない演奏スタイルには驚きましたが、オケとぴったり合っていました。

ナマで聴いたことはありませんが、何年か前来日したときのコンサートは非常にユニークだったと聞いています。テレビでのベルクは画像がなければパールマンかツィンマーマンかとも思うまともな演奏していましたが、普段のライブではかなりアドリブを入れた、ジャズに近いスタイルの演奏のようです。ジミヘンの「紫の煙」などやるところもクロノス・カルテットなんかに似たところがありそうです。ぜひナマを聴きたいものです。

ナイジェル・ケネディを見ていると、個性の尊重ということを感じます。日本で彼やクロノスのような「クラシック?」演奏家が普通に生まれるようになるのはいつのことでしょうか?
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オーボエ

2006-09-22 07:49:03 | 日々のこと(音楽)
という楽器、軽やかである一方、哀愁を帯びた特徴のある音色です。「運命」第一楽章再現部でのレシタティーヴォ。何という効果でしょう。新世界第二楽章では兄弟分のイングリッシュホルンも胸を打ちます。

昔、職場の合奏団でバッハのヴァイオリンとオーボエのための協奏曲ニ短調をやりましたが、そのときのヴァイオリンとオーボエのカッコいいこと。彼らをまぶしく見ながらチェンバロパートを弾いていました。

しかし曲が終わるとオーボエ奏者は汗だくで疲労困憊になっていました。どうもオーボエという楽器は重厚長大と逆の見かけや音(チャルメラに似ていますね)から想像される楽器とは違うようです。ダブルリードを自分で削る普段の手入れも大変ならば、音の出し方も指使いも複雑。クープランの墓のプレリュードなど、聞こえの爽やかさと裏腹に死ぬほど難しい曲ということです。この曲は原曲のピアノの方が楽かもしれません。

オーボエに話を戻すと、ハインツ・ホリガーの吹くベリオのゼクェンツァは鬼気迫るものがありました。オーボエのあらゆるテクニックを駆使したソロの曲で、管一本でこんな表現まで可能なのかと思いました。

(ただし、その新テクニックの中には二つの音つまり和音を同時に出すというのがありましたが、それはあまりオーボエらしい音でもなかったので、その前で止めておいても良かったようにも思いましたが。)
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リヒャルト・シュトラウス

2006-09-20 01:34:40 | 日々のこと(音楽)
の音楽には、私は昔から没頭して来たとは言い難いものがあります。彼の音楽はあまりにもtriumphantで、ベートーヴェンのような苦悩を克服した力強さというよりは初めから勝利を約束されたような明るい音楽であり、そのことが表面的共感以上のものを感じさせなかったからだと思います。そのため彼の人生そのものも、生まれたときから神童で、若くして世界の最前線に引きあげられ、やることなすこと全て成功の壮年期を経て、重なる栄誉の内に大往生を遂げた人、というイメージをいつしか持っていました。

このことは彼の前半生の神髄である交響詩を見ただけでもわかります。上に述べたような彼自身を描いたのではないかと思わせる、あるいはそうだと本人が公言している交響詩ばかりです。作曲時期順に見ると、快進撃で進む若きドン・ファン。いたずらっ子が奔放に世間を翻弄するティル・・・。哲学の教祖のようなツァラツストラ・・・。世に出る成功から妬み中傷を克服した真の成功を見る英雄の生涯。結婚にも家庭にも親戚にも恵まれた家庭交響曲。まるで作曲で自己の成功人生設計をしているのではないかという感じで、もうごちそうさまと言いたくなります。

しかしあるとき「人の内面まではわからないものだし、そんなに人生全てが常に勝利だった人なんているのだろうか?」と思うようになってから、彼の音楽というより彼自身に少し興味を持ち始めました。上記のイメージは単純過ぎるのではないだろうかということと、いま一つには、ラフマニノフと同じく、私が生まれるそれほどはるか以前でもない時期まで生きていたのに「後期ロマン派」などという後ろ向きレッテルを貼られかつこんなに有名な人というのはどんな人だろうということも理由ではあるのですが。(そのことで同類とはいえ、ラフマニノフが短調の人とすればリヒャルト・シュトラウスは長調の人ですね。)

そんなときに出会った本があるので紹介しようと思って書き始めたのですが、続きはまた後日にしましょう。
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さて、ゴジラ

