樹木や自然

2008-11-30 23:33:11 | 日々のこと(一般)
の豊富な気持ちのいい所に、先週出張していました。町なかのホテルから通うと余計にそれが感じられます。景色だけでなく、空気がいいのでしょう。森林浴の気分です。混みあう電車の中が人いきれでムッとするのと正反対に、植物がせっせと出してくれる酸素のおかげで胸の奥まですがすがしくなります。

それはよかったねということで、そこで止めておけばいいのに、通勤というのは余計なことを考えさせるものです。

立場を入れ換えて植物になってみると、どうでしょうか。たとえばそこの出張先では・・・
ああ、このあたりは自分と同じ仲間の樹木や草ばかりでいやになる。草いきれや樹木いきれでムッとするなぁ。そうかといって光合成やめるわけに行かないから、ひしめき合う仲間も自分も酸素をはき出さざるを得ないし・・・人間で混み合う所にいる仲間がうらやましいなぁ。光合成でいくら酸素を出しても、まわりにひしめく人間たちがそれを二酸化炭素に戻してくれるんだから、すがすがしいだろうなぁ・・・

・・・なんてことになっているんでしょうか?

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空港の待ち時間

2008-11-23 17:59:12 | 日々のこと(一般)
に書いています。勤労感謝の日もへったくりもなく欧州から戻ったと思えば明日からまた国内出張。

ところでドイツの大学の食堂がまあまあうまかったと言ったら、舌を疑いますか? 
カフェテリア2ヶ所行きましたが、両方とも。(もう疑われているようですね?)
でも15年ほど前、別の大学でしたが大変まずかったことをハッキリ覚えているので、ちゃんとわかるとは思います。

しかしこれを歳月の流れという風に一般化しては、どうやらいけないようです。フランスに近い都市の大学だったのですが、そういう地方はフランスの影響を受けて料理が美味しいのだ、と、研究室訪問のホストをしてくれたグループリーダーが言っていました。ドイツ全体がおいしくなって来たわけではない、と。ちなみにこの人は非ドイツ人です。

そういえばスウェーデンのグループリーダーも非スウェーデン人でした。前にちょっと書いたアメリカだけではないですね。日本にそういう例はなくはないですが、かなり少ないと思います。将来そんな風になって行くのでしょうか。

(あるイギリス人が言っていた「Generalization from few examplesは避けるべし」が思い出されました。)

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実験室ピアニスト

2008-11-22 12:37:08 | 日々のこと(一般)
というコラムがあったわけではありません。前回の記事で思い出した昔話です。
某研究所に就職したての頃、高速オシロスコープは高価で、自分専用というわけに行かず共用していました。そのオシロには動作モード切り替えのためのキーが四つ、ピアノの鍵盤のように白く目立って並んでいました。違うモードのキーを押すと、それまで押し込まれていたキーはスコンと戻ります。間違って指が二つのキーにまたがって同時に押しても、どちらか微妙に早く押された方が有効となります。つまり動作モードはただ一つ選ばれるよう設計され、常時ただ一つのキーが押し込まれた状態にあるわけです。

この機構が気になり、私は何を思ったか、四本の指で四つのキーをそっと押し込んでみたのです。和音がバラバラに鳴らないよう、同時コインシデンスで和音を弾く訓練は、ピアノではやっていたわけですが・・・そしたら・・・

なんと、全部のキーが押し込まれた状態になってしまったのです。あっと思ってキーをいろいろ押しても、以後ウンともスンとも戻って来ない。

こまったな、直さなきゃ、とマニュアル見たりしたりしていたら、別の仕事の時間になり、その日はそのままになってしまいました。

次の日、実験室から叫び声が。「だれだよーこんなことしたの。切替えられないよー」と、その日の使用者。「あ、すみません、修理呼びますから」と私。
事情を知っている回りの人たちはみな笑っています。
「修理呼ぶのはいいけど、どうしてそうなったか、なんて説明するの?」という哄笑の中で、平身低頭の私と、「とりあえずよそから借りるから、もう」と憮然としたその日の正規使用者。