2006-09-12 06:49:22 | 日々のこと(音楽)
の続きですが、その前に、「宇宙戦争」という映画を知っているでしょうか? 最新のスピルバーグ+トム・クルーズのものでなく、ジョージ・パル+ジーン・ケリーの1953年のものです。最新のリメイクものも筋は同じということですが、あまり見る気がしません。H.G.ウェルズ原作の「宇宙戦争」、アメリカのラジオでニュースのような迫真の放送でパニックを引き起こしたことで有名です。さて1953年制作になる映画「宇宙戦争」、私は若い頃テレビで見て感激しました。何に感激したかというと、内容もそうですが、戦後10年も経たないうちにこんなSF映画が作られたということにです。襲ってくる火星人の宇宙船は今見てもモダンな感じですし、きれいなカラーで迫力満点の特撮。さすが国力に余裕のあるアメリカ、SF映画はやはりアメリカ、という思いを強くしました。(火星人の「目」には笑っちゃいますが。映画人らしい発想です。)

ところが和製映画「ゴジラ」もそのたった1年後だったんですね。こちらはまだモノクロですが、今回飛行機内で見て、実は宇宙戦争以上に感銘を受けました。まず音楽から言うと、伊福部昭はやはりすごい。場面場面の音楽がやっつけ仕事ではない音楽。どこもいいと思ったのですが特に良かったのは、恐ろしい威力を持つ自分の研究を封印することを決めた芹沢博士を対ゴジラ対決へと心変わりさせた子供達の大合唱の場面。この転調しないモード和声の祈りの音楽はアルヴォ・ペルトを先取りするものではないか。

第五福竜丸的発端も、水爆実験で太古の眠りから醒め放射能を帯びたゴジラという社会問題的設定も、演技・撮影技術も、全く宇宙戦争にひけをとらないと思いつつ見ました。いやもっと言うと、宇宙戦争は設定が「外部から突然出現した敵」の多少ご都合主義の閾を出ていませんが、ゴジラは「人類の身から出たさび」的掘り下げがあります。また最後の結末も、いろいろな映画が既にある現代から見ればありがちといえばありがちかもしれませんが、宇宙戦争の結末よりはずっとヒューマニズムに溢れています。ただ見ても感銘を受けるのに、これが敗戦をまだ引きずっていた1954年の作品ということには驚きを隠せません。日本映画に限らず文化というのは、戦後急に変わったのではなくその前から脈々と伝統が形成されていたということなのでしょう。

ふんだんに金を使った最新映画を大画面大音響で楽しむのも映画なら、ヒューマニズムやしっとり感も根底に流れるこの作品のようなものも映画です。
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楽器を作る

2006-09-04 00:29:54 | 日々のこと(音楽)
あるいは整備する人というのに私は興味があります。もちろん調律師さんも含みます。自分が弾ける(弾けた)楽器であるピアノ、シンセサイザー、ギターのうちピアノはとても作れませんが、シンセサイザーは売り物でなく自分好みのものを作りたいと思うくらいです。時間のある自分を仮想するならば、ギターも作ってみたいものです。イエペスの十弦ギターみたいなものを。

日本のピアノ製造・整備技術については以前のブログで少し触れ、草思社の「日本のピアノ100年-ピアノづくりに賭けた人々」を紹介しました。他に大変感銘を受けた本として杵渕直知の「ヨーロッパの音を求めて」を挙げたいと思いますが、これは杵渕家の自費出版らしく、入手は困難かもしれません。ヨーロッパで客死された杵渕氏のご遺族から私はいただいたのですが、その後連絡法がわからずにいます。連絡法を知っている人がいたら是非nob@fuji.email.ne.jpに教えていただきたいものです。

さて楽器製作についての本は、実はピアノより先にヴァイオリンのものを読みました。自分では弾けないから作るはずもないのに、興味があったのです。その本とは無量塔蔵六(むらたぞうろく)著の「ヴァイオリン」という岩波新書で、1975年くらいのことです。日本初のヴァイオリン製作マイスターとはどんな大家なんだろうと想像しながら小さな新書を両手で握りしめて読んだ記憶がありますが、今から思うとマイスター無量塔がこれを書いたのはなんと40代後半、今の私より若いときだったんですね。それでも今読み返しても、自分など及ばない巨匠という感覚が拭えません。今ご存命なら80才近く。マイスター無量塔に関する5年ほど前の情報が写真入りでここにありましたが、その後どうされているのでしょう。

自分の所属する学部・研究科で「ものづくり」や「モノの性質」を扱っているから言うのではありませんが、どう考えても私はマネーゲームで稼ぐだけの人より「ものづくり」に携わるあるいは関係する人の方が素晴らしいとしか思えません。(もちろん実際に作らないけどその「理論」などをやっている人も含みます。)

ところで無量塔蔵六というのは本名なのでしょうか? 村田蔵六こと大村益次郎を意識して付けたマイスター名なのでしょうか? どこにも書いてないのでこれも誰か知りませんかねぇ。
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ヴィオラ

2006-08-30 23:39:03 | 日々のこと(音楽)
という楽器、知ってますか?と言ったら失礼ですね。見た目はヴァイオリンよりわずかに大きく、調弦はヴァイオリンより5度低い、あるいはチェロより1オクターヴ高い弦楽器ですね。おそらく弦楽器と言われて普通の人がイメージする順番はヴァイオリン、チェロ、コントラバス(ジャズではベース)、ヴィオラとなりそうな、一番地味な楽器でしょう。

私は自分では弦楽器を弾けませんが、このヴィオラが結構好きなのです。そもそも中声部を受け持つヴィオラはほとんどの時間音楽の内声部を受け持つわけですが、実は音楽をやっていてこの内声部を鳴らすことこそ醍醐味ではないかと思います。合奏で聴いても、肩肘張らない甘い音色。ソロで聴いても、少し鼻にかかったような人間の声みたいな音色。ヴァイオリンやチェロはカッコいいですが、カッコよくあらねばならない宿命(ピアノもそうですが)もある感じで、ヴィオラはそれからはフリーである点が有利ですらあるように思います。五島みどりやハイフェッツである必要はない、デュプレやシュタルケルである必要もない、バシュメットや今井信子なのです。(バシュメットは少しカッコいいですが。またもちろんバイオリンやチェロにも癒し系はいますが。シェリング、パールマン、フルニエ、ビルスマなど。)

問題はヴィオラの曲が(少なくとも知られた曲が)あまりにも少ないことでしょう。ヨハン・クリスチャン・バッハのヴィオラ協奏曲やイタリアのハロルドなんかはいい曲ですね。

さてそのヴィオラのためのソナタ、大バッハが3曲書いています。やはりバッハの曲としても癒し系の朴訥な曲です。これを、あのグレン・グールドが録音を残しています。グレン・グールドが弾くバッハ、大好きです。けど、このヴィオラソナタの演奏、墨をポタ、ポタ、垂らすような、素朴といえば素朴なんですが、ちょっと意図がわからない演奏です。ヴィオラの人(覚えていない)も明らかにグールド節に巻き取られた演奏です。将来私が成長して意図がわかるときが来るかもしれませんが。

そのことを思い出し、最近ネットでこれの楽譜を買いました。見ると、バッハのバイオリンソナタなんかもそうですが、伴奏部に余計なスラーがいっぱい書いてあるので困ります。チェンバロのためでなく通奏低音でなぞるときに便利なのでしょうか。

ご存じと思いますが鍵盤楽器と弦楽器ではスラーの意味が全く違います。弦楽器のスラーは「1ボウイングで弾け」という「動作指令記号」で、メロディーや分散和音の一区切りとは関係ありません。ピアノの方はもっと感覚的なもので、基本は「スラーの範囲はレガートで弾け」なのですが必ずしもそうとは限らず、楽想のひとかたまりを表します。だから細かなスラーから何段にも渡る長大なスラーもあったり、スタッカートや休符も含むようなスラーもあり得ます。

さて、話を戻さないと何が言いたいんだかわからないブログになって来ましたが、要するに、ヴィオラは地味ですがいいですよぉ、ということかな。あとヴィオラのための曲が少なすぎるから、あまり先鋭な現代音楽でなくてもいいから作曲家はもっと書け、ということかな。
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鳥インフルエンザ

2006-08-03 07:17:27 | 日々のこと(音楽)
バトミントンに打撃なのだそうです。シャトルに使われる羽根が「中国北部の厚くて重いガチョウのもので、非常に良質なものは、1羽のガチョウから2枚とれるかどうか。代替品としてアヒルを使っているがシャトルの飛び方は『アヒルのよう』と、選手が本物との違いに戸惑い」なのだそうです。

本物との違いがこれほどはないかもしれませんが、ピアノの鍵盤に使われていた象牙のすばらしさについては書かずにいられません。ひんやりとした吸い付くような感触、適度なスベスベ感、指先に汗をかいてもアクリル鍵盤のように浮かず、湿度を自動保全してくれる、など。今ではどこかで古いピアノを見つけないと弾けません。黄色く変色するのが難点と言われていますが、私なぞ黄色い鍵盤を見つけたら「あ、弾きたい」。

象の密猟は困りますが、古ピアノの輸入時に「昔の製造品である」ことの証明手続きに何ヶ月も税関で待たされるらしい実態もヒステリックです。今後の製造は一切禁止のようですが、それでいいのでしょうか? 麻雀のパイや印鑑の象牙はダメでピアノの鍵盤はいい、というつもりはありませんが、消費(需要)量の把握は必要なのではないでしょうか? 

動物を使った楽器は三味線(猫・犬)やチャランゴ(アルマジロ)に限らず、太鼓だってそうですね。しかしこんなものよりコートやハンドバッグの方がはるかに消費量多いのでは?

(まあ、今や人工象牙も悪くない材質ですし、すばらしいピアニストがアクリルの鍵盤ではすばらしい演奏ができていない、というものでもないので、火急のSOSというわけでもありませんが)
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