実験室のピアニストもまずいですね。

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「国会ピアニスト」退治

2008-11-17 00:26:05 | 日々のこと(一般)
というイタリアからの外信コラムが目にとまりました。日本ではどんなに品のない国会議員でも考えられないような不正ですが、こんな不正をやられたら、量子投票装置を開発しても装置への入力のところで不正されてしまいますね。そこで両手でボタンを押すというアイデアということのようです。

確かに腕は二本しかないので、二つボタンにすれば隣の人のボタンまで押すことはできません。ピアノの低音・中音・高音全部を一度に鳴らすことはできないのと同じです。ベートーヴェンはピアノでオーケストラの迫力を出すために、この問題をどう解決したか? 彼は非常な低音域と非常な高音域にそれぞれ指を4~5本ずつめいっぱい使う強烈な和音を配したのですね。これは全音域鳴っているような迫力があって大変効果的です。それ以前のピアノ曲ではあんまり見ない手法なので、これはベートーヴェンの独創性の一つだと密かに考えている次第です。

どうしても低音・中音・高音から成る和音を弾こうと思ったらどうするか? モーツァルトは「鼻を使え」と言ったそうです。このことはドビュッシーの練習曲集の序文に「なぜ自分は指使いを指定しないのか」の理由付けのところでドビュッシー自身が書いています。モーツァルトらしいギャグですね。

しかし鼻や肘や物差しやら使えば二つボタンの不正防止も破られるかも。イタリア国会ならあり得る?
それにしてもピアニスト以外の呼び名にして欲しいものです。

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今日の朝日新聞

2008-11-15 22:43:03 | 日々のこと(一般)
朝刊17面の「異見新言」に私の親戚が記事を書いています。入手可能ならご一読を。

その内容とは離れますが派生して思ったこと:
明治維新後日本は西洋文化を取り入れましたが、成功したものとそうでないものがあるように思います。
 衣食住に例をとると、なんといっても食文化は成功しているのではないでしょうか。食文化は変わりにくく、変わるには6代の世代交替が必要とどこかで読んだことがあります。西洋に行くと、国ごとに、日本の西洋料理とだいぶ違うなと思うことがあります。やはり西洋料理を取り入れてもそのままの形でなく、どこかに和食の要素が残ったものになってしまったようです。それが良かったのだと思いますが、和も活かして独自の和風西洋料理がソフィスティケートに発達したように思います。
 衣は全面的に取り入れたので、独自の展開を見せたわけでもないですね。食文化が変わり難いのに対して衣は最も変わりやすいのかもしれません。和服を全滅させてしまったわけではないし、成功といえば成功です。
 最もうまく行かなかったのは住文化だと思います。海外から帰るたびに、もっときれいな町並みにできなかったのだろうかと思ってしまいます。江戸末期に撮られた写真を見ると、住に関しては西洋文化を取り入れる前の江戸時代の方が綺麗だったのだろうと思います。和風の気品と引き替えにヨーロッパの家々の気品を取り入れたわけではなく、機能性だけ取り入れたものだからこうなってしまったのではないでしょうか。装飾の仕方まで真似るのは手が回らないのかもしれません。このことは外装に著しいのですが、内装も味気なくなった気がします。しかも和サイズで洋室洋ドアではいかにもちゃちな感じです。

 衣食住を離れると、取り入れただけでなく独自の発展を見て成功したのはテクノロジー。これは匠(たくみ)の伝統が活きたのではないでしょうか。またアニメ。日本最初のアニメである鉄腕アトムを見たとき、やはりディズニーに敵わないなと思いましたが、今では日本がリード。映画もそのまま真似たというより独自のものがあるような気がします。これらの要因を鳥獣戯画や能・歌舞伎に遡るのはこじつけ過ぎでしょうか?
 またそのまま取り入れて成功したと思えるのは科学、音楽(クラシック・ジャズ)、美術、演劇。こういった普遍性のあるものは日本人は取り入れるのが得意なのかもしれません。
 オペラ、ミュージカル、ポップス、ソフトウェアはまだまだな気がします。どうしても本場モノに敵わない気がします。宝塚は独自の産物ですが、全国的ではありません。

要因をきちんと理解したわけではありませんが、和特有なもの、普遍的なもの、西洋特有のものという軸と、取り入れやすく和と融合しやすいもの、そのまま取り入れやすいもの、取り入れにくいものという軸で考えると、多少は見やすいと思います。もっといい見方があるかもしれませんが。

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「英語のカタカナ表記

2008-11-14 23:52:13 | 詠里庵・新着案内
について」を科学エッセイにアップしました。直接見たい場合はこれをクリック
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キーシン

2008-11-10 01:33:43 | コンサート・CD案内
の続きです。一年ぶりなので続きというのもなんですが、まあ続きです。
さてアルゲリッチは私の最も好きなピアニストの一人です。余計な話ですがone of the most+複数形って変な感じがしませんか? でも英語の影響を受けて、情けないことに日本語でも使うようになってしまいました。どことなく便利な表現ではありますが。
 何の話だったかな、そうそう、昔アルゲリッチのチャイコ1番とラフマニノフ3番を待ちに待っていたことがありました(古い話ですね)。チャイコ1番は1957年録音のホロヴィッツがこれ以上はないだろうという凄まじい演奏なので、アルゲリッチならどうかなと期待したわけです。で、彼女の弾くチャイコ1番のCDが出たとき、正直ガッカリしました。なんだか彼女の機嫌の悪いときで、「何回テイクさせるの!?もういいわよそれで! 売りたいなら売ればっ」と切り上げてしまったのでは?(←全くの空想)
 ところがその後出たアルゲリッチのラフマニノフ3番!これはもうホロヴィッツ1957年録音のチャイコ1番と同じですね。これ以外にラフマニノフの3番は要らない!

と言いたいところだけど、ふと、キーシンがラフマニノフの3番をやったらどうか? と、昔聴いてそのメカニックの凄さに驚いたリサイタル(前回記載)を思い出したのです。(やっとキーシンですね)

実はキーシンの弾くラフマニノフの3番、とっくにCD出ていたんですね。1993年の小沢+ボストン響のライブ録音で、もうその年に出ていたようです。遅ればせながらそのCDの情報を得たとき、例によって頭より先に体が勝手に動いたのではないかと思うほどいつの間にか購入していました。これはホロヴィッツやアルゲリッチを凌ぐもの凄い演奏か? ワクワクしながら針を降ろし、ではなかった、CDプレーヤーに突っ込みました。(最近の機器は風情がないですね) そしたら・・・

これは・・・えぇ!?

 冒頭、オケの静かな前奏が始まった・・・などという感覚ではない。音というより、柔らかな精神の波動が漆黒の宇宙から降りて来て、辺りを包み込んだ。やがて一筋のやわらかな光が差し始めた。これはもちろんピアノのユニゾンの主題。それは悲しげにして慈愛に満ちた語りかけ。語るのは観音菩薩かはたまた聖母マリアか。やがて流れは幾筋に分かれ、重なり、渦巻き、急流になったかと思えばたゆたう大河に。網膜に映る実際の室内の景色など脳には届いていなかった。目に浮かぶのは・・・楽器を弾く奏者達ではなく・・・大気に包まれた山、河、海。
 これからの音楽ディスクは、カラヤンじゃないが演奏映像付きじゃなくちゃ、などとという浅い持論を吹き飛ばすに十分な体験。これは「ラフマニノフのP協3」と思ったらいけない。ラフマニノフのP協3を聴くということは、ピアノ協奏曲の最たるモノを楽しむことなのだから。そうではなく、このCDの演奏は、ラフマニノフのP協3を借りてこの世へ通じるドアとし、神様が話をしているかのような感じなのです。

 そのつもりで聴けばいかにキーシンのテクニックが凄いかがわかるのですが、テクニックを聴こうなどという努力はすぐにかき消されてしまいます。この演奏は、キーシンはもちろん小澤・ボストン響も含めて、奇跡としかいいようがありません。聴衆の拍手の白熱感でもそれがよくわかります。この演奏会に居合わせた人たちのなんとうらやましいことよ。

そう、前に行ったリサイタルではそのすさまじいテクニックに目を見張らされたけれど、それでキーシンのとりこになったわけではない、と書きました。とりこになったのはこのCD聴いてからだったのです。それからキーシンのCDを買うようになりました。

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ショパンエチュード

2008-11-01 21:06:57 | 詠里庵・新着案内
のCD比較を音楽の間風雅異端帳」にアップしました。直接見たい場合はこれをクリック
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